47年前の札沼線

総本家青信号特派員氏が「秋の北海道 鉄道ひとり旅(3)」で札沼線の近況をご紹介頂きました。氏もかつて札沼線全線を乗り通されたようですが、私も昭和44年3月6日に乗っています。その日のことを「靑信号23号」に旅行記として載せていましたので、札沼線部分だけをスキャンしてみました。紙はすっかり変色しています。

靑信号23号から抜粋

靑信号23号から抜粋

全線を乗り通すのに3時間余りを要したようです。札幌を3両で出発し、石狩当別で2両に、浦臼でキハ21の単行になって石狩沼田に着いたのですが 実はこの日の記憶は殆どなく 文面通り単調で退屈だったという印象しかないのが札沼線でした。それに加えてこの3時間には殆ど写真を撮っておらず、今となっては悔やまれます。さて当時の道内各地には国鉄の支線も数多く、稼働している炭鉱も多く、運炭私鉄や専用線も元気でした。この時から更に8年遡った昭和36年6月の時刻表から路線図をコピーしてみました。道内にこんなに鉄路があったのがうそのようです。

昭和36年6月 時刻表から

昭和36年6月 時刻表から

今回JR北海道が発表した10路線1200Kmが廃止されれば、白地図のようになってしまうことでしょう。北海道旅行のスタイルも大きく変わり、有名観光地だけに観光客が押し寄せる一方で、旅人が来ることもなく宿も食堂もない町が増えてゆくことでしょう。そんな北海道を想像したくないのは私だけではないだろうと思っています。

 

7 thoughts on “47年前の札沼線

  1. そんな北海道は本当に想像したくないですが、鉄路ではもう既にその兆候が見られるのが残念です。路線図を見ると隔世の感どころかどこか別の国かと見まごうばかりです。
    最近43.10の時刻表を発掘しましたが、それを見ているとご一緒した時点でまだ定山渓鉄道が在ったことを発見しました。札幌へは何度となく戻って栄養補給をしていたので、ちょっと足を伸ばせば乗っておけたのにと悔やまれます。あの時はとにかくSL撮影か乗り鉄しか眼中になかったようで、時間の制約はあったにせよ、今から思うともっと視野を広く持つべきでした。もっとも当時の北海道の鉄道にはそれ以上の多くの魅力があったということなのでしょう。色々ハプニングと苦労もありましたが、尺別・雄別・豊富日曹炭鉱などはよくぞ行っておいたものと思いますね。半世紀前の珍道中が懐かしいです。

  2. 1900生様
    コメントありがとうございます。平成26年6月に白糠線の終点北進をクルマで訪ねましたが、原野の中を線路跡や鉄橋跡が点々と残っていて、何のための鉄道だったのという思いがしました。日曹炭鉱も原野の中の廃墟と化していました。
    まあよくぞここまで来たものだと感慨深かったです。定山渓に限らず行きそびれた鉄道は数多くありますが、今の若い鉄道ファンの方が格段にかわいそうですし、我々は良き時代を過ごしたナアというのが いつものオチですね。

  3. 西村様
    「青信号23号」に掲載されたKawanakaさんも含めた3人の雪中珍道中記、私も何度も読み返しましたよ、歴代の「青信号」には数々の名作・珍作?が掲載されていますが、この記事は、間違いなく10傑に入ると思っています。来たるDRFC60周年には、いまや埋もれてしまった名作の数々を復刻したいものと、86さんたちと画策しています。また、相談に乗ってください。
    さて、私の札沼線乗車は廃止の半年前の昭和47年3月21日でした。私は逆のコースで、名寄線に乗ったあと、石狩沼田発のキハ2142単行に乗りました。なにせ、晩だったことと、ほとんど寝ていたようで、印象に残っていませんが、唯一メモには、「浦臼手前あと2人」「浦臼からキハ462+キハ1692前に増」と書かれており、石狩月形で1両、石狩当別で1両増結しました。単行で出発したのに、札幌に着いた時には5両になっていたという、北海道の車両運用の妙を見ました。

    • 総本家特派員様
      うれしいコメントありがとうございます。当時の私は旅行中に細かくメモを残す習慣がなかったため、編成のメモとか車内の様子、何を食べたかなど殆ど記録が残っていません。青信号のこの記事は記憶が薄れないうちに書いたこともあって、些細なエピソードなども含め貴重な記録として今でもページを繰ることが多いです。今ならパソコンで簡単に文章を作ったり、加除修正やイラスト、図面、写真の挿入ができて短時間に一つの記事が出来上がってしまうでしょうが、謄写版刷りは大変でしたね。「謄写版」「筆耕」などという言葉は死語になりましたね。「ガリ切り」担当者や「絵描き」が何人かいて、集まった手書き原稿を「ガリ切り」担当者に渡して、筆耕してもらう。私は家にもガリ板を持っていました。表紙も数号担当させてもらいましたが、うまく刷り上がったときはホッとしたものでした。「補機」を作ることが「青信号」作りの練習だったですね。ガリ切り、印刷、折り、製本、裁断 そして最後に通し番号を入れて完成という一連の作業がなつかしい思い出です。特派員殿は長く青信号編集長をされたので、また違った苦労や思い出がおありでしょうね。青信号を作るという共同作業がクラブの結束力を作っていたのでしょう。60周年に向けての企画にはもちろん協力致しますが、実は1900生さん、KAWANAKA氏とはデジ青上でこの記事の復刻版を作るべく準備を進めているところです。86さんたちと計画されている内容を別途お知らせ下さい。

  4. 総本家特派員様
    青信号23号掲載の「寒中北海道見聞録」を10傑に加えて頂き恐縮です。小生が書き始めた冒頭部分は文章も稚拙で、今読み返すとまことにお恥ずかしい限りですが、当時の北海道の鉄道や旅の情景に加え、少々内輪話的ではあるものの、同好会や会員間の雰囲気が伝わってくるのではと思っています。
    特派員さまの札沼線の記事に関して、尺別・雄別・豊富日曹炭鉱などとコメントしたのは、実は西村さまが触れられた通りデジ青への復刻企画が進んでいたため、プレPRの意味を込めてコソッと予告をしたつもりでした。チョコッと関心を呼ぶつもりが一気に話が拡散して、クローバー会でも同様企画が進んでいることまで知りました。ぜひその企画を実現させましょう。

  5. 西村様、皆さま
    青信号23号書棚から取り出してみました。日曹の機関車に添乗したり、遠軽駅での駅寝と、夜明けの煙突掃除事件など、今では考えられないことばかり、楽しく読ませていただきました。1969年12月発行ですから私の入学の2年前となります。当時青信号は年2回の発行で翌年11月に発行された25号は晴れて入会した時にもらったものと思いますが、23号は入会後バックナンバーを購入したのでしょうか。後半は北海道特集となっていてたぶん何度か読み返して北海道への思いを募らせていたことと思います。ところが実際に北海道に足を踏み入れたのは1972年の夏、この時にはすでに雄別も日曹も廃止されていました。同じ23号には藤本氏の「簡易軌道を訪ねて」があり、現在運航されている5か所のうち4か所を訪問したと書かれています。これらもその後2,3年のうちに廃止されてしまいました。23号の西村さんの訪問記「寒中北海道見聞録」はその2で、22号にその1をどなたかが書かれているようですが、残念ながら手元にはありません。様々の年代の青信号の名作ぜひ読んでみたいと思います。

    • 大津の86様
      コメントありがとうございます。22号がお手元にないとのこと。このあとすぐにメールにてお送りしますので、是非前編お楽しみ下さい。

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