倉吉線、木次線、福塩線、三江線と少し前まで賑わったデジ青でしたが、このところご無沙汰です。そうすると西村さんが小ネタで久しぶりに三江線の話題が登場しました。呼び水に誘われるように5月21日(土曜日)に日帰りで行った三江線全線乗車記を・・・
というような書き出しで7月14日から投稿作成を開始したのですが、8月2日に西村さんが投稿された「早ければ2018年春にも」の内容に想定はしていたもののもう少し何とかならないかと思ってしまいます。それは列車本数が少ないから、乗車人数が少ないからということで廃止というのは利益を考えるならばそうなるのは当然と思いますが・・・とにかく、日帰り全線乗車記を
さあ、三江線全線乗車日帰り旅行に出かけよう!
以前から三江線全線乗車を企んでいたのですが、ご存じのように列車本数が少ないのでどなかなか難儀な路線です。まず、江津や三次に、どのようにして行くかが問題です。夜行バスとかいろいろ考えてみたのですが、最終的には山陽新幹線を利用することにしました。しかし、山陽新幹線を利用するとしても問題は新幹線を降りてからどのようなルートで三江線に入るかです。あれやこれや考えて新山口(かつての小郡)駅まで行って、そこから「スーパーおき」で浜田へ行くことにしました。浜田から三江線浜原行きがあるからです。
この列車は「いわみキャラクタートレイン」というラッピングした2両編成です。この日は土曜日なのでちょうど「いわみキャラクタートレイン」でしたが2両編成なので乗客は多く、指定席を取っておいて良かったと思いました。津和野で多くの乗客が降りたのですが、松江方面や終点の米子へ行く乗客も乗っていました。女性の車掌さんが頻繁に車内を行き来して乗客のお世話をしていました。和気あいあいとして、なかなかいい雰囲気でした。山口線は初めての乗車です。乗ってみて山口線が山間部を走る路線とは思っていませんでした。地形図によると津和野のひとつ手前の船平山駅は標高310mぐらいで津和野駅は標高150mぐらいであるのでちょうど途中にある白井トンネルが山口線の頂点であるようです。津和野を過ぎるとエンジン音も変わり、軽快に日本海側へ下っていきます。途中、日原(にちはら)駅に到着します。ここは岩日北線が岩国の方からつながる予定だった駅なのかと思っているうちに「スーパーおき」は発車しました。
益田から山陰線に入ると「スーパーおき」はがぜんスピードを増していきます。左側には日本海が見えて、今までの山間部の風景と一変します。間もなく、浜田に到着しました。ここで浜原行の列車に乗り換えです。発車まで50分ほどあるのでここで食事をしないと、これから先で食事ができるタイミングを逃してしまいます。駅前の大衆食堂で「黒焼きそば」というものを頼んだのですが、これはいったい何かというとざるそばなどに使う和そばを使ったものです。旅をすると時々面白いものがあるので、これも楽しみのひとつです。
さあ、三江線浜原行に乗って発車を待ちます。
江津までは山陰線を走り、そこから三江線に入ります。
いよいよ 三江線に突入!
江津から三江線の列車に乗車する人がいます。この江津では20分の停車です。新山口行の「スーパーおき」を待ち合わせるようです。乗り継ぐ乗客は見受けられませんでした。そして、三江線の列車は定刻に出発しました。しばらくすると列車の車窓からは江の川の河口が見え、遠くに日本海も見えます。
江津本町駅を出ると左側の窓から下を見ると江の川の水面が真下に見えます。川の上を走っているようです。このような景色は見たことがありません。
江の川沿いに列車は走ります。口羽から三次間の風景とは全く違います。三江線は異なった車窓風景が楽しめる路線のようです。
その川沿いに走る三江線の線路はというと・・・
これを見ていると河川敷を走っていた北丹鉄道を思い出します。まあ、北丹鉄道より状態はいいですが、列車はゆっくりと走ります。
石見川越駅に着きました。小さな駅です。駅の向かい側には同じように小さなヘアサロンがありました。
列車は江の川をさかのぼっていきます。
景色を眺めていると石見川本駅に着きました。江津行の列車が停まっていました。2両編成です。先頭はラッピングした神楽号でした。
この列車は石見川本駅が始発です。
列車は発車し、石見神楽が目の前を通り過ぎていきました。
江の川を渡ると粕淵駅です。この江の川を渡っている鉄橋は帰ってから調べてみると線路に平行して人が通れる通路があることがわかりました。写真をよく見るとそのようになっています。確かに上流側に橋があるのですが駅前からは遠回りになるので、この橋を併用橋としたのでしょう。淀川にあった赤川鉄橋を思い出します。粕淵駅で途中の乙原駅から乗って来た少年ともう一人の2名が下車しました。そして終点の浜原駅に到着です。
問題は次の三次行までどうしたものか?心配無用・・・
もう一人、旅行者らしい人も降りました。この人に話を聞くと東京から三江線に乗りに来たそうです。今日は潮温泉に泊まるそうです。次の三次行まで2時間あまりあります。どうするのでしょうか。しかし、そんなことをしている場合ではないのです。私も同じことです。どのようにして次の三次行まで2時間あまりを過ごすかです。しかし、心配無用、そのようなことも織り込み済みです。ひとつ手前の粕淵駅まで歩いて戻ることにすると時間がつぶせます。実際の石見銀山街道であるかどうかわかりませんがルートとしては銀山街道です。
まず、浜原ブラリです。江の川の方への道から振り返ると浜原駅と地方へ行くとよく見かける日通の看板が・・・
駅へ戻ると東京から来たオジサンはいませんでした。バス時間を見てみると
ご覧のようにバスの本数も多くありません。三江線の列車と同じようなものです。行き先の酒谷は浜原の次の沢谷駅から県道を東に行った集落です。この道は石見銀山街道で酒谷から峠を越えて赤名という銀山街道の宿場を通り、三次に至ります。三次からは赤名へ行くバスがあるのですが、峠を越えるバスはありません。三江線がバスに転換されてもこのような状態であれば転換されても便利になるということではないでしょう。道に沿って歩いていると神社への道がありましたので行ってみることにしました。
踏切の向うに神社があります。踏切を渡りますと狛犬さんが鎮座しておりました。よく見ると右側の狛犬さんは親子のようです。
このような狛犬は見たことがありません。後で調べてみると分類としては子持ち狛犬というそうです。立派な注連縄です。この神社の由来によると金毘羅さんもお祀りしているようです。
金毘羅さんといえば、海上交通、水運の守り神なのですが、このような山間部に金毘羅さんとはどのようなことでしょうか。ところで、奈良でも金毘羅さんを祀ってあるところがあります。大和川の近くですが、かつては魚梁(やな)船で亀の瀬から大和川の上流の方へ水運が盛んでしたが、鉄道ができて衰退しました。これと同じようなことが江の川でもあったのでしょうか。
浜原から粕淵へ向かうことにしました。浜原の街並みはかつての銀山街道として栄えた町でしたので立派な家が見受けられます。
街並みの写真を撮っているとサイクリングをしている人がやってきました。
この方は浜原への列車から見ていると途中で川沿いの道から列車の写真を撮っておられました。そして、このシニア・サイクリストとはもう一度会うことになります。帰りの三次行に途中の駅で乗って来たのです。
石見銀山街道を粕淵に向かって歩いて行きます。この道と江の川の間を三江線が走っています。道からは浜原の町と桂根神社の社殿が遠望できます。銀山街道はここから廃道になりましたが三江線のトンネルの上を通っていたようです。切通しを抜けると三江線を跨いでいる橋の上にきました。ここからは粕淵駅、高台に粕淵の町、そして三江線の歩道と一体になった鉄橋が見えます。
粕淵駅を発車する列車を撮りたいのですが、その列車は三次へ行く列車ですのでそんなことができるはずがありません。まず、粕淵駅へ行くことにしました。
粕淵駅は商工会館に間借りをしているような感じです。駅の中に入ると・・・あれ、天井から傘がぶら下がっていました。
よく見るとツバメが巣を作っているからです。駅の中にはいろいろなパンフレットがありました。粕淵の町ブラリをするつもりでしたので、美郷町観光協会の絵地図のあるパンフレットを見ながらブラリをすることにしました。パンフレットを見ていると結構見どころがあるようです。なかでも鏝絵(こてえ)が見ることができるとは思ってもいませんでした。鏝絵とは漆喰でつくるレリーフで、左官が鏝で仕上げるから鏝絵と言うとのことです。島根県にある鏝絵の多くは石見地方にあります。石見地方は石州左官発祥の地だそうです。とにかく、絵地図にあるいくつかの鏝絵と街並みを時間まで見ることにしました。
駅から町の中心部へは道を登って行かなければなりません。登り切ったところから左へ曲がりますと江戸末期に本陣であったところが今は旅館「亀遊亭」のところに行き着きます。そして、木造洋館の旧役場の建物が近くにあります。それをまず見に行くことにしました。
亀遊亭から少し南に行くと旧役場の建物がありました。正面にバルコニーがあるいい建物ですが、かなり傷んでいるところがあります。その向かい側にもまだ会社の事務所として使われている立派な木造建物がありました。ここの人がおられましたのでお聞きすると昭和初期の建物だそうです。
ここからすぐの所に浄土寺という大きなお寺があります。このお寺はパンフレットによると山陰地方での浄土真宗発祥のお寺だということです。ここから山陰地方へ浄土真宗の布教が広がっていったのです。
鉄道が開通するまでは江の川をお船で行ったり来たり、そして熊野から来たプロペラ船も・・・
ところで旧役場前の会社の人に浜原で金毘羅さんが祀っていたので、江の川では水運があったかお聞きしたところ、水運があったと聞いたことがあると答えていただきました。さらに、粕淵から江津までプロペラ船が運行していたことを聞いたと言っておられました。その港はここのすぐ近くにあったとのことです。
さっそく、帰宅してから調べてみました。ネット上で国土交通省中国地方整備局浜田河川国道事務所が「江の川のあゆみ」としてまとめてあるのがわかりました。これを読んでいると江の川の舟運が発達したのは中世以降でしたが、江の川の場合は大森銀山があるので荷抜けなどを防止するため番所を置かれていたために江の川全域を通しての舟運はおこなわれていなかったようです。さらに藩外交易禁止をしていたので一部の区間での舟運であったようです。明治になってから江の川全流域で舟運が始まったということです。舟運での所用時間も書かれてありました。それによると三次-江津間を下る場合は2日間で、川をさかのぼる場合は5日を要していました。当時、江の川は重要な輸送路で、幕末から明治20年代まで多くの物資を輸送されていました。「江の川のあゆみ」に明治20年代の各船着き場における輸送物資の一覧表がありました。この一覧表を見ると鉄の輸送が多く見られます。この江の川流域ではたたら製鉄が行われていました。つくられた鉄は江の川の舟運で江津へ運ばれ、そこから廻船で全国に運ばれていました。荷物の取扱量の一番多いのは江の川河口の船着き場で、2番目は粕淵の船着き場であったそうです。明治の後半には浜原-江津間に定期船が就航し、大正時代にはプロペラ船が就航しています。このプロペラ船は紀州熊野川で使われていたものを持ってきたそうです。これで旧役場前で聞いたプロペラ船のことが確認できました。しかし、三江線が石見川越まで開業すると採算が悪化し、昭和6年に廃業したということです。そして、その三江線が同じような運命をたどろうとしています。
粕淵で鏝絵を探す
粕淵で見ておかなければならない鏝絵を探すことにしました。知らないうちに時間が経って、あまりのんびりしていると列車に間に合わなくなります。なかなか時間をつぶすのが大変だと思っていたのですが、むしろ時間が足りないくらいになりました。
鏝絵を一つ見つけました。鏝を使って漆喰でこのようなレリーフを作る技に感心します。さらにもう1つ見つけました。
龍の鏝絵です。 絵地図で見ると、まだあるようですが今回はここまでとして駅に急ぎました。途中にこのような軒瓦がありました。
なかなかユーモラスな軒瓦です。来た道と同じなのですが、方向が違うので見えるものが新鮮に見えます。そんなことを考えているうちに駅に到着しました。
再び三江線に乗車・・・ 粕淵から三次へ そして、帰途へ
駅でしばらく待っていますと三次行がやってきました。
初めて撮った三江線の走行写真です。駅からの写真ですが、かつて乗った三江南線でも走行写真を撮っていません。大げさに言うと生まれて初めて撮った三江線走行列車写真なのです。
三次へ行く列車は浜原駅を出発しました。浜原駅には浜田より乗って来た気動車が江津への出発を待っています。
浜原からは南線と北線をつないだ区間になります。江の川は浜原ダムによって水が満々と蓄えられていました。石見都賀駅を出発すると宇都井駅まで高架のような所を走ります。難工事であったことが想像されます。鉄橋とトンネルを通り過ぎると日本で一番高いところにある高架駅である宇都井駅に到着します。地上から20mのところにあり、ホームへは階段で登るしかないということです。
宇都井駅に停車中の窓から眺めるとこんな感じです。谷あいに細長く民家が点々とある集落です。宇都井駅の次に停まった駅は伊賀和志駅です。ここは森の宝石ブッポウソウが見ることができる駅であるという案内板がありました。ところで後で調べるとこの鳥は「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴かないそうです。そうですよね。西村さん。
次の駅は三江南線の終点であった口羽です。口羽では9分の停車です。カメラを持っている乗客の方は写真をそれぞれ撮っておられました。さながら三江線撮影会のようです。
まもなく、三次から浜原行がやってきます。この列車と交換です。三次行は浜原行発車してからですので、ホームの端で写真を撮ることができました。
口羽から三次までは1974年3月に三江南線の時に乗車しています。この時の事を昨年の10月に「41年前の三江南線0番線と車窓風景」と題して投稿しました。今回、42年ぶりの乗車となります。車窓風景がどのように変わっているか、それがもう一つの目的でもあります。しかし、車窓風景は様変わりしていました。そして、民家も立派な建物が増えていました。それは当然だと思います。江の川の堤防もしっかりしたものになっています。写真は撮りましたが帰宅してから同じところがあるか見てみましたが、全くわかりませんでした。
下の写真が42年前の風景です。上の写真と同じ場所ではないのですが、どこのところでも丈夫な堤防に民家は守られています。
42年前の写真は河川改修前で、1972年(昭和47年)7月と1983年(昭和58年)と度重なる水害で水防対策工事が行われ平成になって工事は完成しています。風景が変わっていたのも当然のことだと思います。最近では三江線の鉄橋が流された水害が記憶に新しいところです。江の川の水運で流域は栄えたが、水害という大きなリスクもあったということがわかります。
三次に近づくと日が暮れてきて、写真撮影は終了です。三次駅で10分の接続で芸備線18時57分発の広島行で帰途につきました。奈良の最寄り駅には23時24分着です。三江線全線乗車日帰り旅行は無事終了いたしました。
三江線に乗ってみてちょっと考えてみると
三江線全線乗車後にいろいろ調べてみると、この沿線がかつては重要な地域であったことがわかりました。すぐ近くには世界遺産の石見銀山があることは事前にわかっていましたが、江の川一帯が鉄の産地であることは知りませんでした。たたらといえば奥出雲と思っていたのですが、石見地域、特に江の川流域はたたらとその舟運で栄えていたのです。木次線沿線の奥出雲も含めて中国山地で精錬された鉄は全国に送られていったのです。そのなかでも江の川は生産された鉄の重要な輸送路でした。しかし、銀山やたたらが衰退すると江の川の舟運も減少していくのは当然の結果だと思います。そして、三江線は北線、南線として開業したが産業が衰退していく中での開業だから、すでに輸送インフラとしての基盤として弱いものであったといえます。40年あまり前の写真を見ても道が整備されているとは言えず、利用者が少なくても鉄道はこの地域で生活する人々のまだ交通機関としての意味があったのです。しかし、道路が整備されると列車でなく、いつでも移動できる自動車を利用するでしょう。自動車も安くなり、手に入れやすくなったので手軽に移動できる交通手段ですので、自動車にシフトするのは自然の流れだと思います。鉄道だけではありません。バスも同じです。浜原駅前のバスの時刻表も見ても、三江線の列車と同じような本数です。いずれはバスも走らなくなるでしょう。ますます、過疎化が進行していくのかもしれません。
さて、どうしたもんじゃろのう。全くの部外者の無責任な戯言とおしかりを受けそうですが、まず、公共交通機関としての三江線はなかなか難しいでしょう。しかし、無くなってしまうと世間から忘れられた地域となってしまうと思います。今では江の川に舟運があったこともすでに忘れられています。このように忘れられていくと、その地域は衰退していくスピードが急激に早くなるかもしれません。近くに世界遺産石見銀山があり、ちょっと珍しい温泉である湯抱温泉あり、そして江の川があるのにもったいないことです。三江線を交通機関としてでなく、地域を維持するための道具として考えてみてはいかがでしょうか。(観光ツールに特化する。全線でなく一部鉄道で観光ツール化)粕淵か浜原から江津へ川下りの船(動力があれば川のさかのぼることができる。少し音がうるさいがプロペラ船の復活も話題になるかも?)と三江線、そして粕淵から石見銀山への周遊などを考えられます。石見たたらを復活させて、石見でしか手に入れることができない鉄製品を作り、石見に来てもらって買ってもらう。その時に三江線を乗らないと買えないようにするとかいろいろ考えることができます。粕淵の町ももっとPRしてもよいと思います。今は三江線があるから観光客が来るのでしょう。旅行中に粕淵の町で遊んでいる子供から「また観光客が来ている。」といわれました。近くで観光客らしい年配の夫婦の方を見かけました。ここでは2組も観光客を見かけるのは珍しいのでしょう。
三江線のような路線は線路維持が足かせになっているような気がします。脱線しにくい台車を開発するより問題解決の重点思考から考えると維持管理がローコストで安全な線路を開発するのか先だと思うのですが。ローカル線の収支が少しでも改善されるのではと思ってしまいます。さて、今度行くときは石見銀山でも行ってみるか。三江線に乗って。
どですかでん様
福塩線と同様 奈良からの日帰り旅 お疲れさまでした。9回裏2アウトになってから大逆転するのはツキと実力が伴わないとなかなか実現しませんが、三江線存続問題も同じようなイメージです。もっと早い回に点をとっておけば・・・、何回もノーアウト満塁の機があったのに・・・と悔やんでみてもあとの祭りです。先の上下や吉舎のように今回は粕淵の街歩きを楽しまれたようですが、昔の街道沿いの小さな町を訪ねようとすると 今では鉄道など公共交通機関をあてにせず、マイカーやレンタカーで訪ねることが多くなっています。木次線でもバスツアー客が三井野原から出雲坂根までの1区間だけ ワーワー言いながら乗りこんでくる光景を目にしたこともあります。地方の観光の基本はバスに取って代わられ、鉄道は主役ではなくなっているのが実態です。観光面でその状況を逆転するのは容易ではなく、一方で家から駅まで行くのも困難な高齢者ばかりになれば鉄道が生活の足としても成り立たず、地方閑散線区は座して死を待つような状況に追い込まれているように感じます。さて 瀞峡のプロペラ船が江の川に流れて来ていたことは知りませんでした。保津川下りや最上川下りのように急流下りの船は各地にありますが、流れがゆるやかで水深が浅い川では川上りを含めてプロペラ船は適しているのかもしれません。プロペラ船について調べてみようと思っているところです。石見銀山に加えて たたら製鉄遺跡を巡り歩くのもマニアック感があって良いと思います。当地三原には全く知られていない日本最古の製鉄遺跡もあります。またのお越しをお待ちしています。
西村様
コメントありがとうございます。やはり、乗って残そう〇△◇というのでは一生懸命に運動をしている方には失礼と思いますが、無理があるような気がします。鉄道が好きなものがこんなことを考えるのはおかしな様ですが、鉄道を残すのを目的でなく地域を創生することを最大の目的としてその中で鉄道が必要であれば残してもいいし、費用的に困難であれば違うことをすればいいのではないかと思います。一部路線を利用するとか、錦川鉄道の先にある「とことこトレイン」のようなものに転換するとか、とにかく多くの人に来てもらうことを考えなければならないと思います。しかし、地元の人が何とかしようとする気概がなければならないと思います。今回の投稿をするにあたってたたらのことを調べていると山陰中央新報の連載記事「鉄のまほろば」にたどり着き、その記事の中で石見銀山資料館の仲野館長さんが「近代、銀山とたたらが衰退することによって、この地域の経済基盤が揺らぎ、人口の流出などにつながった。原材料生産にとどまったため、石見銑を買い入れて金属加工業を育てた北信越との違いが出ている。石見でなぜ過疎が進むのか、産業をどう育成するのか。まずは、石見地域の歴史を研究し、見つめ直していく必要がある。」と語られているのが印象的でした。国鉄時代からあれだけ、もうすぐ廃止になると思われていた信楽線が大事故や鉄橋流出でもうだめだ~と事を乗り越えて苦しいながらも今も信楽高原鉄道として運行しているのに学んでみるのもいいのではないかと思います。ここは地元の並々ならぬ熱意が自治体などを動かして危機を脱出したとして知られています。とにかく、これからの推移を注目したいと思います。ところで三原の日本最古の製鉄遺跡は調べてみると弥生後期の遺跡のようですね。魏志倭人伝の倭国大乱と絡んで興味深い遺跡だと思います。興味深い情報ありがとうございました。
どですかでん様
貴君のご意見に全く賛同です。外野の無責任な発言と言われそうですが、客観的に考えて存続には無理があると思わざるを得ません。ところで製鉄遺跡のことを早速調べられたのですね。さすがです。現地には看板ひとつなく、山陽自動車道の真下に眠っていて 出土品は広島市内に保存されています。今度当地にお越しの節には古代山陽道と21世紀の山陽道が交差する地点にある遺跡にご案内したいと思います。おとぎ電車も貴君の得意分野でしたね。いろいろな情報をありがとうございました。
西村さんのコメントに関連してもう1つあります。プロペラ船ですけど、おとぎ電車が走っていた頃にプロペラ船が宇治川を走っていました。おとぎ電車の連絡用だそうです。昭和28年4月から就航したらしいが同じ年の8月の水害で運行できなくなったそうです。おとぎ電車について調べていたらプロペラ船があったことがわかりました。写真で見ると瀞峡のプロペラ船ほど大きい船ではなかったようです。
どですかでんさんのコメントを読んでいて、宇治川ラインのおとぎ電車とプロペラ船に乗ったことを思い出しました。京都在住でしたから、宇治川ラインには2回行きました。コースはいずれも京津線~琵琶湖汽船~バス~プロペラ船~おとぎ電車~バス~京阪宇治線の方向でした。
プロペラ船は騒音が大きかった記憶があるので乗ったのは確かですが、区間はうろ覚えで、おそらく外畑~おとぎ電車間ではなかったかと記憶します。なにぶん鉄路の京津線、江若(浜大津でチラッと見ただけ)、おとぎ、京阪に目が行っていて、残念ながら船とバスはハッキリとは覚えておりません。
一番面白く楽しかったのはやはりおとぎ電車でした。いつも人気で2回とも半時間くらい並んで待ちました。最初に乗ったのは2編成あったうちの(スタイルが)古い型で、2回目はスタイルのいい方でした。
ポール集電のため、素掘りのトンネル内で度々スパークがとび、その音と青白い閃光にドキドキしたものでした。
うろ覚えで恐縮ですが、2編成には確か「むかで」と「バンビ」という名が付いていた記憶があります。
プロペラ船の話が、我々にとってあるまじき脱線の方向に走ってしまい申し訳ありません。
江の川のプロペラ船から宇治川のプロペラ船に話が飛んでいくところがデジ青の真骨頂だと思います。皆さんそれを楽しみにしていると思います。1900生さんのコメントにあった外畑という地名で思い出しましたが、子供の頃に宇治川ラインを私は宇治の方から琵琶湖の方へと行きました。残念ながらおとぎ電車は乗らずにバスでした。そのバスも満員で立って行きました。大峰ダムのところから遊覧船で外畑へ。最後は南郷から浜大津へ琵琶湖汽船に乗りました。1900生さんがプロペラ船と思われているのは遊覧船のことではないでしょうか。昨年の8月23日に「ブラソロリ乙訓おとぎ電車ツアー」を企てるにあたり、総本家青信号特派員さんに宇治市歴史資料館編の図録を教えていただき、図書館で閲覧しました。その時の資料コピーに載ってある昭和28年に作成されたパンフレットでは宇治塔の島から天ヶ瀬までと石山寺から南郷までにプロペラ船が書かれています。宇治塔の島からのプロペラ船は当時の写真が載っているので確認できますが、南郷側はわかりません。プロペラ船は二隻あったのですが、昭和28年4月に就航して同じ年の8月にあった豪雨で航行不能になり、その後は琵琶湖の大津名所めぐりに就航したようですが、4年あまりで姿を消したようです。もう1つ外畑には大変な思い出があります。まだ小学生のことだと思います。醍醐寺に行き、山を登って上醍醐まで行ったのですが、帰りは同じ道を帰ればいいのに宇治川の方へ下りて行きました。今から考えるととんでもハイキングだったのです。ぎりぎり、外畑からのバスに間に合って帰ることができましたが、間に合うことができなかったらどうなったか今から考えるとゾッとします。そんなことを思い出しました。
いや、そうかもしれません。資料に残っているのが一番確実な事実でしょうから。
おぼろげな記憶と照らし合わせても、おそらく遊覧船だった可能性が高いですね。
外畑は覚えていたのに、大峰ダムは完全に忘れていました。やはり関心のあるものは記憶に残るが、関心度の低いことは残らないのでしょうね。
おとぎ電車は一度プルプルさんと叔父上にお尋ねしたことがありましたが、資料散逸もあって詳しいことはわからなかったですが、確かバンビとむかでの編成名はその時にお聞きしたように思います。
おとぎ電車はさしずめ現代のトロッコブームのはしりだったのかも。
私も記憶が定かでない時があります。その時は確認の意味で調べるのですが、知らないことがわかってくると、ハマってしまいます。ところでおとぎ電車の特集があったレイルNo.78を見ていると、客車の台車図面があってその中で1軸ボギー台車はなかなかうまくしたものだと感心したもの男です。ただ、実際に採用されなかったようですが。たかがトロッコ、されどトロッコ、技術の京阪です。今でも通用するのではないかと思います。
三江線日帰り紀行、ようやく拝見しました。多忙のためコメントが大幅に遅くなりましたが、私も、どですかでんさんと同じように、もう40年以上、三江線に乗ったことがありません。昨年来のデジ青上の三江線ブームに刺激されて、私も何度か訪問の計画を練ったものですが、あまりに不便なダイヤですぐに挫折してしまいました。なるほど新山口から入る方法があるのですね。まさに“急がば回れ”、途中の行動も、どですかでんさんらしい、視るもの、すべて興味の対象と言わんばかりの、博学ぶりの発揮ですね。私としては、粕淵の旧役場の建物が印象に残りました。このようなB級建築に眼が無く、私も列車の接続待ちで30分も時間があれば、すぐ駅を飛び出して街歩きを楽しみます。
生まれて初めて撮ったと言う粕淵駅からの写真は、左手の樹木、カーブしたレールから現れた単行列車と、とてもホームから撮った写真とは思えません。
ところで、一昨日、どですかでんさんに教えてもらった和歌山線の117系の運用ですが、関東から遠征の準特急さんに連絡したところ、お陰でバッチリ撮れたと連絡がありましたよ。素早い対応、ありがとうございました。
準特急さんが無事に和歌山線の117系を撮られたということでお役にたってうれしく思います。山口線経由はあれやこれや考えた挙句で、新幹線も乗れる「おとなびパス」があったのでうまくいきました。行く前から十分に調べることはせずに、手持ちの資料で計画します。ただし、地図はいろいろなものを見ています。ほとんどは帰ってから調べたものです。ところで粕淵駅からの写真は最初から駅以外のところで撮ったようなものにするつもりでポジションを決めました。そして、この写真はノートリミングです。ポジションを決めるにあたって、左手の樹木がポイントでした。それと列車の位置です。連写はしていません。この1枚だけです。連写は狙いの位置にきた写真が撮れるかわからないからです。連写と言っても意識的に続けてシャッターを切ることはしますが、それは狙いがあってのことで私は失敗しても納得しています。ただ、機械が勝手にシャッターを切る連写は好みません。この時は写した列車に乗らなければならないので乗車位置にすぐ戻れるところで写真を撮りました。このような写真の撮り方も楽しいものです。ホームから撮った写真とは思えなかった言ってもらえて、狙いが当たってうれしく思っています。
どですかでん様
もうひとつ載せられた写真で感慨を覚えたシーンがあります。口羽駅の写真です。口羽は昭和38年に三江南線として開業した時の終着駅でした。この開業時の写真を山科の人間国宝が撮られており、この前の三江線ツアーの参加者に見せてほしいと渡されていました。その写真を見ると、カーブしたホームや背後の状況も50年以上経っても全く変わっていないのですね。ただ違うのは、開業式の時は、駅を埋め尽くすように地域の人たちが歓迎していました。いまは口羽駅の乗降は1日2人とか。変わるものと、変わらないもの、これが地方の現実なのでしょう。
総本家青信号特派員様、どですかでん様
三江線(勿論乗ったことはありませが)の高尚な訪問記のコメント欄に割り込ませていただき申し訳ありません。一言御礼を申し上げます。このくそ暑いお盆直前の時期に60代後半の4人と70過ぎの私の計5人はデジ青にも時々顔を出すクモハ73106東ウラさんの車運転で関西あらしを試みました。その時和歌山線117系の話題が出まして以前どですかでんさんがデジ青で説明されていたことを思い出し、急遽ご多忙中の総本家青信号特派員さんに挨拶方々どですかでんさんにお聞きした訳です。どですかでんさんの回答どおり朝和歌山を出て王子で昼寝後の夕方五条行きは以前のとおりの運転でして好天に恵まればっちり撮れました。有難うございました。帰りの東名はお盆渋滞が始まっており、昨夜、厳密には本日無事戻りました。デジ青をいつもご覧なっている某出版社の編集責任者からこの話が出ているとの情報いただきコメントしました。なお、クモハ73106東ウラさんもどですかでんさんに木次線のスイッチバックの退色したカラーを蘇らせてくれたことをよく覚えており礼を言われていたことも報告致します。
準特急様、117系の撮影がバッチリ撮れて何よりです。この数日は好天で、雷雨もありません。最近は朝からカンカン照りで暑く、夕方も気温が下がらず暑いので撮影は大変だったでしょう。三江線の訪問記ですが鉄道の細かい話ができないので、あのようなことでお茶を濁しているだけです。ところでクモハ73106東ウラさんの木次線スイッチバックの写真ですが、未修整があと2枚残っています。涼しくなったら再開をする予定です。出来上がりがいつになるかわかりませんが、完成させたいと思っていますのでちっとでなく、かなりお待ちくださいとお会いになったらお伝えください。とにかく、暑いです。現在、私は休業状態です。
準特急さま
その節は、突然の電話でうろたえましたが、どですかでんさんの素早い対応で、翌朝にはちゃんと117系をゲットできたこと、何よりでした。それにしても、この炎天下に、老人ばかりの集団が、わざわざ関西まで来られるとは。私のように家に引き籠ってばかりいる人間からは、想像を絶する行動力に脱帽です。
すみません。117系がいつも昼寝しているどですかでんさんのお近くの駅名の王子は王寺が正しいですね。訂正してお詫び申し上げます。では王子はどこか。皆さんご存知ですね。私の住所の八王子も手紙はかなり八王寺で来ます。地名は難しいですね。
パソコンで「おうじ」とすると王寺と変換できますが、「おおじ」としたら大路や王子に変換できますが、王寺には変換できないようです。「おうじ」であれば王子に変換できるのですが。日本語入力はMicrosoft IMEを使用しているのですが、以前よりは良くなっていますが、まだもう少しという感じで時々国語辞典で調べることがあります。ATOKにしたいと思ったりしていますが、頭を使うことも必要なので、あまり賢くない日本語入力システムのままでとも考えています。生駒線で勢野北口(せやきたぐち)があります。地名は漢字で勢野ですが近くのお寺は勢野でなく勢谷と書いて勢谷寺です。どちらが先なのかわかりません。ちょっと気になっています。ほんとうに呼び方、書き方はややこしいです。