「びわこ」をめぐる不思議

朝日新聞記者に数枚の「びわこ」の写真を渡した。いずれも1959年11月3日撮影のもので、場所は皆さんおなじみのところである。老人が推薦したのは今回「デジ青」掲載のものだったが、記者は保存車63号とした。露出は曇天であったのでF5.6・1/250だったと思う。ピントが甘い。この日、60型は3両とも運転されていた。京都三条大橋に63号は石山寺から、62号は浜大津から、61号は浜大津から菊人形号として、いずれも急行でやってきた。老人は61号が三条駅に入構するや自転車で四条へ移動して停車中の姿をキャッチしていた。

老人が60型を始めて目にしたのは1946年秋である。父親に連れられ大阪に行く道中、枚方駅構内で留置中の63号を眼にしたのである。既に兄から連接車の存在を教えられており、その63号を翌年秋に三条通をチョコレート色の巨体揺らして走るのを見たのであった。この頃、三条花見小路東入る耳鼻咽喉科医院に週2~3回通院しており、医院は17時開院で、それに向け三条通を歩いていたのであった。

IMG

次の通院日、前回より30分早く家を出て60型を三条駅構内で待ち受けた。60型は京津線降車場で客を降ろし、本線との連絡線に入り停車した。当時、三条駅南口は未だ無く、京阪本線1番線が北へ延び京津線と接続していた。京津線降車場から南方へ一直線上に京津線の乗り場が設定されており、浜大津行きは折り返し運転をしていた。連絡線は降り場の先端で右に分岐して1番線に繋がっていた。この連絡線の周囲は京阪線改札口前面広場で、出入り自由であった。

小学3年生であった老人は3度目となった「びわこ」号と対面を果たし、ゆっくり観察する事が出来た。一番に気付いたのは、ポールの上げ下ろしを外部からやっている事であった。その頃、京都駅前に行くと北野線の古い電車は車掌が一度にポール2本を纏めて下ろし、ぐるりと半周廻って反対の運転台側の架線に嵌め直していた。京津線の他の電車は運転台正面の中央窓を下ろし、ポール操作をやっていた。戦前の60型の写真では前部中央窓は幅狭で上部1/3は通気口になっており、これではポール操作は不便であり、外部でしている事は理解できるのであった。

60型の大津線転属第1号は63号で、1946年9月となっている。この時、正面中央窓改造済の1本ポールでやってきたのかどうか覚えが無い。61号は1948年1月27日、62号は1948年10月1日付で大津線に移管された。この2両は前面窓改造済であったと思う。これらは1947年2月復活の急行に起用され、23年冬季から運転の京阪間直通スキー列車となった。

IMG_0001

老人は1991年9月、京阪電鉄K事業(枚方遊園管理者)課長とS車両課長のご配慮で、今は故人となられた吉川文夫氏、高橋弘氏と共に遊園の開園前に63号を1時間見学させてもらった。その時の写真で説明を続けようと思う。

車内正面に向っての写真をごらんあれ。右側の先頭座席、これぞ「鉄専用座席」として2名に着席券を発行したいものであるが、60型にはパノラマカーのように防御装置がないから高速運転時、正面衝突すれば重大責任事故となるのは必須である。

朝日新聞では大津の読者からかぶりつき座席礼賛のお言葉が頂けた。老人も上高野の旦那(2代目DRFC会長)と2人で、2名分座席を三条→浜大津間独占したことがあった。富山から大阪に転勤した頃の日曜日だったので1964年だったと思うが、2人はかぶりつきに陣取って正面小窓に膝着き、8ミリ映写器での撮影を敢行した。撮影者の旦那はボーナスでニコンの電動小型撮影器を購入したのだ。老人は撮影助手で、何を担当させられたのか覚えが無い。

IMG_0002

60形の低い方の乗降用ステップだが、これの構造が思い出せない。車両の床高は1140ミリで当時の京阪線より低く設定されていた。床高を3で割ると380ミリになる。この数値は15インチとなりアメリカ路面電車のステップ高の限界となる。日本の路面電車もステップ高380ミリを上限としていた。

さて、60型は乗降扉を高と低の2種類備えていた。高は京阪線の高いプラットホーム用で、低の方はレイル面上の寸法でステップ高380ミリ以内の寸法の筈が、60型竣工図では路面用乗降口のステップ高は500ミリとなっており、先の380ミリをオーバーすること120ミリであった。そこで連絡線での乗降用に木製150ミリ高の足継ぎ台が用意されていた。

次いで車内側のステップだが、写真はステップとなる部分をカバーした時のもので、この中に一枚の足継用の鉄板が内臓されている筈で、それの支持方法を聞くのを忘れたままである。停留所の安全地帯高は150~180ミリの設定であったと記憶しているが、低い方であっても500-150=350ミリとなり、380ミリ以内でOKとなる。残る1140-500=620については、車内の上げ蓋幅が380ミリ以内となっておれば、その場合の踏み板部分が格納されておればOKとなるのだが、よくわからない。

IMG_0005IMG_0004IMG_0003

次は特許となった連接部分の事になる。特許状を読んだのではないから詳細は分からない。2車体の台枠接続部分の事、車体の通路部にドラムを用いて安全を期した事の2点にあるようだ。この特許はブリル社が開発したものではなく、シカゴの弱小車体製造メーカーが発明した。発端は高速で走るインターバン用ではなく、路面電車を目的としたものであった。アメリカは急速な都市発展に従い、20世紀初頭の路面電車は朝夕混雑時の解消には単車(4輪車に限らない)の連結運転が採用されていた。これは市街地の急カーブで運転上不都合で、車軸から車体先端までのオーバーハングが長くなると障害物に接触することになる。それを解決する方法としてボギー台車の芯に接合する車体断面中心点をおけば、車体断面の形状を変えれば接合部は自由に動くではないか、と言うのが発明の趣旨のようである。

これを発明したメーカーはブリル社に買収され、路面電車用として幾つかの工業都市(クリーブランド、ボルチモア、ミルウォ-キ-等)で採用された。インターバンであり市街地を走るワシントン・ボルチモア&アナポリス電鉄に、1927年に10編成納入したのを外遊していた京阪電鉄車両課長が知り、ブリル社の案内を受け視察したのであった。これが60型設計の発端であった。

ドラムと言っている連結幌代わり、台車の連結部分を写真でご理解願いたい。この連接装置は丸い鉄板の蓋で覆われており、通行には支障なく、曲線部ではドラムと一緒に動く。それゆえドラムの内部側には手すりがついており安全を期していた。

 

「びわこ」をめぐる不思議」への2件のフィードバック

  1. 「びわこ」の妻中央窓上部のガラリ(車内に独特の字体で「通風器」と、確か右書でペインティングされていた)を外したのは、何時ごろか不確かだが、小生が電車通学したさに山科から上京中学校に越境電車通学し始めた1948年にはまだあったと記憶する。何しろこの小さな、しかも低い窓から体を出してのポール操作は、車掌にとって大変だった。一人だけ小太りでも子供のように背の低い車掌(確か三好といった)が居り、彼に限ってはさして不自由はなかったようだが。ポールを車外から操作するとは、恐らく「びわこ」本来の用途である、京阪線京津線直通運転での習慣ないしは「決まり」ではないか。
    「びわこ」でもう一つ大変なのは、三条大橋駅からすぐ90度曲がって国道1号線に出るが、その際車掌は必ずポールの紐を握っていなければならない。三条着の上りだと、ポールからすぐ運転席右側の高床用扉まで戻って、扉を開けるのだが、スイッチが2個あって、一つは低床扉用の縦にバーを押し下げ、上げるもの。もう一つは陶製回転スイッチをひねって高床扉の、それも後部のみを開ける仕組みである。ラッシュ時は満員だから、車掌は乗客をかき分けて妻面から高床扉まで辿り着かなければならないのである。なお前部運転席直後の高床用扉は、運転手座席直後にあるエアレバーで、運転手が開ける仕組みになっていた。
    車掌が必死に高床用扉にたどり着くまで、その扉附近の客は下車できないから、小生が代理「お手伝い」?で、何回か扉を操作したことがあり、礼を言ってくれた車掌もいた。今なら考えられない話ではある。

  2. ボケが頻発しており申し訳ない。60型の路面乗降用ドアステップが高いと言及した際、木製の足継ぎが準備されたのは1954年春に始まった大津線大型車導入工事が始まった時のことで、隣家の叔父さんが運輸部庶務課係長時代に発注したと言っていた。この工事は大掛りで、この時に須磨の大人は通学で三条駅を利用していた筈だから、思い出話でも折に触れ聞いてみよう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください