DD51、という機関車、長かった活躍もそろそろ終わりそうで、歴史を閉じようとしています。蒸機世代にとっては、DD51は、嫌われ者、憎まれ者以外に、形容する言葉がありませんでした。蒸機牽引とばかり思っていたところに、凸型の赤い車体が姿を現し、それこそ石でも投げつけてやりたいことが、一度や二度ではありませんでした。以来50年、ついでに撮ることはあっても、DD51目的で撮ることはありませんでした。でも、DD51が鉄道近代化に果たした功績を思い、活躍が終わろうとする今ごろになって、急にDD51が愛おしくなってきたから不思議です。蒸機撮影の片手間に撮ったDD51も、かなりの数になりました。本シリーズでは、蒸機と共存しながら増備を続けていた、DD51の昭和40年代の活躍を採り上げてみました。▲DD51の全製造数は649両だから、1号機は、それなりの価値があるだろう。おもに秋田区を根城に、羽越本線、奥羽本線で客貨を牽いていた。1号機狙いで行ったことではないが、意外に出会うことがあった。写真は、酒田で憩うDD511、試作的な要素があり、そのスタイルは独自のものがある(昭和44年8月)。
DD511の誕生
昭和30年代、電車の飛躍的な発展に比して、ディーゼル機関車の開発は立ち後れていた。入換用のDD13は堅調なものの、本線用は、海外との技術提携による電気式のDD50、その発展形の量産機DF50が本線用として導入されていたが、C57に相当する性能で、D51の性能には及ばず、亜幹線での使用にとどまっていた。海外の技術提携試作車を借り入れてテストをするものの決定打はなく、本線格の完全無煙化を考えると、D51に匹敵するDLの開発が急務となった。また、エンジンは輸入品で価格が高いこと、電気式特有のトラブルも多発するため、国産で高出力な液体式の本線用機関車の開発が進められた。
このような背景で登場したのが、第1次試作型として昭和37年に日立製作所で製造されたDD511だった。外観上は本線用としては初めての凸型で、円形の前照灯を2灯ボンネット前端に配置し、運転室屋根にヒサシはなく、2号機以降に比べて丸みを帯びた印象となっている。当初はぶどう色2号を基調に白帯を回し、白帯は前照灯間でV字になる独特の塗装色だったが、のちに量産機と同じオレンジに白帯の塗装に変更された。東北各地でテストのあと、秋田区に配置された
試作機のテストのあと、2~4号機が増備されると盛岡機関区に転属し、その後も東北地方を中心に運用されたが再び秋田機関区に転属。昭和55年ごろまで使用されていたが、その後は休車・廃車となった。保存用として高崎第二区に置かれていたが、現在は、登場当初の塗装色に戻されて碓氷峠鉄道文化むらに保存されている。
▲1号機独特のキャブ回り。▲▲秋田区では羽越本線、奥羽本線で使用された。▲昭和46年の夏の狂化合宿が、阿仁合線荒瀬近くで行われた。私は上野から「津軽2号」に乗って、早い目に集合地の奥羽本線鷹ノ巣に着くと、秋田発青森行き443レを牽くDD511に出会った。ほかの量産機と共通運用で、奥羽本線の列車を牽いていたが、この時点で、C61も健在で普通列車を牽いていており、当時はDD51でガッカリだったが、今となっては、よくぞ撮っていたと思っている。
総本家青信号特派員さま
SLのみならずDD51 1号機も撮っておられたのはさすがですね。新製登場の記事をピク誌で見た記憶はありますが、こんなに丸っこかったのですね。量産車の方が余程精悍な面構えに見えます。
「かつては石でも投げつけてやろうと思ったが愛おしくなった」との述懐には全くの同感で、小生も身につまされます。原色狙いでまだ多くの原色車が走っていた頃にはやはり見向きもしませんでしたが、10数年前頃から千歳線の重連運用や函館本線の仕業数が改正毎に減っていくのと、逆に更新色が増えていくのに危機感を覚え、撮り始めたのがDD51にのめり込むキッカケでした。寒中北海道見聞録当時の大沼公園で、キハ22の朱色と間違えてKAWANAKA先生に怒られたのは北海道デビュー間なしの特急貨物ほっかいでした。客レはまだSLなのに重連で牽く3051レと3050レは特急北斗並みのスピードで運転されていたのに驚きました。
原色を追いかけていたら自然の成り行きでDD51に行きついたと思いましたが、やはり当初はDD51を追いかけることにそれなりの抵抗感はありました。しかし仰るように同機の近代化への貢献を思うと、そのうちに愛おしさが芽生えてきたのも偽らざる心境の変化でした。また北海道の秀逸な景観ものめり込む要因の一つだったのではと思っています。
近くでは昨年6月に四日市の末広可動橋で原色を撮ることができ、それこそ数年越しの帳面を消すことができました。
もはや風前の灯ですが、その功績を讃えて見送ってやりたいと思うこの頃です。
1900生さま
コメント、ありがとうございます。1900生さんがDD51を熱心に記録されていることは、縷々聞いていましたが、事の発端を聞かせていただき、納得しました。蒸機がいた頃の北海道、DD51は確かに目の敵でしたが、あのスピード、あのパワーを目の当たりにすると、私もひそかに憧れずにはおられませんでした。私も一昨年でしたか、四日市で原色をたっぷり撮り、DD51との付き合いは卒業しました。しばらくし思い出を綴ってみたいと思っています。
総本家青信号特派員さま
蒸機、市電、私鉄など多くの分野にわたる車両を撮影されているとは存じておりましたが、DD51もしっかり記録されてたのですね。小生もSLブームの終わり頃、蒸気機関車が来るはずのスジに、DD51がやってきてガッカリした経験は幾度となくあります。もちろんシャッターを切るはずもなく、流石に石を投げることはしませんでしたが、気持ちは身にしみてわかります。
小学生のころに見た図鑑に、「新鋭機関車」としてDD51 1が紹介されていましたが、「丸っこい変な機関車やなァ」と感じた覚えがあります。NゲージのDD51 1を引っ張り出して、後期量産型の1000番台車と並べてみると、キャブの形以外にも砂箱の数や空気ダメの取り付け位置など、相違点が色々あるようです。そうですか、DD51にも終わりが見えてきましたか…。登場以来半世紀以上も働いてきたのですね。非電化区間のエースであり、功労者と言っても過言ではありませんね。
D51が見られるのもあとわずかに迫った昭和48年の8月、加太の大築堤で最後に残った補機付きの261列車を待っていた時のことです。いつもなら二つ聞こえるはずの汽笛の様子が何だか変でした。大築堤手前の木立から見えるはずの煙も見えず、姿を現したのは、そう、にっくきDD51でした。後補機のD51はサボっていたのか煙はなく、やる気もなさそうに見えました。当然シャッターは切らないはずですが、何を考えたかしっかり撮っておりました。しかし、あの日から長い時間が過ぎ、今となっては貴重な記録となったのかもしれません。
昭和48年8月31日撮影
総本家青信号特派員さま
加太にDD51が入っていたのは知りませんでした。SL廃止の1か月前に8㎜で撮って以来、すっかり関心がなくなってしまい、その後はフォローしていませんでした。ご覧になったのはひょとして入線とか性能試験列車ではなかったでしょうか。
DD51はまさに昔の敵は・・の類ですね。今の「友」とまではいえませんが、まあそんな感じになってきました。ところで投稿文の経歴中でDF50に触れられていましたが、紀勢線で体験した性能の差は歴然でした。紀伊長島→大内山の25パーミル区間をDF50+旧客の列車では22分を要し、今にも止るような低速で走っていましたが、後年DD51+50系客車では僅か14分運転で、あっけなく荷坂峠を越えていました。
紫の1863さま
いつも、ご丁重なコメントをいただき、感謝いたします。DD51の思い出、聞かせていただきました。私も加太でDD51を撮ったことがあります。加太の無煙化は昭和48年10月改正からで、8月、9月は、私もほとんどの日曜日、加太へ通っていました。DD51の貨物には何回か遭遇しました。加太のD51はヤマほどありますが、DD51の貨物は、ごく短期間ですから、かえって貴重な記録になりました。
さて画像が貼り付けられないとのことですが、私でも以前できましたので、「参照」から該当の画像を選択すれば可能だと思うのですが、いかがでしょうか。ぜひ拝見したいです。
総本家青信号特派員さま
ご丁寧な返信、恐れ入ります。
関西本線加太のDD51は、昭和47年10月の草津線無煙化時から入線していたはずで、最後の一年は草津線に入る貨物列車の先頭にDD51、後補機にD51という姿を見られたと思うのですが…。蒸機一辺倒でDD51を目の敵にしていた小生はシャッターを切らず、列車後部のD51だけを撮って「補機の写真」などと粋がっていたものでした。件の写真は蒸機時代最後に訪れた大築堤での撮影で、今となっては貴重な記録となりました。
画像サイズを小さくしてみましたが、送れるでしょうか。
上手くいったようです。
送信してから誤字に気付きました。「粋がって」は「意気がって」の間違いでした。謹んで訂正し、お詫び申し上げます。
紫の1863さま
画像の貼り付け、ありがとうございます。ご説明の中で、加太のDD51の経緯が分かりました。昭和47年10月改正で草津線の客貨がDD51化されたため、加太でもDD51が見られるようになったのですね。それにしても、大築堤のDD51は、絵になりますね。
画像が送れませんでした。再度送ります。
あれ、おかしいなあ。もう一度。エイ!
あきません、諦めました。
昭和40年と41年の夏に会いました。青森駅
浅虫駅
米手さま
またまた貴重な写真をご披露いただき、ありがとうございます。青森、浅虫の撮影、ということは、DD511がまだ盛岡区に配置の時代ではないですか。これは貴重です。蒸機一色の青森駅で、オレンジのDD51は、さぞまぶしかったことと思います。また浅虫は、駅そのものは移転していませんが、前後の区間が海岸沿いを走っていた旧線の時代ですね。
浅虫駅の前後が新線に代わっているのですか?
知りませんでした。
総本家青信号特派員様
DD51はDF50に続く汎用機だと思いますが、活躍地域の関係で小生には縁遠い存在でした。
そのスタイルは実用本位で、重連対応の設計から凸型になっていたようですが、かのデラックスな『特急』の『北斗星』を、まるで貨物列車を牽くように重連で走る姿には少なからず違和感を感じたものです。
DF50か、せめてDD54くらいのスタイルをした特急仕様のDD51が有っても良かったのに、と思ったりしたものです。
それにしても貴殿の研究対象が広範なのには感心至極。
バス、トロバス、市電、SL、DC・・・等、鉄道(乗り物)を網羅しており、今回はDLと、貴殿の話題提供を楽しませて頂いており、感謝しています。
河さま
コメントを頂戴し、ありがとうございます。はい、私はレールの上に載るものなら何でも撮っていましたが、それでも波があったり、偏りがあります。世間を見ますと、貨車を撮ったり、移動機を撮ったりと猛者はたくさんいますから、私など、足下にも及びません。そう言えば、ピクの古い号(昭和38年号)を見ていますと、祇園祭で架線を切断した京都市電が烏丸御池を渡る写真が載っており、なんと河さんの投稿でした。私など撮ったことのない貴重なシーンを昭和30年代にちゃんと記録されているのですね。河さんこそ、つくづくよく撮っておられると感心しました。
総本家青信号特派員様
祇園祭の烏丸御池での市電架線切断の写真で、お褒めを頂き恐縮です。
思い起こせば、あの時何故か母と2人きりで山鉾見物に行き、そこは『鉄ちゃん』、市電が惰力で駆け抜けるのを目ざとく見付けて、目が点になったものです。
慌てて『これは撮っとかなアカン!』と何コマかを撮ったのですが、母と一緒だった事もあって思うようには撮れなかった記憶があります。
この、架線切断では昨年まで第3の切断ヶ所(四条新町)が有ったのを知らず、貴殿の投稿記事で初めて教えて貰い、『へェ~、そうやったんや~』と感嘆したのを思い出しました。
総本家青信号特派員様
長いこと鉄をやっていますと偶然にトップ(ファースト)ナンバーを撮ることもありますが、嬉しいものですね。特に機関車で製造両数の多い機種の場合はその日はラッキーデイのような感じがしたものです。いとし、こいしのDD51ですが、私も入換え機DD13を大型にしたような凸型は苦手でした。鈍足でしたがDF50は好きな機関車でした。
河 昭一郎様
ということですが、河さんご指摘の通り北斗星、カシオペアも撮るには撮ったのですが、満足感が得られませんでした。ただ、スピードは相当なもので手持ちで望遠レンズにうまくおさめるのに苦労しました。少し古いですが1966年9月1日に浅虫の旧線の築堤で撮った「ゆうづる」5レのDD51500番台重連です。2匹の蟹をイメージしてしまいました。
準特急さま
架線の無い東北本線でちゃんと撮っておられるのですね。次の-2-で東北本線のDD51を書いていますが、私など、架線の下しか知りません。これぞ、DD51の初期時代を象徴するシーンだと思います。たまたま、米手さんも同じ浅虫で撮っておられましたね。これは、狂化合宿の時なのでしょうか。
準特急 様
凸形をケナシタ(?)小生なのに、重連で『ゆうづる』を牽くDD51には力強さと貫禄を感じますね。
特に真横からのアングルは私には新鮮です。
そうですか、スピードもスゴイんですね。
それでは横からのショットは特に苦労しましたね。
『2匹のカニ』、言い得て妙ですね。