市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑪

竹田久保町

かつての停留場名は「練兵場前」で、付近には、陸軍第16師団の京都練兵場がありました。陸軍の施設が密集し、軍都として伏見の街の別の側面を見せていました。近くの龍谷大学や京都府警察学校も、戦後に陸軍跡地にできました。市電時代にも付近には公共施設も多く、乗降の多い停留場でした。

【竹田久保町 定点対比】 

竹田久保町の交差点から南方向を見る。東側(左)では、竹田街道の拡幅工事が進んでおり、伏見線の廃止後には、現在見られる、片側2車線、歩道付きの道路に生まれ変わる。右は現在の様子、街並みはすっかり変わってしまった。西へ行くと、地下鉄くいな橋駅があり、通行も多い。東側には龍谷大学のキャンパスがあり、学生相手のファストフード店が並んでいる。

竹田久保町交差点、南から北を見る。竹田久保町~竹田出橋を行く。西側には家並みが見られなかった。

 

MEMO 京電旧ルートを地図で対比

前記のように、この付近の伏見線は、明治期、高瀬川に沿った曲がりくねったルートを走っていた。明治45年に新しい竹田街道ができて、京電も移設された。その前後の様子を、市街地図から対比してみる。

明治44年(左)と大正9年発行の市街地図。高瀬川沿いの屈曲したルートだった京電・竹田街道が、一直線の新しい道路に移設されたことが読み取れる。東側は、陸軍関係の用地が広がっていた。

 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑪」への1件のフィードバック

  1. 京電の旧ルートで補足します。現在の竹田久保町の交差点を過ぎて、まもなく高瀬川を斜めに渡ります。と言っても、小さな川に広い道路ですから、ほとんど気づきませんが、そのあと、西側に斜めに入る細い道路があり、これが、京電も走っていた旧竹田街道です。乙訓老人さんは、伏見線の廃止前後に、大西友三郎さんに教えてもらって、この旧ルートを探索されたそうです。そのときは、痕跡はないものの、じゅうぶんに廃線跡の雰囲気を持っていたと聞きました。

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