昔は・・・の話
『昔は・・・』と、小生のようなロートルはつい口にします。
私も『昔の』学生時代に2度ばかり身延線を写しに行った事があり、その際静フシ区に運用等を照会したところ、本当に親切に車両運用図表や車番入りの電車運用予定表をはじめ運転士仕業図表までお送りいただきました。
そしてそれは、静フシ区のみならず新ナカ二区でも経験しました。 思うに、この頃の国鉄マンは鉄道趣味人(ファン)に対して「仲間又は理解者」意識をお持ちだったのではないかと思います。
そこには自ずと信頼関係と言うものがあって、昨今の良識なき不心得者や不注意者のせいで色々な点で厳しい規制がかかるような事はありませんでしたねえ。
電車区などでも特に厳しく規制される事は無く『不法侵入』してしまってもカメラを構えていれば職員の方々が「気を付けて」等と声を掛けてくれたもので、時には付き添って留置車両の車内に案内さえしてくれましたよ。
忘れられないのは「こだま形」の中で珍車だったクロ150-3をチタ電に訪ねた時、偶然お会いした職員の方が、ご自身の昼休みを潰して車内に迄案内して下さった時の感動です。
身延線と新潟地方での思い出の写真を貼ります。
まずは身延線。
⇩次は新潟地区での撮影です。
つれづれの記(3)・追伸
チタ電でのお話し:当日知り合いとなった職員の方との後日譚があります。
小生が「おねだり」をした訳でも無かったのですが、後日クロ150‐3がクハ181-53に再改造され、その時工場で外したプラスチック製の「クロ150‐3」の車内表示の番号札を頂きました。
当時の国鉄では他職場でも職員が申請すれば手に入ったとの事で、小生を「真面目な鉄オタ」と見込んで取り寄せて下さった物でした。
以来「宝物」として4回の引越しにも持ち歩き、現在でも昔を懐かしんでおります。(写真参照)
ところで、今回は身延線の写真も見て頂きましたが、2回も出向いた割には「見事な富士山」が写っておらず、かろうじて「お山の頭」が判るような。
期待を裏切ったかも知れませんが、天候(自然現象)には勝てず2回共曇天でガッカリでした。
河 昭一郎さん
貴重なコレクションを見せていただき、ありがとうございます。
最近はなんでもオークションで買えばいい、と言うことですが、やっぱり自分の思い出がある品物を秘蔵する事が大切ですね。モノは金で買えても思い出は買えないからです。
ところで「電車しらず」の私でも身延線の低屋根の車両には魅力を感じます。中央線や飯田線にも走っていなかったでしょうか?リベットだらけで角張った外観がP6とも共通しているように思います。もっと見たいものです。
記憶が曖昧ですが身延線の電車と思います。韮崎-塩山間にアルバイトで入っていました。1976.12東山梨-塩山間の塩山行き336Mで折り返して337M甲府行きで戻ってきました。前面の大きな行先表示が特徴です。
準特急様
コメント、有難う御座いました。
韮崎、塩山、東山梨、甲府と来れば身延線の出稼ぎ又は中央線への助っ人でしょうネ。
先頭車は東京圏から身延線に流れ着いたクモハ41でしょうか。カメラアングルからは部分低屋根が判別し難いですが。
此の頃は首都圏、大阪圏からの放出車は「恐れ多くも」一律にスカ色化され、「伝統のスカ色マニア」の私には苦々しい時代でした。
米手作市様
此の「クロ150-3」は1形式1両のみの、しかも2枚しか無い内の1枚と言うレア物ゆえ「たまたま頂いた」とは言え決して粗末にはできません!
身延線のクモハ14は17メートルだった上、低屋根の小ぶりの車でしたが、M車だったため相棒のクハ47とは子が親を牽く姿を連想させてユーモラスな姿でした。
クモハ14は仰るように無骨な雰囲気が有って、頼もしくさえ見えたものです。
後年、戦列に加わったクモハ51などの20メートル級の車両は、パンタ部のみを削った部分低屋
根でしたので、編成美の点からは好評でした。
昭和43年4月6日、富士電車区、クモは14823です。
昭和49年9月23日、西富士宮駅、クモハユニ44800です。
上から7番目と8番目は、扉の形状からクハ76049であることが判ります。
昭和49年4月28日、長岡駅、クハ76049です。
9番目は、クハ68104です。
昭和48年4月29日、長岡駅です。
10番目は、クハ68211です。
昭和48年4月29日、長岡駅です。
順番が前後しますが、5番目は、クハ47006だと思います。
昭和47年5月1日、富士電車区です。
藤本哲男様
いつも大量の関連写真をお見せ頂き、感謝に耐えません!
今回も新潟国電、身延線共に珠玉のお写真を惜しげも無くご披露頂き、有難うございます。
特に今回は小生の車両データ表示の失念をカバーして頂き、嬉しく思っております。
今後共ご指導の程、よろしくお願い致します。