京阪電鉄103+153+113 これは傑作! 投稿日時: 2015年7月1日 投稿者: 米手作市 東武や西武なら余り驚きませんが都心の、それも京阪電車が地下延長の結果くみ取りが必要になったとは思いも寄らないことです。関先生でも見たことがないとのことですが、そんなに昔でもなく、大津の暇人先輩やED72先輩などなら見たどころか写真でもあるのではないでしょうか? ところでくみ取ったモノはどこへ持って行ったのでしょうかね? この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 京阪電鉄103+153+113に寄せて
京阪電車に大学通学で乗り続けていたときに、淀屋橋地下乗入が開通した通信員ですが、こんな車輛があったとは知りませんでした。今まで車庫の見学会や幾多の京阪記事や書籍でも読んだ記憶がありません。 汲み取りなんて懐かしい言葉です。城下町大阪では、太閤さんの都市計画で各家の裏には太閤下水という汲み取り屋さんが通る1m幅くらいの専用路地が造られました。我が家の裏にもまだ残っていて野良猫の専用道になってます。所有者は住民投票僅差で残った大阪市です。 さて、地下駅の厠に溜まったものは、毎日汲み取っていたのでしょうか。浄化槽にしてあって何日かをまとめて汲み取ったのでしょうか。汲み取り列車はダイヤに載っていたはずですね。汲み取ったのは何処で処理したんでしょう。いちばん手っ取り早いのは、天満駅を発車してすぐに地上へ出たとこにある鉄橋の上に停車して、下の寝屋川に・・・・・・というのでしょう。沿線には木津川・宇治川・伏見川・疎水とあるので場所には困らなかったでしょう。汲み取り列車の基地は、今は亡き守口車庫で、そこで下水に流したんではないでしょうか。 京阪愛好家ならびに京阪OBの方が多数当会には巣食っておられますので、、これを機会に味噌もクソも一緒にしたような話でかまいませんので、汲み取り列車にまつわる秘話をお聞きしたいものです。 返信 ↓
たしか、昭和三十年代初め頃の映画館のニュースで、東京都がはしけを数隻つないだ”汚わい船”なるものを見たことがあります。東京湾の外れまで来た時、船の航跡が突然白くなった(白黒のフィルムだった)のを見て驚きました。だから私も天満橋から大川へ夜陰に乗じて・・・と言おうかと思ったのですが品格が疑われるかと思い自粛したのです。 返信 ↓
バキュームカー購入を傑作と紹介され、その昔に「京阪馬鹿」と名乗っていた身としては黙っておられない。昭和38年秋に富山から大阪へ転勤となり、隣りのオジサン宅を訪れた。「たーちゃん、えらい物購入の為に判子を押した」と、おっしゃった。「淀屋橋延長で地下部分にトイレを作ったのだが汲み取り式には出来ない。汚水槽を造りバキュームカーで汲み取り京橋で降ろし、大阪市内の処理場で処理することになった。こんな事、あっちこっちでしゃべらんといてや」と、言われたので今まで黙っていた。おじさんは社長秘書から資材部長に転任していたのだ。なぜこんな話になったかといえば昭和27年4月、淀駅下り手踏切で大阪行き急行が木造汚わい貯蔵函を積んだトラックに衝突、そのあおりで先頭車704号正面窓ガラスが損傷し、汚物が車内天井部に突入し、客室に垂れるという列車事故を起こした。この事故の時、おじさんは運輸部庶務係で、淀駅からの通報で現地へ香水瓶を調達して現地に急行した。この時の事を当時中学生の老人に話されたが、これを思い出しての話となったのだ。亡くなって20年を越えるので、苦労したおじさんを偲ぶ意味で披露しておこう。ピクトリアル427号184頁にN君が紹介しているが、老人の口から出た話ではない。大阪通信員さん、米手昨市さん、決して汚すようなことはしておりません。ついでに当時の列車運行図表を調べてみたが、線引きはなかった。 返信 ↓
バキュームにせよ、古式ゆかしい汲み取りにせよ、黄金水が野菜の肥料に使われなくなって用途が消え、いずこの市も都も大変困った。当時下水処理場はあったとしても処理能力など知れており、結局は海に捨てるしかなかったのである。神戸市の場合は苅藻島に集約し、蓋のある専用はしけに積み込み、それを数隻繋いでタグボートが牽引、大阪湾の中央で底の栓を抜く。あたりは一面独特の色に染まり、魚がウンカのように寄ってきておいしそうに?餌にしたそうな。神戸では大雨による災害被害が何度もあって下水道の整備が他都市よりかなり早く進み、こんな風景は昭和40年代半ばか後半で消え去ったが、そうでない市はかなり後まで続けざるを得ず、大阪湾の真ん中には巨大な「黄金の浮島」が幾つかできていたと聞く。敗戦直後老人が国民学校初等科児童で山科に住んでいたころ、未明から肥桶を積んだ牛車が九条山を越え、京都旧市街に肥汲みに列をなしていた。この時期では汲み取りが有料どころか、逆に百姓さんが野菜などを呉れたのである。進駐軍の兵士たちは、この牛車を「ハニーカー」と呼んでいた。当時は肥料の関係で、日本人は回虫やサナダ虫等の寄生虫と仲良し?で、海人草や、マクリと称した、極めてまずい(どころではなかった)虫下し薬を学校で強制的に飲まされたものである。大津の米軍キャンプでは、江若鉄道沿線に広大な水耕農場を設け、生食用軟弱野菜を土を使わずに作らせていた。そのため何百人もの日本人が雇用され、運営はタキイがやっていたと聞く。寄生虫とは何とも自慢にならない話だが、悪いことばかりでもなく、体内に寄生虫を養って?いると、アレルギーやアトピーの類とは全く無縁なんだそうだ。 返信 ↓
「毎日グラフ別冊・ニッポン40年前」(1985年・毎日新聞社刊)という進駐軍兵士が撮影した占領下日本のカラーのグラフ誌を所蔵(購入は在学中でした)しており、これに湯口様がご覧になられた、京都の「牛車」が街を行く光景と「桶」(キャプションによると桶は「ハニーバケット」とのこと)が歩道上に並んでいる光景のカラー写真が掲載されています。桶の方の写真の背景には京津線50らしき姿と、牛車の写真には軌道が写っており、2枚が同時に撮影されたとするならば神宮前あたりかと思われます。牛車の写真は、荷台上で横に寝てる桶がありますから、「下りの返空」かも知れません。 それにしても、今から40年前といえばSLが消え新幹線が博多まで通じた1975年ですが、1985年の40年前って終戦の年になるのですね、、、 返信 ↓
大先輩や京阪の大家のお話が続きましたが、結局はこの車両の写真はおろか、実態を垣間見た方はおられなかったのですね! やっぱり京阪でもなかったことにしたかった車両と言うことですか。 ありがとうございました。 でも、マクリは人間の飲み物では無い!アレをのむくらいなら回虫を溜めておいた方がマシや! 返信 ↓
京阪電車に大学通学で乗り続けていたときに、淀屋橋地下乗入が開通した通信員ですが、こんな車輛があったとは知りませんでした。今まで車庫の見学会や幾多の京阪記事や書籍でも読んだ記憶がありません。
汲み取りなんて懐かしい言葉です。城下町大阪では、太閤さんの都市計画で各家の裏には太閤下水という汲み取り屋さんが通る1m幅くらいの専用路地が造られました。我が家の裏にもまだ残っていて野良猫の専用道になってます。所有者は住民投票僅差で残った大阪市です。
さて、地下駅の厠に溜まったものは、毎日汲み取っていたのでしょうか。浄化槽にしてあって何日かをまとめて汲み取ったのでしょうか。汲み取り列車はダイヤに載っていたはずですね。汲み取ったのは何処で処理したんでしょう。いちばん手っ取り早いのは、天満駅を発車してすぐに地上へ出たとこにある鉄橋の上に停車して、下の寝屋川に・・・・・・というのでしょう。沿線には木津川・宇治川・伏見川・疎水とあるので場所には困らなかったでしょう。汲み取り列車の基地は、今は亡き守口車庫で、そこで下水に流したんではないでしょうか。
京阪愛好家ならびに京阪OBの方が多数当会には巣食っておられますので、、これを機会に味噌もクソも一緒にしたような話でかまいませんので、汲み取り列車にまつわる秘話をお聞きしたいものです。
たしか、昭和三十年代初め頃の映画館のニュースで、東京都がはしけを数隻つないだ”汚わい船”なるものを見たことがあります。東京湾の外れまで来た時、船の航跡が突然白くなった(白黒のフィルムだった)のを見て驚きました。だから私も天満橋から大川へ夜陰に乗じて・・・と言おうかと思ったのですが品格が疑われるかと思い自粛したのです。
バキュームカー購入を傑作と紹介され、その昔に「京阪馬鹿」と名乗っていた身としては黙っておられない。昭和38年秋に富山から大阪へ転勤となり、隣りのオジサン宅を訪れた。「たーちゃん、えらい物購入の為に判子を押した」と、おっしゃった。「淀屋橋延長で地下部分にトイレを作ったのだが汲み取り式には出来ない。汚水槽を造りバキュームカーで汲み取り京橋で降ろし、大阪市内の処理場で処理することになった。こんな事、あっちこっちでしゃべらんといてや」と、言われたので今まで黙っていた。おじさんは社長秘書から資材部長に転任していたのだ。なぜこんな話になったかといえば昭和27年4月、淀駅下り手踏切で大阪行き急行が木造汚わい貯蔵函を積んだトラックに衝突、そのあおりで先頭車704号正面窓ガラスが損傷し、汚物が車内天井部に突入し、客室に垂れるという列車事故を起こした。この事故の時、おじさんは運輸部庶務係で、淀駅からの通報で現地へ香水瓶を調達して現地に急行した。この時の事を当時中学生の老人に話されたが、これを思い出しての話となったのだ。亡くなって20年を越えるので、苦労したおじさんを偲ぶ意味で披露しておこう。ピクトリアル427号184頁にN君が紹介しているが、老人の口から出た話ではない。大阪通信員さん、米手昨市さん、決して汚すようなことはしておりません。ついでに当時の列車運行図表を調べてみたが、線引きはなかった。
バキュームにせよ、古式ゆかしい汲み取りにせよ、黄金水が野菜の肥料に使われなくなって用途が消え、いずこの市も都も大変困った。当時下水処理場はあったとしても処理能力など知れており、結局は海に捨てるしかなかったのである。神戸市の場合は苅藻島に集約し、蓋のある専用はしけに積み込み、それを数隻繋いでタグボートが牽引、大阪湾の中央で底の栓を抜く。あたりは一面独特の色に染まり、魚がウンカのように寄ってきておいしそうに?餌にしたそうな。神戸では大雨による災害被害が何度もあって下水道の整備が他都市よりかなり早く進み、こんな風景は昭和40年代半ばか後半で消え去ったが、そうでない市はかなり後まで続けざるを得ず、大阪湾の真ん中には巨大な「黄金の浮島」が幾つかできていたと聞く。敗戦直後老人が国民学校初等科児童で山科に住んでいたころ、未明から肥桶を積んだ牛車が九条山を越え、京都旧市街に肥汲みに列をなしていた。この時期では汲み取りが有料どころか、逆に百姓さんが野菜などを呉れたのである。進駐軍の兵士たちは、この牛車を「ハニーカー」と呼んでいた。当時は肥料の関係で、日本人は回虫やサナダ虫等の寄生虫と仲良し?で、海人草や、マクリと称した、極めてまずい(どころではなかった)虫下し薬を学校で強制的に飲まされたものである。大津の米軍キャンプでは、江若鉄道沿線に広大な水耕農場を設け、生食用軟弱野菜を土を使わずに作らせていた。そのため何百人もの日本人が雇用され、運営はタキイがやっていたと聞く。寄生虫とは何とも自慢にならない話だが、悪いことばかりでもなく、体内に寄生虫を養って?いると、アレルギーやアトピーの類とは全く無縁なんだそうだ。
「毎日グラフ別冊・ニッポン40年前」(1985年・毎日新聞社刊)という進駐軍兵士が撮影した占領下日本のカラーのグラフ誌を所蔵(購入は在学中でした)しており、これに湯口様がご覧になられた、京都の「牛車」が街を行く光景と「桶」(キャプションによると桶は「ハニーバケット」とのこと)が歩道上に並んでいる光景のカラー写真が掲載されています。桶の方の写真の背景には京津線50らしき姿と、牛車の写真には軌道が写っており、2枚が同時に撮影されたとするならば神宮前あたりかと思われます。牛車の写真は、荷台上で横に寝てる桶がありますから、「下りの返空」かも知れません。
それにしても、今から40年前といえばSLが消え新幹線が博多まで通じた1975年ですが、1985年の40年前って終戦の年になるのですね、、、
打ち間違えました 神宮前でなくて神宮道でした 合ってるかわかりませんが、、、
大先輩や京阪の大家のお話が続きましたが、結局はこの車両の写真はおろか、実態を垣間見た方はおられなかったのですね!
やっぱり京阪でもなかったことにしたかった車両と言うことですか。
ありがとうございました。
でも、マクリは人間の飲み物では無い!アレをのむくらいなら回虫を溜めておいた方がマシや!