△ 大阪名物、スモッグが煙るなか、C57牽引、茶色の客車を連ねた急行「大和」が、関西本線の終点、湊町に到着する。B寝台(ロネ)2両の白帯が茶色に映える。
お盆のこの時期、台風の襲来もあって、一歩も外へ出ることなく、家に籠っていました。デジ青投稿に絶好のチャンスと意気込むのですが、気力の低下だけでなく、持ちネタの乏しさもあって投稿が続きません。先の投稿では、準特急さんから「あと数年早く生まれてきたら」論についてコメントがあり、「あのシーンを撮っていたらデジ青に載せられたのに」という思いもあります。私は「そんな言い訳したらアカン」と強がりを言ったようですが、心の中では七十数年生きて来た人間にも、その悔いが残ります。
そんな時、大阪通信員さんから朗報がもたらされました。大阪通信員さんは、私より7歳年上で、まさに「あと少し早く生まれてきたら」の写真を多数カラーで撮影されています。一部は昨年6月に行いました上映会でもご覧いただき、私も感嘆しながら進行をしていました。貴重な写真を一度だけの上映会で終わらせるのは、大変忍びなく、広く公開したいと思っていたところ、大阪通信員さんから、ぜひデジ青で公開してくださいと嬉しい返事がありました。快諾いただいた大阪通信員さんには厚く御礼申し上げます。
デジ青誌上では、米手さんが、投稿に困っているデジタル難民の記事・写真を代理投稿する老老介護も続いています。米手さんだけに介護を一任するのではなく、私も介護者として名乗りを上げた次第です。預かった写真は多数ありますが、まずは上映会の作品から見ていただきましょう。解説は最小限に留めて、皆さんからのコメントお願いいたします。
△ 長い客車編成を牽くC57がまもなく湊町を発車するところ。後方にキハ35系が見えるが、名古屋行きはまだ客車で残っていた時代。△ 湊町には機関区はなかったものの、一通りの設備はあって、関西本線沿いの龍華、奈良、亀山の蒸機がつねに留置されていた。 △ 終端式の湊町に到着した「大和」は、反対側にC58が付いて入換を行う。客車は青くなっているので、上掲の3点より後年の撮影となる。
△ 構内を横断する陸橋から、駅全体が望めた。発車するのは荷物列車のようだ。
△ こちらも同じ1番ホームに停車中のC58の牽く荷物列車。△ 昭和40年3月改正で「大和」もDF50牽引となる。関西本線経由で東京と湊町を結ぶ「大和」も10系客車になるが編成が短縮された(以下2点、昭和43年9月撮影)。
△ DF50が反位側に着いて引き上げるところ。「大和」は昭和43年10月改正で廃止になった。
総本家青信号特派員様
大阪通信員様
掲載写真を何の説明もなく見せられて、「ここは何処だ?」と尋ねられても「湊町」という答えは私の頭に思い浮かびません。今は失われた景色ゆえに、この写真はむしろ新鮮です。
貴重なお写真をありがとうございました!
この企画は素晴らしいです。数年の差で見られなかった悔いは、おそらく誰にもあると思います。戦前の貴重な鉄道シーンを数多く発表された牧野俊介氏でさえ、「あと少し早く訪問していたら出会えたのに・・・」と著書で述懐されています。ただ、見逃したことを悔やむだけでなく、今を記録することが大事ですね。最も興味の対象は各人各様、自分の好きな分野を追いかければ良いのです。と、偉そうなことを書いてしまいました。
さて、ワタクシ地上時代の湊町を知りません。関西本線に蒸機が見られた頃、昭和46年にはD51が牽く「柳生号」の始発駅が湊町でした。大阪方面の少年ファンが残した写真を、ネットで見かけます。帰りは天王寺止まりでしたので、何度か乗車しました。それから幾星霜、時は流れ湊町はすっかり様変わりしてしまいました。駅名さえも変わってしまいました。
大阪通信員様が撮影された昭和40年前後、急行「大和」が走っていた時代を知りません。写っている機関車には馴染みがあります。へえ~、シゴナナが湊町で見られたんや!と、少年時代の私は感心したのでしょう。ところが今となっては多少の知識も付き、見方も違ってきます。当時を知る方々の体験記や、湊町駅の歴史に触れるて、なるほどと思うことも多々あります。
話はコロッと変わります。私も書籍派で、じっくり鑑賞するのには印刷物が良いと思います。ところが古い鉄道シーンが載った本は高い! 現役時代ならともかく、年金生活者にとって数千円の出費は懐にこたえます。ネットは費用もかからず、書籍に掲載できなかった画像も見ることが可能です。ちょっと古い鉄道シーンを愛する私には、この企画は我が意を得たり!です。総本家青信号特派員様、ありがとうございます。
大阪特派員さま
「湊町」、なんと懐かしい駅名でしょう。「片町」と共に現在は今風の駅名になってしまいましたが、かつての大阪の雰囲気を伝える想い出の駅です。小さい頃、母方の実家と姉妹が柏原に居た関係で、帰省には阪急京都線~城東線~関西線をよく利用しました。関西線には天王寺から乗ることが多かったのですが、理由は忘れましたがなぜか「湊町」からの記憶もあります。乗ったかどうかはともかく、関西線利用時は始発・行先として湊町のアナウンスはいやというほど聞いたので随分刷り込まれたのでしょう。
2葉目の写真ですが35系が入った段階で名古屋行を含め客レは無くなったと思います。写真の35系は導入直前の試運転(一般論としてあったはず)ではないかと思われますが、どうでしょう。
35系化以前は柏原までのチョン行は10系DCでしたが、奈良やその先まで行く客レは10両近い長編成でした。帰省の帰りに大阪廻りを考えていた母に奈良廻り(関西線~奈良線)の無理を言って困惑させたこともありました。その頃から電車よりも客車やDCに乗りたかったのかもしれません。
DF50の「大和」には苦い思い出が。あれほど加太詣でをしていたのに、指定旅館?の村田屋で夜遅くまで騒いでいて早起きできず、7時過ぎに通過する大和を殆ど撮りませんでした。当時はSLで充分という安易さに流されたようです。
総本家青信号特派員様、大阪通信員様
私は一度も湊町駅を訪ねたことがなく、ましてカラー写真とあって、貴重な記録をじっくり拝見しています。入換用にC58355が登場していますが、多分龍華機関区所属だったのでしょう。私はこのC58355を奈良線で多く撮影しています。龍華区から奈良区に転属したのでしょう。昭和43年10月27日 桃山駅で入換え中のカットを添えておきます。
大阪通信員様
DF50が5両の10系客車「大和」を牽いて出発してゆくカットのなかで、後方の留置線に家畜車「カ」が5両写っています。「カ」に乗って湊町にやってきたのは馬ということはないでしょうから、多分牛だろうと思います。この写真の撮影年がわかりませんが、湊町駅に「カ」がいるということは、西成区に昭和33年に開設された「大阪市中央卸売市場食肉市場」と関係あるのでしょうか?
細かく観察していただき、ありがとうございます。その部分を拡大しました。その当時の食肉用の牛・豚も貨車で運ばれていたのですね。
さっそく皆さまから暖かいコメントをいただき、ありがとうございます。ご本人の大阪通信員さんからもコメントが入ることと思います。
さて、データ調査がいい加減で、さっそく訂正です。冒頭の写真は「湊町に到着する“大和”」ではなく、「回送の“大和”を牽いて湊町を発車する」でした。右手の駅構内らしきものは、湊町ではなく、今宮方面でした。2枚目のC57146は、その回送の“大和”発車前の光景で、2→1の流れとなります。撮影日は、昭和39年1月5日でした。1900生さんからの指摘のように、昭和39年時点では、関西本線では“大和”、荷物列車を除き、蒸機列車はありませんでした。
こんな投稿を見ると、急に元気になる私です。
なんでも追求する西村さんのコメントで思い当たる写真がありました。
私も旧湊町へは行ったことがありませんが、竜華へは何度も行っているので関連があるような写真を貼ります。
竜華を発車して湊町へ向かう貨物列車です。家禽車を6両ほど繋いでいます。
もう一枚。
これも竜華から湊町へ向かう荷物列車です。
大阪通信員さんからは水曜日のチャペルアワー時の例会のスライド撮影会ですすきを入れたり、花を入れたり、所謂季節感を表した撮影技法を学んだものです。私も湊町は行ったことがありませんが、写真を拝見してますと多分こんな風景ではないかと想像した通りの終着駅風景です。JR難波は行ったことがありますが、あんな駅ではダメです。粗悪な写真ですが1964.5.27天王寺駅の西を行くC5779[奈良]牽引の荷物列車です。これが関西本線で撮った最も湊町に近い場所での記録です。多分この風景は今も変わっていないのではないでしょうか。