総本家青信号特派員様の「東海道開業時の面影を巡る」シリーズに触発されて、私の地元大津に残るこれらの遺構を訪ねてみることにしました。すでに紹介されたものがほとんどで、新しい発見はあまりありませんが、幸いこれらの遺構は自宅から歩いて行ける範囲ですので、散歩がてら何度か訪れじっくりと調べることができました。まずはその概要と逢坂山トンネルから始めたいと思います。図1:大津市内の東海道旧線路線図、大谷、馬場、石場、大津の駅が設けられ明治35年に紺屋関駅が作られた。
京都-大津間鉄道建設は明治2年(1869年)11月10日廟議によって東西両京を結び大阪、神戸に至る幹線と、新橋-横浜間、琵琶湖-敦賀間の支線建設計画決定にさかのぼる。この方針に基づき、明治3年(1870年)6月には大津近辺の測量計画が立てられ、翌明治4年に実際の測量が開始された。明治4年段階の計画ルートはその後実際に建設されたルートとは異なり、追分から小関越えで三井寺下に抜け北保町(旧江若鉄道三井寺下駅付近)に存在した元加賀藩蔵屋敷の地に至るものであった。その後ルートは変更され山科から東海道沿いに大谷停車場を経由、逢坂山の峠部分をトンネルで抜け、大津市街の南部を通って現在の東海道線膳所駅に至り、そこからスイッチバックで湖岸沿いを現在の京阪電鉄びわ湖浜大津駅に達するものであった。
明治12年8月にまず大谷-京都間が開業、翌13年6月28日の逢坂山トンネルの開通を待って、7月14日に明治天皇の試乗があり、7月15日より営業運転が開始された。これは新橋―横浜間に遅れること8年、神戸-京都間に次ぐ、日本でも三番目の路線であった。
1.逢坂山トンネル
京都から東山を避けて大きく南に廻り込んだ後、山科から大津に入った線路はほぼ現在の名神高速道路のルートと同じで、名神高速道路の蝉丸トンネル西口の手前には大谷駅が作られた。駅を出るとすぐにトンネルとなり、逢坂山を貫くこのトンネルは日本最初の山岳トンネルで、さらにお雇い外国人の手を借りることなく作られたトンネルであった。トンネルの西側入り口は名神高速道路の下になってしまい、トンネル坑口上部につけられた井上勝の銘文は京都鉄道博物館に保管され、現在は昭和37年に建てられた石碑だけがその場所に立っている。
写真1:逢坂山トンネル西口跡に建っている石碑裏面には「明治13年日本の技術で初めてつくった旧東海道線逢坂山トンネルの西口に名神高速道路建設に当たりこの地下18mの位置に埋没した。ここに時代の推移を想い石碑を建てて記念する。」の文が刻まれている。
写真2:石碑の反対側、名神高速道路蝉丸トンネル西口。このあたりに大谷駅があった。
逢坂山トンネルの東口は現在もそのままの形で残されており、鉄道記念物となっている。国道1号線と161号線が分かれる部分から西に入ったところに2本のトンネル出口があり、左側が開通時にできたもので、トンネルの上部には三条実美の筆になる「楽成頼功」の文字の刻まれた扁額が残る。なお、右側のトンネルは輸送量の増大に伴い明治31年に京都-馬場間が複線化された時に作られたものである。
写真3:逢坂山トンネル東口
写真4:逢坂山トンネル東口三条実美書の石額
2.旧東海道を越える橋梁の橋台跡
逢坂山トンネルを出た線路は現在の大谷加圧ポンプ場を通り、旧東海道をオーバークロスし、築堤で馬場駅(現在の膳所駅)に向かう。この旧東海道(この部分は現在国道161号線)をオーバークロスする橋梁の東側橋台が現在でもそのまま残っている。
写真5:トンネルを出た線路は正面の松浦ビルを越えたところで現在の国道1号線と合流する。
写真6:京阪京津線の踏切横にある橋台
3.ねじりまんぽ
また、京津線と国道161号線が交差する踏切を越えた右側に国道1号線に上がる道があり、この途中右側にレンガ作りのアーチが見える。ここは吾妻川を越える東海道線旧線の築堤の部分で、鉄路に対して川を斜めに通すため、強度の関係で煉瓦は線路に直角に積み上げられ、出口側から見ると螺旋状に見えて、「ねじりまんぽ」と呼ばれている。写真7:吾妻川のねじりまんぽ
大津の86さま
待望の大津市内の鉄道遺構の紹介、ありがとうございます。写真、地図も的確なもので、たいへん良く分かりました。いま、お世話になっているOさんからも、吾妻川のことを86さんから初めて教えてもらって感激したと返答がありました。
いくつか質問ですが、
(1)当初の構想ルートでは、小関越から三井寺へ向かう計画だったとのこと、たいへん興味深いものです。地図で見ると、逢坂山よりも山岳区間となり、さらに長大トンネルを強いられるように思います。逢坂山ルートに変更されたのは、長大トンネルを回避するためだったのでしょうか。
(2)逢坂山トンネル西口は、名神高速ができた際に埋められていますが、名神工事の始まる前に、京津線の電車から撮られた、西口坑門が残っているシーンをTさんが撮られています。
(3)写真2の大谷駅跡は、これも明治期に撮られた大谷駅の撮影角度と、ほぼ同じです。両側の山容が変わっていません。比較すると面白いと思います。
(4)写真6の橋台ですが、複線構造になっていますね。下を走る京津線は大正元年の開業ですが、この時に初めて造られたものか、それ以前、開業時の明治13年に東海道を跨ぐために複線分を用意したか、あるいは明治31年の複線時に、造り直したものか、3つのケースが考えられます。何か資料はないでしょうか。
総本家青信号特派員様
コメントいただきありがとうございます。
京都―大津間の鉄道敷設が早かったのは、琵琶湖を介して京阪神と敦賀を結ぶことにあり、そのために大津の港と直結することを主眼とし、当初は小関越えルートで計画されたようです。このルートは後の琵琶湖疎水のルートに近いのですが、長大トンネルを掘る必要があり、ご指摘の通り、明治4年の計画時点では技術的に難しいと判断されたのではないかと思います。琵琶湖疎水の着工は明治18年でこの間、トンネル工事の技術も進歩し、2㎞を超える琵琶湖疎水のトンネルが出来上がりました。
4)の橋台については旧線のものには間違いないのですが、開業当時の物かはよくわかりませんでした。京津電車ができるとき、この交差部分は設計施工を鉄道院に委託し、「鉄道線路の築堤を切り開きその下を通過。」(Iさんより頂いた鉄道史料92号より)と書いています。京津電車は旧東海道の東側を通っていることから、築堤を切り開きという部分は鉄橋の東部分、つまり現在の橋台側ではないでしょうか。とすればこの橋台は明治44年から大正元年にかけて作られたのではないかと思います。京津電車開業と言われている大正元年8月15日にはこの交差部は未完成で、この間140mは徒歩による連絡で、全部完成したのは翌大正2年2月5日となっていますので、大工事であったことが推測されます。但し前項の小関越えルート含めあくまでも推測の域を出ませんので、もう少し調べてみたいと思っております。
大津の86さま
総本家青信号特派員さま
浜大津への途上にいつも眺めていた東側坑口ですが、興味深い記事を読ませて頂き有難うございます。小関越えルートが検討されていたことを初めて知りましたし、同時にそんな山岳線をと正直訝る気持ちも湧きました。当初小関越えで計画された理由は、三井寺付近からそのまま江若に先立って浜大津へ入るためではなかったでしょうか。仮にこのルートだと膳所でスイッチバックする手間が省けたわけですね。と考えると京阪石坂線や江若鉄道のルートはどうなっていたのか、興味は尽きません。
1900生様
そうですね。もし小関越えルートで東海道線ができていたら、湖東線への延長は逆に浜大津から膳所に抜ける路線になっていたことでしょう。また、小関越えを長大トンネルで抜ければ勾配はそれほどでもなく今の新線はできていなかったかもしれませんね。逢坂山ルートになり、駅が中心部を外れたことが、後に大津の中心部が衰退する原因になったのかもしれません。
あまり、大津界隈のことは知らないので興味深く拝見しております。大津の86さんと一緒に車石の道を歩き、大津歴博で車石展覧会の時の図録を買ったことを思い出します。あれから京と大津間の牛車による輸送を調べていました。デジ青に投稿するつもりでしたが、中断しております。ところで地図で見ると古関越えのところは疎水のトンネルがあるのですね。疎水との関連も考えてみると面白いかもしれません。
どですかでんさま
車石を見に行きましたね。今回もあの時のルート、車石があった追分の閑栖寺から歩き始めました。昔からの街道筋なので鉄道遺跡の他にも面白いものがたくさんあります。
この文を書くにあたり、本も調べましたがやはり現場に足を運ぶのがいいですね。その②で書いた大津駅裏のトンネルなど、近くにいながら気づきませんでしたが、東海道旧線の遺物らしいことがわかりました。