撮り鉄雑感

先日、東西の老友と撮影に出かけた。k氏とは湖西線志賀へ、Y氏、T氏とは高尾へ出かけた。大変楽しかったが、それぞれ、①好天に恵まれ、②同業者に会わず、③何より気心の知れた老友が同行したことで健康的なカメラハイキングができた。下のは「人がいないとやっぱしええわ」と思った写真。撮影の名所志賀~蓬莱間を行く117系で我々二人以外誰もおらず、のんびりと撮影ができた。

2010.4.24 JR湖西線志賀~蓬莱 2842M京都発近江舞子行き117系6連

最近、撮り鉄のマナーがマスコミに取り上げられ、撮影に行くと何となく肩身の狭い気がしてうっとうしい。特にJRの有名列車の廃止、車両の廃止による最終運行、イベント列車の運行等で混乱が予想されるものについては極力行かないようにしている。鉄道写真は楽しくないといけないので罵声が飛ぶようなところは、それだけで気分が悪くなる。しかし、どうしても記録したい場合も出てくるので、その場合は、東京や上野のようなパニックステーションをやめて、他の駅のホームの中間で撮るなどやや盲点的な場所を探す。ホームの端や列車を前がちに撮ろうとすると写角が限定され、どうしても定員がオーバーするので問題が起き易い。老若男女、カメラの良し悪しなど全く関係なく、先に来ている人が優先なのは最低限のマナー。前で撮る時は先に来ている後の人に邪魔にならないか必ず訊く様にしている。しかし、どうしてもいい場所は限定されるので大型脚立を駆使して高い所から狙ったり、人と人との間から撮ったり、はたまた、股の下から覗き込んだり大変である。実際、後に人が居ると落ち着かないものである。そんなことまでする必要があるのかと思う。しかし、適当な数の同業者なら情報をもらったり、共通の話題で盛り上がったりすることもあり悪いことではない。声をかけると嫌がる人もいるし、こちらも声をかけられたくない時もあるので、このあたりはタイミングとか読みと言おうかなにがしの判断が必要である。話が合ったり、仲が良くなり易いのは「共通」と言うことがキーワードのような気がする。すなわち、時代が同じ、地域が同じ、学校が同じと言うことは話が纏まり易い様である。線路際でEF64全機撮った人に、その昔のEF13の話をしても興味がないし、嫌がられる。小生は古い人間なので昭和30年前後が好きであるが、さらに古い明治や大正の鉄道にはもう一つ興味がない。海外の鉄道など行かない人にはなかなか興味がわかないはずだ。関東人と関西人が合わないのもよくわかる。自慢話ばかりでは嫌われるし、人の話に耳を傾けることも必要である。脱線したが、なくなりそうな車両は早い目に撮っておくと言おうか普段から撮っておけば大慌てしなくてもよい。その意味では平日動けるのは有難い。前述のパニックステーションやホームの端はやめて、横一列の撮影は比較的無難であるし、隣の人とも声をかけ易い。そんな例が次の写真。

2009.12.12 IR東海道新幹線三島~新富士の超定番スポット

プロを目差すならいざ知らず、鉄道写真は楽しく行きたい。撮影条件が日々悪くなっており、それだけに無理せずに自分なりに好きな場所をあちこちに用意しておき、なるべく普段着の鉄道を撮るようにしたいものだ。

桜前線追っかけ2010年 Part5 高森線1970年時代

南阿蘇鉄道は、40年前にDRFCの竹中君と玉城君の3名で、国鉄高森線時代に訪問しました。1970年(昭和45年)、時期もほぼ同じ4月7日でした。5泊6日で、行程は下記のとおりです。

①4月6日 新大阪20:43-(急行天草)→7:02門司

②4月7日 門司7:16-(1137M)→7:51折尾8:00-(725レ・C55)→8:11筑前垣生11:37-(733D)→11:48直方13:02-(733レ・C55)→14:31原田14:34-(131M)→14:45鳥栖15:06-(急行くまがわ・1117D)→16:26熊本17:35-(1727レ・129レ)→19:56高森(泊)

③4月8日 高森9:43-(2732D)→10:02長陽…(撮影徒歩)…阿蘇下田17:26-(17:26)→17:44高森(泊)

④4月9日 高森6:00-(122レ・C12)6:08阿蘇中川…(撮影徒歩)…中松9:53-(2732D)→11:02熊本13:04→14:11久留米14:40-(639D)→15:56光岡16:43→16:47日田(泊)

⑤4月10日 日田17:40-(738レ・C11)20:35小倉22:23-(248M)→0:14小郡

⑥4月11日 小郡1:32-(急行雲仙2号・212レ)4:06広島5:13-(622レ・C62)→8:18糸崎8:23-(5436M)→10:09岡山13:09-(1446M)14:35相生14:36→15:44三ノ宮15:56-(822M)→16:24

大阪夜行列車で九州に入り、筑豊本線を走るSLを撮影後熊本駅に到着しました。九州は、まだSL全盛時代でC55、C60、D51、D60、9600、8620、C11、C12が、客車・貨物列車を牽引していました。今から思えば、よだれが出そうな美味しいSL天国でした。

熊本機関区でのショットです。
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やっぱり将軍様は仲間だった!

K.Hさんのご教示で国分隼人氏が書いた「将軍様の特別列車」が出ているSAPIOを買ってきました。

中には“お召し列車”の編成がイラストで出ています。たぶんK.Hさんが言っていた同氏の著書「将軍様の鉄道」に出ているものと同じかと思われます。記事には“将軍様は相当な鉄道ファンでもあるようだ。・・・平壌市内には鉄道関係の博物館が三カ所もある。・・・その保存・保管の充実ぶりは、マニアだからこそと思わせる”と書かれています。編成中に特別随行員専用執務車と電源車だけが短く、K.Hさんによると20mだそうです。

速度は在来特急並み?

昨日の河北新報にちょっと気になる記事が掲載されていました。
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速度は在来特急並み? 北海道新幹線新青森-新函館間


2015年度に開業を予定する北海道新幹線新青森-新函館間の半分以上の区間で、開業直後は新幹線が在来線特急並みの速度でしか走行できない可能性が高まっている

時速200キロ以上の新幹線と在来の貨物列車が線路を共用する区間ですれ違う際、風圧などで貨物列車が脱線する恐れがあるからだ。国土交通省はいくつか対応策を示すが、結局は新幹線の速度を抑える以外に有効策はなく、青森県などからは「在来特急と同じスピードなのに新幹線?」と疑問の声が上がっている。

国交省によると、新幹線と貨物列車が線路を共用するのは新青森-新函館間の149キロのうち、青函トンネルの54キロを含む82キロ。最速260キロの新幹線が貨物列車とすれ違った場合、貨物列車が風圧などで脱線したり、横転したりする可能性を否定できないという。

国交省は2月上旬、青森県や北海道などが参加する会議で「新青森-新函館間の着工が決まった04年度以降、対策を検討しているが、結論に至っていない」と説明した。

その上で、検討段階の対策として
(1)別のトンネルの建設や上下線間の隔壁の設置
(2)新幹線と貨物の運行時間の区分
(3)すれ違う時のみ新幹線が減速
(4)貨物車両が乗り込める新幹線用貨物列車(トレイン・オン・トレイン)の導入
(5)新幹線が線路共用区間で在来線特急並み(最速140キロ)で走行-の5案を提示した

1)の別トンネルの建設には5000億円超、障壁設置には1600億円超が必要とされ、工期が大幅に延びることも予想される。
(2)は新幹線か貨物のいずれかがほとんど運行できなくなる。
(3)は技術的に困難だという。
(4)のトレイン・オン・トレインは本格的な実用化までに10年以上はかかるとされ、開業には間に合わない見通し。このため、開業直後は(5)が実施される可能性が高い。その場合、同区間の所要時間は18分程度増え、約58分となる見込みだ。 

青森県は「開業が迫りつつある中、結論が決まっていないことだけを示されても」と困惑気味。「いつどうやって、新幹線らしく200キロ以上で走行できるのかを具体的に、早期に示してほしい」と求めている。
国交省は「開業の期日に間に合うよう結論を出したい」としている。
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関西では、九州新幹線のことが報じられることが多く、北海道新幹線のことには、余り関心がなかったのですが、青函トンネル内で、初めて在来線と併用される区間ができると、こんな問題が生じるのですね。

私は、技術的な事はさっぱり分りませんが、専門的知識をたくさん持っていらっしゃいますクローバー会員の皆様、もっと良いアイデアを出してあげてはどうでしょうか。

私がよく乗る、中国鉄路では、北京~上海間の在来線に昼間、最高速度220km/hの高速列車が1往復、走ります。実は、貨物列車とのすれ違いがあります。向こうは、約80~120km/hの走行です。しかし、貨物車両は、積載量60トン級なので、風圧を受けても大丈夫みたいです。旅客列車ともすれ違いはありますが、普通に行われています。
さすが350km/hで走行するのは、高速専用新幹線のみで、貨物列車の走行も、低速列車もありませんので、こちらは問題ありませんが、在来線では、160km/hでのすれ違いは、幹線では結構遭遇します。

世間の見る目は・・・

最近は世間から厳しい目で見られている我ら「鉄道趣味人」であるが、今日の新聞におもしろい記事が出ていたので転載してご覧いただく。

著者は作家の赤瀬川原平氏。小生は作家としての氏は知らないが、テレビなどで「路上観察者」としてたびたび出演されているのを見ている。なんでも路上にある普通すぎて誰も気にもしないものに注意してその存在意義を議論するのを趣味にしておられる様子である。大阪特派員氏と共通しているようでもあり、我々とも目の付け所が似ているようでもあり同好の臭いを感じていた方である。

この掲示板でも最近の「テッちゃん」と言われる連中の態度に厳しい見方が書き込まれることが多くなってきたが、鉄道趣味は持たない世間の方から見た意見としてお読み願いたい。

同じ朝刊に昨日も関西線の線路内に三脚を立てていた尼崎の50才のテッちゃんが通報され(近所の人に!)怒られたとか。

趣味を持つことは人生にとってすばらしいことである。しかし趣味とは他人に迷惑を掛けないことが最低条件であろう。でも自分のことには寛容で、他人には厳しいのが凡人の常である。小生は以下のように考えているが諸先輩のご意見はいかがであろうか。

たとえば暴走族とツーリングの違い。車で走っているとき大型バイクに迫られると「ドキッ」とすることがある。しかし近づいてよく見ると凝った装飾は似ているがこだわりを感じるデコレーションと、手入れの行き届いたバイク、ゆったりとした走り具合、なによりライダーにゆとりと品格が漂っているのに安心する。一方の暴走族は騒音が趣味なのかバイクが趣味なのか分からない。人相風体を見ても教養やゆとりは感じられない。どちらも聞けばバイクを愛していると言うだろう。では違いはなにか、小生なりの結論は「好き」だけでは趣味とは言えないと考える。知識を基礎にした教養と廻りに対する感謝と遠慮、なにより鉄道を生活の糧にしている鉄道員に対する配慮がなければ暴走族と同じであると自制している。

いまや鉄道沿線の住民にまで通報されるようになった趣味活動は今後世間をも敵として戦いながら続けて行かなければならないのだろうか。

江若鉄道白鬚駅復元工事(その5)

白鬚駅本屋
白鬚駅本屋

白鬚駅本屋がようやく出来上がりました。数少ない写真はプラットホーム側からのアングルばかりで、道路側や裏側がどうなっていたかわからず、適当に作りました。白鬚駅の特徴は何と言っても唐破風屋根の入り口で 結局加工しやすい桐の厚板から削り出して なんとか格好になりました。

白鬚神社の社務所の写真が大変参考になりました。

白鬚神社社務所

白鬚神社社務所

プラットホーム上にある小さな待合室もついでに作り、残る建物は便所だけです。

白鬚駅に到着するィ??15

まだバラストを撒いたり、砂浜を作ったり配線工事など工事は多く残っていますが、水泳シーズンまでには開業できるのではとボチボチやっています。
「その4」で書きましたが、キハ5121,5122、ハ5010の3連も製作中で当駅の開業列車に使う予定です。
 ところで 水中鳥居はどうも大きすぎたようですが 作り直す元気もないので できるだけ遠くに置いて 小さく見せるしかありません。あとは松林をどうするかが難問です。
道路をはさんで向かい側に食堂?のような建物があるようなのでこれもにぎやかしに作ろうかと
適当な建物キットを物色中です。              以上

 

気まぐれ工房レポート~ED17のリハビリ~

本来、今回の書込はD50(4)となるはずだったのですが、お約束の主台枠後部の工作構想が充分練れていなかったため、その後工事がストップしていました。工作に行き詰まると別の工作をしながら解決策を練って行くのを常とするのが当工房の運営方針である。と言えばかっこよく聞こえますが、なんだか現役時代の会社の仕事ぶりを反映しているようで我ながら少し恥ずかしいような気分です。そういうわけでこの空白はED17をリハビリすることに費やしてしまいました。言い訳を前置きにして、今回は気まぐれレポートです。

さて事の起こりは以前、乙訓の大老から下付された、模型のジャンクBOXから出てきたED17の車体を、工房のパソコンモニターの前に置いたことです。それ以来ずーっと気になって仕方がなかったのですがD50の行き詰まりで決心が付いたという訳です。

この車体はED1722のナンバーが車体に直接エッチングされているところから、1964年頃に発売されたつぼみ堂の製品と思われます。上の写真のような塗装済みの状態でしたので、工作に備えて市販のリムーバー(塗料剥離剤)を用いて塗装を剥がしました。

車体はリハビリするとして、それ以外の台車をはじめとする各部品は市販品を調達するか自作するしかありません。しかし幸運なことに手持ちが枯渇しかけていた15.5φのスポーク車輪がエンドウから発売されているのを見つけ、10軸分購入しました。絶縁車輪、非絶縁車輪、車軸合わせて¥6,000程でしたから4軸分で¥2,400と言うわけです。同時に見切り品コーナーにカツミ製の35mmインサイドギヤーがあり(但し一つだけ)、使えそうなので買って帰りました。この車輪とインサイドギヤーの購入がこのリハビリの方針を決定づけたと言って良いでしょう。前作ED18ではスパーギヤーとユニバーサルジョイントでモーター軸をギヤーボックスに降ろす方式でしたが、今回は簡単な2個モーター/インサイドギヤー方式、そして台車は自作しやすい板台枠です。

まず、片方のインサイドギヤーを自作することにしました。同一スペックのスパーギヤーが手持ちにあるため、カツミのコピーが可能となりました。

完成したインサイドギヤー(右)。左はカツミの製品。モーターは手持ちの縦型(DV18C)を使用、減速比は1/20とする計画です。

次に台車の新製に移ります。お馴染みのインサイドギヤー方式ですが、連結器力が台車の端梁に伝わる構造で、台車枠をロの字型に組み上げる必要があります。しかし、若干のねじれにも対応できる必要もあるため、端梁と側梁は各1本の小ねじで組み立てる構造としました。まずは側梁を.08mmの真鍮版から切り出します。次の写真はケガキが終わり、1台車分の外周と軸穴などの加工が終わったところ。左右の側梁を上下逆さに、これを2組ケガキました。図の出典は機芸出版社の「日本の車両スタイルブック」です。

下回りと並行して車体の細部を仕上げて行きます。今回はリハビリとは言うものの、壊れている場所があるわけではなく、細密化/高忠実度化が中心となります。目立っていた曲げ手すりを実物のようにハンドレールノブ構造に変更、省略されていた各窓の内サッシの追加、屋上ランボードの足の取り替え、パンタグラフの取付寸法変更、ヘッドランプの取り替え、車体裾のチャンネル取り替えと尾灯の変更、乗降用ステップの新設、ナンバープレートの取り付け等が主な作業で比較的簡単でした。

機番はED171としました。元機番のED1722は元ED52で、ED171の元ED50とは室内機器の並びが違う以外、外観の相違はほとんどないと言うことなので手持ちのナンバープレートから選びました。貼り付けてみると横寸法が短くて元のエッチングがはみ出してしまいます。そこで見えるところだけをルーターで削り落としました。

乗降ステップの外枠はED18で作っておいた曲げ治具を使いました。そして中段ステップはご覧のようにチャンネルをスライスしたものです。

当初、台車周りも簡単かと思っていたのですが、台車周りがこの機関車の外観上のポイントなので、結構リキが入ってしまいました。ポイントのは軸箱、担いバネ、砂箱、台車枠の補強、前後台車を結ぶリンクでしょう。

軸箱と担いバネ。古いドロップ製のこの製品は恐らくテンダー台車用のものだったのでしょう。綺麗な仕上がりで8個数が揃っていたので、今回のようなチャンスがあるかと温存していました。私たちが学生の頃はこのようなバラパーツがマツモト模型で良く手に入ったものです。今回は担いバネと軸箱の間に距離があるため、両者を切り離して使いました。

組み上がった台車。挽き物のブレーキシリンダー以外は全て自作です。

機関車を裏返しにして前作ED18との違いを比較。上がED182、台車間に推進軸のユニバーサルジョイントが渡っている。下が今回のED171、2個モーターで構造が簡単。台車間に牽引力を伝えるリンクが見える。絶縁の必要上ダミイの構造で、1mm厚のダミイリンクが相手側の端梁に差し込まれている。牽引力を伝えるのは台車中心ピン。ED18は中間軸を挿入したため、ホイルベースが長く、先頭軸との距離が小さいため、連結器の絶縁取り付けが出来ませんでしたが、今回は最も短い#16のポケットが使用出来、#8カプラーの首に透明粘着テープを巻いて絶縁処理し、重連運転に備えています。

最後までよく分からなかった高圧引き込みと避雷器の取付を終え、完成です。なお、パンタグラフは天賞堂の旧製品PS13を使用しました。

ED182と並んだED171。避雷器と高圧の引き込みが違うことにご注目下さい。ここまでやるんだったら通風口の取付まで修正するべきでしたね。反省点です。それから、この写真を見て側出入口上部の庇と、ドアノブを忘れていることに気がつきました。塗装までに製作、取り付けましょう。

さて、いよいよ次はいやでもD50を登場させなければなりませんね。首尾良く工事が進捗しますように、少々時間を頂きます。

金正日は仲間?

北の独裁者・金正日将軍様が宗主国の王様にご機嫌伺いに行ったニュースはご覧になったでしょう。

あのオッサンの乗っていた列車のすごさに驚きました。

手入れの行き届いたC+C片運転台のDLが背中合わせに二両つながった、DF+DFの固定編成と思われる機関車に牽かれた17両編成の特別列車でした。客車はおそらく22mくらいあるのではないでしょうか。中には窓配置から食堂車と思われるものや寝台車ではと思えるものなどじっくりと見てみたい限りです。独裁者というものは疑い深いので飛行機より鉄道を利用すると新聞に書いてありましたが、それならあの悪名高い将軍様も趣味としては我らの仲間といえるのではないでしょうか?

どなたかあの列車の情報をお持ちでしたら教えてください。かつて北鮮に潜入して調査をした「準特急」さん、いかがでしょうか?

桜前線追いかけ2010年 Part4 南阿蘇鉄道

第5日目 2010年3月31日
あそ望の郷くぎの7:25→7:35南阿蘇蘇水の生まれる里白水高原駅→7:45阿蘇下田白ふれあい温泉駅→8:25

南阿蘇蘇水の生まれる里白水高原駅→8:43中松駅→10:45阿蘇白川駅→10:55見晴台駅→11:20高森駅→12:10阿蘇白川駅→15:10長陽駅→17:10国鉄宮原線・肥後小国駅跡→17:29北里駅跡→17:57麻生釣→道の駅ゆふいん(泊)

昨夜入った地獄温泉は、約200年以上の歴史を持ち、江戸時代は熊本細川藩の藩士しか入浴が許されなかった格式を誇ったそうです。16もの浴槽があって、ひなびた雰囲気と、硫黄の臭いがする泥湯は、これぞ温泉と堪能させてくれました。関西の人も結構来ておられました。仕事の帰り道で立ち寄られた福岡へ戻るビジネスマンは、いつも帰りに来ます。この湯は、九州でも最高と言っていました。皆様方も是非、お立ち寄りしてみて、下さい。詳しくは、下記をクリックして下さい。
http://jigoku-onsen.co.jp/
宿泊地の『あそ望の郷くぎの』は、温泉で出会った地元民の方に薦めていただいた所で、道の駅として登録されていませんが、100台以上の駐車場があり、道の駅に匹敵します。南阿蘇蘇水の生まれる里白水高原駅からは、書面の外輪山方向に向かって、車で10分。南阿蘇鉄道撮影には、絶好のロケーションです。

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桜前線追っかけ2010年 Part3 南阿蘇鉄道

第4日目 2010年3月30日 

① 道の駅不知火6:00→9:50立野駅
② 立野11:45-(ゆうすげ3号)→12:42高森13:01-(14)→13:27立野
③ 立野13:29-(433D)→14:13宮地14:40-(438D)→15:17立野
④ 南阿蘇鉄道撮影→あそ望の郷くぎの(泊)
 

暖かかったのか、日の出時刻の6:00起床です。昨夜は、宇土半島道の駅不知火に泊りましたが、丸田氏が三角線の夕日に輝く列車も良いよよ言われていた事を思い出しました

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佐竹保雄鉄道写真展開催 芦生トロッコ軌道

2010年大型連休は、晴天に恵まれました。皆様方は、どのようにお過ごしされましたでしょうか。私は、5月1日、2日と、沖中先輩と井原君の車に同乗させていただいて、佐竹先輩の写真展を見に芦生へ行って参りました。滝本先輩、弘津後輩も現地で一緒になりました。

芦生は、京大研究林があって、そこにはトロッコが走っていると、以前から知っていましたが、初めての訪問です。どんな所なのかと、ワクワクで参りました。

芦生への途中には、茅葺き民家が残る美山町北集落を通過しました。

渋滞を予想した京都縦貫道はガラガラで、27号線→府道12号線→162号線→府道38号線を走り、京都府南丹市美山町芦生に13:30到着しました。

写真展参加者は、1泊2日で参りました。クローバー会の方々の他、佐竹ご夫妻の友人知人の方多数が参加され、改めて佐竹先輩のキャパシティの大きさにびっくりしました。



トロッコの走る京大研究林の正式名は、『京都大学フィールド科学教育研究センター森林ステーション 芦生研究林』で、1921年4月4日(大正10年)に大学側と土地所有者(代表:知井村長)との間で99年間の地上権設定契約が締結され、京都帝国大学芦生演習林として、誕生しました。

標高は、355~959mで、4,179.7haの広さを誇ります。貴重な動植物が生息していますが、我々が関心を寄せるのは、トロッコのみです。

1925年には出合から演習林事務所に至る車道が開設され、1927年には由良川に沿って、事務所から七瀬に至る森林軌道の軌道敷開削工事が開始1934年には事務所~赤崎間にレールが敷かれました。
1934年に開通した森林軌道の沿線を中心に、木炭用の雑木や枕木用の栗材が大量に伐採されたほか、ブナ材は飛行機のプロペラ用や梱包材として伐採された。中でも木炭の生産は年を追うことに増加し、販売されて貴重な収入源となりました。

戦争中は、林業資源確保のために、1943年には小野子谷方面へ森林軌道の延伸が行われましたが、この森林軌道は、1949年7月のへスター台風で記録的な大雨に見舞われ、全線流出・埋没するという大きな被害を受けました。1950年には森林軌道が野田谷まで延伸されたが、2010年現在は、

事務所~灰野間7.6kmのみ、不定期に走行しています。

5月2日8:30、トロッコ道に沿ってのハイキングが実施されました。案内人は、芦生を知り尽くしたジャーナリスト、写真家の鈴木元(すずき はじめ)氏です。そして、何と鉄ちゃんでもあります。私どものために特別に案内人を引き受けてくださりました。事務所を出ると、右に直角に曲がって、由良川橋梁を渡ります。由良川に沿った芦生杉林の中をカーブを描きながら、森林軌道は延びています。ゲージは、762mm、軽レール(10kg以下級?)が敷設されています。

川を渡ってしばらく行くと、事務所から最後の民家横を通ります。現在、ここから住居はありません。谷川を渡る橋が、何本もあります。鉄橋もあれば、木製橋もあります。
滝本さんと、この軌道に見学用のトロッコを走らせられたら素晴らしいと、ロマン話を続けながら一緒に歩きました。


離合できるレールのポイントがある所が灰野駅です。灰野は江戸時代には村があって、その後も定住する人達がいたそうですが、昭和30年代になり、電気が引かれない事が決定となり、住民引越しになったと、鈴木氏の説明がありました。トロッコが走るのは、ここまでです。

灰野を過ぎると、線路はレールが外れたり、橋梁が朽ち果てていたり、土砂崩れが起こったりして、廃線そのものです。

松崎西谷橋までゆっくりと、説明を聞きながら、1時間半をかけて、歩きました。線路は、U字形をした橋梁で谷を越えていますが、残念ながら、ここも潰れて落ちています。今回のハイキングはここまでで、早い昼食をとって戻りました。すると、・・・・・。

山の家にいると、井原君が倉庫内に入っていたトロッコが、出てくると呼びに来てくれました。


ご覧ください。これが、日本で唯一のまだ現役として残っているトロッコです。さわやかな春の風が静かに吹き抜ける中、晴天にも恵まれて、芦生トロッコ軌道散策ができました。こんな素晴らしい所で写真展を開催していただき、佐竹先輩ありがとうございました。機会があれば、また来て見たいと思いました。

奥出雲の旅

この連休中は好天との天気予報に気を良くして、急遽1泊旅行を計画し奥出雲に出かけることにした。早朝クルマで自宅を出発し 世羅、吉舎、三良坂を経て庄原へ。芸備線に沿って備後落合着8:15。芸備線のキハ120327を撮影後 木次線の次の駅 油木駅に向かう。途中 木次線備後落合行きキハ120206を撮影。
ィ??120206 備後落合・油木間

キハ120206 備後落合・油木間

無人駅の油木駅にクルマを置いて、今のキハ120206が戻って来るのを待つ。備後落合・木次間は極端に列車本数が少なく 列車でスイッチバックを通過するのは容易ではない。急に決めた旅のため 「奥出雲おろち号」の指定は取れないかと心配したが、前日に 最後の2席が取れたので、油木から出雲横田まで定期列車で向かい、おろち号で油木へ引き返してくるプランである。
油木駅 時刻表

油木駅 時刻表

時刻表のように日に4往復。おろち号は季節列車であり、またもう1往復は第二木曜日運休のため朝夕の2往復しかない日があることになる。風前の灯火のような路線であり、どこに存在意義があるのか不思議である。落合から戻ってきたキハ120206に乗り込んで いざ三井野原、出雲坂根へ。学生時代に夜行のちどりでこの区間を乗ったことはあるが、ようやく景色を楽しみながらの峠越えが実現した。時速20から30キロぐらいでくねくねと30パーミルを登る。並行する国道314号のクルマがどんどん追い越してゆく。広島県から島根県に入り、三井野原駅に着く。何と30人ほどの団体客が乗り込んでくる。整理券を取ったり モタモタと乗り込むのに時間がかかる。3分延発。団体客に聞いてみると 読売旅行のミステリーツアーとのことで次の出雲坂根で下車するらしい。団体客が乗ったせいか、若い運転士は国道の奥出雲おろちループが見渡せるポイントで最徐行し、案内のアナウンスもするサービスぶり。出雲坂根のスイッチバックに差しかかる。最初の折り返し線で停車。運転士はブレーキハンドルを持って 反対側の運転席へ 乗客をかきわけて移動。ツアー客が何だ何だと騒がしい。
逆行運転で出雲坂根駅に降りてゆく。
出雲坂根のスイッチバックを下る

出雲坂根のスイッチバックを下る

出雲坂根に入線

出雲坂根に入線

 出雲坂根駅に入線。ドヤドヤとツアー客が下車。ようやく静かになる。坂根駅には「延命水」という名水があり、一般乗客が水を汲みに行きたいと言い出す。運転士は 遅れているのでダメと言うかと思いきや、あっさりOK。出発信号は青になっているが、運転士は列車無線で「団体客のため延発します。出発信号を一旦赤にしてください」と連絡。信号が赤に変わる。なんとものんびりした路線である。水汲み客が戻り ようやく出発。動き出すときは「変」(変速)であったが すぐ「直」(直結)に切換え、あとは「中」 (中立)で軽やかに勾配を下ってゆく。八川を過ぎ、出雲横田に到着。下車して 下り 奥出雲おろち号の到着まで約40分ぐらいあるので 駅に併設された雲州そろばん伝統産業会館の展示を見る。

出雲横田に到着した奥出雲おろち号

出雲横田に到着した奥出雲おろち号

定刻11:06におろち号到着。先頭のスハフ13801に乗り込む。親子連れの子供だけが乗り込み、親はクルマで追いかける(先回りする)という人もある。今来た道を今度はゆっくりと引き返す。八川駅では地元の人たちがホームに出雲ソバ弁当を売りに来ている。弁当を予約している人もいるらしく、ホームから○○さーんとお客を捜す声もする。のどかな風景である。出雲坂根に向けて勾配を登る。坂根駅は延命水やスイッチバック駅ということもあって国道314号のマイカー族などでにぎわっている。定刻発車。のろのろとスイッチバックを登る。途中眼下に今登ってきた線路と坂根駅が見える地点で最徐行し、乗客たちは車窓から写真撮影。車掌が乗車記念の絵はがきを配って歩く。DE10に押されて登ってゆくが エンジン音もほとんど聞こえず、社内の騒々しさだけで 峠越えの実感がわかない。往きに乗ったキハ120の方がよっぽど楽しかった。これがC56やキハ52ならと思わずにはいられなかった。

 とういことで 3時間半かけて 油木駅に戻ってきた。降りたのはわが夫婦のみ。なんでこんな無人駅で降りるの?という視線を浴びる。
 
 午前中は木次線を楽しみ、午後と翌日は野鳥撮影と船通山(海抜1142m)登山で過ごしたGWでした。
ではまた 江若鉄道シリーズでお会いしましょう。

1955年3月福知山

1か月半ご無沙汰をしてしまい、常連諸氏もその間うつ状態?と見え、ぶんしゅう氏がほぼ一人で頑張って支えて下さった。乙訓ご老人も、総本家青信号特派員氏も何やらおとなしく、要は一定期間(かなりの個人差はあるが)以上休むと、従前いわば義務感(単なる惰性?)に近かった投稿意欲が急速に萎えてしまい、ついつい楽な読む側に廻ってしまうもののようである。

ところでこちらは相も変らぬ半世紀以上古い写真と、記憶の残滓を、あたかも老残の醜さのようにしつこく披露するのみ。古いことしか語れない老人の歎きは、何分にもご寛容の程を。


「いずも」ヘッドマークのC57128 重油タンクがドームの後ろにあって石炭と併燃

1955年3月小生は18歳で、高校を「辛うじて」卒業した。正確には「卒業できた」。単位と出席日数はまさしくギリギリで、これを6年後大学卒業の際にも性懲りなく繰り返す。高校最後の試験寸前に痔の手術で入院し、いくつかの科目が受験できなかったが、重大な発見をした。試験を受けると、その成績は通知書に5段階評価で2か1であっても、入院という「大義名分」があると、教師はその生徒の「真実?」が分からないから、中庸は徳の至れるものなりとしてか、単に無難あるいは面倒だからか、3を呉れるのである。半世紀前の老人は、この手術のおかげで、皆目歯すら立たなかった自然科学系―解析Ⅰ、生物、化学に3を頂戴し、卒業できた。受けていたらほぼ間違いなく単位不足で留年=卒業延期していたはずである。

その前から浪人は覚悟していたから、万全の対策?として、膨大な「発行日付の入っていない」国鉄学割証を貯めこみ、かつ学生証紛失を申し立てて再交付を受け、その日付も「修正」して備えていた。

で、前途=進路全く暗黒の中、ともかくはアルバイトで稼いだ僅かな金で、九州から東北まで、軽便と非電化私鉄探訪の旅に出たのであった。親は止めもしなかったが、小遣いも呉れなかった。

最初訪れたのは別府鉄道で、加古川線を北上し福知山へ。以下非電化私鉄のボロ車両は諸兄辟易気味と見て(それぐらいの自覚はある)、未発表の国鉄車両や私鉄電車だけをご笑覧に供する次第である。今回の撮影はいずれも1955年3月15日、福知山。こんな誰でも撮る国鉄車両なんぞにかまけておらず、まっしぐらに北丹鉄道福知山西に行くべきだったと、今更後悔しても始まらないが。


やはり「いずも」だがC57152 重油タンクがある

休車中のC5415 制式機ではE10を除き最も短命に終わった不運な機関車

同じくC5411

C5118 矍鑠として活躍中 


ナユニ16420 鋼帯での補強が痛々しい

オハニ25764 大型木製車だがトラス棒がないのに注意 これは魚腹台枠だから

桜前線追っかけ2010年 Part2  くま川鉄道→西人吉

第3日目 3月29日 午前中
くま川鉄道撮影、以降は、西人吉付近、夕刻→道の駅-不知火温泉(泊)
▲ 5:00、ホカロンと湯たんぽで、寒さ対策はしていましたが、起きました。外の温度を測ると、1℃以下です。昨年10月の北海道でも経験しなかった最低温度です。

昨日、A・K氏西人吉の桜満開は、1週間前だったと、写真を見せてくれました。寒い日々が続いたので、今日まで満開状態が続いたとの言葉を実証する夜間の寒さです。

道の駅錦にあった周辺観光案内図を見ると、ここは、かつての湯前線、くま川鉄道の沿線近くにあります。SL人吉号撮影までは、充分な時間がありますので、この沿線にも桜があるだろうと、線路沿いをロケハンしながら、走りました。
最初に訪問したのは、瓦葺屋根のおかどめ幸福駅です。 続きを読む

桜前線追っかけ2010年 Part1 九州編 西人吉

3月19日、桜前線を追いかけて四国へ出発しましたが、開花宣言は、訪中した3週間以前に出たのに、寒い日々の連続で、全く咲いていません。琴電の旧車両運転を撮って、一旦帰宅しました。

毎日のように桜前線の進み具合を見て、スタンバイしていましたが、3月27日に天皇陛下ご夫妻が、我が町に初めて来られることになり、自宅近くを通られる事になりました。天皇陛下万歳で育った老いた母が、どうしても見たいと嘆願します。

日頃、好き勝手に鉄道写真を撮りに出かけていますので、ここで断っては、今後に支障が出るのは、確実です。新たな出発は、通過される日時以降と決めました。

最初の目的地は、芭石鉄道撮影で、出会った大牟田市におられるA・K氏が、薦めていただいた桜並木で有名な『西人吉駅』にしました。日本で初めて量産された8620型が修繕されて2009年4月から『SL人吉号』として、走っています。

8620型を撮ったのは、DRFC合宿で訪れたケ森が初めてでした。その後、何度か撮影をしましたが、大好きな蒸気機関車です。丁度、当日は、同じく芭石鉄道友人のM・O氏が、新幹線に乗って、犬山市から来られるそうです。再会が楽しみです。 続きを読む

早春の中国一人旅 Part11 鄭州→广州→深圳→香港→帰国

桜前線を九州から追いかけましたが、今年の天候は異常で、雨にもたたられ、中々思うとおりにはいきませんでした。富山から、一旦帰京して、これからどうするか考え中です。まずは、滞っていた、投稿を続けさせていただきます。今回が、最終編です。

第13~15日目 2010年3月14~16日

① 3月14日 郑州16:06-(T255)→3月15日9:48广州
② 3月15日 广州11:18-(D7039)→12:36深圳
③ 深圳14:00-(MTR)→15:00香港→3月16日帰国 
 
郑州では、料金とインターネットが使用できる事を優先してホテルを予約しました。ところがこのホテル、駅からかなり遠くて、楽山同様に不便です。
夜行列車に乗るので、充分余裕を持って、部屋を出ましたが、雨も降り出し、Taxiがつかまりません。ボーイに依頼していましたが、折角捕まえたTaxiも、横取りが日常的な現地人に取られてしまいました。約30分を経過してもダメです。

ボーイを引っ張って、雨降る道路に出ますが、空車が来ないのでどうしようもありません。その内、時間の余裕がなくなってきました。仕方ありません、超満員のバスに乗って、郑州駅を目指しました。
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銚子電鉄デハ1001、1002の連結器

長老よりご質問の連結器の件をもう少し詳しく解説したい。

コメント欄でも書き込みした通り、デハ1001、1002は営団地下鉄時代からトムリンソン式密着連結器を装備しているが、ツアー客の増加等により、自連を装備しているデハ701、702(引退済)、801との連結に対応するため、密着連結器の頭にアダプターとして中間連結器を取り付けている。

 

上/デハ1001の外川向き、中/同車の銚子向き、下/連結器の拡大画像

 

上/デハ1002の外川向き、下/同車の銚子向き

画像でお判りいただけると思うがナックル部分が固定のため、自連とは連結できるが、中間連結器同志の連結はできない。 

実際の連結状態の画像は、銚子電鉄のものがないため、旧国鉄時代のもので代用する。少々古いが、クハ47とワ23814の連結状態である。(昭和41年3月10日、移転前の富士電車区で撮影)

 

銚子電鉄の2連は、昨年8月12日付けの書込み「銚子電鉄を訪ねて(1)」に画像を掲載した「デハ701+702」以外乗車したことがなく、旧形車が引退するまでにデハ1001、1002と701、801の新性能車+吊掛車の協調運転に乗車したいと思っている。諸般の事情で果たしてその機会があるかどうかは極めて疑問あるが、元近江鉄道モハ51のデハ701には是非乗車したいと思っている。

銚子電鉄近況

4月10日(土曜日)銚子電鉄を訪れたので近況等をお知らせする。事前に鉄子色のデハ1002が検査中で旧形が走っているとの情報を得ていたが、銚子駅にはそのデハ1002が停まっていた。運転士氏に尋ねたところ今日から復帰した。客が増えれば、デハ701を増結に使うかもしれないとのことであった。

今回は成田で113系の成田空港行を駅撮りするため成田線回りで行くことにして、最寄り駅6時59分発の電車で出発した。松戸、我孫子とタイミングよく乗換え、成田に8時10分に到着し、113系8連の8時13分発成田空港行の発車を撮影した。この電車も近々京浜東北線から来た209系に置換えられてしまうのであろう。8時18分発銚子行は113系4連であった。下総神崎で「あやめ4号」と交換したが乗客は疎らであった。そもそも鹿島神宮~東京間は10~20分間隔で高速バスが頻発しており勝負にならない。その高速バスでさえ、公共交通機関を無視した「高速道路1000円」の愚策の影響により乗客が減少していると言われている。銚子には9時48分に到着し、すぐ接続の9時50分発の外川行の電車(デハ1002)に乗車した。

 

成田駅を発車する成田空港行1431M

 

成田~銚子間を乗車した2433M/下総神崎駅で特急「あやめ4号」と交換待ち 

外川駅の留置線にはグリーン塗装のデハ2001+クハ2501が停められており、パンタを上げれば直ぐにでも走りそうな雰囲気であった。また、奥の方には1月23日にさよなら運転を行ったデハ702がユ101と連結されて停められていた。デハ702は一時期ネットで売りに出されていたが、買い手はついたのだろうか。これらの車両を撮影後、次の電車で君ガ浜まで戻り、海鹿島との間で約1時間撮影して本銚子に移動した。観光協会のおばさんが乗車しており、沿線のガイドと共に「この電車は東京メトロさんから譲り受けました」と説明していた。「東京メトロとちゃいまっせ。営団地下鉄でっせ」と突っ込みを入れる客がいないか心配したが、そのようなことはなかった。その後、仲ノ町車庫、笠上黒生駅の交換風景を撮影後、211系5連のロングシート車で来た道を戻った。

 

外川に留置されているデハ702+ユ101 

新車について

デハ2001+クハ2501は外川駅に留置されているが、終電後に試運転を行っているようである。デハ2002+クハ2502も整備が完了し、パンタを上げて仲ノ町車庫に留置されていた。塗装はアイボリー一色で、東武熊谷線キハ2000形のような感じである。諸般の事情で営業運転の開始が遅れているが、4月28日に笠上黒生駅のホーム伸延工事が完成すると営業運転に入るのではないかと思われる。

 

外川駅に留置されているデハ2001+クハ2501

 

整備が完了して仲ノ町車庫で待機中のデハ2002+クハ2502

 

ホームの伸延工事が行われている笠上黒生駅、完成は4月28日の予定である。

旧形車について

デハ1001、1002、701、801の4両が稼働しており、通常はデハ1001、1002が使用され、ツアーの団体客等で客が多ければデハ701、801が増結される。1001、1002のいずれかが検査等に入った場合は801が使用されることが多いようである。10日から12日にかけて、20年に1度の「銚子大神幸祭」が開催され、11日の祭りのメイン会場が外川であったため、朝から夕方まで全列車2連(デハ701+デハ1001・デハ801+デハ1002)で運転された。ちなみに訪れた10日のメイン会場は、成田線の下総豊里駅と総武本線と成田線が分岐する松岸駅付近であった。事前に情報をキャッチしていれば、1日ずらして11日に訪れたのに残念であった。

デハ701と801は「ラストラン」のシールが貼られており、ゴールデンウィーク期間中に「ラストラン」が実施されるのではないかと思われる。デハ1001、1002は新車稼働後も引き続き使用されるが、夏季を中心に稼働日は減少すると思われる。しかし、団体客がない時は単行でも十分まかなえるため、冷房が必要でない時期を中心に使用されるものと思われる。

 

ラストランのシールがついたデハ701

 

デハ801のラストランシール

 

キャベツ畑を走るデハ1001/君ヶ浜~海鹿島間

 

犬吠埼灯台をバックに走るデハ1002/君ヶ浜~海鹿島間

 

本銚子~笠上黒生間の切り通しを走るデハ1001

ダイヤ改正について

3月13日のJRのダイヤ改正に合わせて当線でも実施された。それにより早朝、深夜を除き、銚子、外川発が毎時20分、50分に統一され、非常にわかりやすくなった。笠上黒生駅での列車交換は、従来通り外川行が先着する。

 

その他

デハ701は昭和53年に近江鉄道から入線以来32年間、デハ801は昭和61年に伊予鉄道から入線以来24年に亘り活躍を続けたが遂に引退の時期を迎えた。特にデハ701は近江鉄道縁の車両であり、近江鉄道時代に乗車、撮影された方もおられるのではないだろうか。

 

デハ701の近江鉄道時代/上 昭和40年1月6日彦根、 下昭和47年9月9日貴生川(モユニの代わりに郵便車として使用されている)

鉄道の車庫は基本的に部外者立入禁止で、見学は年1回の一般公開時以外は不可能であるが、有難いことに仲ノ町の車庫は入場券を購入すれば見学が可能である。

2月26日から27日にかけて583系が両国~銚子間を団体臨時列車で運転され、撮影に行かれた方もおられると思われるが、銚子電鉄でも記念入場券を発売中である。仲ノ町駅で購入すれば、車庫見学も可能である。

見学、撮影に行かれた時は、記念乗車券、家族へのお土産に濡れ煎餅、観音駅の鯛焼き等を購入して、わずかでも収入に貢献していただきたいと思う。

 

仲ノ町駅の入場券

 

時々デザインが変更されている一日乗車券

江若鉄道白鬚駅復元工事(その4)

ハフ3両

ハフ3両

ハフ8
ハフ8

白鬚駅工事の木工と粘土細工に少々飽きてきて いつでも窓抜きから始められるように書きためてあるペーパー車体の材料が気になって 浮気をして1両だけ ハフ8を作りました。昔からですが なぜか気動車のトレーラー(国鉄ではキサハ04とかキクユニ04とか)が好きで 江若でもすでにハフ2、ハフ3が完成しており その流れでハフ8となった次第。模型的にはありふれたペーパー車体で 2週間ほどで完成しました。トレーラーばかりが増えて 動力車が増えてないので運用に困りますネ。次はキハ5121-ハ5010-キハ5122の3連をやっつけるつもりですが、特にハ5010は窓抜きがうんざりしそうです。と言うようなことで白鬚駅の工事は足踏み状態です。いまだに松の木をどのように作ろうかと名案がないのも 工事が進まない理由かも。

2010年 早春の中国一人旅 Part10 楽山→成都→西安→郑州 鄭西高速鉄道

ベトナムのハノイ~ホーチミン間を結ぶ高速鉄道は、日本の新幹線の採用が、閣議決定されたそうで、東南アジア好きの私としては、嬉しく思っております。

第11・12日目 2010年3月12・13日

① 3月12日 楽山ホテル13:00-(マイカー)→13:15楽山客運站
② 3月12日 楽山客運站14:00-(バス)→15:15成都石羊客運站
③ 3月12日 成都石羊客運站15:20-(Taxi)→16:45成都鉄路站
④ 3月12日 成都21:20-(K6)→12:15西安
⑤ 3月13日 西安14:50-(G
2008)→16:48郑州  

今日は、成都に戻って、夜行寝台列車で、西安に向かいます。昨夜から、インターネットニュースで、しばらく空白だった、世間の動きを見ていました。チェックアウト12:00まで、ずっと世間に合せるまでの準備時間です。
別に、何も知らなくとも生きていけるでしょうが、マスコミ報道に毒された現代人の悲しさを、感じます。在職中にマスメディアに携わった事が、良かったのか、悪かったのか、答えはありません。

ホテル前に出ましたが、結構広い道路なのに、昨日同様にタクシーが走っていません。ホテルの従業員も出てきて、停めようと協力してくれますが、空車が来ないので、どうしようもありません。最後は、支配人まで出てきてくれて、結局、マイカーで近くにあるバスターミナルまで、送って下さいました。今日も、感謝、感謝です。
しかし、ここから乗車したバスは、成都まで約50km手前の、空港近くの石羊客運站までしか行きませんでした。繁華街方面にある楽山肖埧站に行かなければ、来る時に乗車した成都旅游客運中心站行きバスには、乗れなかったのです。

仕方ありません。タクシーで、成都鉄路站まで向かう事にしましたが、高速道路は、事故で大渋滞、站手前も全く動けないほど渋滞で、たっぷりと時間がかかりました。バス代44元=約616円に、Taxi代116元=約1.624円が余計にかかりました。
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