E線K駅の今昔物語

米手作市様のお許しが出ましたので、K駅の昭和48年と平成24年の様子をご紹介します。まずは昭和48年3月15日の写真から。E線の貨物列車は越前大野までの運転でしたが、大野にはターンテーブルがなく、Kまでハチロクの単機回送がありました。

昭和48年3月15日 九頭竜川鉄橋を渡る単回

米手様や1900生様が行かれたのがいつなのかわかりませんが、K駅の様子が少し違っています。米手様のキハ53の写真では、島式ホームのように見えますが、私が最初に訪ねた昭和48年には1面のホームだけで、乗り越しポイントで分岐する留置線と車庫がありました。

転向を終えて発車を待つ28651

ターンテーブル上の28651  3月半ばでも後ろの山には残雪が。

ターンテーブルの回転動力にはいくつかの方式があります。手押しのものや、電動のものが多いのですがこの勝原のターンテーブルは、少なくとも電動ではなさそうで、かといって手押しのアームも見当たらず、ブレーキ管を接続して圧搾空気で駆動するエアモーター式だったのでしょうか。今となっては確かめる術がありません。

駅名標と名所案内  これが答

単機回送出発    駅舎は今も変わっていないが、手前のブロック積み建屋は消滅。

K駅でハチロクを写してから約40年後、この地を再訪しました。K駅から九頭竜川の支流をかなり遡ったところにある秘湯の宿(鳩ケ湯温泉)で泊まるためでした。あのターンテーブルはどうなっているだろうかと楽しみにして現地に行ったのですが、ターンテーブルがあった場所には公民館(五箇公民館)が建てられていました。

平成24年10月29日 2階建ての大きな公民館のところに かつてターンテーブルがあった。

留置線は撤去されずに残っていましたが、小さな車庫は姿を消していました。

撤去された乗り越しポイントと車庫

越前大野方面を望む

2階建ての立派な公民館を建てるぐらいですから、それなりに住民もおられるのですが、現在は5往復の列車(キハ120)が走るだけです。仮にE南線とつながって、越美線となっていたにしても、通過駅にしかならなかったでしょう。米手様の写真から、またしても遠い昔を思い出させて頂きました。「頭隠して尻隠さず」の変なレポートでした。

 

E線K駅の今昔物語」への9件のフィードバック

  1. 西村雅幸様
     そうでしたか!米手様のここはどこ?(臨3)の正解は我が故郷だったのですね。新線工事は九頭竜湖への延伸部分と分かり納得です。
     この線は10年前ぐらいになりますか、豪雨災害で廃線の危機を迎えましたが、地元支援も大きく良く生き延びたものです。不通時の代替バスでは通学やお年寄りが大変な目に合われたと記憶しています。
     48年前になりますか、昭和43年秋の福井国体の際86が牽くお召しが走り、F本さんと撮影したことを思い出しました。凄く良い天気でした。
     もしも、南線と繋がっていたらと思うことはありましたが、夢の又夢ですね。

    • マルーンさま
      勧進元の厳命によりズッとミッフィーちゃんをしておりましたが、出題の地は地元も地元、すぐお近くだったようですよ。「だったようです」というのは、小生には米手さまとご一緒した記憶が全く無いからなのです。随分あちこちにご一緒しましたので、記憶が交じりあってしまっているのかもしれません。行ったかどうかハッキリしないまま口を封じられましたので、この数日間物凄いストレスを感じておりました。憶えがないことを米手さまに知られると「豪華な昼飯と晩飯を奢ってやったのも忘れたか」とか何とか、又々有ること無いことイチャモンをつけられるので、決して耳に入れないで下さい。お願いします。
      ところでF本さんと撮りに行かれたくらいですから、このE線は全線完乗されたのでしょうね。もしや「未乗」なんてことだと、米手さんから「なに~。会員にあるまじき行為。市中引き回しじゃ」と言われかねませんよ。その場合は至急お知らせ下さい。黙っていますので。
      このE線といえば20数年前、まだ九頭竜湖~北濃間にJR東海のバスが走っていた時代に18きっぷで巡ったことがありました。印象に残っているのは米原からの元寝台電車583改造419系が超満員だったこと、バスが北濃手前の峠にさしかかった時の下界の景色が素晴らしかったこと、長良川鉄道トロッコ列車がヒドイ乗り心地だったことです。419系は見たり乗ったりするにつけ、いつも「北陸の人は文句も言わずに我慢強い」と思わずにはおれませんでした。乗るのは嫌でしたが、ミニ新快速のような521系になってからは、まだ419系の方が情緒があったと懐かしく思えるから不思議です。

      •  やっぱり!凄いストレスを抱えられたんですね。さぞかしの事と拝察します。
         E線を完乗したか?鋭い質問ですね。確か越前大野までは乗ったと思いますが・・残念ながらその先は・・未乗です。(涙)
         1900生さんが米手さんに思えてきました。怖い!!(震える)

  2. 帰ってきたウルトラ米手!
    スマホで目をシバタキながら読んでいましたが、白々しい投稿の数々についつい書き込んでしまいました。
    西村さん、代役ありがとうございます。
    答えが出てからも『E線』だとか『K駅』だとか書いてあるのを見ると皆様のご厚情に涙が出る思いです。
    今さらながらではありますが正解は越美北線勝原(かどはら)駅です。
    ここへは1900生さんとK畑さんとで行きました。証拠もある。

    • 米手作市さま
      これが証拠写真ですか。確かによく似ていますが、これは〇〇文書偽造容疑に当たる怪しい手のものではありませんか?前後の行程を含めて全く記憶が無いのです。まだ認知はきておりませんので、当日の記憶を呼び覚ます何かヒントを戴けませんでしょうか。

  3. 米手様、お帰りなさい。
    勝原まで乗車されたキハ23 12は昭和42年の製造で、福井に配属されていたのですね。越美北線に新車が投入されていたとは,全く知りませんでした。
    西村様
    ネットの画像を探していると「夢見る“撮り鉄❤日記”」というサイトの「越美北線★ハチロクpart 1」に、転車台で向きを変える88623が載っていました。動力は機関車の圧搾空気を使用していたらしく、ブレーキ管に繋いだホースは転車台脇の機器に続いています。
    ネットの鉄道ネタは玉石混交ですが、根気よく探していると、長年の謎が解けることもあって、私には必須の情報源です。ただ、時にはとんでもない間違いもあって、鵜呑みには出来ませんが。

    • 紫の1863様
      さっそくご紹介頂いたサイトを見ました。確かにブレーキ管と繋がっているのが確認でき、永年のモヤモヤが解消しました。ありがとうございました。
      なお本文中キハ53と記してしまいましたが、キハ23の間違いでした。私が訪問した際にはキハ35系でした。

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