◆た~ちゃんの電車めぐり ⑮ 

青電スタイルで片側に扉が3ヵ所あった大型ボギー車、1000形も忘れられない電車です。昭和24年秋に登場した時、200人乗りと新聞で紹介されました。宝ヶ池競輪場へは元田中から叡電に乗り入れ直通運転をしました。チャンチャンの警鐘からパァーンの警笛に変わりました。動物園、植物園への遠足には子ども達を満載して走っていました。
汽車は貨物を運ぶために生まれましたが、電車は人を運ぶために生まれました。でも、それ以外の役割もしました。明治・大正期の都大路の大部分は未舗装で、乾燥した日は砂塵がもうもうと立ちこめます。そこで水撒き電車が造られ、堀川押小路では堀川、熊野神社下ル徳成橋畔では疏水から水を汲み上げていました。終戦直後まで夏場には水撒きする姿がありました。


競輪場への観客輸送のため、京都駅前・四条大宮から京福電鉄宝ヶ池に乗り入れた京都市電、1000形が専用で使われた。

そして貨物電車です。戦中・終戦直後、トラック輸送はガソリンがなく壊滅状態になりました。そこで、撒水車や古い1形(チンチン電車)を改造して貨物電車が準備され、高野橋東入ルや棒鼻に設けられた野菜集荷場から中央市場へ、中央市場から公設市場へ、魚菜を屋根なしの真っ黒の電車で運びました。特異な話ですが、500形2両の座席を取り払い、東山仁王門東入ルに集めた肥桶を積み、東山三条から京津電車に乗り入れ、大津市近郊の農村部へ食糧増産のため走った話もあります。
戦後の混乱期が落ち着きを見せた頃から折りに触れ、貨物電車を利用して花電車も走りました。今の天皇ご成婚の時も市内を走り祝賀気分を盛り上げました。今年は京都市自治60周年を記念する年ですが、40年前には花電車も走りました。飾った電車はよく揺れる200形でしたが、これは外板が板張りのため装飾がしやすいのが理由だったと聞いています。市電の役割は多彩だったのです。

四条木屋町を行く200形の花電車。昭和33年の京都市自治60周年を記念して走った。背後の不二家も懐かしい。いまはマツキヨに代わっているが、建物はそのまま残っている。

 ◆た~ちゃんの電車めぐり ⑮ 」への10件のフィードバック

  1. 花電車の写真は京都市自治六十周年になっていますね。
    今から60年前ということは、今年は自治120周年ということになりますね。
    不二家、10月に甥と京都散策に行った時にマツキヨに変わってたのにはびっくりしました。
    河原町三条のレストランも無くなってたのには時代の流れを感じました。
    学生の頃は飲み会の待ち合わせ場所は三条のペコちゃん前でしたから・・・・・・。

    • ほへほへ様
      毎回のコメント、ありがとうございます。百周年は間違いでした。60周年に訂正しておきました。その当時、今で言うファミレスは、不二家が代表的でしたね。私も河原町三条の不二家へはよく連れて行ってもらいました。ここも一時は回転寿司屋になり、いまは薬局になっています。
      四条木屋町の現マツキヨは、今日も前を通って確認しますと、写真に写っている上屋の部分は、不二家時代のままでした。

  2. 総本家青信号特派員様

    このシリーズは市電を知る上で、いつも奥の深さを感じさせられております。
    ところで、今回の宝ケ池の写真説明で『京都駅前・四条大宮から京福電鉄宝ヶ池に乗り入れた京都市電』と有ります。 小生のバカの一つ覚えでは乗入れは叡電前からではなかったかと思うのですが、この点をご教示下さい。

    • 河さま
      小生の記憶では京都駅・四条大宮(京都駅は現認できておらず今まで知りませんでした)から市電東山線を通り、仰せの通り市電叡電前と京福(当時)元田中の茶山方にあった連絡線を通って宝ヶ池まで乗り入れていました。この連絡線を通過中と宝ヶ池駅構内(鞍馬線のホームの南方にあった側線)に留置中の1000型を見たことがあります。この見かけたこと以外の四条大宮発着や茶山~修学院は通過していたなどは父に教えてもらいました。当時は大宮五条に住んでいたので父も京都駅発着があったことは知らなかったようです。電圧は双方600Vで車両限界は京福の方が大きかったはずですから大きな問題は無かったのではと思われます。

    • 河様 1900生様
      いつもコメントありがとうございます。このシリーズは、今は自分で投稿することが困難になった乙訓の老人さまから「これがワシの遺言や」と頼まれ連載しています。私も入力しながら、京都市電の奥深さを感じています。原稿どおり打ったため、言葉が足りませんでした。1900生様もお書きのように、「京都駅前、四条大宮(実質は壬生車庫始発)から、それぞれ東山線の叡電前(元田中)から京福宝ヶ池に乗り入れした」でした。もう少し詳しく言いますと、乗り入れは昭和24年12月から開始され、競輪開催日、開催時刻に合わせて両系統とも20分ヘッドで、月に10日程度の運転でした。当初京都駅前発は七条・東山線経由でしたが、百万遍の渡りができたことにより、途中から河原町・今出川線経由に変更されました。運賃は市電・京福を合算したもので、専用切符も用意されました。叡電は地方鉄道であり、路面電車が鉄道線に乗り入た先鞭と言えます。さらに宝ヶ池で花火大会があった時にも、同様に運転されたことがありますが、昭和30年9月を持って休止となり、以後、市電の乗り入れは無くなりました。
      実は私は実際の乗り入れシーンは見ておらず、1900生さんとの2歳の歳の差を感じました。元田中に残る渡り線の跡や、宝ヶ池に残る市電用の低いホーム跡で、当時を忍ぶのみでした。

      • 総本家青信号特派員さま
        詳しくご解説頂き有難うございました。小生はここまで細かいことは知りませんでした。いい勉強になりました。
        ところでご紹介写真の宝ヶ池における1000型は、今まさに鞍馬線の上り?(出町柳行)高床ホームに入線するところで、この少し岩倉寄りに渡り線があってそこで折り返してきた電車だと思います。さてこちら側にも市電用の低床ホームはありましたでしょうか?朧げに鞍馬行高床ホームの岩倉寄りにあったような記憶があります。
        余談ですが当時の宝ヶ池と修学院の渡り線には架線が無く、少し先から勢いをつけて渡り線に突っ込み、車掌がタイミングを合わせてポールの紐を引っ張って宙に浮かし、反対線路に合流の機を捉えてポールを復線するという曲芸をやっていました。復線時にタイミングが合わないとよく架線とホイールとの間にボッボッと青白い火花が散っていたものです。一方架線のあった出町柳ではトロリーの分岐・合流器で時たまホイールが外れ、車掌が車内での切符発売から帰れないときなどポールが上昇、架線吊りなどにゴンゴンと当たっていました。中にはその衝撃で少しひん曲がったポールもありました。以上、ポール昔話でした。

        • 1900生様
          叡電の思い出、ありがとうございます。宝ヶ池の低床ホームですが、私も鞍馬行きホームの岩倉方にあったような記憶があります。渡りには架線が無かったこと、初めて知りました。出町柳の発車・到着時に車掌が必死にポールの紐を操っていたのは、岩倉で同じ時代を共有した者として印象に残っています。

  3. 1900生様 総本家青信号特派員様

    『日本語は難しいですね。』
    『京都駅前・四条大宮から京福電鉄宝ヶ池に乗り入れた』は、もうちょっと注意深く読み説けば『京都駅前や四条大宮(壬生車庫始発)から出発し、叡電前まで行って乗入れる』と判るのに、小生の単細胞頭は、表面しか読み切れず…。 大変失礼しました。
    小生は廃止後の昭和30年代後半に現場(叡電前・元田中)には何度か足を運び、乗入れ状況を想像しながら楽しんだ事がありますが、1900生さんが『乗入れing』状況をご覧になっていたとの事、羨ましい限りです。
    序ながら、何故市電では叡電と同じ『元田中』とせず、わざわざ別名の『叡電前』としたのでしょうか? 漫才ではありませんが、『考え出すと夜も眠れない!』(笑)
    1900生さんの渡り線通過時の車掌さんのベテラン技の話、面白いですネ。 
    ひょっとして車掌同士で技を競い合ったりしてたんでは…。(笑)
    昔は市電のみならず、鉄道全般そこここに此のようなアナログ場面が有りましたネ。
    国電やSL等の運転はその最たるものでしたネ。

    • 河 昭一郎さま
      仰るように昔は言うところの「職人技」を持った人も多く、やはり多少の競い合いもあったようです。むかし京阪の車掌さんから「木造200型の非自動扉車に乗務した際は、停車前に車掌台から飛び降りて減速中の電車を追いかけて2両6か所ある扉のラッチを外してゆき、発車時に運転台後ろの扉からラッチを引っ掛けて最後に車掌台に飛び乗るということをやっていた」という話を聞いたことがあります。今のように高加速高減速車ではとても無理ですが、運転士も心得たもので多少はゆっくり走ってくれたそうです。最盛期には制服の袖先にヒラヒラした飾りなどを付けて、さながら道化師のように、行為だけでなく服飾的にも派手に振舞った人も居たようで、段々と競争ムードが高まるにつけ、制服加工の社内規定違反という理由や、ホームから落ちて怪我をしたり亡くなるケースも出るに及んで、ついに会社から禁止令が出てそういう危険行為が収まったということです。運転技量については社内検定などもあったことから、人目には付きにくいだけで一層拍車がかかっていたのではないかと思われます。昨今のブレーキがよく効く電車と異なり、お召しのSLで数センチの誤差で停めたなどというのはそれこそ神業に近いですね。
      元田中と叡電前の件は確たる根拠はありませんが、たいていは市電開業前に郊外電車の駅が先に在って、市電側が「〇〇前」とすることで混乱を避けていたのかもしれません。市バスも含め三条・四条・七条各京阪前という例のように。
      数年の年齢差については会社の同好者からもよく言われました。昭和40年代後半のSL末期のことですが、その頃は受験勉強の真っ最中でSLどころではなかった、SL最終期を体験されたのは「羨ましい」と。1000型の渡り線シーンなどはたまたまそこに居合わせただけなのですが、全般的には年齢と鉄道技術の発達や社会の発展との噛み合わせが丁度良い時期に過ごせたわけで、自分で選択できるものではないだけに、ありがたいことと感謝しています。

  4. 1900生様

    小生のコメントへ再びのお相手を頂き、ありがとうございます。
    又また興味深いお話に感心する事しきりです。

    小生、SLについては中学生時代にギリギリ間に合った感じで、どちらかと言うと電車世代です。
    いわんやSLの体験や現認は数えるほどしか無く、当時住んでいた京阪神地区でも80系
    全盛でしたので、身近なSL体験ができたのは阪神間に残っていた山陽線のSL牽引列車でした。
    SL次位の先頭客車に『張り込んで』大阪~西宮の1区間に乗った体験しかありませんが、テンダーを挟んでいたにも関わらずその迫力には感動しました。

    一方、当時の国電ではモハ51の片隅式運転台車が先頭になる時が有り、先頭部の右半分は乗客に解放されていました。
    この特等席で前面窓ガラスに張り付く体験は迫力満点で、夏季などは暑いので風を通すため運転士が客室との引き戸を解放して運転するのが楽しみでした。
    真横の至近で、例の指差し確認と共に『出発進行~』『発車』『制限●●』などの称呼、更には出発時の微妙なノッチ操作や駅到着時のブレーキハンドル操作の複雑さ等を間近で見る『お得感』は抜群でした。

    ところで、『元田中』と『叡電前』の件、小生何かに書いた事があるのですが、市電がこの地に到達した1943(昭和18)年7月10日時点で交差する鉄道は1942(昭和17)年3月2日に『叡山電鉄』から『京福電鉄』になっていて、『叡電』では無かったのに、公式であるべき停留所名に敢えて俗称を採用した事になりました。
    これは、市電東山線が1978(昭和53)年に廃止となるまで続き、1986(昭和61)年4月1日に『京福電鉄叡山線』から『叡山電鉄』に戻った時には皮肉な事に既に市電は消えていた事になります。

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