プロ野球パリーグで、元阪急のオリックスが25年ぶりの優勝を決めました。おめでとうございます。
12球団で一番長く優勝から遠ざかっていたとは。学生時代「死ぬまでに阪神の優勝を見られたら本望や」と言っていた同級生の言葉を思い出しました。全盛時のピッチャーは山田、山口、山沖さんでしたが、現在のオリックスの主力ピッチャーの名字に「山」がついているのは、何かの因縁でしょうか。
1位おめでとうと言うことで、10/24に四国に来たのに撮影出来なかったEF210-1号機が、タイミング良く10/27に再度四国にやって来た際の写真を貼り付けます。(多度津工場から出場待機中の1040と 多度津駅)
それでは西京極の西武ー阪急戦の1コマでも。
年は先輩卒業後の、1981年でこの日は山田と東尾の両エースの先発でしたが、東尾が早めに打ち込まれて降板。
確か石毛が新人の年で、ホームランを打ち、気を吐きました。
西京極の外野は芝生席で、試合が単調になると観客は持参したホームランキャッチ用のグラブでキャッチボール遊びする始末。
「そこの外野席のお客さん、キャッチボールはやめてください」でどっと球場が沸くような、古き良きパリーグの時代でした。
7番はあの野球迷解説者です。
K.H.生様
コメントありがとうございます。
地方から出ていき初めて見たプロ野球の公式戦が西京極球場でした。入場料を払い外野席に入りましたが、試合開始早々に外野席への入場はフリーになり、すごく損をした気分になった事、一緒に見に行った同下宿の友達がラッキーカードに当選し阪急Hマークの入った野球帽が当たったのですが、岐阜出身の彼はドラゴンズファンでいらないということで譲ってもらい、機嫌よく帰ったことを思い出しました。阪急のピッチャーはカープから移籍してきた白石さんだったような気がします。
77-タツ様
懐かしの阪急ブレーブスがオリックスとなってもう30年以上。
そのオリックスも西宮を離れ、ブルーウェーブに変わり、そして近鉄との合併?でバッファローズに・・・いろいろありましたね!
しかし、関西の球団が優勝することは久しぶりですし、閉塞気味の気分が晴れますね! おめでとうございます。
阪神も残念でしたが、CSを勝ち上がってくれへんやろかなぁとチョットだけ期待?しています。打てへんからな!もっと打って!
K.H.生様
これも又懐かしの西京極球場、阪急対西武戦さすがにお客さんが入っていますね!?
内野から外野を見ると森のような木々と阪急電車がよく見えました。雰囲気のある球場でしたね。今はネーミングクライツとかで西京極球場じゃなくてわかさスタジアムでしたっけ?あぁややこしい!
学生時代は同立戦に行ったことを思い出します。
阪急ブレーブス背番号7の「味のある」解説は、私は好きです。
ありがとうございます。
私は真性の小倉っ子でございますので、当然西鉄・太平洋・クラウン以来のライオンズファンです。
この年はまだ、阪急に”アホ”の加藤もいましたし、西武は”歩く黒い霧”の土井がいて、痛快なホームランを打ってくれました。
写真の西武のセンターは前年まで、バリバリのメジャーリーガーだったテリーです。
マルーン様
コメントありがとうございます。
西京極球場の名前が、わかさスタジアムになっていたのですね。ずっと若狭湾の方に球場ができて、学生野球はそちらになったものと思っていました。最近冴えない同志社大学野球部ですが、我が母校(丸亀)出身の東山君(3回生)が入部していることを今シーズン知りました。高校時代は県下有数の投手で、久々の甲子園出場かと思っていたら、夏の大会前に故障、甲子園には行けませんでした。時々出ているようなので、応援していただけたらと思います。
私も元阪急ネタに闖入します。
1996年3月、オリックスvs巨人のオープン戦を神戸へ見に行きました。試合前に何かの表彰式があった時の写真です。選手右は、背番号は隠れていてもその顔つきから分かるようにイチローです。当時、文句なしのスーパースターでした。そして中央の背番号27こそ、ことしの監督、中嶋聡です。無名の鷹巣農林からオリックスに入って8年目、正捕手として、ベストナイン捕手にも選ばれ油の乗っていた時代でした。左16はニールで、前年にはDHで最多の24本塁打を打った4番でした。
この年、オリックスは前年に続いてパリーグ一位となり、日本シリーズで優勝を飾ります。イチローは最優秀選手、首位打者、ニールは本塁打王、打点王に輝くと言う、仰木オリックスの黄金時代でした。
総本家青信号特派員様
コメントと懐かしい写真も披露していただき、ありがとうございます。
1号機の写真を久しぶりに撮影できたので、オリックスの優勝に合わせて投稿してみれば、皆さんの撮影したトップナンバーやファーストナンバーの写真を、いろいろ披露していただけるか、と思い投稿してみたのですが、場違いな方向に話題が進み恐縮し、反省文を書かなければいけないかと思い始めたところでした。
闖入どうもありがとうございました。助かりました。
77-タツさま
いえいえ、話が脱線して横道にそれるのが「デジ青」の魅力です。いままでの投稿・コメントで分かるように、新しい話題を生んで、また活性化します。脱線、横道、大歓迎ですよ。
総本家さん、何撮ってもうまいですね。私は米田、梶本、バルボンの時代(はっきり言って灰色の時代)なので遠慮しますが、あの有名な汽車会社の高田隆雄さんのご子息が私と同年齢でバリバリの阪急ファンです。私も彼も昭和2~30年代の選手の背番号まで知っております。また、どこからかアホの一つ覚えと言われそうですね。
77-タツさん、
私は野球に興味がないもので、このスレはオリックスの優勝スレだと今の今まで思っていましたが、№1を挙げるスレだと知りました。
それだと私にも出番があるようです。正真正銘の№1です!
ナハフ111福フチ
便乗してすいません。
オハフ33 1
1979年10月 京都駅で目撃しました。
またまたオリックスネタで闖入です。
オリックスvs読売巨人のオープン戦では、読売巨人の表彰式もありました。授与されているのは、あの文化勲章の長嶋茂雄監督、後の二人は、背番号は0ですから川相昌弘、そして55は松井秀喜ですね。監督に仰木、長嶋、選手にイチロー、松井と、すごい時代でした。
昨日の写真といい、今回の写真と言い、風貌だけで誰とわかる人たちはすごいですが、それがわかる年であるということは、年を取ったということでしょうか。人物が出てくると、「すごかった」と過去形にならぬように、やっていきたいと思うこの頃です。
米手作市様
K.H.生様
コメントありがとうございます。
1、と言えば機関車か電車が出てくるのかと思っていたら、客車が
1番に登場してびっくりです。その中でもうまい具合に、ゾロ目ー1と凝った演出をして頂きました。
貴重なものを見せていただきありがとうございました。
77-タツ様
77年と言えば娘の生まれ年。高槻電車区でしょうか、タツノオトシゴではないでしょうね。ところでオリックス1位にかこつけられたトップナンバーですが客車の鬼のような方が目をランランと輝かせています。私は機関車で横入りさせていただきます。
1963(昭和38)年3月27日下関で撮影。柳井発門司行き221列車牽引後、機関区に戻る広島運転所のC621です。同機は京都鉄道博物館に静態保存されています。
準特急様
コメントと貴重な御写真の披露ありがとうございます。
山陽本線電化前の最後の活躍の様子でしょうか。
京都鉄道博物館に行ったのに、はずかしながら1号機が保存されているのはまったく気が付きませんでした。
C62に関しては、2号機の方が圧倒的にメジャーになってしまっているのですね。
米手作市さん、K.H.生さんより客車のトップナンバーを投稿されましたので、便乗したいと思います。
昭和39年12月25日、京都駅山陰線ホーム、オハ611です。西舞鶴区に配置され、小浜線、宮津線に直通する列車によく連結されていました。
藤本哲男様
コメントと貴重な御写真の披露ありがとうございます。
せっかくコメントしていただいたのに申し訳ありませんが、学生時代に朝の通学の客車列車に60系が連結されていても、背中が痛いのが嫌で、60系は避けて青いオハ35系を選んで乗っていた事、卒業が近くなった頃は、おさがりでやってきたスハフ43にしていた事を思い出しました。どうもありがとうございました。
調子に乗って、もう一丁!
京都市電601号
米手作市様
貴重な御写真の披露ありがとうございます。
学生時代は、改造後の2600形の最後の時代なのですが、記録がどこに行ったのやら、という状態です。少し整理が必要です。
四国には、私の学生時代には意外とトップナンバーがいました。改造による数両程度の新形式のものが多いですが、ポピュラーなものではキハ181、キハ180、キハ65、DF50、DE10でしょうか。添付はキハ32 1(2008年8月23日、八幡浜駅)です。四国にしか配置されなかったので、トップナンバーがいて当たり前だと、突っ込まれそうですが。
四方 誠様
貴重な御写真の披露ありがとうございます。
四国のDF50、キハ181のトップナンバーは撮影した記憶がありますが、記録が何処へ行ったのやら、大いに整理が必要です。香川県ですと、キハ32は工場入場時の回送とかのみの撮影になります。見張っておきたいと思います。
私も、もう1丁
昭和39年9月23日、京都駅
急行「西海」に連結されていた、マニ341です。
藤本哲男様
貴重な御写真の披露ありがとうございます。
マニアックすぎてわからず、ネットで調べてみました。知らない車両について多少の知識を得ました。
どうもありがとうございました。
とどめの一発!
DD911
米手作市様
貴重な御写真の披露ありがとうございます。
ピカピカの車体がすごく美しく見えます。
こちらもよくわからず、ネットで調べてみました。
エンジンが西ドイツ製で・・・と記載があり、ボディについての特記はなかったのですが、サイドビューもちょっと見かけない風貌に見えます。試作機だからでしょうか。どうもありがとうございました。
77-タツさん、
この当時は各社が競ってDLの試作機を作り、国鉄で試験をしていました。
京都では他にもDF411などが山陰線で試験運用をしています。このDD911は新三菱重工の製作ですから西村さんが解説を担当いたします。
背景を教えていただき、どうもありがとうございます。
未知の分野の事ですので、楽しみにしておきます。
西村様
米手作市様の無茶ぶりなのでしょうか。可能でしたら、どうぞよろしくお願いいたします。
無茶ぶりではありません!
人柄を見込んで頼んでいます!
1964年4月1日山陽本線小郡(現新山口)~四辻間を行く小郡区のD521牽引上り貨物。山陽本線は基本的には貨物はⅮ52で客車列車はC62かC59。ハズレなしの夢のような世界だった。D52で思い出すのは当時DRFCには山口県出身でD52の熱烈なファンがいたことを思います。
準特急様
貴重な御写真の披露ありがとうございます。
私が活動中の蒸気機関車の写真を撮影したのは1973~1974年の九州と山陰の西の方だけで、D52のような大型機は見ることができませんでした。長い編成を引く姿は迫力がありますね。どうもありがとうございました。
皆様
山陽本線は東海道本線の流れを組むもとのしてC-62、C59、D52のハズレなしと書きましたが、京都山科の大カーブでは草津線の列車も乗り入れてさらにⅭ51やC57なども見られました。OBの写真展佐竹保雄わが「やましな」の記憶、福田静二「煙の旅はるか」が河原町五条下がるで11月11日~16日にひと・まち交流館京都1階で開催されます。
77-タツ様
無茶ぶりに甘んじて応じることに致します。本線用のディーゼル機関車として「海坊主」と呼ばれたDD50が走り始め、入換え用としてのDD11も何とか実用化の見通しが立ち始めた頃から、国鉄も各車両メーカーもディーゼル機関車の研究開発に熱を入れ始めます。昭和29年の東芝製のDD41を皮切りに、川車・川重製のDF40(⇒DF91)、日立製のDF90,日車製のDD42,三菱製のDD40(⇒DD92)、日車製のDD93,汽車製のDF41(⇒DF92)、日立製のDF93と続々と電気式、液体式の本線用、入換え用の試作機が登場し、数年間国鉄が借用機として各地で試用しました。そんな百花繚乱の最後に登場したのが昭和37年新三菱製のDD91でした。そもそも日本のディーゼルエンジンは国産化が遅れ、戦車や船舶用から始まり、機関車、バス、トラック用の開発は後回しになり、まずは輸入の時代でした。これらの試作機関車のエンジンはことごとく海外製で、DD91も西ドイツ マイバッハ製のMD870型1820馬力のエンジン1基を搭載し、マイバッハ・メキドロ液体変速機との組み合わせによる直接駆動式でした。車体中央にエンジンを据え、蒸気発生装置も装備して運転重量は70Tonとなり、軸重軽減のため、B-1-Bという本邦初の軸配置となりました。福知山機関区に配置され、単機では非力なのと故障した際のバックアップのためC57と重連で運用されることもあり、京都駅山陰線ホームで見ることができました。薄いクリーム色に赤い帯のDD91は煤で汚れた山陰線で異色の機関車でした。このDD91が後のDD54に発展します。余談ながら、「54」の番号をもらった機関車はC54,ED54,DD54と派手さはなく、活動線区も限られたまま消えてゆくという宿命の機関車でした。さてDD91ですが、取り扱い説明書の表紙を添えておきます。
西村雅幸様
無理なお願いにも関わらず、早々に解説、貴重なパンフ?の表紙も見せていただき、どうもありがとうございました。
流れが良くわかりました。創世記というのでしょうか、当事者は大変なのでしょうが、周りで見ている者は何が出てくるか楽しみですよね。顔の表情も流行りがありますし。
今後ともご教授よろしくお願いいたします。
梅小路のC57を追い出した張本人として嫌われた、可哀想なDD54のトップナンバーです。昭和41年6月に新製され、廃車は10年後の昭和51年6月という短命でした。しかし、DD54としては最も長命でした。
当時は忌み嫌った機関車ですが、石をぶつけることもなく、後に何の因果か模型を何両も買い込んでしまいました。
フイルムが腐ると悪態をつき、ほとんど写真を撮らなかったので良いカットはありませんが、たまたま1号機を写していました。
昭和46年5月22日、京都駅山陰線ホームでの撮影です。
紫の1863様
コメントと貴重な御写真の披露ありがとうございます。駅の様子も大分と違いますよね。
四国で育った私にとって角ばったDD54は、新鮮でかっこよく見えました。写真を撮った記憶は数回ですが、紫の1863様と同様で、模型はNゲージですが、T社の旧モデルとK社の現行初期品を保有しています。(稼働率は低いですが。)
どうもありがとうございました。
77-タツ様
オリックスの優勝とEF210ー1から始まりましたトップナンバー特集(?)ですが偶然撮ると嬉しいものです。特に何両あるかよくわからなかった客車のそれは感激ものだったと思いますし、撮影者には敬意を表します。機関車、特に蒸気機関車は情報の少ない時代とはいえある程度、例えばどこに配属されてどこを走っているかはわかっていました。77-タツさんには見ておられない車両でも調べて即返事をされ、私など涙もろい高齢者は大変うれしくさらに調子にのって探し出しています。もう少しお付き合いください。
今回は
1964年4月2日鹿児島本線鳥栖で撮影した熊本機関区所属のC591の上り「みずほ」です。既に20系化されていましたが、この日はどういう訳か在来車4両ほど牽引して目の前で信号停車しました。因みに同日の下りはC59129がバック運転で20系客車を牽いていました。
準特急様
貴重な御写真の披露ありがとうございます。
1号機の写真もいいですが、通常運用のブルトレに一般車が繋がれている姿も見たことがなく、ビックリです。こういう時って、すごく得をした気分になりますよね。話がずれますが、模型(Nゲージ)のC59を勢いで購入した際は、迷ったのですが、161を入れました。
写真展の情報もありがとうございます。写真展には、残念ながらお伺いすることができませんが、皆様ご参集頂ければと思っております。
どうもありがとうございました。
77-タツさんへのプレゼント
C59161(関)
米手作市様
貴重な御写真の披露、プレゼントをいただき、どうもありがとうございます。
ドラえもんのポケットみたいに、何でも出てくるのでありがたいことです。C59については、見ず知らずの中から161を選んだのですが、身近な存在だった様な気分になるので不思議です。広島二区と糸崎の間に下関時代があったのですね。勉強になりました。
どうもありがとうございました。
米手作市様
歌手は三橋美智也か春日八郎! 客車はスハ43系にC59。戦後製のC59のスレンダーなスタイルがよろしいですね。
77-タツさん、
ごめんなさい。所属が下関と言うのではなく、撮影場所が下関と言うことでした。
準特急さん
お褒めにあずかりありがとうございます。
C59はいいですね~!
C62はボイラーが太すぎて安定感がわるい。
C57(200以前)は華奢すぎて力強さがない。
やっぱりC59にとどめを刺しますね。
米手作市様
米手さんも私も古い時代の人間。私は1964(昭和39)年4月1日にC59161を下関で撮っておりますが、所属も下関区です。その後山陽線電化で同機を含む何両かのC59が糸崎に転属しています。
準特急様
米手作市様
再度ネットで調べてみました。
161号機は、広島市内で保存されているみたいですね。元気なうちに、見に行けたらと思いました。
77-タツ様
原爆ドームから電車通りをはさんだ北側に、比較的良好な状態で保存されています。是非会いに来てやってください。
西村雅幸様
早速の情報と写真の披露ありがとうございます。
屋根は設置されていませんが、錆びて塗装が浮き上がった感じもなく、美しく見えますね。是非一度見に行きたくなりました。
ありがとうございました。
77-タツ様、皆様
1969(昭和44)年9月23日新津機関区でのC571です。C5563になる予定でしたが、C571として誕生。C55とC57は外観上は動輪のスポーク、ボックスの差、ボイラ端面の角形、丸形の差、遠目に見てもドームの形状に差があったことなどです。最晩年の羽越線や、動態保存された山口線など見たいですね。
準特急様
またまた貴重な御写真の披露ありがとうございます。
C57は1号機ではありませんが、蒸気機関車終焉期に宮崎で現役中の姿を見ました。デフの型式まで理解していないのですが、四角い門鉄デフの65号機と、角が丸い門鉄デフの196号機の印象が残っています。全く整理が出来ていない人間なのですが、いろいろ思い出させてくださり、感謝しております。
どうもありがとうございます。