連休期間中、近くの東海道線 桂川~西大路~京都の鉄道遺跡を見て回りました。日本の鉄道は、明治5年の新橋~横浜の開業が始まりですが、トンネル・橋梁などの鉄道技術の源流となったのは、その次に開業した京阪神の鉄道でした。東京では、開業時の遺跡が残っていないのに比べて、京阪神では、140年を経ても現役で使われている構造物もあって、今なお都市間輸送を支えています。今回紹介する区間にも、その面影を伝える構造物が残っています。
ずっと以前に、乙訓の老人から「桂川の西に開業時の煉瓦積みが残っとるでぇ」と聞いていたことが、ずっと気になっていたことと、最近、本欄で井原さんが茨木市の鉄道道標を公開されたことも刺激になり、連休の一日、駅開業10周年を迎え、乗降客で賑わいを見せる桂川駅に降り立ちました。
▲表面は補強されているが、上り線には、開業時の煉瓦積みの橋台が残っていた。どこでも見られる架道橋だが、さらに近寄って銘板を見てみると・・・。
1 いまも残る「避溢橋」
「避溢橋(ひいつきょう)」という鉄道橋の一種がある。付近の河川で洪水が起こった際に、溢水を遮らずに下流に逃がすように、築堤ではなく、アーチ状の橋にしたもので、まだ河川改修が十分でなかった明治期の鉄道では各地で見られた。桂川の西にある下津林も同様で、明治期の地図を見ると、桂川の流路は、とくに東海道線の北側では蛇行気味になっている。大雨時に溢水しないように築かれたのが「下津林避溢橋」だ。25の煉瓦アーチが連続し、長さが447ft(136m)もあり、避溢橋では国内最長と言われ、鉄道橋としては最多の煉瓦が使用された。しかし桂川の改修が進んだ結果、いつしかその姿を消した。昭和5年(1930年)の東海道線の複々線化の際に、現在見られる築堤に改められたと見られるが、確とした記録は残っていないらしい。写真も不鮮明なものはあったものの、全体像は謎のままだった。ところが、明治期の日本の風景を記録した「大日本全国名所一覧」という写真集の中に写真が載っていることが、近年になって確認された。
◀「下津林避溢橋」の写真発見が載った京都新聞の記事は衝撃的だった(2008年8月13日京都新聞夕刊)。「今も線路の下に埋まっている可能性も」の記述も。
少なくとも90年前には姿を消した避溢橋だが、現地へ行ってみると、なんと「遊溢橋」と銘板が書かれたものを発見した。それが冒頭の「第二牛ヶ瀬遊溢橋」で、「避」と「遊」で名称は異なるが、“水を逃がす橋”である。現在は、道路が潜っており「架道橋」に分類されるものだが、鉄道橋、踏切など施設の名称は、途中で用途が変わっても改名されず、そのままの名称が継承されることが多い。かつての「下津林避溢橋」を継承するものだろう。
▲桂川~西大路で見られる鉄道遺跡、順に紹介していきます。
▲付近を巡ると、コンクリート製の桁が何ヵ所で見られた。費用の掛かる桁ではなく築堤でも良さそうなものだが、これも避溢橋を継承するものだろうか。桁そのものは、向日町運転所への回送線が増設された昭和30年代のものだろうが、右の橋桁には「鉄道省」の銘板があり、昭和5年の複々線化時のものだろう。 ◀付近には地元の歴史愛好団体が立てた説明板もあった。地元では「まるがた」と呼ばれていたと言う。25あったアーチは、付近の倉庫代わりになったり、浮浪者が住み着いたりしたと書かれていた。
総本家青信号特派員様
明治時代の遺構結構残っているものですね。京阪神間は基本路線が変わっていないので特に多いのでしょうか。私も最近地元の遺構を訪ね歩いています。京都-大津間も明治13年の開業と早く、有名な逢坂山トンネル東口の他にも自宅から歩いて行ける範囲にいくつかの遺構があり、ねじりまんぽも現在の国道一号線(旧東海道線)の下に吾妻川をトンネルで通すためのものがあります。このあたり整理してご紹介できればと思っております。
大津の86さま
昨日は、長い間のお付き合い、ありがとうございます。たしかに86さんのお住まいのすぐ近くの東海道旧線跡にも「ねじりまんぽ」があります。私も取材の時に行ったのですが、中が狭いうえに、いまも水が流れており、撮影に苦労したことを覚えています。昨日の打ち合わせでも、旧線時代の馬場のことが話題に上がりましたが、その当たりのことも含めて、ぜひご紹介ください。