福岡市内線貫線を巡る “思い出探し”の旅 ❻

北九州ツアーの“思い出探しの旅”、最終のお付き合い、お願いいたします。と言っても、ツアーに直結するテーマではなく、前項でも書きましたが、ツアーの二日目午後は西鉄研究会の皆さんのご案内で、西鉄福岡市内線の廃線跡を巡りました。当日訪問した「馬出」「箱崎」は、西鉄福岡市内線の貫通線(略して貫線)のなかの電停で、この貫線は、東は「九大前」から、福岡中心の「中州」「天神」を経由し、「姪の浜」までの11.9kmで、福岡の市街地をほぼ東西に走る中心路線でした。

全区間を走っていた系統が「1」系統で、京都なら四条通、東京なら銀座通、大阪なら堺筋と代表的街路を走るのは、いずれも「1」系統で、福岡でも、文字通り中心部を貫通する代表系統でした。この区間が廃止になったのは、昭和50(1975)年11月のことで、私は廃止前の丸一日を、ほぼ全区間、歩いて記録しました。福岡市内線は、博多駅前を行く系統などが廃止された昭和54年2月が最後でしたが、これに先立って貫線は廃止されました。いつかは、京都以外の他都市の路面電車を紹介したいものと、考えていたところで、ツアーの行事に引っかけて、まずは福岡市内線の貫通線をご紹介する次第です(以下、路面電車時代は昭和50/1975年6月撮影)。

九州大学医学部付属病院のある「大学病院前」には、緑豊かな東公園が広る。

ツアーの際に配布された資料から。昭和48年改正の福岡市内線の運転系統図。中央の黒線、九大前(右)から姪の浜(左)を結ぶのが貫通線(貫線)の1系統だった。貫線の始発、「九大前」で発車を待つ、1系統の姪の浜行き。あまり学生街らしい雰囲気はないが、当時は九州大学の全学部が付近に集中していた。明治44年に九州帝国大学が設置され、その後学部の増設で、箱崎周辺は九州帝大の中枢部となった。福博電気軌道は大正10年に箱崎へ延伸し「帝大前」を開業する。その後、「九大前」と改称されて、貫線の起点となった。▲▲カーブを曲がったところで、レールはプッツリ切れていた。さらに、延伸する特許も得ていたが、沙汰止みとなった。

 

九大前に近づく。300形は5両のみの製造、廃止後は北九州線に移る。左手の看板類も時代を語る。九大前の20系統、天神で左折して、渡辺通一丁目から西新に至る系統で、本数は比較的少なかった。「箱崎」では、筥崎宮の鳥居前を通り過ぎる(前々項で紹介済)。箱崎~馬出で左へ大きくカーブするが、この間は専用軌道になっていた。

専用軌道を通り、商店の軒先を借りた「馬出」の電停へ(前々項で紹介済)。

馬出を出ても専用軌道は続き、主要道路との交差では、写真のように遮断機が設置されていた。「東車庫前」、隣接して小規模な西鉄東車庫があった。九大病院や高校も近く、乗降が多かった。いまの「東車庫前」付近。線路跡は片側二車線化された道路となった。▲▲地下鉄箱崎線とは少し離れているため、今でも天神・博多駅方面のバスが通る。

東車庫前~大学病院前の専用軌道で行き交う。南側には広大な東公園が広る。

「大学病院前」に到着、北側には道路を挟んで九州大学病院、南側は東公園がずっと続く。▲▲多くの乗降客で賑わうが、何故か女性が圧倒的に多い。1系統に乗れば。専用路を時間通りに走って、中心の天神まで60円で行くことができた。東公園のなかから貫線を見る。かつて海岸線があったことを示す松原を公園化した。市内線は専用路を快適に走る。いまは、東公園の大部分に、福岡県庁、福岡県警察本部が移転して、見違えるような立派な官庁街となった。

 

 

循環線の交差する「千代町」へ至っていた。交差点の北東から見ていて、天神方面(右手)から来た5系統の貝塚行きが右折するところ。右は1系統の九大行き。古色蒼然とした書店があった。いまの交差点、いまは地下鉄の千代県庁口駅がある。見ている角度は異なるが、拡幅された道路、すっかり変わってしまった町並みに、路面電車時代の面影は全く残っていない。▲▲バス停には「千代町」の名称が残る。

 

今回紹介の「馬出」~「千代町」の地図。右の青枠「馬出」、赤枠「東車庫前」から、黄円の「千代町」へ至る。

 

 

 

 

 

 

 福岡市内線貫線を巡る “思い出探し”の旅 ❻」への6件のフィードバック

  1. この「35円時代」を覚えてます。北九州線も同一でした。
    懐かしいですね。
    モノクロの写真は九大工学部卒の親父に連れられてよく行った博多の九大周辺の風景を思い出します。糸島市に移転して福岡郊外も変わりすぎて、もう同じ街に思えないでしょうね。
    福岡市内線の系統図の添え書きや運賃が面白く、なんと言っても安い。回数券は家庭の常備でした。ちぎって母によく貰いました。
    通勤定期でこの値段だし、子供はめちゃくちゃ安い。労務者運賃が5円安くて始発から正午までとは、初めて知りました。労務者だらけの街で育ったので、仕事に行くのは午前中で、彼らは必ず酒を飲むので、それとギャンブルに行くのでそれはてめえの勝手で午後からと夜は適用外。すごく納得が行きます。
    私は日豊線の電車より客車を選んで乗りましたが、客車で大分県側に帰るおじさんたちは必ずワンカップ2本と竹輪をホーム売店で買い、南小倉付近から”宴会”が始まり客車の中は酒と労務者のおっさんの匂いが充満してました。
    それでも彼らは家に帰れば家の一軒も建てられてマイカーも持ついいお父さんだった筈です。本当に昭和はいい時代でした。
    (写真は1975年の路線短縮で天神区間廃止後の貝塚車庫の風景)

    • K.H.生さま
      いつもコメント、ありがとうございます。北九州だけでなく、福岡の市内線にも思い出をお持ちなのですね。九州大学の付近の変化は、何の予備知識もなく、行ったのですが、全く当時の面影がありませんでした。続く、東公園の県庁にも、市内線のシーンを重ねることもできませんでした。改めて、近年の福岡市の発展ぶりを身を持って感じました。

  2. 千代町から貫線はまっすぐ進みますが、左へ曲がって、循環線の一つ目の電停が「潟州町」です。廃止直前には「福高前」に改称されました。そう、あの福岡高校の前にあることから、改称されたのです。廃止の日の晩に、この停留場名に愛着を覚えた人たちが、当局の許可を得て、安全地帯の一部と、照明の入った停留場標識を、学校敷地内に移設、保管し、「福高文化財」として永く展示されていました。今般のツアーでも、福高OBのおとりんさんの案内で見学することができました。ただ「福高前」の文字入りの標識は行方不明?になっていて、安全地帯のみ置かれていました。

    • 先日スキャンした中に潟洲町の電停を車中から写したカットが見つかりました。昭和48(1973)年3月23日です。
      ネガやいろいろな資料から推定すると、この日は15時ころに博多駅に着き、福岡市内線の直通電車(16番)で貝塚に向かう時に撮影したものです。私は貝塚から宮地嶽線に乗り、沿線のユースホステルに泊まりました。

      • すごい記録ですね。右の酒蔵は、博多に残る唯一の造り酒屋の石野酒造で、建物は今もそのまま残っています。北九州ツアーを現地案内してもらった、おとりんさんの出られた福岡高校がその横にあります。潟洲町の電停も見えていますね。

  3. ツアーで見学する皆さん、朝から歩き続けて、さすがに疲労の色が見えていましたが、楽しく見学しました。校門の前で一礼する在校生を見て、躾もしっかりした、さすが福岡県を代表する高校だと感心しました。

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