客車時代の食事
最近、車内で駅弁を食べるシーンを、ほとんど見かけなくなりました。私は、駅弁に限らず、車内で食べるのは、周囲から目が気になって、どうも苦手です。その点、昔の客車では、人目をはばからず食事、駅弁を食べたりしたものです。かの有名な富士フィルムの「50000人の写真展・鉄道のある風景」に、昨年「窓」で入選された米手さんの写真も、客車で駅弁を頬張るDRFCメンバーを写したものでした。今のように、明るく開放的な車内では、食事をする雰囲気にはありません。ボックスシート、暗い車内ならではです。食べると言っても、コンビニも無かった時代、駅弁か駅ソバに限られて、たいへん貴重な食材でした。
▲正月明けの宇都宮駅、夜行列車を降りた身に、寒さと空腹がこたえる。向かいのホームからは、見るからに暖かそうな駅ソバの湯気が上がっていて、たくさんの客が群がっている。右手には、スハフ32 2362の狭窓が見え、その前を、寒そうな母娘が、白い息を吐きながら、通り過ぎた。
広島行(呉線経由)のサボ
今回、ご紹介するのは広島行(呉線経由)のサボです。裏は、新大阪行(呉線経由)で、大 向と書かれていたますので、向日町運転所持ちのサボです。向日町運転所開設・新大阪駅開業が1964年ですので、それ以降使用されたものです。これも浮き文字といわれるものです。先般の諸先輩が投稿された呉線の蒸気列車の何かに使用されていたものかもしれません。経由の表記も前回の三角行のように下にあったり、今回のように右にあったり、経由の経が略されていたり、ローマ字があったりなかったりいろんなバリエーションがあり興味は尽きません。
今回のものは、新幹線開通から岡山開業までの間、新幹線に接続し、翌朝に広島に到着する夜行急行列車に使用されたものと思うのですが、いかがでしょうか?
客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈9〉
混合列車の魅力
客車列車は数多く乗りましたが、「混合列車」となると、乗車機会はウンと少なくなります。それでも、思い出してみると、釧網線、根室本線、石北本線、五能線、日中線、大社線、木次線、高森線、肥薩線で、蒸機の牽く混合列車に乗った記憶があり、昭和40年代、まだこれだけの混合列車が残っていたことに改めて驚きました。どのローカル線でもあったわけではなく、客車列車のスジがあるものの、旅客数は少なく、貨物量も少しはある、このような客貨のバランスがあって、混合列車が設定されたようです。乗ってしまえば、客車列車と変わりはありませんが、発車時のショックで前に貨車が連結されていることを感じ、途中駅では、旅客ホームのないところでも平気で停車し、客扱いが終わっても、悠然と貨車の入換えに励むなど、混合列車ならではのシーンが見られました。
▲石北本線は、本線格で、客貨もほかの線区よりは多いから、混合列車もスケールが大きい。これはDRFCメンバーとともに、下り「大雪6号」に乗り、遠軽に着いて、始発の523レに乗り換えたもの。生田原で補機が付いて9600+D51の重連となり、貨車も長く、その編成にも興味が湧く。常紋に向けて、列車は力闘を始める(昭和44年9月)。
三角行きのサボ
調子に乗って、三角行きのサボを投稿します。
三島行きと同じく大宮のもので浮文字です。経由入りで熊本経由となっています。
裏は大阪行き 同じく熊本経由です。熊本経由以外で大阪から三角に鉄道では行けないはずですが、三角というあまり聞き慣れない場所に行く客車なので、親切に表記したものと思われます。それにしても大阪から三角にいく列車があったこと自体驚きです。きっと天草に渡る人たちが乗車していたんでしょうね。

しかしながら、手持ちのサボのなかには、大阪から長野や田口(妙高高原)に行くものがありますが、北陸線経由か中央線経由か表記のないものもあります。どういう基準だったんでしょうか?
エキスポこだまのサボ
デカンショまつり号です。
PCが壊れてしまい、新しいPCを購入しました。少し遅くなりましたが、エキスポこだまのサボを投稿します。
大 宮 (大阪鉄道管理局 宮原客車区)のサボで、収集家の中では、浮文字と呼ばれているものです。裏面はなく、青焼きコピー(懐かしいですね。)の大阪行きが貼られています。ご承知の通りエキスポこだまは、上りのみの運転でしたので、大阪行きは、他の臨時列車運転の際、大阪行きとして使用したものと思われます。
他、いろんなサボが手元にありますので、折を見て発表したいと思います。希望の行き先などありましたら、リクエストお待ちしています。

客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈8〉
夜の客車
今では死語に近くなりましたが、“夜汽車”という言葉があります。窓から洩れる室内灯、照らし出された乗客の姿、発車ベルが鳴り終わり、一瞬の静寂のあと、耳をつんざく汽笛、ゆっくりホームを離れていく列車…、これは、もう客車でしか演出し得ない、夜汽車のイメージではないでしょうか。
なにゆえ、夜の客車は、絵になるのでしょうか。やはり白熱灯の暖かい光があります。もちろん蛍光灯の客車もありましたが、客車は白熱灯に限ります。加えて一枚窓が連続して続く規則性、また、ブドウ2号の濃い塗装が、窓とのコントラストを出している。これらが相乗して、哀感さえ漂う夜汽車のムードを演出しているのではないでしょうか。
▲九州の名物夜行鈍行門司港~都城の1121レ、1122レ、早朝を走る1121に比べて、ずっと夜間の1122は、見どころは少ないが、時間調整もあって、とくに吉松~人吉の各駅では停車時間が長く、バルブ撮影に適している。ここ大畑は、周囲に一軒も家もなく、漆黒の世界がひろがるが、D51 1058の前照灯と客車から洩れる光だけが、“夜汽車”の雰囲気を演出していた(昭和45年9月)。
ぷるぷるさん、でけました。うまいことでけへんかったですが・・
南海電車2001系
徐々に復旧が進む中国路の鉄路(その2)
台湾鉄道撮影地ガイド「お立ち台通信」に初掲載
このたび、クローバー会会員の福田静二氏、貝塚恒夫氏、西尾一郎氏、また準会員の清水敏史氏の協力を得まして、デジ青で掲載しておりました台湾鉄道撮影ガイドを「お立ち台通信」に掲載させていただきました。
「お立ち台通信」は、毎年2月と8月に出版されています撮影地ガイドで、今までは日本国内に限られていましたが初めて海外の鉄道紹介として台湾鉄道がノミネートされて、ご指名をいただきました。
全て私一人では出来るものではなく、日頃一緒に訪台させていただいておりますクローバー会の方々にご協力をお願いしまして編集させていただきました。
大変お世話になりましてありがとうございました。特に福田様には写真の選択、文章の校正等で何日も家に来ていただきご指導をいただきました。ありがとうございました。
本屋には本日8月3日より並ぶようです。お出かけの際にご覧ください。

客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈7〉
西鹿児島の団体列車
前項で、客車にまつわる話題として、デカンショさん、1900生さんから、「エキスポこだま」が採り上げられました。この列車、昭和45年、夏休みに万博に押し寄せた入場者の輸送手段として生まれたものでした。夏休みになって、万博の終了も22時30分まで延長されますが、輸送の大動脈を担っていた新幹線は最終が出たあと。そこで、苦肉の策として生まれたのが「エキスポこだま」でした。全国から一般客車をカキ集め、7月3日から最終日の9月13日まで、上りのみ、全車指定での運転でした。時刻は、大阪22:58発、新大阪、京都に停車して、三島には6:53着、始発の新幹線「こだま」(全車自由席)に乗り換えて三島7:05発、東京8:10着でした。「エキスポこだま」自体は臨時急行ですので、途中の駅までの利用も可能でしたが、割引もあって、一部区間とは言え冷房の入った新幹線に乗って東京へ戻れるのは魅力でした。列車は三島に着くと、すぐ回送でトンボ帰りして、その日の晩の運転に備えていました。
日本が高度成長の頂点に達した昭和45年に開催された、国家的一大イベントの日本万国博覧会、総入場者は6400万人で、その大移動を担ったのが鉄道で、日本全国から、万博会場を目指す、列車が数多く運転されました。たまたま訪れていた九州でも、その大輸送の一部を垣間見ました。
▲昭和45年8月の終わり、西鹿児島駅のホームの時計は16時55分を指している。なにやら5番ホームから楽団の演奏も聞こえてきて賑やかだ。大勢の見送りを受けて、雑型客車ばかりの列車が出発して行く。時刻表を見ても該当する列車はなく、どうやら団体列車のようだ。
徐々に復旧が進む中国路の鉄路
あれから1ケ月が経とうとしています。被災したエリアとそうでないエリアの日常生活に大きな落差を感じる今日この頃です。大きな被害を受けた鉄道網も徐々に復旧してきています。
当初予想より早く開通予定の区間もあります。
客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈6〉
横サボを鑑賞する
客車らしさを演出する小道具として、車体に書かれた標記、取り付けられた表示板があります。なかでも車体の中央に下げられていた、引掛け式の行先方向板、通称“横サボ”は、その代表です。鉄道趣味のジャンルも構成していて、私はさほどの執拗さは持ち合わせていませんが、恰好の蒐集品対象にもなっているようです。以前の趣味誌に、“これによって旅客車に魂が入る”と書かれていましたが、まさにそのとおりで、サボが吊り下げられるだけで、生きた客車を感じて、サボの行き先を見ては、見知らぬ地への思いを馳せたものでした。なかでも、青地に白文字、琺瑯製のサボは、茶色に塗られた客車とは絶妙のバランスでした。
▲琺瑯製のサボのなかでも、毛筆体のものは、昭和30年代初頭まで製作されていたと言われ、昭和40年代後半でも、この写真のように、北海道や東北では見られた。達筆で書かれたサボは、昔の職人の技を感じたものだ。琺瑯は、金属の表面にガラス質の釉薬を焼き付けたもの、今でも、JR北海道の柱部の駅名表示に使われる。
冬 早朝の大嶺支線 客車1両の列車が行く
総本家青信号特派員さんが「客車のある風景 ~フィルムの片隅から~」を連載されていて、その〈5〉で最短編成として大嶺支線について書かれていました。tsurukameさんがその写真をデジ青に発表されていると知りました。私もO君のことで思い出すのが美祢線南大嶺駅周辺で大嶺支線の列車を撮ったことです。O君の年賀状にあった写真の撮影場所のことについて投稿記事の冒頭に南大嶺でのことに少しばかりふれましたがまだ未公開でしたので、その時に撮った写真をお見せしたいと思います。たった4枚しかありません。初公開であります。そんなたいそうな写真ではありませんが。
西日本豪雨の爪あとは深く
逆走する台風12号のおかげで西日本各地の鉄道は またしても運転見合わせとなっています。とは言えこれは一時的なストップで済みそうですが、問題は先の豪雨によって寸断されている鉄道の復旧です。
客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈5〉
長大編成と最短編成
客車編成を前にして、よくやったのが、編成調べでした。少し前のコメントでも1900生さんから、編成調べの話を聞かせてもらいました。当会でも編成調べの権威が多くおられました。私にとって衝撃的だったのは、入会した時にもらった「青信号19号」でした。前年に行われた九州の狂化合宿の旅行記を、一年上のTさんが記していました。12日間の旅行で、たとえ一駅でも乗車した列車を、端から端まで全列車全車両を記しておられ、その几帳面さには脱帽でした。編成調べの醍醐味は、思いもよらない珍車や、全く別の配置区の客車が混じったりすることですが、端まで調べ上げて、初めて“何両編成”と分かり、感慨に浸るのも目的のひとつでした。今回は、そんな客車の編成両数です。
▲私が撮影した中で、一番の長大編成は、西鹿児島発東京行き「高千穂」の16両編成だった。客車急行の全盛時代、東海道・山陽線の主要な急行列車は、荷物・郵便車、区間の増結車両を含めて15両だった。寝台特急の20系固定編成も15両編成で、このあたりが、ホーム有効長、牽引定数などから限界のようだ。この写真は、それを上回る両数だが、真夏なのに1両目だけ窓が開いておらず、回送扱いと思われる。それにしても、二列車の併結ではなく、単独でこの長さ、さすが、この時代である(昭和40年9月)。
「呉線への思い」に応えて
いま編集作業をしている「Nakabayashi Collection」の中に「呉線」を撮った秀作があります。もちろん昭和30年代の写真ですから非電化、大型蒸機が総出演です。陽光を浴びた瀬戸内の海岸を、煙をたなびかせて客車列車が走る。時代は変わってもそんなのどかな海辺の風景が、先日、一瞬にして見たこともない地獄絵図になってしまいました。
このたび、呉線への思いを写真で綴る投稿が発表されました。その写真を見ていると、懐かしさとは別に命の尊さとはかなさに胸が押しつぶされる思いがします。
被災された沿線の方々に見ていただけるかは分かりませんが、昔、たびたび足を運んだ我々にとって出来ることは平和だった頃の姿を今に残すことではないかと思いました。
作者にお伺いしたところ、お役に立つならぜひとも見て頂こうとのことで、呉線の写真の一部を発表させて頂くことにしました。そしてこれが被害に遭われた沿線の方々へ応援歌になればと思っております。
902 C12の謎に挑戦。しかし・・・
鉄道介護士氏から難題を突き付けられて、それでなくとも熱帯夜で眠れない上に あの鉄橋が気になって熟睡できず 睡眠不足が続いています。改めて問題の写真を再掲します。先日の大阪特派員氏のコメントは「このC12 全く記憶におまへん」でした。

902
呉線小屋浦への思い
西日本の豪雨災害は、鉄道の被害が甚大で、復旧までには相当日数を要しそうです。馴染みのある線名や駅名が出てきて、とくに心が痛みます。なかでも、「坂町小屋浦から中継です」などと聞くと、思わずテレビに見入ってしまいます。そう、小屋浦と言えば、呉線にC59・C62が走っていた時代には、よく訪れた場所で、本欄でも、西村さんから小屋浦で写した客車が報告されています。改めて、ネガをひっぱり出して、昔日の穏やかだった光景に思いを馳せていました。
この地域で土砂災害を大きくしたのは、花崗岩が風化した真砂土が原因だと言われています。花崗岩は、とくに中央構造線の北側に多く分布していて、緑の山に、ところどころに白っぽい巨岩が露頭しているのは、関西以西ではよく見る光景です。この光景が、小屋浦で撮った写真にもあって、災害の要因が鉄道写真にも映り込んでいたことに、さらに思いを深くしたのでした。
▲山と海に挟まれた呉線は、短いトンネルを何度もくぐり抜けていた。朝、広島へ向けて、客車12両の列車が何本も通った(小屋浦~坂、昭和43年3月)。
だいもけいうんてんくゎい 盛大に開催される。キハ55がキハ82が新幹線が爆走!
さる7月21日にレンタルレイアウトの大阪日本橋の亀屋さんでクローバー会初めての「だいもけいうんてんくゎい」が華々しく開催されました。運転参加された方が10名で、DRFC現役生が2名参加していただきました。見学者も6名で総勢16名です。最初はなかなか参加者が少なく開催できるか心配でした。レンタルしたのはHOゲージ、Nゲージとも4線ずつの8線です。HOゲージの車両を編成で走らせるところが少なくなりそのことを考えると亀屋さんはレンタルレイアウトとして貴重な存在です。






