門司機関区
九州の蒸機を始めようとすると、初回は「門司」しかないでしょう。昭和42(1967)年3月、17歳の高校2年生、関門トンネルを抜けて、初めての九州、門司への第一歩を印しました。青い空から陽光が降り注ぎ、本州とは違う空気感を感じた思いでした。門司機関区は、当時走っていた西鉄北九州市内線に沿って、延々と小倉方面に歩いたところにありました。付近には、機関区だけでなく、客貨車区、操車場が入り交じり、彼方まで線路で埋め尽くされ、煙が渦巻いていました。
昭和42(1967)年時点で配置量数は53両で、九州最大の蒸機配置区でしたが、9600、C11、D51と、当時では当たり前の形式ばかりでした。周辺の鹿児島・日豊本線は電化されていて、旅客列車はおもに421系電車になっていましたが、未電化の筑豊本線、日豊本線新田原以遠へ向かう旅客・貨物は、蒸機牽引のままで残っていて、そのため、他区からやって来る蒸機も多くが出入りしていました。九州の「門」に相当する、いわば「九州ゲートウェイ」のようなところで、「門」の区名板がズバリ似合っていました。
▲「門」の9600と門司駅舎(以下、特記以外は昭和42年3月)
▲付近は電化区間に囲まれていたが、非電化区間から乗り入れてくる他区の蒸機で賑わいを見せていた。D50231〔直〕D50129〔柳〕
門司の蒸機を有名にしたのは、昭和30年代後半、寝台特急「あさかぜ」「さくら」「はやぶさ」「みずほ」をC59を牽いていた時代だった。当時は、門司港にも機関区があって、C59は門司港の所属だったが、数キロしか離れていない2ヵ所の機関区があったことは、門司の隆盛ぶりを伝えている。寝台特急の場合、博多で蒸機の交代があり、その折返し運用に備えて、デフの裏側に折返し用の別のヘッドマークを忍ばせていたのは有名な話だった。
現在でも、JR貨物の門司区が、50年前と同じ位置に所在している。先月、非常事態宣言の出る直前、その横を電車で通ると、建屋に大きく「門司機関区」の表示が見えた。九州の鉄道の要衝として、門司の矜持はまだ健在のようだった。
9600 15両が配置され、おもに黒崎からの短絡線を経由して筑豊本線での石炭列車の牽引のほか、付近の入換用にも多数使用されていた。
▲69667 大型の給炭台の前で佇む。デフなし、化粧煙突の典型的な九州のキュウロクだった。▲筑豊本線の4線区間を、ホッパー車を連ねて行く39620(昭和44年3月)
▲北九州の市街地に並行する山地を背に入換に励む59607 ▲▲パイプ煙突の79601
C11 19両と意外に多くの配置があった。おもに日田彦山線の客貨を担当していて、タンク機ながら、久大本線の日田までロングランしていた。▲C11173 タンク機ながらも近代的な蒸機スタイルだった。
▲キリ番のC11 200 ▲▲4次型のC11301、戦後型で蒸気ドームと砂箱が角形になっている。
D51 19両が配置されていて、9600と同じく、黒崎経由で筑豊本線に乗り入れる多数の貨物列車を牽いていた。小倉駅など北九州市内の駅でも、しょっちゅう煙が見られたものである。▲門鉄デフを装備したD51 537 D51のなかで門鉄デフ装備は比較的少数だった。
▲筑豊本線で石炭列車を牽くD51 591(昭和44年3月)
▲扇形線に顔を揃えた9600、C11、D51、門司区の配置3形式が並ぶ。
▲給炭線のD51 ▲▲柳ヶ浦区のD50は、日豊本線の貨物を牽いて門司まで乗り入れていた。▲なんと門司にC51がいた。と言っても、廃車となったC5162を教習用として、ボイラーがくり抜かれて内部が分かるようにしたもの。懐かしい化粧煙突に再会できた。
門司区の電機 あわせて門司区、およびその周辺で見た当時の電機も紹介しよう。九州での交流電化はまだ緒についたばかりで、門司は九州で唯一の電機配置区だった。▲関門用のEF30、ステンレスのコルゲートが美しかった(昭和48年8月)。▲EF30重連で門司駅を通過する貨物列車。旅客は門司で交流機に取り替えるが、貨物は門司を通り越して操車場まで牽引した。▲門司区の横を走る「さくら」、交流専用機のED73が牽引、蒸気発生装置(SG)を積まない貨物用だが、SG不要のブルトレ牽引も担当した。
▲こちらは、旅客用の交流機ED72 SGを積んでいて、車体長が長くなったので、中間に付属台車を入れたB-2-Bの軸配置になった。
▲博多での特急の牽引機交代風景、博多まではED75 303の牽引 ▲▲付属編成をくわえたED73 19に交代して、15両の長編成になった。