機関区めぐり、熊本の次は、南端の鹿児島機関区へと参ります。熊本と鹿児島の間には、出水にも機関区がありましたが、貨物用のD51のみの配置で面白味はありませんでした。鹿児島機関区には、C61、C60、C57、C56、C12、B20、8620と、7形式もの蒸機が配置されて、形式数においては、日本一の機関区でした。初めて訪れた昭和42年3月、初めてC61、C60、B20を一度に見ることができて、夢を見ているようでした。通常、機関区の撮影は1~2時間で済ませますが、この時は、11時頃から区で写し始めて、昼食も忘れて延々と居続け、17時ごろにようやく市内のユースホステルに引き揚げるほどで、たっぷり区に浸っていました。撮影点数も多いため、何回かに分けて、まずはC60からご覧いただきましょう。
▲C60のラストナンバー、C60 107の牽く東京発西鹿児島行き不定期急行「桜島」。熊本以南の非電化区間、優等列車はDL化されていたが、不定期・臨時列車は、まだ蒸機牽引で残っていた。上伊集院~薩摩松元 昭和44年3月
▲▲鹿児島機関区からは、桜島がよく見えた。
C60
C60の製造経緯については、前回にも触れたが、山陽・東北筋の電化で余剰になったC59を、下級線区でも走れるように、従台車を二軸、2-C-2のハドソン型に改造し、乙線の鹿児島本線(南部)、東北本線(北部)でも走れるようにした。昭和28年から17両を改造、その後、昭和35年から30両が追加改造された。昭和42年3月当時、東北本線の盛岡以北も未電化で、C60は41両が健在、うち鹿児島区には8両がいた。
▲ C60 8 C5961を改造した。東北の出自を示す副灯を付けている。それもそのはず、直前に青森から来た。転属ではなく、一時的な貸し出しで、すぐ青森に返却された。鹿児島にいたのは、5ヵ月間だけだった(昭和42年3月) ▲▲ C60 16 こちらは小デフを付け、東北から転属したことが分かる(昭和45年8月)。▲上路式のターンテーブルに乗ったC60 16、上の同機と比べると、この撮影時期には副灯を付けている。途中で取り外されたようだ(昭和44年3月)。
▲いずれもC60 16を公式側サイドから見る。C60とC61は、よく似ているが、判別ポイントの一つが、キャブ回りで、C60はC57四次形と同じで、前端部が斜めになっている。▲普通列車を牽くC60 16 長崎本線では優等列車のみC60、普通はC57牽引だったが、鹿児島本線では、普通列車とも、C60、C61が牽いていた。上伊集院~薩摩松元 昭和44年3月▲オールグリーン車の団体列車を牽くC60 17 同機はC5986からの改造、もと盛岡区で、小デフを取付けていたが、撮影時には取り外されていた。上伊集院~薩摩松元 昭和44年3月▲荷物専用の43レを牽くC60 18 こちらは副灯、小デフと完全な盛岡仕様。盛岡ではお召列車も牽いた。上伊集院~薩摩松元 昭和44年3月
▲いずれもC60 26の牽く普通列車。撮影地は鹿児島からひと駅の上伊集院から薩摩松元寄りに歩いた地点。シラス台地のなかを走っていた。上は架線柱もない昭和44年、左は電化の完成した昭和45年のほぼ同地点。
▲夜の西鹿児島駅のC60 26 C5940からの改造で、この機は、最初から九州に配置で、鳥栖を経て鹿児島に来た。昭和44年3月▲最後に鹿児島本線のC60を撮ったのは電化直前の昭和45年8月、全区間架線の下だったが、電機の入線はなく、C60の牽く列車も残っていた。C60 28の牽く上り普通列車。上伊集院~薩摩松元 ▲肥後二見にて 交換する熊本行き128レ C60 29 次位にD5194を連結した重連 昭和44年3月▲西鹿児島に到着した門司港発西鹿児島行き121レ C60 34牽引 この列車は都城行きも併結し、八代で分割する。都城行きは、矢岳越えをする夜行鈍行として有名になった1121レの前身となる。いまは鹿児島中央と名を変えた西鹿児島も、当時はこんな雰囲気だった。昭和42年3月▲荷物列車43レを牽くC60 37 C595からの改造で、ずっと鹿児島区で過ごした。列車は汐留発で、末端になると荷物車は4両になっていた。昭和44年3月 上伊集院~薩摩松元 ▲夕陽を受けてシラス台地を駆けて行く鹿児島発出水行き222レ C60 37 昭和44年3月 上伊集院~薩摩松元
▲下り回送列車を牽くC60 102 100番台は、C59戦後型からの改造で、舟底テンダーが特徴。
昭和44年3月 上伊集院~薩摩松元
▲ C60 104 C60 107 C60のラストナンバーに近く、撮影時には、C59改造からまだ6、7年しか経過していない。▲荷物列車43レをC60 107が牽く 昭和45年10月改正で、鹿児島本線の全線電化が完成し、C60をはじめ本線を走る蒸機はすべて廃車となった。昭和45年8月 上伊集院~薩摩松元