当該編成は、48年10月6日寝屋川検車区で実見している。この時は澤村さんからお誘いを受け、何人かの方と一緒であったと思う。
この編成がバキュームカーの運搬していたことは全く知らなかった。
撮影したのは113のみで、103と153を撮影していないのは、障害物があったためと思われる。
当時、京阪本線の電動貨車は、この編成を含めて3編成あり、他の2編成は下記の通りであった。
101+151+111
102+152+112
その他、救援車として使用されていた121と大津線の122が在籍した。
タイトルの103+153+113から解説すると下記の通りである。
103は昭和9年守口工場製でクレーン付き、当初3010と称し、45年の改番で103となった。
113は大正13年加藤製作所製でクレーン付である。当初211と称し、昭和4年の改番で3007に、45年の改番で113となった。
153は、45年守口工場でバキュームカーを搭載するために作られた付随貨車である。
101+151+111
101と111は昭和4年日本車輌製で、当初3015、3016と称していた。
9年の改番で3001、3002に、45年の改番で101、111となった。
3002は、42年3月時点で前照灯が窓下にあり、こちらが原型のようである。
151は昭和4年守口工場で廃車された100形の台車、機器を流用して製作され、当初3103と称していた。
9年の改番で3101となり、45年の改番で151となった。
改番前の3001+3101+3002
上:(43-6-25)寝屋川検車区 中・下:(42-3-15)枚方市
102+152+112
102は昭和4年日本車輌製で、当初3014と称していた。
9年の改番で3009に、45年の改番で102となった。
112は大正14年日本車輌製で、当初203と称していた。
9年の改番で3012に、45年の改番で112となった。
152は、151と同様の経緯で製作され、当初3104と称していた。
9年の改番で3102となり、45年の改番で152となった。
112/上:(46-6-6)守口検車区 下:(48-10-6)寝屋川検車区
121/(48-10-6)寝屋川検車区
昭和9年守口工場製の全鋼製電動有蓋貨車で、当初2003と称していた。
戦後貨物営業廃止後救援車となった。
34年の改番で3021に、45年の改番で121となった。
昭和36年3月8日の夜、樟葉駅大阪寄りのポイントのところで下り急行1306+1657+1658+1301の4両編成が脱線し、最後尾の1301が築堤から落ちて宙ぶらりんの状態になった時、救援車として1306の前に停車していたのを実見した。
122
前述の2003→3021→121と同時に政策された電動有蓋貨車2004を昭和30年守口工場で大津線用の電動貨車に改造した。
ポールの他に車体中央にパンタグラフを持ち、本線乗入れが可能であった。通学の帰り本線を走行している処を数回実見している。
改造当初3022と称していたが、45年の改番で122となった。
1983年(昭和58年)12月の昇圧で後継車として2代目の101-151の2連が登場しています。
2代目100形101号は旧1800形の車体流用で片運の救援車 足回りは旧1700形からの流用で台車KS-5モーターはTDK554の吊り掛け式、2代目150形151号は旧1300形の車体流用の片運T車の無蓋車(重量物運搬車)足回りは旧1800形の流用で台車はFS-304 通常101-151の2連を組み151にバキュームカーを乗せて寝屋川車庫から淀屋橋に通っていたようです。
同時期に2代目110形111号が旧1800形の車体流用の両運T車の救援車で台車はFS-304 淀車庫に置かれていたようです。
これらの車両は昭和58年寝屋川工場製とのことですが、2001年にすでに廃車となっているようです。
これらの車両を作る頃 澤村達也さんからバキュームカーの必要性と詳しい改造方法の話を伺ったことを思い出しました。
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