今回の山陽電鉄紹介は、820、850型です。
大戦後日本の多くの両鉄道同様、山陽電鉄でも稼動車が限られ、日々の運行さえままならぬ状況が続きました。これを補い、その後の山陽電鉄を文字通り軌道に乗せ始めたのは、広軌モハ63型20両(山陽では800型、後の700型)と、そして今回紹介の820型18両です。
大型過ぎて中小私鉄で少し持て余し気味の63型に比べ、もう少し小型で使いやすい標準車体をとの意向で生まれたのがこの820型です。車体長17m、転換クロスシート、2両固定編成のロマンスカーによる特急運転として、1949(昭和24)年に登場しました。クリームイエローとネイビーブルーのツートンカラーでした。
1951(昭和26)年頃、東須磨小学校の教室から見える車輌は、前回までに紹介した100・1000型と200型の茶褐色一色の車輌に交じって、この820型でした。近づいてくる様子はそれほどのスピードでもなく、線路事情が良くないのか、車体を左右に振りながら、大きな音と共に通過して行きました。
▼長田、神戸市電との平面交差点を通過する下り各停 822+823 1963.1.3 C0216
▼電鉄垂水駅に停車中の下り特急 823+822 1962.10.15 05020
▼妻鹿-白浜間を行く下り特急 825+824 運転台側に貫通路扉を設置前1963.1.3 C0317
▼長田駅を出発、湊川を渡り道路併用軌道を経て西代に向かう下り東二見行き各停
運転台端面を貫通化した後の824+825 1965.7.4 C1314
▼東垂水-歌敷山間の高台を行く下り特急 829+828 1962.10.15 06021
▼塩屋-須磨の浦公園間を行く、姫路発(神戸)兵庫行き上り各停 831+830 1963.1.3 C0314 第2次の820型です。台車がOK-3、戦後の新型台車の先駆者の仲間だそうです。▼神戸-明石(東二見)間の行き先板を付けた上り各停 塩屋-須磨浦公園 1965.1.31 C0807 第3次6両、850-855、1950(昭和25)年製、主電動機が90→110kwにアップされた。
▼同じ851+850 長田-兵庫間の道路併用軌道にて。1965.7.4 C1318
行き先板は紺地に姫路-神戸間を白文字で表示。 東須磨駅を出て、天井川への坂を登る姫路行き下り各停 855+854 1962.7.1 05223
▼東須磨駅停車中の垂水行き下り各停。左は筆者の母校・東須磨小学校。今は立て替えられてこの姿は見られません。1962.11.19 06215これで、デジ青に紹介した3000型以前の車輌は、残すところ2000型のみとなりました。
次回紹介の予定です。
懐かしい820、850型です。TMSで知りました。中学2年夏休みに乗りに行きました。目的は京阪特急1700形との比較です。この夏休みに初めてアルバイトをしました。下賀茂神社に親類となった亀屋が「みたらし茶屋」を設け、みたらし団子の販売を始めました。老人は本店と仮設茶屋間の運搬役となりました。そのアルバイト賃500円を握りしめて山陽電車に、京阪特急との比較でした。往復共に特急(820、850型)に乗りました。勝った!と思いました。また須磨を出てから海岸べりを走る(国道ではなく山肌だったと思います)コースは初めてだったと思います。母の田舎へのコース(岩国からバスで島根県へ)でした。あれから64年となりました。
非情に懐かしい写真を有難う御座います。どのページを見ても懐かしく、嬉しく思います。本島に有難う御座いました。
もの心をついた時は、貫通化されたロングシート車でした。
木製床に3000系のようなステンレスパイプのつかみ棒だった記憶があり、アンバランスな電車だった気がします。
ノーシールノーヘッダーの270系と三連だったので、編成美も悪く、えらくくたびれたボロ車両に見えました。
まさか元ロマンスカーだったとは想像だにできませんでした。
この後もブタの鼻のような自動報告幕が付けられ、かろうじて貫禄を保っていた貫通ホロもはずされ、廃車まぎわは見るも無残なボロ車両になっていたのを思い出します。
3枚目の写真、八家駅と的形駅の中間のトンネル西側付近だと思います。背後は現在の姫路市立八木小学校西の山。