50年前の撮影地を歩く -12-

D61を訪ねて

先日、別の鉄道趣味の会合で、私とほぼ同年代の方と、北海道の話をすることがありました。昨年末に廃止された留萌線の留萌~増毛に話が及ぶと、お互いに訪れたのは、つい最近であることが分かりました。若い時代に何度か北海道へ行ったものの、9600しか走らない同区間は訪問する対象ではありませんでした。その点、同じ留萌線でも深川~留萌には、当時の蒸機ではいちばん希少なD61が走っていて何度か訪れたものでした。
今回は、現在も留萌線の残存区間として営業中の留萌~深川の50年前をたどってみます。

留萌だけに配置のD61、前照灯を保護するツララ切りがあった。

留萌駅の裏側にあった留萌機関区を出区して、羽幌方面の貨物を牽いて発車を待つD614+D5164重連(昭和43年9月)、下は現在の様子、空き地として残っているが、背後の小山の形は変わらない。

動力近代化で、余剰になったD51を地方線に転属させ、老朽の9600を置き換えるため、昭和34~36年に誕生したのがD61だ。D51を丙線規格に入線させるため、従台車を2軸に改造して、15t→13tに軸重軽減したもので、D50からD60改造と同じである。外観を見る限り、D51とは何ら変わりないが、D61のナンバープレートを付けると、スタイルまで違って見えたものだ。製造後、稲沢第一区に配置され関西線でテストされたあとは、北海道に送られ、6両とも留萌に配置され、留萌・羽幌線の深川~留萌~羽幌で使用された。D51と共通運用で、結局、D51が入線できない線区への投入という当初の目的を果たさないまま、昭和49年に全機が廃止されている。

留萌区のD61トップナンバー機、寒冷地で使用するため、密閉式運転室になっている。デフの切り詰めが進行中。

留萌機関区は、D61の6両のみの配置、扇形庫はなく、小規模な造りだった。留萌線では、ほかにもD51、9600も使われていたが、こちらは深川区の配置だった。

留萌駅はかつて羽幌・幌延方面に羽幌線、また天塩炭砿鉄道も分岐していて、とくに石炭の積み出し駅として賑わっていたが、昨年末の留萌~増毛の廃止で、とうとう終着駅になってしまった。なお、駅名は、以前は留萠だったが、行政地名に合わせて、平成9年に留萌となった。

もうひとつ、残存の深川~留萌で、唯一の交換可能駅となった峠下駅を今昔を紹介しよう。文字通り、石狩と天塩の境にある駅で、二面二線、千鳥式のホームがあった。増毛方面からの9600が、長いセキ編成を牽いて通過して行く(昭和44年9月)。現在でも昔を偲ぶことができる。

下り深川方面を見た峠下の今昔、ラストナンバーD616の牽く石炭列車が通過して行く。現在でも、無人駅ながらも駅舎はそのまま残っていて、周囲の風景も大きな変化はない。以前は数軒の民家があったようだが、いまは完全に定住者ゼロ、駅の平均乗降数もゼロ台だった。

 50年前の撮影地を歩く -12-」への2件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    D61という機関車も見たり撮ったりしたことがある人は少ないのではないでしょうか。総本家さんの方が私より訪問が1年早いため、デフの切り詰め前の標準デフも撮られていますね。私は廃止される神居古潭を優先したので留萌機関区には行っただけでした。トップナンバーもいませんで残念でしたが、この時はどういう訳かブローニー版のカラーで撮影していました。後方の山は3月でしたので雪で真っ白でした。それにしても留萌-深川間の峠下駅などよく撮っておられ、また、新旧対比写真を興味深く拝見させていただきました。コメント遅くなりました。例の年寄り格安旅行4日間をやっと終えました。

  2. 準特急さま
    旅行を終えられた直後でお疲れのところ、コメントありがとうございます。D61と言う機関車、お書きのように、今では、ほとんど顧みられることはありませんね。当時は6両のみ、北海道のみの希少さで、それなりの注目がありました。私の渡道目的は、一番はもちろんC62重連でしたが、二番はこのD61でした。いまは、これらを撮っている人も、すっかり老齢化し、発信力が衰えたのでしょうか。その逆に、D51やC58と言った、腐るほどいた形式が、蒸機の代名詞になってしまいました。
    峠下の写真は、わざわざ降りた訳ではなく、どちらも交換列車からの撮影です。昭和43年の時は、たしか583系を一緒に撮った鉄鈍爺さんと、羽幌まで行く途中に写したものでした。

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