▲夕方の西舞鶴駅、盛大な煙を吐いて、重連の牽く列車が発車して行った。まだ暑さが残る。窓は全開だ(昭和45年8月)。
B地点〈西舞鶴〉
つぎの撮影地はB地点、と言っても駅間ではなく、西舞鶴の駅構内です。機関区の所在する西舞鶴へは高校生時代に訪れて以来、何回か行き、宮津線への乗換え時間に発着する列車も撮影してきました。駅は宮津線用の切り欠きホームも含む二面四線構造、西側に機関区、東側に広大な貨物側線があり、地方の中枢駅の典型的な駅構造でした。また地図を見ても分かるように、臨港線や工場の引込線が多くあり、貨車の出入りも活発でした。
ここで舞鶴線の歴史をたどってみると、明治34年に開庁した舞鶴鎮守府が絡んでいる。それまで軍港設備に必要な資材は、阪神方面から阪鶴鉄道経由で福知山まで送られて、そこからは鉄道が無いため、由良川の水運を利用して舞鶴まで運ばれた。国防上からも舞鶴軍港までの鉄道敷設が強く望まれ、明治35年に福知山~舞鶴、官設による敷設が決まる。日露戦争の開戦を前に突貫工事で進められ、明治37年に福知山~新舞鶴(現・東舞鶴)の舞鶴線が開通した。同時に、舞鶴(現・西舞鶴)から西港へ至る臨港線や、新舞鶴から海軍施設へ至る専用線も敷設された。同時期、山陰線は園部~綾部が未開通で、京都府でありながら、京都より先に、大阪と通じていたことが興味深い。 ▲西舞鶴機関区にはC12が5両配置されていて区や側線に待機していた(昭和41年10月)
▲初めて西舞鶴を訪れた高校2年生、ホームから発して行く貨物列車を定番スタイルでとらえた。D51577〔福〕が牽く(昭和41年10月)。
▲入換えに励むC12の横を発車するD51499〔福〕+C58248〔敦一〕+客車8両の東舞鶴発福知山行き940列車(昭和45年8月)。
▲宮津線の列車も出入りする西舞鶴、これは、キハユニ1516〔福トヨ〕+キハ20+キハ25の豊岡発西舞鶴行き344D(昭和45年8月)。
▲舞鶴線の蒸機運用の特徴は、重連が多かったことだ。宮津線、小浜線の両方向へ向かう併結列車も多く長編成であることの理由のほか、機関区への回送を兼ねた重連運用も多かったようだ。DRFCメンバーと宮津線に行って戻りに撮った列車は、C58252〔敦一〕+C58、長い客車編成の後には、さらに補機が付いていた。夏季臨時の牽引機の回送により急遽組まれたようだが、覚えいるのは、三重連の呼吸が合わず、次の真倉で停車して交換待ちの間に、機関士同士が口喧嘩を始める始末だった(昭和44年8月)。
機関士同士の喧嘩とはまた珍しい光景を目にされていたのですね。呼吸が合わなかったのは重連同士なのか重連と補機間なのか興味深いですね。補機との協調がうまくいかないことは補機側の故意でもない限りちょっと考え難いと思われるので、重連間だったのでしょうか。
舞鶴線の重連や補機は特に西舞鶴~東舞鶴間にあった25‰白鳥峠越えのためだったと思われます。もちろん回送用にもあったでしょうが、いずれにしても当時はそれほど輸送量が多かったということでしょうね。現在では考えられませんが。
小さい頃家族で夏休みに海水浴のためよく天橋立へ行きました。列車は京都駅を7時前に出る豊岡・敦賀行併結客レでした。夏季でもあり10両ほどつないでいたと思います。補機が付いたかどうか忘れましたが、綾部で逆方向へ走りだしたので親が大騒ぎしていたことを憶えています。復路も多分京都駅20時頃着の逆方向の併結レでした。この列車には補機が付いたことがあったように記憶します。ただ蒸機の形式は当時は知る由もなく、煙を上げていたこととトンネル突入の度に慌てて窓を閉めたこと以外は全く記憶にありません。
余談ですが、泳いでいるときに捕らえたクラゲをビニール袋に入れて持ち帰ったところ、帰り着いたらクラゲが溶けていなくなっていたこともありました。
懐かしい写真を有難うございました。
1900生さま
コメント、ありがとうございます。機関士の口喧嘩は、補機はさすがに離れていますから、前部の重連の機関士でした。たぶん1両目に乗っていて目撃したと思いますが、交換待ちの間に、突然、大声を張り上げて口論が始まりました。
京都駅を6時40分台に出る列車、ありましたね。手許の昭和42年10月改正を見ると、京都6時41分発の921列車で、敦賀・豊岡行きの併結で、小浜線、宮津線のどちらにも行ける便利な列車で、私も撮影などてよく利用しました。