倶知安(暫くは紀行文だけ。翌号になるまでは、先ず読んでくれ給え。写真が見つかれば挿入します) ※写真を3枚追加して、タイトルを改としました。見てあげて下さい。
「ニセコ3号」は雪の吹き荒ぶ倶知安に4分遅れで到着しました。零下10何℃の風雪が容赦なく舞い込み、煙とシンダーが飛んでくるキャブで奮闘した機関士、機関助士の皆様、大変だったと思います。感謝の念も言わない間にまたしても、川中がTri-Xで発車の時を撮るのだという。こんな馬鹿者は放っておくしかないので、好きなようにさせ、2人の荷物を誰もいないホームで見張っているときに、ワタシに少なからず好奇の色を浮かべた「ニセコ3号」の車掌が2人近づいてきた。「山登りか?」「いや、汽車の写真を撮りに来たんです」さらに「今、仲間の2人がこの発車を撮りに行ってます」と言うと、「こんな寒いときにご苦労なことや。 いつ来たん?・・関西弁ではないので少し違うがまあそういう内容」と聞き返してきた。ちょうどそのとき2人は「まだ、出よらん。おお寒」言って戻ってきた。2人のうち少し太っちょで眼鏡を掛けている方の車掌が、多分専務車掌なのであろうが、「寒いはずや。今、北海道は何十年振りかの大寒波に見舞われているんやで。昨日(すなわち北海道についた日)の函館なんか-15℃まで下がったそうやで(まだ、関西弁であるが、この温度は編集者が気象庁からデータを取っているので専務車掌の言は間違いはない。2号車のページをご参照)。「えらいときに来たなあ」とえらく同情してくれた。我々3人も内心、ほんまにえらいときに来た、と思っていると、遅れていた対向車(写真=探し中)が入ってきた。これで「ニセコ3号」は発車できることになったので、車掌さんに礼を言ってユースへ向かうことにした。別れ際に「趣味で汽車撮るのは構わんけど、こんな寒さやさかいに気い付けんとあかんで。凍死したらあかんで」と言って客車に戻られた。少々オーバーな感じがせんでもなかったけど、それ位気をつけな、あかんのかと思い車掌さんらと別れたのであります。「ニセコ」は吹雪の中、汽笛2声、煙と湯気(蒸気ではない、これは白く見えるのでユゲ)を身に纏い、闇の中に消え去って行った。
今夜のお宿は鉄ちゃんのユース
今夜のお宿は公営のニセコユースホステル。夕食は味噌汁もオカズも全て食べ放題。川中先生は至極満足そうでありました。このユースは「ニセコ」を追うファンの基地ともなっている。我々の泊まった部屋でも8人中6人までが鉄ちゃんであり、しかも「ニセコ」を追いかけに来ているのであった。他にも銀山で「ニセコ」を3日撮っていてまだ撮りたいがユースを出て行かなければならん、といっている人もいた。
ところで、同室の残り鉄ちゃん3人はそのうち1人は早稲田大学の学生で残り2人は早稲田高校の高校生らしく先輩と呼んでいた。大学生はまだしも高校生はひどい関東弁で、「だってさー」とか聞くと一面、寒イボ(鳥肌と言わないと通じないと思っている輩も多い。寒イボ、や)。ぞっとする。最近でこそ、関西弁が進出してきてメジャーになっているけど、当時はこういう思いをしなければならなかったのである。
先の銀山で3日「ニセコ」を追いかけている人に小沢付近のダイヤを教えてもらい、翌日は小沢で撮ることにした。こういう人とは、旅は道連れというし、交流も広がって旅そのものも楽しいのである。また偶然再会したりして旅の醍醐味を味わえるのであるが、先ほどの連中(早稲田を腐しているのではないですが)は自分らだけの殻に閉じこもっていて一緒に開襟を開き鉄道談義ということはしない。最近はこれがますます酷くなっているが、このとき既にその気が見てとれるのでありました。聞いているとカメラ、フィルムのこともお粗末内容、沼の端をヌマノハシと言う始末。失笑ものであるが、同室がつまらなくなる。9600をクンロクというもの気分が悪かった(クンロクともいうらしかったが)。
ついでに、関東の言葉には小生(編集者)も長いこと住んでいるが、嫌気が差す。「お天気雨」は情緒がないではないか。「狐の嫁入り」がええ。野菜の「ナス」は「なすび」。初夢に見るのは「ナス」ではない。SMAPの中居君が「おとつい」と言っていたのを「おととい」ではないか、と喚いていたことがあったが、「おとつい(おとつひ)」が正解。「つ」は「沖つ白波」の「つ」で沖の白波のこと、「まつげ」の「つ」は目の毛の意味。「おとつひ」の「ひ」は日であり、「おととい」とは何か!脇に逸れたがまあ、そういうことで万葉集から連綿と伝わる由緒正しい日本語を使おうと思う。ついでに言うと上京は京都に上ること、東京に行くのは東下りという。だってそうでしょうが、下らんもんの語源は下るものは江戸へいくことなんやからね。クンロク発言君ごめんね。長い日本の歴史で培ってきたんやから、舌が回らんだけでオトトヒというのはおかしいのだよ。
倶知安ユースではもう一つ思い出がある。後ほどお世話になったことがあるが、入浴するときにどこかにタオルを置き忘れ、じゃぶんと浸かったら何も持っていないのに気がついた。シャツをタオルの代わりにしたとか、まあ、田舎もんでこのユースでは色々ありました。(ニセコユースの記事は原文をかなり弄くり水増しして書きました。小林先生、ごめんね。でも関東弁をぞぞっとすると青信号には書いてありましたね)
再び倶知安で阪急2800
さて日が変わり本日は2月26日。ニセコをカメラに納めないといけないのである。そのために倶知安10:53発の41レで小沢へ下ることにした我々は余裕を見て10時頃(えらいユックリしたスケジュールですが)ユースを出た。ユースを出て暫く行くと日本電電公社(今のNTT)のジープが横に止まり「駅へいくんでしょ。乗せてあげますよ」という。言葉に甘えて乗せていただき、おかげで予定より早く駅に着くことができた。時間がくるまですることがないので道内時刻表を見るとかして時間をつぶしていたが、そのうちに川中センセが駅売店に置いてある幼児向けの「のりもの」絵本をタダ見し出した(小林氏も口が悪い。無料閲覧とか言ってくれ)。彼は2冊3冊と絵本を無心に読んでいます。
どの本か忘れてしまったが私鉄の電車が多く載っている本があり、我々もいつの間にか覗き込むことに相成ったのであります。さあ、これで終わりと川中センセが最後のページをくったところ、我々3人は「あっ!」と驚きました。な、な、何とそこには阪急2800の絵が描かれているではありませんか。(小林氏)こんなとこまで来て2800など見たくもないわい。-これに味を占めた川中センセは以降駅という駅で列車待ちの間は必ず絵本を無料閲覧されることになりました。なお、参考までに、もう一つどこだったか2000系オートカーの絵もありました。ワタシ(小林)も必死で探しましたが京阪の絵はどこにもありませんでした。残念無念コンチクショー。
*それは残念でしたねえ。しかし、最近は故澤村氏の活躍もあって、京阪の絵も多いのですよ。
写真は倶知安の改札口の風景である。時計は10:30を指しているので小沢に向かう前で、降雪の様子が見て取れる。列車時刻表が読めるが、まあそこそこ本数もあり、優等列車も多く見られる。感じるものが多いでありましょう。
C62と零下25℃(!?)
さて、小沢についた我々は駅の待合室に荷物を置いて直ぐ倶知安よりに移動した。ところがここは名にし負う北海道有数の豪雪地。昨日の銀山で粘った人の話によると、汽車が来ないときは晴れていて汽車が来る時刻になると吹雪き出すということである。まさにその通りで場所を探している間は雪はちらほらであったが、小沢駅に上りの「ニセコ1号」が到着する頃になると、それこそ吹き飛ばされそうになる位に吹雪きだした。
汽車と同じ方向に吹雪くので残念ながら前からは撮れない。精精横か後ろからである。交換列車が遅れたため小沢で15分ほど待たされたので、じっとしている体はすでに凍てつき始めていた。結果は3人とも散々であった。このままではあかん、やられてしまうと早々に駅に引き返すことになったが駅への道中20分は死ぬ思いの寒さであった。行きは南に向かって歩くのでそうでもなかったのであるが、復路はモロに向かい風。前に進むだけで精一杯でありました。(更に小林氏の感想が続く)その上その風たるやシベリヤ直送の大雪を伴う吹雪であるから防寒装備の弱いところ、例えば顔、耳、手袋なんぞ何の役にも立たぬ(←小林氏はそう言うけれどやっぱり無いよりマシですよ)。手指など寒さを通り抜けて感覚がない。その他、ジャンパ、キルティング、スキーズボン等で武装しているとは言え、体の前面に雪がどんどん溜まってきて腹等が冷えてくる。こんな有様であるのでとても正面を向いて歩くことはできず、じっと下を見ながら黙々と歩き続けた。そのときにあの「ニセコ3号」の車掌さんの言葉を思い出し、駅にたどり着くまでに死ぬのではないか」と本当に考えたものであった。おそらく気温(実効気温)はマイナス25℃かそれ以下であったであろう(これが誇張かどうかは、行った人でないと実感として分からないでしょうね)。
やっぱり旅は道連れ
やっとの思いで駅に戻ったが、厳しい寒さのためすっかり写欲を殺がれ、専らストーブにあたっておりました。やっとこさ生き返る。ここで田町電車区の25歳くらいと思しき運転士の人と東京の大学生と会い、直ぐ親しくなり特に運転士さんとは大いに話が弾んだ。更に驚くべきは他の場所には一切行かず専ら銀山-小沢-倶知安で「ニセコ」を追いかけているのだそうで、その時も5日目で明日もう一度上りを狙ってから東京へ帰るということであった。大学のお兄さんはこれも気さくな人で、昨日のクンロク連中のようなイヤラシサもなくこれまた親しくなった。彼は今日、倶知安に泊まって明日、「大雪6号」で常紋に行くのだそうだ。この人とは次の日に札幌駅でばったり会うことになる。旅とは縁のもの、不思議である。
- ※ (小林氏の回想。このデジ青投稿に当たって、どうも気になるのがあるということで、その疑問をついでに載せる)。それは、小沢駅で出会った田町電車区の運転士の方ですが、あの「大石和太郎」さんではなかったでしょうか?名刺を貰っていたはずで、暫くは保存していたのですが、最近は行方不明になっておぼろげな記憶しかありません。
大石さんだとしても不自然なところがあります。最近鉄道雑誌で大石さんが自身の履歴を述べておられましたが、それによると大宮機関区で助士、電車運転士を経て新幹線上りひかり初列車を運転、とありましたので昭和44年に田町におられるはずは無いのではとも思います。なお本編旅行の数年後に、ジャーナル誌だったかに本社電車課所属だった同氏が「旧型電車の更新計画」を寄稿されていたのを読んだことがあります。というものであります。このときにお会いしていたとしたら名誉なことなのでしょうが、本当なのでしょうかね。編集者KAWANAKAも思い出しましたが、国電をぶっ飛ばして、干してある布団をぶっ飛ばしたよ。あんな電車で95も出してねえ、なんて凡そひかり号初列車と縁がない面白い話をされていましたが。ま、大石さんが「あれは私でしたでえ」とコメントを戴けるとは思っていないので恐らくこの世を去るまで謎のままです。 - ※ さて、小沢駅である。倶知安へは3km、銀山へは9.8km、ちょうど真ん中辺にあって、谷底にある。駅直ぐの越線国道からでも撮れたのであるがカンジキ(漢字はない?)も買ったし、雪くらい何じゃ、とそこを超えて遠征したわけです。
DRFCではそのころ、極道○○とあだ名されたT氏(本来極道ではなく良い?青年であるのだが)が在籍していて、何かイベントがある毎に、「札幌~」というのんびりした駅名放送と対比して、「コザワっ、コザワっ」とせわしない放送を披露していた。そのときは急行も止まり、岩内線もここから出て、貨物扱いもあり、それなりの風格のあるローカルの駅であった。構内には写真にあるようにそれなりに線路がにぎやかであったのですが、時代に埋もれ次のような経緯を辿っていくのです(HPより)。
1970年(昭和45年):映画「男はつらいよ 望郷篇」でロケに使用される。(この辺がピークかな)
1984年(昭和59年)2月1日:荷物扱い廃止。岩内線の貨物営業が廃止。
1986年(昭和61年)11月1日:簡易委託駅となり、無人化。
1992年(平成4年)4月1日:簡易委託廃止、ついに完全無人化。
昭和の終わりになって、急に元気がなくなっていることが分かる。世の中に主因があることは分かっても、その中にあって何ができるか、どうすれば良いか何かできなかったかなあという気がする。今件の場合は条件が厳しすぎるとは思うが、最近は理由をつけてビジネスを畳む、社会インフラをなくすような方向に舵をきる経営判断は鉄道事業に値しないと思うけど、どうかな(偉そうなこと言いやがって、そうかも)。
さて、小沢に限らずこんな状態になって元気な頃、訪れた高齢者にとって、本当に寂しいことであります。ところで、この原稿を編集しているときに小沢の駅前旅館がまだやっていることに気がついた。編集者は何回かお世話になったが加太の村田屋、飯山線の鹿渡館と同じ運命を辿るのかな。訪れると多分涙なしに居れないであろう。
(小林センセの運用解説)
この後の予定では16:07の急行「らいでん3号」で、札幌に出ることになっている。昨日からの大雪でダイヤが乱れてきたのとあまりに寒いので。「らいでん3号」に乗る前に待合代わりに岩内まで乗車距離稼ぎに行ってみようと言うことになり、14:56の931Dに乗った。というところで、ここで小林センセの運用の話を転用したい。
この931Dは、←岩内 キハ22285+キハ22288+キハ22247(全車札ナホ)
の編成。岩内で直ぐ折り返し3輌のうちのキハ22247はそのまま札幌行きとなる。余談であるが途中に「前田」というボロイ駅、まるでBone(ボーン=骨)のような駅があり、大いに退屈しのぎになった。※さらに余談であるが、そういえばこの頃から暫く、漫才ねたで、どこへ行く(駅はどこなどもあったかもしれない)?「言わない」「あほ、どこやと聞いとるんや」。「そやから、言わない、言うてるやろが」とかいうネタに使われたものである。年配者は覚えておられるであろう。
さて、この列車は岩内で逆編成になり934Dとして小沢に着き、2輌が切り離された後、先ほど言ったように札幌直通の1輌がこの駅で銀山寄りに引き上げ転線し蘭越発の急行「いぶり」の前部に連結され905D「らいでん3号」となる。編成は、
←札幌 キハ22247+キハ22253(以上札ナホ)+増②キハ2254+増キハ22115(以上札ムロ)
増②および増号車が札幌発札幌行きの急行「いぶり」である。北海道にはさきの「せたな」といい、この「らいでん」といいキハ21は流石に少ないとは言えキハ22による急行が非常に多い。1等車の付いていない急行でローカル的な特徴を有するものは全てキハ22で編成されている。急行というより準急である。これから渡道する人のために記しておくと急行「とうや」の全部、711D、714D「夕張」、「ぬさまい」。「しれとこ」(標津線方面行き)、612D「しれとこ」、613D「大雪」。「天都」。「オホーツク」。「るもい」、など。未確認ながら「ノサップ」、「池北」もそうと思われる。尤も夏場、10月ダイヤ改正用のキハ58などの新製車や全国からDCがかき集められるのでこの限りでないかも知れない。どうですか皆様。これから渡道する人は参考になりましたでしょうか?ただし半世紀前のことですけどね。
これはこうとして我々の旅であるが931Dで小沢を出るときに「宗谷」が遅れているということで、我々が小沢に戻ってきてもまだ来ていないらしい。ここで先の田町の運転士が「ワシも今日は札幌に泊まるけど」と言って「らいでん」に乗ってきた。聞くところによれば、朝里あたりで711系ECが脱線したとかで、それで「宗谷」が遅れているということらしい。「脱線しよるのは軽い電車やからのう」とは先ほどの運転士(こんなこと言っていたのを編集しているときに思い出した)。ほんまに札幌に行けるんかなあと思っていると「宗谷」が滑り込んできよった。心配を他所に「宗谷」は順調に走り17:52に10分遅れで札幌に到着した。今晩の宿は藤本先生推薦の円山ハウスである。農業何とからしいおっさんがにぎやかで寝られなかった。明日は近郊の私鉄を巡る予定である。楽しみ。
※ キハ22247について
またまた、編集中に不思議なことがありました。西村氏が指摘、岩内線のところで 最初はキハ22247なのですが 次からキハ22287になっています。これは青信号22号の原本から間違っているんかな。68年動力車配置表を見ると苗穂にはキハ22247も287も両方配置されているのです。一応最初の247が正しいとしてあとの方を247に修正で。というわけでデジ青の記事を(そういうことにしようと西村氏のコメントに従って)そのようにしました。その後、このことにかけては昔も今も超ウルサイ小林センセから、次の解説がありました。
先頭が22「285」番ではなく「287」番です。よって編成中に247番も287番もありました。青信号22号もこうなっています。
岩内行931D ←22「287」+288+247。
折り返し934D ←22 247倶+288倶+「287札」。「先頭2両」が切り離され、287が転線してらいでんの先頭になり札幌へ直通します。
らいでん3号 ←22 「287岩内発」+253目名発+54いぶり+115いぶり。
ということで「287」番が正解でした。なお余談ですが247番は札幌かららいでんで岩内へ来て、折り返しは倶知安行です。つまり札ナホからの送り込み運用で、逆に287番は倶知安をうろついていた車をナホへ戻す引き上げ運用ということになります。
こんなコメントを書くのはマトモではないですが、一応真剣に内容を推敲したという証拠に、デジ青の原稿にこのコメントをつけておきました。
=4号車に続く= 次号車は写真がいっぱいになります。乞う、ご期待。
補足説明/小林からお読み頂いている皆様へ
1.「再び倶知安で阪急2800」中、翌朝YHから駅への道中に「電電公社」の車に拾っても らったとありますが、なぜ単に地元の車とせずにわざわざ「電電公社の」と断ったか、 その理由は親父が電電公社の職員だったからなのです。親近感を覚えたので記述したま でで、まあ気になさらないで下さい。
2.最後に岩内線と急行らいでんのキハ22の運用記述がありますが、今となっては247番で も287番でもどちらでもいいとは思いますし、今さら議論してもそう意味のある事柄で もないとは思うものの、こうして一旦活字にしてしまうと「記録」という別の意味合い が生じてしまいますから、従ってたとえ半世紀前のこととはいえ、正確を期すために あえて拘ったわけです。
とまれ本来はタイトルにあるような「キハ22247の問題」ではないのです。
KAWANAKAさんから戴いた原稿が違っていた(287を285と誤記)だけで、一連のやりと りを読まれても、いったい何のことか益々頭がこんがらがってしまうだけだと思います ので、あえてネタをバラしました。お読み頂いたのに恐縮ですが、まあ何番でもいいや で読み進めて下さい。
小林さま、読者の皆様
まあ、そういうことなんですが、結構頓知みたいな記事になったので、間違いが発端でもやり取りを載せて煙に巻いてやれとまでは考えませんでしたが、今に尾を引くチン道中になっている次第です。Keep your 珍 up です。めげずにお旅を続けます。