湖西線建設の前段としての江若鉄道廃止は1969年11月1日だから42年になる。今まで出したものもあるとは思うが、現在デジタル化済を何枚かご覧頂こう。
小生が初めて江若に見参したのは1953年、高校1年生だった。当時京都の(新制)高校は、旧制中学校時代の琵琶湖艇庫とボートを受継いだが、小生の朱雀高校は旧高等女学校だから、そんなものはない。しかし各校は他校とボートを融通し合い、全員がほぼ一回はボートを漕げる全校大会があった。舵だけはボート部員が担当し、漕ぐのは後に競艇場ができる場所である。その機会に近くの三井寺下庫を訪ねたのである。
その時は大した写真がないが、ハフ7か8の車内をご覧頂きたい。クロスシートは戦時中もこのまま過ごしたことが分るが、背摺りが木製である。余談だがやはり戦時中・敗戦後の混乱期も転換クロスのままだった京阪1000型も、背摺りはベニヤ板を曲げたものだった。
1118牽引の貨物列車
夏季水泳客用臨時列車 ホハ102+104+103の編成の末尾にハフ7を連結 1955年
水泳列車牽引のC111が給水中、1118が三井寺下-浜大津を往復する
C111牽引のホハ列車 高島町の手前
DC301が入換中
ナハ1959が86に牽かれ浜大津に これでも甲種輸送ではあろう 1960年7月9日
最終時点での水泳列車 オハ1957~1960に転換クロスのオハ27の5両をDD1351が牽く 1969年7月27日舞子南口
江若鉄道は膳所乗り入れにより国鉄との連帯運輸接続を大津から膳所に変更したから、膳所経由ならどこでも乗車券が発券できるが、浜大津-京都なんぞの区間を買う物好きはいない=当然常備券はない。そこで無理を言って発券して貰ったら特殊補充券での手書きだった。それも浜大津に特殊補充券の常備がなく、次の回送列車で三井寺下の本社から運んでくる騒ぎ?で、温厚な駅員は「こんな券を作るのは何年ぶりか」ととつぶやいていた。ついでながら浜大津は駅から駅舎から何から何まですべて国鉄財産で、江若は借家人に過ぎず、機関車への給水も三井寺下に戻って行っていた。
この時点国鉄線の湖側が更に埋め立てられたが以前は線路のすぐ側まで湖だった 1955年
膳所(旧馬場)-浜大津(旧大津)の3線軌道の敷地は琵琶湖を埋め立て、太湖汽船を経由して長浜に結ぶ連絡線で、湖東線開通までは旅客営業の幹線(東海道線)だったが、大津電車軌道の大津-膳所開業(1913年3月1日)で貨物線に。電車は湖側の鉄道院線を3線化して乗り入れたのだが、持ち主は国鉄だから、1日何本かの貨物が通るときは電車側が全線一閉塞とあってダイヤを空けねばならず、その際は電車の間隔が約20分ほど開く。貨物線でも所属は東海道線(の一部)である。
江若鉄道は当初国鉄大津(現在の)を起点に1919年8月19日免許を取得。その区間は大津市東浦町-湊町(浜大津)-福井県三宅村で、近江今津以北は旧鯖街道とはいえ旅客貨物とも僅少の為断念(免許失効1936年4月23日)したのは知られている。大津市内は浜大津との高低差克服のため、浜大津-膳所(スイッチバック)大津という極端な迂回ルートで、こっちを知る人は少ない。しかし貨物はともかく、旅客にはおよそ現実性のないルートとあって施行期限を何度も更新し免許失効を避けながら、他方で浜大津-膳所間の乗り入れは戦前から懇願していた。
国鉄は湖側を更に埋め立てて新たに1線を貼付け、これを国鉄貨物と江若が共用し、現在の3線部分を京阪(専用)に譲る、という案を固守。膳所で国鉄と接続は出来はするものの、江若の負担額に比し乗客増はさして望めず、採算に合う筈もないのを見越した「嫌がらせ」だったかもしれない。
やっと1日2往復の浜大津-膳所乗り入れが成就したのは敗戦後で、免許は1946年12月26日だが、これもディーゼル燃料確保と同じく米軍キャンプ輸送の「悪乗り」だった可能性が強い。1947年1月25日運輸開始だが、およそ通勤通学を外れた時間帯にしか運行させてもらえず、当然乗客は少なく、1962年度4,313人(1列車平均2.96人)、1963年度3,779人(同2.59人)という有様。1965年7月10日廃止された。
なお江若鉄道は最後まで浜大津貨物線の貨物輸送受託を目論んでいたようで、国鉄に先駆けDD1351(国鉄機と違って各機関が独立して片台車を駆動)を、大金出して購入し、その後も増備したのもその含みだったと聞く。確かに国鉄が直営せず委託あるいは譲渡したほうが合理的な線区であるのは、山陽鉄道以来のメチャ古い歴史も共通する和田岬線(正式には山陽線の一部)と双璧で、なぜか国鉄は手離さなかった。この貨物線廃止は江若廃止に2日先立つ1969年10月30日で、京阪は3線式の内側レールを外し、目出度く借家人から脱却した。