ことでん 復刻色走る

季節は巡って、もう桜の開花の季節を迎えました。想定外の多忙な業務に翻弄され、この一ヵ月半は、掲示板の投稿も儘ならない状況が続きました。2月に行った大糸線の投稿も途中で滞ったまま、今さら季節はずれの旅行記を続ける訳にもいかず‥、ということで、つい先日に訪れた琴電の旧型電車復刻色の運転について記してみたいと思います。
今回もお世話になったのは、中国から帰ったばかりのぶんしゅうさん。深夜の京都を”ぶんしゅう号”で出発、途中の高速道路のSAで二人仲良く車上のテントで仮眠。夜明けとともに車を琴平線の沿線まで走らせました。

今回の旧型電車の特別運転は、3000型300号が開業当時の茶色一色に復刻されたことを記念したもの。同車は、琴平線の前身、琴平電鉄が大正15年の開業時に新製した車両。昭和10年代には、グリーン濃淡の2色塗色に改められており、茶色一色は、約70年ぶりの復活になる。3月20、21日の両日運転されたが、とくに20日午前中の琴平線仏生山~琴平間の1往復は、琴電で動態保存されている旧型電車フルラインナップの4両編成となり、パンタ4丁を上げ吊り掛け音を響かせて走った。
せっかく保存車を茶・クリームの2色に統一したのに、編成美を乱す復刻色もいかがなものかとの意見もあろうが、会社の愛着が伝わってくるような渋い茶色の輝きであった。(羽間~榎井)

いま琴電でイベント用に動態保存されている旧型電車は4両。琴平側先頭の3000形300号、写真の高松築港側先頭の5000形500号、1000形120号の3両は、琴平電鉄が創業時に新製した車両で、大正末から昭和初期の製造、残る20形23号は、近鉄南大阪千の前身、大阪鉄道デロ20形を出自とする電車である。行き先の「仏生山」が旧字になっている、芸の細かいところを見せている。(一宮付近)

 

琴平線の撮影地としては、前掲の羽間~榎井間の土器川鉄橋、一宮~円座間の香東川鉄橋、2つの鉄橋が代表的。仏生山から琴平までは、ほぼ東北から西南へ向かってレールが伸びているため、光線の当たり方は一定である。今回の運転は、途中の滝宮駅で7分停車があるため、車だと追っ掛けができる。円座~一宮間の香東川鉄橋を目指して走っていたところ、道が判らなくなり、慌てて鉄橋近くの築堤に掛け上って写した。たまたま背後には、讃岐平野特有の山容も入り、梅の花も入れて工事現場も隠せた。(一宮~円座)

 

昼は地元の高松で活動するKさんと再会し、仏生山近くのうどん店で160円也のかけうどんを食す。Kさんから琴平近くに菜の花畑があることを聞き及び、午後からの1往復は、衆議一決ここで撮影することにした。当初は、桜も開花かと期待して、桜の撮影で有名な、挿頭丘駅へも下見に行ったが、全くのつぼみ状態。沿線では菜の花だけが、春を演出していた。芭石鉄道の菜の花には程遠いが、沿線では唯一両側に菜の花が広がっていた。午後からの1往復の運転は、300+120の2連。これぐらいが、ローカル私鉄には似つかわしい感じがする。(榎井~琴電琴平)

2010年 早春の中国一人旅 Part5 菜の花いっぱいの芭石鉄道

第6日目 2010年3月7日(日曜日)

昨夜のパーティは、深夜まで続いていましたが、英国人親子(親子といっても、20歳台の若者と、初老の方)と私達は、鉄道談義に花が咲きました。聞けば、英国を出発してから、各国を回り、鉄道写真を撮っているとの事。

カバンの中から出てきたのは、何と懐かしいゼンザブロニカで、びっくりしました。日本も行って来たと言っていました。中国には、50日間滞在して、SL撮影に励むそうです。SLを目的に、世界中を旅行しておられます。半端じゃありません。いろいろと、お話ししたかったのですが、疲れから睡魔が襲ってきました。

朝は、夜明け前に目覚めましたが、外は雨。まだ、4日間もあるので、6:32の始発列車のが、上がってくるまで、ウトウトしました。まだ真っ暗です。部屋の窓下を走るC2型機の火床から、放出される真っ赤な石炭ガラが、闇夜を一瞬染めて、印象的でした。

朝食前の一仕事に、始発の折り返し列車が、蜜月岩駅を下る場所で、撮った後、雨があがった民宿前(食堂は、1階屋外)で、ゆっくりと、朝食を食べていると、遠くからドラフト音が聞こえてきます。次の列車は、約2時間後に上がってくる定期列車なのに、どうしてと思っていると、ドラフト音は、だんだんと近づいてきます。



▲ 撮影時間8:52。臨時の臨時の観光列車。時間からすると、8:00頃に石渓站を発車して、躍進站で第2次と交換して、上がって来たと思われます。牽引機は、№09機関車+№10テンダー車と、観光客車4両

時刻の分っていない貨物列車かもと思い、蜜蜂岩站から上がった定番のお立ち台に向かいました。昨夕と違って、後から来て、前に立って邪魔するような撮影者はいません。
撮影場所から見える、蜜蜂岩站でスイッチバックしたC2型機は、一旦上がってきた線路に戻って、石炭ガラを全部捨てます。C2型機は、火床が小さく、直ぐに石炭ガラが溜まってしまいますので、勾配の続く芭石鉄道は、所定の場所のみならず、走行中でも平気で、ばら撒いています。日本じゃ、考えられないですね。

やがて、発車の汽笛が鳴り、ドラフト音が山間に響きわたりました。ちょっと冷やっこい朝です。煙も期待してカメラを構えました。

しかし、
C2型機
が姿を見せ始めると、それまで爆煙は尻すぼみです。止まってしまいました。昨日みた連絡書に記載無かった観光列車です。大勢の観光客が降りて、記念撮影です。
観光列車は、7分停車した後、上へと、上がっていきました。



▲ 10:17 第5トンネルを出る第2次。牽引機は、№14機関車+№09テンダー車と、客車7両(12+19+9+13+11+16+14)。

ここからは、前回、列車が来なくて、悔しい思いをした第5トンネル付近での撮影リベンジです。折角の菜の花シーズンですので、花を入れて撮れる場所は、無限に近くあるのですが、まずはすっきりとしないと、後が続きません。定期の2番列車を待ちました。


11:26、C型カーブを下る第2次の折り返し。白い花を入れたかったので、欲張りすぎました。

11:49、C型カーブを回った観光列車。牽引機は、№7機関車・テンダー車と、観光客車4両(4+6+1+7)

第1トンネルから、随所に菜子埧站間も撮ってみたい、撮影地が続きますが、第2次の折り返しの撮影地は、やはり菜の花畑のC型カーブです。煙は、上下とも期待できませんが、押さえておきたい場所です。約25分で到着しました。

ここで、中国人鉄道ファン多数と遭遇しました。カメラは、やはりNIKONとCANONの一眼レフばかりで、でかい三脚や水準器まで付けています。まさに、『ここはどこ?』の世界です。
▲ 12:01 丁度菜子埧站付近。ロケハンをしながら歩いていたら、突然に朝に上がっていった臨時の臨時の観光客車が、折り返してきました。

撮影後は、菜子埧站を上がった所までロケハンして、午後からの本数の多い蜜蜂岩站から石渓方面へと、歩きました。途中、行ったり戻ったりで、この日は、20km以上は、歩いたと思います。最後は、登り勾配でしたので、一気に疲れが出ました。夕闇迫る民宿のある蜜蜂岩站にたどり着いた時は、もう一歩も歩けない状態でした。

▲ 14:24 第3次上がってきました。牽引機は、№14機関車+№09テンダー車+客車7両。

▲ 15:04 蜜蜂岩で折り返しの観光列車が、一押しの、菜の花畑に囲まれた中を来ました。

▲ 15:41 黄村井からの折り返しの観光列車が下りてきました。

▲ 続いて、15:55、蜜蜂岩から折り返しの観光列車も下りてきました。 

 
▲ 16:15 第3次定期列車です。3本も続けて来ることなんか、通常はありません。菜の花の段々畑と、急坂を猛煙を出して力行するC2型機を撮影したいのですが、こういったシーンを正面から撮るのは、難しい限りです。


▲ 17:53 撮影可能な最終第4次。山を登って撮影しましたが、無理がたたり、下山後、力尽きました。もうろうとして、民宿にたどり着きました。

今夜は、英国人親子と、その通訳、そして私の計4名の宿泊客でした。ビールを飲みながら、昨夜の続きを聞いていくと、JS建設型が走る三道嶺、JS型が走る白銀に行って来たと、たくさんのコンデジの写真を見せていただきました。

明日夕刻には、また何処かに行かれるそうです。通訳の方は、3週間連続で案内されるそうで、牡丹江の旅行社の鉄ちゃんでした。明日は、日本人専用の旅行社の鉄ちゃんが、日本人を引率して来られます。この方は、インターネットで知り合った方で、連絡を取り合っていましたが、お会いするのは初めてです。いろいろと、聞いてみたいと思っています。

明日は、始発列車で、終点の黄村井站まで行く予定です。今夜も睡魔が襲うまで、英国人親子と話をしました。 Part6 へ続く

キハ52ありがとう号撮影顛末記

そもそもの始まりは、3月はじめ、DRFC-OB数人に に三連休に、大糸線「キハ52ありがとう号」を撮影しに行こうと話したことから、物語は始まります。関西組数人と関東組数人が「行こう」、「行く予定がある」と言っていたのですが、一人抜け二人抜け、最終的に参加したのは、関東組の大先輩の準特急氏と小生のみでした。

出発、数日前の週間天気も、三連休中日だけは、雨の予報!

いやな感じはしていましたが・・・

3月20日夜、家でほろ酔い気分になったあと、新宿23:54発の快速「ムーンライト信州81号」に乗車するために、最寄の私鉄駅に自転車で向かいましたが、猛烈な南からの向かい風で、歩いたほうが早いくらいでした。ギリギリ駅に到着。新宿を目指しました。

途中は、何の支障も無く、新宿に到着。

寝酒を確保し、快速「ムーンライト信州81号」の入線を待つことしばし・・・長ナノN101編成が入線してきました。昨年夏、準特急さん・ロギング太郎さんと佐久間レールパークへ行ったときは、E257系でしたので、少し損した気分です。5号車モハ189-28の車中の人となりました。ところが、発車時刻の23:54になっても一向に発車しません。強風で遅れている接続列車の待ちで、5分の延!

夜のとばりが降りた、中央線を一路、西に向かいます。

次のハプニングは、日野駅を過ぎたあたりで、豊田・八王子間に支障物があるということで、徐行運転開始、豊田駅で停車すること30分。支障物の撤去が終わり先行の電車が運転再開し、続いて、わが快速「ムーンライト信州81号」も運転再開です。所定0:40の八王子に30分延で到着。ここで、準特急さんが乗り込んでこられました。

先輩を差し置いて、こちらは、寝酒が体中に回り、酔っ払い状態です。準特急氏も強風の影響でなんとか八王子にたどり着いたとのことでした。

快速「ムーンライト信州81号」は、更に西に向かいます。10分停車する塩尻の手前で目が覚め、塩尻で、ホームを駆け回り快速「ムーンライト信州81号」をカメラに納めました。もうこの頃には、所定の時刻に戻っていました。塩尻駅停車�� 快速ムーンライト信州81号 クハ183-1525

塩尻駅停車中 快速ムーンライト信州81号 クハ183-1525

塩尻駅停車�� 快速ムーンライト信州81号 クハ183-1528

塩尻駅停車中 快速ムーンライト信州81号 クハ183-1528

ほぼ、定刻の5:40過ぎに白馬に到着。銀箱や三脚を持った輩が大量に快速「ムーンライト信州81号」から吐き出されました。駅の待合室も超満員。その上、強風の影響でしょうか2度ほど停電し、駅の中は、真っ暗! ここで、6:56発の5321Mを待ちますが、待合室のあまりの混雑に、駅前の右手二階の早朝営業の食堂に退避。準特急氏と650円の朝定食を食べながら、5321Mを待ちます。
白馬駅のホームから見た東の空に上がる月の様な不気味な太陽
白馬駅のホームから見た東の空に上がる月の様な不気味な太陽

朝食後、5321Mの到着時間が近くなり、ホームに向かいます。定刻になっても5321Mは姿を現しません。ホームからは、これからの一日を暗示するような不気味な月の様な太陽が望めました。10数分遅れて、5321Mが到着。二両編成の車内は、鉄ばかり・・・南小谷に到着すると、7:51発の423Dは、本日強風のため、運休とのこと。手際よく、糸魚川バスの代行バスが用意されており、南小谷に残る準特急氏と別れ、代行バスの列に並びました。ただ、満員に近い20メートルのE127系二両の乗客を小型バス一台で受けるのは無理があります。やっと乗り込みましたが、車内はすし詰め!つり革につかまるのがやっとです。乗り込めない人は、何時来るかわからないが、バスを手配しているので、そちらを利用してほしいとのこと・・・そうこうしている内に、本日の「キハ52 ありがとう号」は、強風のため運転中止となったことがアナウンスされますと、超満員のバスからあきらめて降りる方がおり、何とか座席を確保。8時10分過ぎ、超満員の代行バスは、糸魚川に向けて出発しました。

大糸線 423D代行バス

糸魚川駅に到着した423D代行バス

 

途中、律儀に各駅に寄り、約1時間で糸魚川駅に到着。運転中止になった「キハ52 ありがとう号」は、JR西日本の粋な計らいで、4番線に据え付けられており、強風と雨の中、撮影会が行われていました。

糸魚川駅 4番線にて「キハ52 ありがとう号」

定刻から大幅遅れ1531M クモハ419-14と並ぶキハ52

北陸本線は、軒並み遅れ、運休続出なので、「キハ52 ありがとう号」を撮影後、早々退散し、帰京する事にしました。これには、昔の苦い記憶があるからです。

大学1年生の夏、青春18切符を使って関東地方と飯田線を追い求めて、893-2氏・大ミハ氏と旅を始めたものの、富士川橋梁の流失で行く手を阻まれ、やむなく豊橋の木賃宿に泊まることを余儀なくされ、退却するにも退路を阻まれ、豊橋から名鉄と名鉄の代行バス、その後東海道線の醒ヶ井あたりでも代行バスにお世話になって、ほうほうの呈で帰宅したことが脳裏をよぎりました。

定刻より大幅に遅れて入線したきた、1531M 419系D14のクモハ419-14の車中の人になり、直江津を目指します。この時点での計画では、直江津10:51発長岡12:21着・12:33発越後湯沢13:50着・15:05発水上15:43着・15:48発高崎16:51着・17:02発上野18:50着の予定でした。

クハ419-4 前面の列車愛称表示部分が埋められている 直江津駅

直江津に約30分遅れの10:10過ぎに到着。駅で聞いてみると10:51発の1333Mは運休。その後の12:16発1335Mも運転の見通しが立たないとのこと、何でも直江津~柏崎間は、9時から15時くらいまで、強風で運転見合わせとのことでした。気を取り直して、仕方なく、ほくほく線経由で帰ろうと、車中のアルコールを売店にて購入していたところ、10時50分過ぎに放送が入り、柏崎・長岡方面に行かれるお客様は、改札前に集合してくれとのこと。行ってみると、代行バスを柏崎まで手配したので、それを利用して欲しいとのことでした。迅速な対応に感謝・・・

駅の南口に誘導され、行ってみると既に頚城バスの大型観光バスが待機。16名のお客さんと直江津駅の主任さんが乗り込み11時20分前に柏崎駅に向けて出発。途中、笠島と青海川以外のすべての駅に停車。潟町は、6名が乗車。柿崎では、柏崎から直江津に向かう代行バスと離合しました。ただ、途中、運転抑止されているのに、不思議なことに踏切で、EF510の単機を待ったり、雨の中、青海川~鯨波の名撮影地では、3人の鉄チャンがカメラを構えていました。

バスが駅前に入れない駅では、雨の中、直江津駅の主任さんが制帽のあご紐を使用して風で、帽子を飛ばされないようにしながら、駅にお客さんが居ないか確認されており、鉄道員の真摯な対応に脱帽です。

直江津~柏崎間代行バス バスの団体名を表示するところにJRと書かれている。柏崎駅

そうこうしている内に12時40分過ぎに、柏崎に到着。接続の長岡行き13:09発1335Mを待つことにしました。この1335Mは、本来、直江津始発ですが、今日は、直江津~柏崎が不通なので、長岡方面から来る列車が折り返すことになるとのことです。ただ、その折り返し列車の到着が遅れ、出発が20分程度遅れるとのアナウンスが入りました。

手持ち無沙汰で、駅のベンチに座っていると、長岡方面に三つの光を発見、目を凝らしてみるとボンネット車ではありませんか?残念ながら写真の撮りやすい2番線には入線せず3番線に入線しましたが、先日、能登を引退した489系H1編成を使用の読売旅行が募集した団体臨時列車でした。帰ってから調べてみると、19~21日にかけて敦賀・舞浜間運転された団体臨時列車で、柏崎は、所定4:37通過のものです。柏崎で抑止かと思っていましたが、しばらく停車の後、直江津方面に向け、静かに出発していきました。また、下りのEF81牽引のコンテナも轟音とともに通過していきました。

団体臨時列車 クハ489-501   柏崎駅

 

同じく団体臨時列車 クハ489-1   柏崎駅

生活の足である定期の旅客列車を運休させておきながら、団体臨時列車や貨物を走らすJRの対応については、????です。

さて、出発が遅れた1335Mで長岡に到着。長岡14:31発115系二連の1740Mで越後湯沢15:51着 16:45発の1742Mまで時間があるので、駅構内の日本酒入りの温泉800円で、時間をつぶすことに。以前夏に来たときは、ほとんど人が居ませんでしたが、スキーシーズンということもあり駅構内は、大混雑!女性用のお風呂は、2~30分待ちのようでした。

16:45発の1742Mは、115系4連のL3編成です。今では、数少なくなった0番台MM`ユニットが組み込まれ、AU712で冷房改造されており珍車です。残念ながら水上駅の到着が遅れ、接続の17:29発750Mの時間もありも、撮影できず残念でした。

750Mで新前橋に出て、6分遅れの750Mを接続待ちしていた3940M快速アーバンのグリーン車二階席に座って、ほっとしたとたん睡魔に襲われ、目覚めたら日暮里を通過。長い一日が終わりました。

「奥山さんの機関区めぐり」

Webページ「奥山さんの機関区めぐり」を開設します。
アドレスは下記の通りです。ぜひご覧ください。 

http://kikanku.web.fc2.com/

 

  これは、会員・奥山直秀さん(58年度生)が、長年にわたり各地の機関区を訪ね、撮影した数多くの写真の一部です。奥山さんに代わりデジタル化およびWebページ作成は、奥山さんのご了解の元に鶴が担当しております。写真説明など奥山さんに直接監修を頂
きました。読者皆さんにおかれましても、誤記などありましたらご指摘など頂きます
ようにお願い致します。

 機関区内の写真だけでは、単調に過ぎる嫌いもありまして、走行写真や、駅構内での大型写真をも付け加えました。

 形式別には、先ずC59型から始め、5月にはC60型、6月はC61を、7月にはC62の順に掲載の予定です。

 開設にあたり、奥山さんの言葉、「C59と梅小路と私」を頂き、直筆文を掲載しました。青信号には、昨年の宇治鳳凰ロータリークラブ会報に寄稿された、奥山さんの一文を紹介させていただきます。

 

宇治鳳凰ロータリークラブ会報、平成2164日号へ奥山さんの寄稿文

「大型蒸気機関車(SL)に魅了されて」

                            奥山直秀

 私、幼い頃より乗り物が好きで生地横浜と当地を往来することが多かったためか鉄道は特別であった。そして大人になればあれを動かす人になりたいと言う気持ちに満ちあふれていた。

 中学生になると学校の横を走る奈良線に興味をもち下校時は宇治駅回りとしその時間帯に到着する上、下旅客列車や長時間停車している貨物列車のSLを見て帰宅していた。そのうち毎週同じ日に貨物列車を運転してくる機関士や機関助士の方々と親しくなりいろいろ見学させてもらったり教わったりした。すなわちSLは人間に一番良く似た機械、詳しく言えば個性がある。その個性を訪ねると水や石炭を多く消費せずに潤沢な蒸気を発生し車軸などの発熱しないものが優秀機、そうでないものは不良機でそれを使いこなすのが機関士や機関助士の腕の見せ所とのことであった。

 前後して京都駅八条口側の塩小路高倉陸橋に父に連れて行ってもたった。ここでは東海道、山陽道の大型SLが水や石炭を一杯積み込んで折り返しの時間待ちをしている姿は壮観で、夕刻には浜松から特急「つばめ」や「はと」を牽いてロングランで下って来るし、夜には特急「かもめ」を牽いて広島から上がってくることも判りますます興味が湧いた。しかし私にはカメラもなく目で見て覚えておくしかなかった。当時SL列車の写真は多く発表されているが朝日を浴びて山科の大築堤を行く上り特急「つばめ」の写真は最高のものだと思う。

 しかし国鉄は企業の合理化とエネルギーの効率化のため名古屋、米原と電化を進めついに昭和31年秋大阪に達したが大阪駅の構内の関係で長距離列車は全て京都でSLと付け替えが行われ、大半の大型SLはこの地に残ったのは嬉しかったがそれもつかの間昭和34年姫路電化で山陽西部、北九州、東北、一部は函館本線の輸送力増強用として散っていった。

 その後私もその道に入る機会を得たが達成できず趣味者としてこれらSLとの再会を目指して各地に出向いた。一番嬉しかったのはこれらのSLが転属先で元気に走っている姿を見た時である。しかしそちらの方も電化、ディーゼル化が進められ次々と姿を消した。

 幸いにも鉄道開通100周年事業として京都に梅小路蒸気機関車間が開設されこれら大型機を含む名機18両が保管され内5両は動態保管機として構内および各地に出張して運転されている。又最近JR各社ではSL観光列車が運転されSLの人気の高い証拠である。

(原文のまま)

江若鉄道白鬚駅復元工事近況(その2)

水荳・?居1

水中鳥居1

水荳・?居2
水中鳥居2

白鬚駅のイメージはなんと言っても水中鳥居でしょう。この1ケ月の成果は鳥居の完成です。高島町では駅舎などを初めて作りましたが、さすがに鳥居は作ったこともなく、まず情報集めから始めて 何とか出来上がりました。ちょっと大きすぎた感もありますが、そこはご愛嬌。ご笑覧あれ。

名古屋駅のDC今昔

tsurukame先輩より加太で撮影されたDCの貴重なカラー画像が公開されたが、団塊の世代以前の方は非常に懐かしく思われたであろう。当時「カラー」は贅沢という思いが強く、モノクロでしか撮影しておらず、今から考えると、もう一寸お金をかけてカラーで撮っておけばと後悔することしきりである。まあ、モノクロでも「撮ってないよりマシ」と思って諦めざるを得ない。

画像を拝見すると通勤型のキハ35が幅を利かせていることに気付かれると思う。所謂一般形のDCの流れを見ると、キハ17系に代わり、昭和32年から41年にかけてキハ20系が新製され、キハ17系と比較すると車体の大型化とアコモデーションの向上が図られた。ちなみに今回大糸線から引退したキハ52は115と125が昭和40年製、156が昭和41年製で半世紀近く活躍したことになる。また、現役のひたちなか海浜鉄道のキハ205は元キハ20522で昭和40年製である。

関西線の湊町~奈良間の増発と快速運転開始時に、通勤型のキハ35系が昭和36年から41年にかけて新製され、大都市近郊を中心に投入されたが、関西線の奈良~亀山間のように、不適切と思われるような線区にも投入された。私自身、昭和41年3月、新見~津山間で乗車した時は、小雪の舞う非常に寒い日で、停車駅毎に扉が全開し、停車時間の長い交換駅では、車掌が乗客が来るたびに扉の開閉を行っていた。津山でC11の引く姫路行に乗換えた時には本当に暖かく感じた。キハ30が62・98・100の3両が久留里線に健在で、夏ともなれば窓全開で運用に就いている。関東鉄道常総線には、旧キハ30・35・36が8両健在で、平日の朝ラッシュ時を中心に使用されている。

昭和41年から44年にかけて、キハ20系とキハ35系を折衷した近郊型のキハ45系が新製された。

注目は(3)の上から2番目、キハ17+キハ16の338Dで、時刻表を確認すると湊町10時35分発名古屋行(奈良まで快速)で名古屋まで約5時間かけて走行した。恐らく奈良まではキハ35が2両位増結されていたと思われる。

今回、昭和48年2月11日と昨年末の12月12日に名古屋駅で撮影した画像を比較を試みたのでご笑覧いただければ幸いである。

 

武豊線931Dキハ35118他5連/武豊線の一般型DCは美濃太田区の所属で、名古屋まで太多線・中央西線で営業運転をしながら送り込みがされた。

 

中央西線527D多治見行キハ26135他9連。(隣は643M高蔵寺行72系5連)/キハ26135+キハ25+キハ186+キハ26+キハ35×5

 

キハ186 車体断面が小さいキハ17系の中間車で、昭和29年製の第一次車である。車内はオールクロスシートであったが、背擦りが低く、後ろ座席の人と頭をぶつける可能性があった。また座席の生地はビニール製であった。

 

武豊線快速 キハ75-404他4連/転換クロスシートでワンマン対応車

 

快速「みえ」 キハ75-201+キハ75-301/鳥羽寄の前半分は指定席で別途指定席料金が必要である。

 

特急「くろしお」天王寺行 キハ811/名古屋~天王寺間を紀伊半島の海岸線に沿って7時間半で結んでいた。

 

【参考】特急「はつかり」昭和41年3月22日 仙台

 

特急「南紀」 /キハ85-6+キロハ84-2+キハ84-7+キハ85

 

特急「南紀」 キロハ84-2/.H生さんが「キロハ」についてコメントされているが「南紀」に連結されている。当初「ひだ」用として新製されたが、「南紀」の「キロ」とトレードされた。

 

特急「南紀」 キハ84-7

 

特急「ひだ」 キハ85-2 

キハ91系

昭和41年、従来のDMH17系エンジンに代わる大出力エンジンDMF15HZA(300PS)を搭載したキハ901とDML30HSA(500PS)を搭載したキハ911の2両が新製され、比較検討された結果、500PSのDML30HSAが新系列DC用エンジンとして制式採用された。

翌42年新エンジンを搭載した車両を営業運転に投入して長期的な性能試験を実施することになり、キハ91形7両とキサロ90形3両が新製された。形式からも判る通り、一等車が付随車として誕生したことは特筆される。

当初は房総西線(現在の内房線)でテスト後名古屋機関区に転属。昭和41年11月25日より急行「しなの」に使用。昭和43年10月1日特急に格上げ後は、急行「きそ」に使用。昭和48年7月10日電車化後は、高山線の急行「のりくら」に転用され、昭和51年9月3日まで使用され、昭和53年8月31日付で廃車された。キハ901は昭和46年3月31日付でエンジンをキハ91と同じものに換装して、キハ919に改番された。

キハ91形は僅か10年程度しか使用されなかったが、その技術はその後に新製されたキハ65形、キハ181系に生かされた。特にキハ181系とは混結可能であったようで、クローバー会会員の中に特急「しなの」でキハ181系の中間に連結されている写真を撮影された方がおられる。

 

キハ912他7連

 

キサロ901

 

キハ912

 

キハ919(←キハ901)

 

キハ901 昭和41年7月23日

キヤ97

平成19年12月に新製された定尺レール運搬車で、0番台が上り向き、100番台が下り向きの2両固定編成で4編成在籍する。エンジンはカミンズ製C-DMF14HZC型360PSを搭載しており、最高速度は空車時110㎞/h、レール運搬時95㎞/hである。

 

上 キヤ97-2  下 キヤ97-103

2010年 早春の中国一人旅 Part4 芭石鉄道へ向かう

第5日目 2010年3月6日

① シムズホステル8:25-(Taxi)→8:45成都旅游客运中心(新南門車站)9:20-(Bus)→11:15楽山肖埧站11:20-(Taxi)→13:30芭石鉄道石渓站
② 石渓站14:00-(第3次)→14:27蜜蜂岩站

前回1月での訪問は、旅行社に任せましたが、今回は、自力で成都市内から芭石鉄道へと向かいます。中国鉄路の移動なら、何とかできる自信はありますが、レールのない移動は、不安が付きます。
予約をしておいたホステル内で朝食をとって、道路に出ました。ここは、タクシーが掴まりにくいと聞いていたので、もっと広い道路まで歩こうと思っていましたが、運よく空車が来ました。
▲ 市内中心部から離れたところにある、成都旅游客运中心(新南門車站)。
バス乗り場は、改札口があり、その上に発車時刻が、電光表示されます。下は、切符えす。 続きを読む

2010年 早春の中国一人旅 Part3 武漢から成都へ

第3・4日目 2010年3月4・5日

① 武昌17:55-(T246)→11:29成都   今回1回目の車中泊 17時間34分

今日は、夕刻の乗車で、ゆっくりです。ホテル正面には、有名な湖北省博物館があります。普段は、観光見物するより、駅でブラブラしますが、せっかくですので、見に行きました。
長江文明の石器時代からの遺跡発掘品の数々が、時代別に展示してありました。大きな立派な博物館ですが、日本と違って無料です。そして、中身がすごい! 日本では、これだけの物は、見られません。堪能しました。

少し教養も身に付けましたので、ホテル近くのC級グルメ屋で、昼飯を済ませてから、夕方乗車する武昌駅に向かいました。
芭石鉄道訪問後の予定も立てました。成都→西安→鄭州→広州の3列車ルートで、希望列車を第1候補から柔軟にあげて、窓口で空席を聞く事にしました。ホテル手配は、それからです。
▲ 武昌駅は、前々回の訪中時に視察済みです。その時とは違って、駅前広場と切符売場は、大混雑でした。公安(警察)に加えて、防弾チョッキを身に付けた軍人まで巡回している、厳戒態勢です。

この駅には、他の乗車駅からの切符を売る専用窓口がありますが、長蛇の列です。こりゃ、1時間はかかるなと、トイレに行ってから、時刻表を見ながら、ゆっくり並び待つ事にしました。二人であれば、トイレの心配もなくビールを飲みながら、待てるのですが、このへんが一人旅の辛さです。

並んでいると胡散臭い連中が、この切符を買わないかと堂々と聞いてきます。確か10日までに乗車する在来線切符は、中国鉄路初めての名前入り(実際は、身分証番号かパスポート番号)ですので、買っても使えない場合があると思いますが、関係なく売っています。

切符は、思ったより早く30分で、順番がきました。前に並んでいた多くの人は、満席と言われて、脱落していったのが原因です。
私の希望した切符は、すべて第1候補で買えました。これも、インターネットで残席状況をチェックできて、買える確率の高い列車を選択できたおかげです。今まで、結構苦労していましたので、これで、かなり楽になりました。
▲ 切符が確保できたので、安心してビールを飲みながら、待つ事にしましたが、待合室も大混雑です。



乗車するT246の改札の開始は、通常30分前ですが、春運のこの日は1時間前に始まりました。1番ホーム発ですので階段はなく、移動は楽です。乗車する車両は、編成の真ん中ですので直ぐに乗れましたが、硬座(普通車)は大変です。有座(座席指定)客が乗車した後、無座(立席)客が、ずらりと列車ドア前に並んでいます。

今日は学生が多いのか、窓から入る人はいなく、むしろ整然と並んでいます。礼儀が出来ていない今の中国ですが、さすが教養の高い人や、若い人となると、違ってきます。時折、席を譲ってくれたり、荷物を持ってくれたりもします。生活の格差ばかりを話題にされますが、教養の格差も大きいのです。

今日のコンパートメント客室は、孫連れのおばあさんが、下段。上段は、40歳代の男性でした。車両は25K型で、電源コンセントが客室内についていましたので、通電しているかを乗務員に聞きましたが、『没有=ない』との返事です。1月に乗車した、北京西站~成都間のT7&8共、通電していませんでした。
パソコンで映画も見れるので、車窓の見えない夜間は重宝していたので、残念です。どうも、殆どの乗客が携帯電話の充電をするので、何かトラブルがあったのでしょう。通電を止めたのではないかと、推測します。

列車は、定刻よりに10分遅れの発車でした。いつものように、食堂車に行き、今日のお薦めの魚料理とビールを注文しましたら、発車前にホームで話していた列車長から、野菜炒めの差し入れがありました。感謝、感謝です。

食事が終ってから、昨夜切符購入後に予約しておいた、成都の有名なバックハイカー向けのシムズホステルに確認の電話を入れますと、駅からタクシーでのお迎えをしますと言われてびっくりです。いつも、駅からホテルまで行くのに、一番苦労をしているので、助かります。
客室に戻ると、皆さん既に寝ておられましたので、こちらも早々に寝ころび、直ぐの熟睡でした。

朝の車窓を見ると、武广高鐡線にも増しての、一面の菜の花畑の中を走行しています。これでもかと、続き、今回の中国鉄路乗車中、1番綺麗でした。ただ、太陽は見えません。四川省で、太陽が見えて青空が広がる事は稀(マレ)です。

▲ 11:29 翌日、成都駅には珍しく定刻ぴったりに到着しました。ここでも列車待ちの乗客で、駅前広場は大混雑です。武昌駅と同様にテント村も設置されていて、進むにも大変です。

出口には、シムズホステルの小姐が迎えに来てくれていました。一緒にタクシー乗り場で並んで待つと、乗車後は次のお客さんを待ちますと言って、タクシーに行先を告げてくれました。タクシー代の15元は、宿泊代の180元から引いてくれました。

▲ 世界中のバックパッカーに大人気のシムズホステル。アジアティックな庭園もあります。
このホステルには、たくさんの若い欧米人が宿泊していました。さすが、ここに泊るのを目的に来る人がいると言わしめるだけのキャパがあります。YHですので、ドミトリーの部屋が多いですが、私が泊まったような大きなベットの、広い個室もあります。皆様方も若い頃に戻って、こんなホステルに泊ってみられては、いかがでしょうか。芭石鉄道へ行くには、丁度良いロケーションにあります。

部屋から、インターネットがつながらなかったので、日本人スタッフを呼んで調べてもらいましたら、途中で断線していたようです。工事が終わるまで、芭石鉄道へのバスターミナルへの行き方や、どうしてこんなところで働いているのかを聞きましたら、大連に留学後、英語の勉強も兼ねて来てみたという富山出身の男性でしたので、富山地鉄の事やらで、話が弾みました。

夜は、早めに近くのC級グルメ屋で、汗を拭きながら、四川料理を楽しみました。
温度ですが、広州では、30度の夏。ここでは、日本の京都と同様でした。
 Part4 へ続く

成田新幹線のなれの果て

7月17日の開業に向け、成田新高速鉄道で新型スカイライナーの試運転が始まりました。

3月14日には、空港第二ビル~印西牧の原間で三往復、初めての160キロ運転での試運転が開始されました。

ご存知の方も多いと思いますが、新鎌ヶ谷から成田空港間は、成田新幹線のために用意された線路敷を利用し、北総鉄道・千葉ニュータウン鉄道・成田新高速鉄道が建設されています。

建設中止から三十数年の時を経て、成田新幹線の計画が実現します。

塗装も相まってなんとなく、新幹線の様に思えてくるのは、私だけでしょうか?

工房便り D50の制作(1)

バラ��ットの外箱。値��は3950円!下の写真集はいつも参考にする小寺康��さんの「蒸気機関車の角度」

今朝も工房は稼働を始めました。このところ、工事中のSLが幅を利かせている工房ですが、今回から数回に分けてD50をご紹介します。
以前、この掲示板に「天然色写真で巡る40年前の九州」と題する総本家 青信号特派員さんの書込みに関連して、未着手のD50バラキットを組み立てるためのモデルとなる門鉄デフの参考写真をお願いしたところ、いくつかの機番の写真を見つけていただきました。そのうち129号機が門鉄デフの標準的な姿で、変わった改造もなく最も好ましいスタイルでした。偶然にもキットに入っていた3種類のナンバープレートの中に129があり、この写真の姿を参考にしながらD50129として制作を進めることとしたわけです。
宮沢模型のバラキット
この製品は1970年代初頭に宮沢模型がC54、D50を発売し、組立済みキットの他に私が入手したバラキット(上回りのみ、足回り無し)が発売されたと記憶しています。同時に別売パーツとして主台枠(ダイカスト製)、動輪、サイドロッドが入手出来、箱に入れていました。以来約40年を経過することになりましたが、形の気に入らなかった煙突をはじめとする細々としたパーツ類は良いものを店頭で見つけるたびに購入していたようで、今回それらを全て生かすことが出来ました。
サンドドーム
D50と言えばサンドドームの形状が、汽車会社製は角ばっているというのがD50を語る上で欠かせない話ですね。129号機は旧形式9900型の19928号機として竣功、川崎製です。ところがキットに入っているのは明らかに汽車会社製をモデルにしているようです。悩んだ末、木型を製作してタタキ戻すという改造を施したのですが、当初これで良いと思ったものの、写真を見ているうちに高さが高すぎることが分かり、約1mmスライスして高さを下げる手戻り工事を2度も行う前例のない難工事となりました。かなり組立が進行してからでしたが、何とか雰囲気を出せたかなと思っています。(その写真は後日) 

 

どう見ても汽車会社製?

どう見ても汽車会社製?

木型

 

タタ��戻しました

タタキ戻しましたが後日スライスして高さを低くする難工事となりました

上回りの組立と下回り
ボイラー、キャブは曲げ済みで各パーツとも寸法精度が比較的良く、特に難しいところはありません。煙突は引き物をボイラーに沿わせてプレスした製品が附属していましたが、形が綺麗でないため、見つけて購入しておいたロストワックス製を取り付けました。ボイラーサイドのハンドレールノブもこの時点で取り付けておきます。このあと、ボイラーとキャブ、ランボード・・・と大体の形になって行く過程ではそれぞれ傾きや高さ寸法を確定させる必要があります。そのため、この段階で一旦下回りの工作に移ることにしました。(つづく)

  

 

��ャブ

キャブ

 

煙突は別売の��ストワックス製

煙突は別売のロストワックス製

 

管理者様へ

このページの右側に縦に並ぶメニューのはるか下方にある「クイックリンク」が切れています。至急つないでください。

写真でつづる京阪電車開業100年展

南国土佐から桜のたよりが届いた3月10日は箕面有馬電気軌道の開業100年記念日。その年1910年は引き続き15日に兵庫電気軌道、25日は嵐山電車軌道、月が変わって4月5日は神戸電気鉄道、そして15日は京阪電気鉄道が開業した。この100年前は”撮り鉄”はまだ存在していなかったようで、”乗り鉄”の動勢を当時の新聞は伝えていた。

DRFCクローバー会は、鉄道ピクトリアルを通じ因縁浅からぬ京阪電車開業100年を記念して、会員及び会友撮影と会社提供の写真25枚で100年の歴史を紹介する。会場は京阪電車七条駅下車東へ2分、コンビニ・ファミリーマート2階、”集酉楽”。会期は2010年4月1日~30日、10時~18時の間。ただし、月曜日は休み。入場無料。飲食物は有料。

4月24日(土)18時から例会を”集酉楽”で行う。今回のテーマは【レイル掲載のC6120(奥山会員)、京阪特急物語(澤村会員)の祝賀会】、間に合えば【鉄道図書刊行会:日本の客車の再販(佐竹会員)】と大盛りです。会費は3000円、申し込み受け付けは先着24人まで。FAXは075(315)7801(4月22日まで)、電話は090(3654)8224:沖中まで。入学年度と氏名を正確に告げてください。席上、今夏発売予定の鉄道ピクトリアル特集”阪急電鉄”・グラフコーナーへ参加希望者を募集します。そしてテーマについて提案行います。また、11月7日(日)ホームカミングディの内容について幹事会+加太会から提案を行います。以上、今年も多彩な行事がてんこ盛りのクローバー会となりますが、ご協力お願いします。

またまた米手氏の誘いに乗る

米手作市氏ご幼年のみぎりのご撮影になるDF411の写真が出た。まだ反応がないので、致し方なく?その実ニコニコと老人が誘いに乗ることにした。こんな大型ディーゼル機関車は全く老人の趣味の対象外だが、まあ試運転だと聞いて、DRFCメンバーに付き合って京都駅まで出かけた。最後までさしたる興味も湧かなかった。撮影は1959年5月30日である。

いずれ詳しい方からの解説があるだろうから、アウトラインだけを。汽車会社1958年の作品で、国鉄では当初DF411、のち試作車は90台ということでDF921に改番した。機関はバーマイスタB&WDE1222VL形2サイクル、1,320PS電気式で、当時国鉄ではDF50、DD13を導入していたから、借り入れて(義理で?)使用したものの、1962年には返却してしまった。こんな大きな機関車は国鉄以外に買手がある訳ないから、結局は解体されたんじゃないか。

妻面窓下中央に小さな扉があり、乗務員が次位の客車に貫通?できるのが珍しかった。SGも積んでおり、福知山区に配属され、山陰本線で客貨に使われたが、大体国鉄は自前設計以外の車両には毛嫌いというか、極めて冷たい傾向が顕著である。

2010年 早春の中国一人旅 Part2 武广高鐡線初乗車

第2日目 2010年3月3日

① ホテル8:10-(地鉄・バス)→9:25広州南駅
② 広州南駅10:20-(G1036)→14:15武漢駅
③ 武漢駅-(Taxi)→ホテル

昨日、武广高鐡广州北駅、南駅とも、在来線の遠方駅で乗車する切符を売っていませんでした。中国鉄路主要駅では、全国の乗車切符を購入する事ができますが、できない駅もあります。武广高鐡新駅では、まだ対応できていないようです。仕方がないので、窓口に長蛇の列が続く昼間は避けて、夜に在来線の広州東駅へ行きました。

空いているかと思いきや、学生集団が列をなしていました。しかし、グループが多く、切符を買うのは、その内の数名で、約15分で、窓口に着けました。
武漢駅から先の予定は、今年2月6日開業した、第3の中国版新幹線、鄭西高速鉄道の初乗車です。武漢駅から始発終点駅の郑州駅へは、約4時間で向かう在来線CRHが走っています。

武漢には、他に武昌駅、武口駅と、3つの大きな乗車駅がありますので、CRH列車の空席を聞きましたが、全部満席です。時間帯があう他の列車も満席です。やはり、春節時の切符確保は、難しいです。
急遽、予定を変更。芭石鉄道へ先に行く事にして、インターネットで残席を確認できていた成都までの特快夜行寝台を購入しました。その後の予定は、後で考える事にしました。


▲ 多分、中国鉄路駅では、一番広大な駅です。ホームも多ければコンコースも広い!空港と変わらないスケールです。その代り、市内からは、遠い、遠い!

広州の朝は、飲茶で始まります。ホテル近くの食堂で、飲茶を堪能した後、昨日の逆コースで広州南駅に向かいました。地下鉄は編成車両が少ない事もあって、乗車率250%以上です。1号線から3号線と乗り換えて、漢渓長隆駅に着きました。ここで、地上に上がって、バスで広州南駅に向かいます。直ぐにバスは来ましたが、スムーズに行っても、ホテルからは、約1時間半は、かかります。

既に改札が始まっていましたので、急いで乗り込みました。期待した『はやて』のCRH2C型8両×2本の16両編成です。時速350km/h連続走行は、どんな具合かと期待しました。
ところが、発車時間を過ぎても一向に動きません。約20分後、ようやく車内アナウスがありましたが、全く分かりません。周りの乗客が立ち始めたので、おかしいなと思ったら、隣の席の中国人が、『換乗=乗り換え』と教えてくれました。

どうやら故障で、発車できなかったようです。川重さん、技術供与が上手くできていないようですよ。
他の乗客の後をついて、隣のホームに移動です。降りるのは、長いエスカレーターを乗車する時とは違って逆に下へ動かしてくれましたが、隣のホームへ行こうとすると、列車乗務員が下方向に荷物を降ろしていて、上りエスカは使えません。
たくさんの乗客が迷惑をしているのに、気を使おうとは一切しません。こんなところが、まだまだ、当然の事が出来ない発展途上国と言えます。重い荷物を持って、途中休憩しながら、長い階段を、上がりました。

乗車変更するのは、後に発車する定期列車、CRH3の8両×2の16両編成です。先ほどと同じ後方の、1等車に乗車しましたら、当然この列車の切符を持っている乗客が座っています。これは、困ったと乗務員に聞きますと、前の編成に行けと言います。中国鉄路では、切符を購入する際に、車両番号や席を指定できません。単純に、1両目の1番から順に売っていきます。

どうやら、アクセスも悪く、飛行機よりも料金が高く、故障が多いとの不評は本当だったようです。おかげで、半分も売れていなかったのですね。春節のこの時期で、ガラガラなら、普通の日は、もっとすごいでしょうね。多分、早々に、料金を下げたり、在来線を走る列車を間引きしたりして、乗せる作戦に出るでしょう。
▲ 始発駅からの1等車の乗客は、半分以下でした。そして、ご覧のように、2等車同様に窓とシートは、合っていませんので、丁度良い席に変わりました

発車して、しばらくすると、もう350km/h走行になりました。乗り心地は、どうかと言うと、気のせいかもしれませんが、京津城際鉄路の方が、揺れが少なく感じました。微妙にガタガタします。


沿線は、菜の花が満開で、殆ど山間を走行しますので、とても綺麗です。全線が、在来線とは違って、街中を走っていません。また、トンネルは、山陽新幹線並みに多くありますが、以外は、高架橋の連続で、日本のように高い防音壁がありませんので、車窓は抜群です。堪能できます。

途中で、マンゴウやお菓子の入った箱が配られました。トラブルがあった今日だけかもしれませんが、ジュース、コーヒー類も無料で、何度も注文できました。列車乗務員の服装やサービスは、よく教育できていて、好感が持てました。
▲ 食堂車で購入した昼ご飯です。お粥が5元、焼きそばが、15元で20元(約280円)。電子レンジで、チンでは美味しくありません。
▲ 14:15 G1036列車は、運休なったG1034列車が停車する駅に臨時停車したために、8分遅れで、武漢駅に到着しました。武漢まで乗車した1等車客は、私一人でした。

▲ CRH2Cも頑張っています。途中駅や武漢駅では、無事走行している姿が見えました。

武漢駅も新しく建造された立派な駅で、島式ホーム8本、片面ホーム2本、並行に18線が発着できるようになっていましたが、今は、中央部分のみの使用です。この鉄路は、郑州を通り北京までの延伸工事中です。
▲ 広州南駅と同様に、建設途上の武漢駅ですが、完成度は、こちらが早いようです。  

あと数年で、北京から香港までが、一直線に結ばれます。 Part3 へ続く

おしえて!なんでも探偵団5

これまた怪しげなDLです。

子供の頃の遊び場は京都駅山陰線ホームと梅小路機関区でした。学校から帰ると捨てられた不良フィルムをカメラに詰めていそいそと出かけていったものです。そこで来たもの、見たものを手当たり次第に撮るだけのことですがたまにはこんな珍品もかかることがありました。

DF411で、色は焦げ茶とオレンジという派手な、というか奇妙な色遣いだと感じたことを覚えています。さてこのDLはなんでしょうか?だれか教えて!

※霧が深い冬の日でかすんでいますがお許し下さい。

2010年 早春の中国一人旅 Part1 武广高鐡線へ

第1日目 2010年3月2日

①長岡京6:40(JR快速)→大阪・梅田(地下鉄)→なんば7:30(ラピート)→8:11関空
②関空
9:55(JAL)→13:35広州空港
③広州空港(Taxi)→14:35広州北駅16:12(武广高鐡)→16:35広州南駅

冬季オリンピックも終盤になり、ロミオ君のお送りも済みますと、そろそろ『旅へ行きたろう虫』が、騒ぎ出します。2月中に有効な、北京行きの無料航空券があったのですが、日頃の行いが悪いのか、当日朝まで待っても席が取れずあえなく、くず箱行きとなりました。
JAL便が満席で、当日もキャンセルがないなんて、こんな事は、初めてです。これが、始終続いていたら、破綻もなかったでしょうが・・・。

今年の春節は、2月14日でした。どうやら、春節休暇で帰国した駐在員や家族、訪日中国人団体客の帰国ラッシュと、ぶつかってしまったようです。
めげずに、直ぐに新たなマイレージ航空券を手配して、出発できる日を待ちました。3月2日のキャンセル待ちは、直ぐにOKの電話連絡がきました。
目指すは、芭石鉄道の撮影リベンジと、春節に向けて立て続けに開業した、中国版新幹線の武广高鐡鄭西高速鉄道の初乗車です。このため、着陸地は、最も近い広州としました。 続きを読む

お譲りします。

娘の友人からなにか怪しげなモノが届きました。

開けてみたら、コレ。電流計のようです。彼は鉄道ファンなのです。どこかで買ったのでしょう。でも飽きたのか持ち込んできたのだと思います。

でも私はコレクターではありませんので不要です。かといって捨てるのは失礼ですし鉄道機器を捨てるのには気が引けます。

そこでこれを見て「ほしい」と思われる方がいれば差し上げます。大事にしてください。

でもこれはなにに使っていたのでしょうね?教えてください。

鷹取工場のBタンク機

米手作市氏の誘いにすぐ乗って(こんな世捨て人暮らしでも結構忙しいのに、急ぎの仕事をほったらかして)、ネガを探し、スキャンし、「縮小専科」でファイルを小さくしている間に、「ほへほへ」氏のレスポンスがあって先を越されてしまった。二番煎じになるが、小生の1955年7月15日鷹取工場での写真をご笑覧に供する。

将来電化する積りでの社名で、1916年7月1日撫養(むや)-古川間を阿波電気軌道が開業。1923年池谷-加冶屋原、1928年ゑびす前-撫養と開業を続け、1926年5月10日には阿波鉄道と改称していた。1933年7月1日買収され阿波線に。その後撫養線、鳴門線と名称を変え、国鉄自体の建設線が加わるなど、この地区の時代による変遷は結構ややこしいが、その阿波鉄道7号機(コッペル1921年9月、製番9752)が前身である。

私鉄買収機には軸配置、重量・寸法等で数字の形式が与えられるのだが、頭に「ア」を付した不思議な形式番号が付された。この阿波7号機はア4となったが、元来12トン弱と軽便並みの小型機で、国鉄としてはこんな半端な小型機など眼中になく、線路がC12入線に耐えられるよう改修されるまでは仕方なく(嫌々)使った。

今村 潔「買収せる阿南鉄道」(鉄道趣味35号)には、阿波鉄道買収機には当初通常の形式番号を与える予定で、この機関車は80を予定していたことが記されている。数字が小さいことは即小型であることを示す。要はすぐ廃棄するつもりだったのであろう。

その後岡山機関庫で6検入換(6か月検査のため火を落とした機関車の移動)用に。我々の時代でも、奈良機関区には同じ役目でB20がおり、その以前は60型だった。

1936年5月廃車され、解体もされず鷹取工場構内で忘れ去られていた?が、同工場技能者養成所が教材として養成員の手で整備。新たにキャブやサイドタンクを新製して「若鷹号」と命名したものである。米手氏が不思議に思った、小さいが一人前、鳥の羽根型プレートには「鷹養」と鋳込んであり、サイドタンクには「鷹養実習機」のレタリングがある。

戦時中には復活してどこかで使う話もあったそうだが、結局は安治川口用品庫での入換ぐらいしか用途がなく、また鷹取に戻って放置を続けていたものである。

おしえて!なんでも探偵団4

謎の機関車は右端

謎の機関車は右端

 

古い写真の整理を続けているが不思議なものが写っていることに気づいた。

 時は1961年11月20日、場所は鷹取工場。母方の郷里へ往復するときにいつも車窓から眺めていた鷹取工場は不思議の国だった。いつも違った機関車や電車が並んでいたがどれも見たことがないものばかりだった。しかし列車は早く通過するためいつか見に行きたいとの思いが募るばかり。でも、その頃大阪より西は降りたことのない未開の土地で、言葉すら通じるのか不安であった。中学に入ってそこが神戸市の一角とわかり、もはや人食い土人の餌食になったり子捕りにさらわれることはないと確信したので出かけることにしたのだ。今なら大事になって夕方の6チャンネルで放送されるだろうが当時は鷹揚なもの、ホームから線路を横切って列車から見ていた金網に近づいた。早速おそるおそるカメラで撮った写真がこれからご覧に入れる数枚。

ED38とつながっている廃車蒸機がそれだ。233または238と読めるB6の後ろ、須磨の大老お得意の機関車ではないかと思われるがどうも鉄連の徽章がついているように見える。ぜひともご解説をお願いいたします。

お礼の印にそのとき撮った写真を添付します。

橋本工房便り(B6の完成)

冬の間も当工房では細々と作業が続けられ、長くかかったB6(2120型)がようやく完成しました。この模型は昔、鉄道模型社が発売していたエッチング板を利用したもので、ボイラー・車体はエッチング板、動輪・ロッド類・スチームドームはSANGOの製品を使用、台枠他を自作したものです。B6との付き合いは学生時代、宮沢模型製の2900型を手に入れたのが最初で、2両目として今回と同じ手法で2700型を作っていましたが、いずれも改造形式なので、オリジナルのB6が欲しくなり「3両目の正直」と思って作り始めたものです。しかし仕事についてからは思うように作業が進まず、長い眠りに就いていました。例によって未塗装ですが奮闘の跡をご覧下さい。

駆動方法は縦型モーター(DV18A)をキャブ内に入れ、第3動輪に入れたウオームギヤーを駆動する、この種の機関車としては一般的な方式です。狭軌車両を16番で作るとき、特に蒸機はシリンダの内側に動輪が入るため、シリンダ中心間隔を広げて作る必要があります。このために車体幅にまでその影響が及び、フロントビューの印象が実物とずいぶん違ってしまうのが残念なところです。

機番の2312号機ですが、学生時代にマツモト模型で貰った形式入りナンバーが綺麗に出来ていたので使用しただけで、当該機に拘りがあるわけではありません。須磨の大老のお言葉を借りればそれこそ「掃いて捨てるほど」あった機関車なので、滅多に写真集なんかに載ってはいないだろうとタカをくくっていたら、見事、NEKOのRM LIBRARY 「B6回顧録」の表紙に写っていました。

工房便り、次回はいよいよD50の登場です。