改札口 ~江若鉄道写真展から
先日、湖西線近江今津駅近くのコミセンで、江若鉄道の写真展を行いました。期間中、湖西線50周年式典や夏祭りが現地で行われたこともあり、多くの皆さんにご来場いただきました。展示の写真を改めて見直すと、「改札口」テーマの写真が何点かありました。人が集まり、散って行く、改札口は写真テーマとして恰好なものがありました。本欄で発表済みもありますが、江若鉄道で見られた改札口のある光景です。▲和邇駅の改札口、太い木組みの改札口、右の方は、江若の嘱託社員のOさんで、推定年齢80歳前後で、江若の社員では最高齢だった。江若は、前日に営業を終えて、この日は招待客だけの「さよなら運転」の日だった。改札口に立つ必要もないのだが、Oさん、江若一筋の人生を思い起こすように、いつものように改札口に立っておられた。駅へ行くと、ずいぶん親切にしていただき、御礼も込めて、廃止後、Oさんの自宅まで、DRFCで作った江若のアルバムをお届けした。左のお年寄りも、いまは絶対見ないような和服姿、服装を見ると、改めて時代を感じる(昭和44年11月)
▲始発、浜大津駅の改札口付近、廃止を前に、告知の貼り紙が何枚も見える。上には全線の駅名と字幕式の発車案内、編成両数を示す窓もあり、夏季水泳時は最大6両編成まであったようだ。今津出身の方の話では、ほかの駅は木組みの改札に対して、浜大津だけはパイプの改札口で、これを見て“浜大津は都会”と感じたと述懐されていた。向こうは貨物ホーム、貨物営業は数日前に取り止めしたのに、まだ何やら作業中。▲高島町駅の改札口、高島町は二面四線の大きな駅で、さらに手前に貨物ホームもあった。そのため、夏以外は寝ているオハ27形客車の留置に利用され、妻面が見えている。右上の「改札口」は、まだ右書きだ。▲営業最終日の近江今津駅、降りたのは、ほぼ全員が学生服の県立高島高校の男子学生、右の改札だけでなく、左手にもラッシュ時用の改札があったようだ。▲折り返しの列車へ、入鋏を受けて、改札口からホームに向かう乗客、こちらは、通勤時間帯に当たり、乗客さまざま、「駅前食堂 丼物・めん類」の看板も見える。▲▲待合室から、駅構内を見る。
総本家青信号特派員様
高校時代の三年間、毎年お盆の時期に今津町の祖父の家を訪れていましたが、1日は必ず近江今津駅で日中出入りする江若鉄道の写真を撮ることを恒例にしていました。その時、昼食は4枚目の写真にある喜劇映画の題名のような「駅前食堂」でとっていましたが、1964年はいつもと違い全国高校野球選手権大会で京滋代表となった平安高校の2回戦を放映していたので店内は満席になっていました。食事中に12時になるとテレビから突然サイレンが鳴り出し、食事をしている人が全員立ち上がり黙祷を始めました。8月15日の終戦記念日だったのですが、今から考えると終戦から19年しかたっていなかったのですね。
私の記憶によりますと『左手の改札』は出場専用に使用していて、写真の改札は通常入場用でなかったでしょうか。小さい田舎の駅でしたが入出分離をしていました。改札口から出ると左手に国鉄バスの乗り場があり、琵琶湖線の木ノ本行や若江線の小浜行が接続待ちをしていて究極のバリアフリーの構内でした。
少ししか改札口が写っていませんが、1969年2月17日の浜大津駅のキニ13+ハフ8です。
快速つくばね様
近江今津駅の思い出、ありがとうございます。「駅前食堂」にも行かれたとのこと、乗り換え客などで賑やかそうな様子が分かりました。OB会の先輩の大阪通信員さんが撮られた駅前のカラーがあります。過日の近江今津の江若写真展にも展示させてもらいました。左手の家屋が、「駅前食堂」でしょうか。
もう一枚、「左手改札」が分かるカラーもありました。たしかに出場専用のようです。バス停も見えます。今津の交通結節点としてにぎわっていたのですね。
改札口の札にある、“WICKET”の表示に目が留まりました。あまり目にしない語のように思えたからです、調べると、小さな戸や門のことで、正しく改札口もそれに当たる訳でした。しかし欧米でも殆ど、見たことがない気がすると考えたが、ある意味当然かもしれません。欧米の駅には改札口がない駅が多い。もちろん駅本屋からホームへ出ていく出入口は設けてあるが、そこで駅員が改札・集札をすることは殆どありません。国鉄を含め、江若鉄道以外の鉄道会社で、この表示をしていた鉄道はあったのだろうか? ふと調べて見たくなりました。