いよいよ、今週末の26(土)に、宇都宮ライトレールが開業します。DRFCでの一番乗りは、どなたでしょうか。乗車報告を楽しみにしています。https://www.miyarail.co.jp/
今回は、宇都宮ライトレールの駅名を皆様に予習していただきましょう。
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大阪を記録する④ 大阪市電
大阪市電は、万博を前にした昭和44年3月に全廃、政令指定都市としては初めての廃止でした。私としては、“早く生まれていたら”の類いで、ごく僅かの写真しか撮れていません。大阪市内で生まれ育った通信員さんは、さすがに御堂筋を走る市電や、市電ではメインの堺筋線、上町線など、中心部の写真を撮っておられます。大阪市電をテーマにした書籍を編集した時は、大阪通信員さんのモノクロ写真も活用させていただいて作ることができました。大阪市電は、カラーで見るように“あずき色”で、阪急のマルーンより赤っぽい“溜色”でした。明治36年に開業した時、すでにこの色でしたが、これは御召の御料車と同じ色であることを、政府が気づき、畏れ多いことと、すでに認可済みの大阪市を除いて、以後は他都市が同種の色を使うことを禁じたと言います。逆に大阪市電は既得権にこだわり、最期まで、この色を守り通したと言われています。
△ 大阪市電は御堂筋も走っていた。と言っても、大阪駅前から淀屋橋までの間だけで、淀屋橋で東へ、北浜二丁目から堺筋を南下する堺筋線の一部を形成していた。大阪市庁の前から西を向いての撮影で、市庁舎は、現在のものではなく、旧のルネサンス様式の建築、背後は日本銀行大阪支店。今回は、対比可能なところは、ストリートビューの現況写真との対比を試みた。大阪中心部の街並みはすっかり変わってしまったが、保存の日銀大阪支店だけは、きれいに補修されて市電時代と同じ光景を見せている。(昭和41年6月)。
中国新聞ネタで恐縮ですが、まずは連載記事の完結編から。留萌線は北海道新聞と、米坂線は山形新聞社との連携記事でしたが、最終回は共同通信社との連携でした。
結局のところ、ローカル線問題はJR各社と地方自治体がお互いの言い分を投げかけるだけで、国の態度も成り行き任せ的。自然災害で不通区間が出来ると、それに乗じて路線短縮、あるいは廃止に向かうという傾向が見えはじめ、そうこうしているうちに人口減少に歯止めはかからず、なし崩し的に廃止やむなしという空気が醸成されてゆくようです。バスに置き換えると言っても、地方のバス会社は運転手の確保が難しく、先のコロナ蔓延期には運転手のやりくりがつかず、運休する事態もありました。災害への備えでよく言われるのが「自助」「共助」「公助」ですが、結局地方の交通問題でも「公助」に期待しても無理で、「共助」更には「自助」で対応せざるを得なくなるのかもしれません。
さて同じ8月17日付けの紙面に広電の記事が載りましたので、掲載します。
広島電鉄の歴史をさかのぼると、「広島瓦斯電軌」という時代があり、その当時の車両(156号)が動態保存されているという記事です。156号は江波車庫の奥に留置されているのを望遠撮影したことはありますが、かつて広島駅前で撮っていた159号を貼っておきます。昭和44年8月猛暑の中を KAWANAKA氏と呉線にC62を追いかけたときの撮影です。
新聞記事の中に「広電社内の保育所」が出てきますが、千田車庫近くにある「広電まめっこ保育園」のことでしょう。2階に652号を模した展望デッキがあるのが特徴です。
やっぱり!というか、なるほど!というか、コメントを下さる方は古いことに精通している方々です。
昭和30年代に入ると「もはや戦後ではない」と経済白書が言うまでもなく、戦後復旧が一段落して、そこから新たな開発が始まります。鉄道でも新型の強力電機の開発と、蒸機に代わるDLの開発です。
次は蒸機を駆逐する新型DLです。
暑くて投稿が進まないが久しぶりの「お城と電車」である。残存天守のお城には鉄道を入れて撮れるのがなかなかないのが悩みである。今回の犬山城はNHK大河ドラマ「どうする家康」の舞台となった木曽川河畔にある風光明媚な国宝の城である。犬山城は天文6(1537)年に創築された美濃金山城の移築説もあり同年信長の叔父信康が築城したとも言われているがはっきりしていない。本能寺の変以降は秀吉対家康・信雄連合の小牧・長久手の戦いを経て、世の中は徐々に家康が優勢となっていった。この間、家康が名古屋城を築くまでは犬山城の軍事的な位置づけは大きかった。一方、犬山城は成瀬家個人の所有で有名であった。元和3(1617)年に成瀬正成が城主となり以降9代の長きに渡り城地を守り続け明治を迎えた。濃尾大地震では天守以外は倒壊したが、旧城主の成瀬家の努力で保存された。1981.1.21のカラー写真の保存状態がよくなくこれ1枚が一番マシであるので掲載させていただく。▼
2009.3.7にDRFC-OB会の会合が犬山で開催されたが、翌日は明治村の古典蒸機、N電、蒸気動車それに古い建造物を見学した。行事終了後、名鉄犬山線と並行して走るJR高山本線を撮影した。その中に名鉄5402~5302の新岐阜発犬山行きを撮った写真があるが遠くの山の上にかろうじて犬山城が見える。5300系は5700系と同様にパノラマカーなき後にも残っていた2ドアクロスの車両で5700系が新造車であるのに対し、5300系は5000系や5200系からの機器流用車である。▼
ちょっと高くつくんですが「写ルンです」で写すのは面白い。現像ができあがってみないとちゃんと写っているかわからない。そして当たり前だが、ズームはない。フラシュはあるが、私は使わないことにしている。暗くてもそのままシャッターを押す。「写ルンです」は焦点距離32mm、レンズのf値は10、シャッタースピードは1/140sでレンズはプラスチック製。写真を撮るにはかなり制約されるが、この制約条件の中でどのように撮るのか。これも楽しみの一つである。
なんでも取っておく習慣があるのは戌年のセイか?と思われますが、本を整理していると思わぬものが出てきました。
「模型とラジオ」という雑誌を覚えておられますか?中学生の頃に毎月買って読みふけっていました。その昭和36年4月号に1/80の青写真が付いていたのです。当時としては話題の新型機関車ばかりです。べつに珍しくもないワイ!と言われるのを覚悟の上で夏枯れの紙面を賑わせたいと考えました。
△ 大阪名物、スモッグが煙るなか、C57牽引、茶色の客車を連ねた急行「大和」が、関西本線の終点、湊町に到着する。B寝台(ロネ)2両の白帯が茶色に映える。
お盆のこの時期、台風の襲来もあって、一歩も外へ出ることなく、家に籠っていました。デジ青投稿に絶好のチャンスと意気込むのですが、気力の低下だけでなく、持ちネタの乏しさもあって投稿が続きません。先の投稿では、準特急さんから「あと数年早く生まれてきたら」論についてコメントがあり、「あのシーンを撮っていたらデジ青に載せられたのに」という思いもあります。私は「そんな言い訳したらアカン」と強がりを言ったようですが、心の中では七十数年生きて来た人間にも、その悔いが残ります。
そんな時、大阪通信員さんから朗報がもたらされました。大阪通信員さんは、私より7歳年上で、まさに「あと少し早く生まれてきたら」の写真を多数カラーで撮影されています。一部は昨年6月に行いました上映会でもご覧いただき、私も感嘆しながら進行をしていました。貴重な写真を一度だけの上映会で終わらせるのは、大変忍びなく、広く公開したいと思っていたところ、大阪通信員さんから、ぜひデジ青で公開してくださいと嬉しい返事がありました。快諾いただいた大阪通信員さんには厚く御礼申し上げます。
デジ青誌上では、米手さんが、投稿に困っているデジタル難民の記事・写真を代理投稿する老老介護も続いています。米手さんだけに介護を一任するのではなく、私も介護者として名乗りを上げた次第です。預かった写真は多数ありますが、まずは上映会の作品から見ていただきましょう。解説は最小限に留めて、皆さんからのコメントお願いいたします。
整理中のネタがいくつかあるのですが、今回は間合い運用ということで、特急「はるか」です。「はるか」という列車は、関西空港と大阪、京都、遠くは滋賀県の野洲間を乗り換えなしで移動できるのが素晴らしいですね。この点は南海「ラピート」より優位です。
ホームライナー的な役割も担う「はるか」に今回は注目しましょう。
追記:「はるか」の話題から少し外れますが、たまたまこんな記事がありました。

7月30日(日)
朝、中壢駅まで歩く。駅前はMRTの工事中であった。MRTが中壢まで延びれば桃園空港に近い在来線の駅まで直結するのでもっと便利になる筈である。中壢駅でTRパス3日券を6,000元(約8100円)で購入する。今回は乗車の比重も高いので元は取れるに違いない。
莒光510次 斗六進入 新しい自動ドア車とはいえ客車列車の魅力は十分
7月29日(土)東京の1日
なかなか東京へ行く機会はない。出張もなくなった。大阪から東京は運賃が高く、夜行快速ムーンライトながら無き今、安く行こうとすると高速バスの青春ドリーム号か青春18切符発売時期の鈍行乗り継ぎであるが、気力体力乏しい身にはどちらもこたえる。そこで、今回、東京乗り継ぎをむしろ積極的に活用し、伊丹からは朝の羽田行きを選び、夕方の成田発桃園行きまで東京の電車を楽しむことにした。

京急1500型 京急川崎 昭和60年が製造初年とまだまだ新しいのだが、もう廃車が始まった。関西なら昭和40年代の車が珍しくないのだが。この1500型、昭和の終わりから平成への移り変わりを体現するように、制御方式が界磁チョッパから途中でVVVFインバータに変わった。なかなか好ましいスタイルと思うが如何?
中国新聞には「鉄路のあす」というシリーズが断続的に連載されています。勿論広島県を中心に中国地方の話題がメインですが、8月15日の朝刊には「留萌線」の記事が載りました。北海道新聞との連携のようです。
3年ぶりの台湾である。前回、2020年1月の台湾行では、コロナ禍により3年にも渡って渡航が出来ず、しかも今だ新型コロナウイルスを駆逐する特効薬もないことは想定しえなかった。とにもかくにも、大手を振ってどこにでも行ける状態になった。
日本に外国人がやってくるインバウンド、これは見ての通りの勢いがあり、中国大陸からの団体客もまもなく解禁されるそうで訪日客は復活するであろう。ところが日本人の出国には、コロナ禍があったにせよ勢いがないのではないか。
変わらず活躍する台湾鉄路局のTEMU2000型、プユマ号 2023年7月30日 斗六
台風の影響で、無敵の近鉄さんも運転見合わせの可能性があります。今回の台風はなかなか猛烈です。皆様におかれましてはどうぞお気をつけください。
一方で、お盆中でありながらデジ青は通常運転で嬉しく思います。デジ青はクローバー会の「宝」です。ということで、若干こじつけではありますが今回は「宝」を含む駅名を取り上げてみました。
2007年8月17日 阪急桂川鉄橋へ
暑い昼間は避けて、夕方あたりから急に写しに行きたい衝動に駆られたことがありました。最近は、さすがにその気力も湧いて来ませんが、空の様子を見て、きれいな夕陽になると確信すると、16時ごろ、カメラ一台を持って出かけました。前の居住地の場合は、そんな時、阪急桂川鉄橋へよく行ったものです。家から30分余りで到着できました。鉄橋上では太陽が編成全体に当たり、河原に下りると、角度は難しいものの、夕陽バックのシルエットも撮ることができました。
▲桂川鉄橋の下り方に、歩行者・自転車専用の踏切があり、身を乗り出すと下り電車が撮れる。この時期、特急は、6300系、9300系が並存していて、前パン唯一の6330編成もまだ健在だった。
今年の夏の高校野球は、地方大会から目が離せませんでした。ニュースを観ていると、1点差ゲームの決勝戦が多かった印象を受けましたので、実際に確かめてみると全49試合の決勝戦のうち約半分の25試合が1点差の接戦でした。
(ちなみに、2点差が4試合、3点差が7試合、4点差が13試合、延長戦が6試合、サヨナラ試合が11試合でした。)
そんな決勝戦が行われた舞台に今回は注目しました。
2006年9月29日 YS-11(2) 最後の搭乗へ
▲40年以上飛び続けて来たYS-11も、2006年9月30日限りで民間航空から撤退することになった。その前の日、YS-11の書籍編集中の私は、編集長とともに、取材名目でYS-11の記念フライトに向かった。まず徳島空港へ、空港の反対側に回って待つが、機材トラブルでなかなか到着せず、やっと30分遅れで、福岡発徳島行き3563便の着陸をとらえることができた。
2000年代に入って、YS-11の命運を決定づける航空法が改正されます。旅客機への航空機衝突防止装置(TCAS)の義務付けでした。YS-11の場合、多額の改造費用だけでなく、狭いコクピットに装置の取付けが困難な問題も発生、この時点で国内運航のYS-11は、エアーニッポン(ANK)、日本エアーコミューター(JAC)の2社、TCAS取付けに当たり、ANKは運航を断念し、2003年、最後の新千歳・女満別線
から撤退しました。一方、12機保有のJACは、路線網も広範囲にわたり、後継機へ移行ができない事情もあり、航空法施行の例外規定の適用を受け、しばらく運航を継続しましたが、後継のボンバルディア機が増備されて、最後は鹿児島-福岡(2往復)、福岡-徳島(1)、福岡-高知(2)、福岡-松山(1)の4路線、機体も、JA8717、8763、8766、8768の4機になっていました。▲初めての徳島空港、徳島行き高速バスの松茂バス停からはタクシーですぐだった。