釧路近辺 駆け足旅

梅雨が無いと言われる北海道の6月は野鳥や花の観察には最適の時期ですから 早くから航空券や宿を押さえて意気揚々と出かけました。ところが 何でも今年はエルニーニョ現象の影響とかで 7日間のうち晴れたのは1日だけと 昨今のカープの戦いのような旅になりました。新千歳から日高本線、広尾線、根室本線、白糠線、釧網本線、標津線に寄り添うようなルートで中標津までレンタカーで1000Kmを走ってきました。野鳥や花がメインとは言え、鉄分抜きの旅は考えられず 釧路周辺では短時間でしたが しっかり鉄分を吸収してきました。

1.白糠線跡

十勝川温泉で1泊して釧路方面に向かったのですが、あえて根室本線からそれて、国道274号線で釧勝峠を越えて白糠に抜けるルートをとりました。現在道東道が延伸工事中ですが 道東道もこのルートです。私はかつての国鉄白糠線の廃線跡を見たかったからです。白糠線は昭和39年に開業し、昭和58年に廃止されています。我々の現役時代には白糠線のような行き止まり線区はどうしても足が遠のいて 乗っていない路線でした。終点の北進地区ですが 数軒の集落があるだけで 駅の跡も定かではありませんでした。そもそも北進という駅名ももともとの地名ではなく、更に北へ路線を伸ばす願いを込めてつけられた駅名なので、夢はかなわなかったわけです。北進から白糠までの33Kmは 茶路川にそって延々と路盤と数多くのコンクリート橋、トンネルがそのまま残っていました。

国鉄白糠線跡

国鉄白糠線跡  茶路川を縫うように進む

 2.東庶路信号場

白糠から釧路へは国道38号線と根室本線が並走します。地図上で線路と道路は近いと思ってしまうのは内地の人間の浅はかさで、北海道ではそうはゆかず、海岸段丘の上と下だったり、間に防風林があったりと 日高線では少ない列車を撮り逃がしてしまいました。この区間も同様で線路は近くに走ってはいるものの 熊笹で半分隠れてしまうような箇所ばかりです。庶路を過ぎたところで遠くにディーゼルカーがライトを点灯して停まっているのが見えたので駅かと思い近づいてみると 長い待避線のある東庶路信号場でした。釧路(新富士)までは貨物列車が設定されているためか長い待避線が2線ありました。停車していたのは新得行2524Dで 下り列車を待っているようでした。やがて到着したのは釧路行き2577D。ところが2両は動き出さないのです。先着の新得行は15分以上停まっていたでしょう。しばらくして遠くに列車のライトが見え、釧路行き特急スーパーおおぞら1号4001Dが通過してゆきました。この信号場はいつ作られたのか 乗降場も記載されている昭和50年の道内時刻表を見ても東庶路は出ていないので JRになってから作られた信号場なのでしょう。それにしてもこんなダイヤでは地元の人がバスに流れるのも無理はないと思いました。ついでのことに この釧路行き2577Dが釧路に着く2分前に 4001Dの客だけを拾って根室行快速ノサップ3631Dは発車してしまいます。2577Dから乗り継いで根室まで行きたい人は2時間近く待たねばならないのです。なぜ2分が待てないのでしょうか。国鉄時代にはこんなバカなダイヤは組まなかったでしょう。急ぐ人は特急かバスを利用してくれと言わんばかりのJRに腹を立ててみても仕方ないのですが。

右 新得行キハ401723、左 釧路行きキハ401738

右 先着の新得行キハ401723、左 釧路行きキハ401738

スーパーおおぞら1号通過

スーパーおおぞら1号通過  左の建物は無人の信号場詰所

3.C58106

釧路駅にほど近い幸町公園にC58106が保存されているので会いに行きました。釧路機関区にいたC58のうちの1両ですが、実に手入れが行き届き 美しい姿でした。デフレクターが切り詰められているのは 北海道では入換えに従事する構内手がデッキに添乗する際 安全上よろしくないと組合要求で切り詰めたと聞きましたが、このC58もご同様です。

釧路市幸町公園のC58106

釧路市幸町公園のC58106

4.釧路製作所の8722

 雄別鉄道を訪れたのは昭和44年の2月でした。雄別炭山で庫の中に眠っていた8721、8722を一応撮ってはいたものの、元気に走っていた205号機や1001号機に主にカメラを向けていて しっかり8722を撮っていませんでした。翌昭和45年に炭鉱の閉山とともに、雄別鉄道は廃止されてしまいました。ところが運よく8722号機は雄別炭鉱の関連会社の釧路製作所に引き取られ、保存されたのです。理解ある社長と簡易軌道のディーゼルカーも作っていた鉄工業をなりわいとする会社という好条件のおかげで今日まで生き延びたようです。8700型は明治44年に英国ノースブリティッシュ社から東海道本線などの急行列車用として12両が輸入されたのですが、翌年これをコピーして汽車会社で18両が国産されました。8722号機は追加生産された国産機の一員ですが、純国産とはゆかず、ロッドはドイツ ヘンシェル社からの輸入品だそうです。当時の我が国の鋳鋼技術はまだ水準以下だったのです。8722は盛岡、青森に配置され 後年北海道拓殖鉄道を経て昭和32年に雄別炭礦鉄道に譲渡されてきました。国産蒸気機関車の黎明期を象徴する機関車として平成19年に経産省から「近代化産業遺産」としての認定も受けて 釧路製作所正門前に大切に保存されています。

釧路製作所構内に保存中の雄別鉄道8722号機

釧路製作所構内に保存中の雄別鉄道8722号機

8722-1

今回の北海道旅行の楽しみのひとつがこの8722号機との再会でした。事前に同社に見学依頼をしておいたのですが、土曜日にも拘らず同社の奥山道紀氏が出迎えて下さいました。奥山氏は同社の安全活動の責任者であるとともに、三菱大夕張鉄道保存会会長でもあり、いろいろな保存活動にご活躍のご仁です。応接室でいろいろな話を伺ったのですが 我々と同世代ということもあり、またこのデジ青の読者でもありますので話は尽きなかったのですが 旅程の都合もあり早々に同社をあとにしました。8722号機はよく手入れされ、多くの訪問者もあるようでした。奥山様ありがとうございました。

5.太平洋石炭販売輸送

かつては釧路臨港鉄道として昭和38年までは旅客輸送もおこなっていたのですが、我々の現役時代には貨物(運炭)鉄道でした。当時よく利用した釧路ユースホステルが春採の近くにあったにもかかわらず、この鉄道を訪れていなかったので 今回初めて訪問しました。太平洋炭礦は平成14年に閉山されていますが、その一部鉱区を利用して 現在我が国で唯一採炭を続けている現役炭鉱です。会社名も釧路コールマインと変わり、その輸送を担当するのが太平洋石炭販売輸送です。採炭を続けてはいるものの 海外の研修生に採炭技術を伝授するのが主目的の炭鉱なので、採炭は不定期であり、運炭列車が走るのも研修があるときだけです。機関区のある春採駅を訪ねたのですが、この日は運行はなく 事務所で一人留守番のように事務をされていた方に声をかけて構内を歩いてみました。太平洋炭鉱の鉱区は海底に広がっていて 春採の坑口からセキに積込み 知人の港まで約4Kmを春採湖にそってプッシュプルトレインが走るのです。

春採駅のD801

春採駅のD801

反対側の先頭 D701

反対側の先頭 D701

D801は元雄別鉄道YD1301で雄別埠頭線で活躍したDL。D701もDD13類似のDL。ここにはユニークな車両が多く、国内唯一の現役電気式DL DE601に会いたかったのですが、どうも車庫の中のようで会えませんでした。一方 運炭の主役セキ6000型もここにしかない連接車です。現在14組28両が在籍しているそうです。びわこ号は2車体同番号でしたが、このセキ6000型は2車体が別番号(続き番号)なのは保守点検、管理面からは妥当なように思いました。

連接構造のセキ

連接構造のセキ6011+6012

連接部

連接部

その他 屋外にあった車両は全部撮影して回りました。

連結器の形態から保線用と思われる

連結器の形態から保線用と思われる

D401 予備機のようなロッド式DL

D401 予備機のようなロッド式DL

廃車、除籍されているロッド式のD101 

廃車、除籍されているロッド式のD101  うしろは車体がないD201かD301の廃車体

構内奥の石炭積込み設備

構内奥の石炭積込み設備

6.標津線 奥行臼駅跡

茅沼で泊まり、標茶町営軌道の開運町車庫跡で当時を偲び、特派員氏たちと降り立った茶内でも浜中町営軌道の風景を思いだし、我々世代には幻の 根室拓殖鉄道の終点とおぼしき花咲集落も感慨深く通過しました。標津線の奥行臼駅がそのまま保存されているので、行ってみました。木造駅舎と島式ホーム、貨物ホームがそっくりありました。キハ22でもあればなお良かったのですが。

標津線奥行臼駅跡

標津線奥行臼駅跡

奥行臼2

この国鉄駅跡の近くに 別海村営軌道の車両が屋外保管されています。釧路製作所製の自走客車、加藤のディーゼル機関車、ミルク缶輸送用の無蓋車の3両です。いずれもよく手入れされていました。年に何人の人が訪ねてくるのかわからないような 辺鄙な場所にもかかわらず、しっかりと保存されているのは敬服に値します。

7.C11224とC11209

元根室標津駅近くにC11224が保存されているので見に行きましたが、壊されたり落書きされたりはしていないものの 塗装は傷んだ状態でした。

中標津のC11224

根室標津のC11224

最後に訪れた中標津 丸山公園の2つ目玉のC11209はよく手入れされていてホッとしました。

中標津 丸山公園のC11209

中標津 丸山公園のC11209

北海道の観光バスツアーに参加した人に聞くと、観光ポイントから次のポイントまでの移動距離が長く、バスに乗りに行ったようだという声をよく聴きます。確かに道内を自分でクルマを走らせてみると観光旅行ならさもありなんと実感します。しかし鳥や花や鉄道を追いかける旅では 道が単調であっても タンチョウはいないかと探鳥しながら走りますので 北の大地の広さは感じても全く退屈しません。最後に主目的であった鳥の方の成果もご披露しておきます。タンチョウとオジロワシです。

標茶から茶内に向かう途中の茶安別原野で出会ったタンチョウの親子連れ

標茶から茶内に向かう途中の茶安別原野で出会ったタンチョウの親子連れ。 タンチョウは雪原のイメージが強いが通年で見られる留鳥です

野付半島で何度も見かけたオジロワシ

野付半島で何度も見かけたオジロワシ。基本的には冬鳥。

釧路近辺 駆け足旅」への7件のフィードバック

  1. 西村さんは趣味の幅が広いですね!
    しかも深い!
    鉄道以外に石灯籠、いや、一里塚かな?から花鳥風月まで丹念に研究されている、しかもどれもが趣味を越えて研究の域に入っています。本当に感心させられます。
    今後もがんばって下さい。

  2. 米手作市様
    過分なるお言葉恐縮です。中学校は地歴部+鉄道、高校は地学部+鉄道という流れが今も続いているだけで、この歳になってヒマをもてあましているために深入りしているだけです。趣味の域を出ていないと思っています。あちこち旅をして つくづく日本に生まれてよかったという感を深めているところです。

  3. 西村様 
    私は中学の時は地学部で、高校は地歴部でした。ちょうど、順番が入れ替わっていますが、西村さんと同じ状況です。この前の北近畿タンゴ鉄道に行った時も沿線で国の特別天然記念物として郷村断層があることがわかり、見ようと思ったのですが駅から遠いので断念しました。ということで、いまだに西村さんと同じく中学、高校の流れを引きずっているのです。

  4. どですかでん様
    現役時代にはあまり気にしていませんでしたが、そんな共通点があったのですネ。今回の北海道旅行でもアポイ岳で日高山脈固有のかんらん岩のかけらを持ち帰ったり、十勝でナウマン象の発掘現場などに立ち寄っております。このクセは抜けそうにありません。

  5. 西村雅幸様
    昨年の道北に続き今年もお元気で充実した道東旅行を拝見させていただきました。雄別鉄道や釧路臨港鉄道等は当時その名だけは知っておりましたが、終に訪問叶わずでした。かつて訪問した場所の再訪は感慨深いものがあると思います。保存蒸機も含めこのような充実した旅行にはレンタカーは必需品と思います。私も札幌に1年赴任したことがありますが、その時は当時の北海道の国鉄線は全線走破しました。従いまして今回西村さんが行かれた旧白糠線も乗車しまして北進まで行ってきました。古い時刻表を見ますと北進という駅名が見当たらず、後で調べましたら、1972年9月に上茶路から北進まで伸ばして1983年10月に廃止したことがわかりました。この時は私は珍しくレンタカーを利用し、途中根室本線音別~尺別の海を入れる有名な場所でも撮っていました。

  6. 準特急さま
    いつも暖かいコメントありがとうございます。札幌時代に白糠線に乗っておられたのですね。当時はまだ多くの地方線区が残っていたことでしょう。今回標津線沿線を40数年ぶりに再訪してみると、よくこんな寂しいところを一人で雪の中を歩いたものだと感じました。線路ぎわの雪の上にはいく筋も動物の足跡があり、どこまで歩いても同じ景色で そのうち遠くから汽笛が聞こえてきて 結局線路ぎわで単純な数枚を撮って、トボトボと引き返し 乗降場で次の列車を待つという実に効率の悪い旅行だったものです。今のように整備された道路をカーナビ完備のレンタカーで縦横無尽に追いかけることなど想像もつかず、足だけが頼りの撮影行でした。今そんな旅をしている若者は寝袋などをくくりつけて自転車旅行をしている人ぐらいでしょうか。旅の途中でそんな若者に出会うと、つい声をかけたくなります。北海道はやはり魅力的な大地でした。

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