昨年末に糸崎及び糸崎以東に残る山陽鉄道時代のレンガ積み橋台を3回に分けてご紹介しました。年が明けて次は三原以西を詳細にチェックしようと思っていたのですが、西に向かうと時代は新しくなり、東に向かうと時代を遡ることになりますので、古い方を優先することにして まず尾道市内を歩いてみることにしました。尾道市街地での見どころはレンガ積み橋台もさることながら、山陽鉄道の社紋入りの敷地境界杭です。実はこの境界杭については、2003年10月に発行されたJTBキャンブックス「鉄道廃線跡を歩くNo.10」のなかで 山陽鉄道に造詣の深い長船友則氏が「尾道周辺の山陽鉄道境界杭」という現地レポート記事を載せておられます。これを読んで 一度自分でも現物を確認しようと思いながら10数年が経ってしまい、ようやく実現したというわけです。
尾道駅から線路に沿って東に歩くことにしました。長船氏のレポートを頼りにまず最初の地点「千光寺前踏切」付近の境界杭を探しました。ここは線路の山側です。意外と簡単に見つかったので さい先良しと次の地点に向かいました。しかし帰宅して写真を確認すると どうも別物だったようで、本物はどうやら草むらの中に隠れていたようです。残念! ここから東に10mほど行った歩道沿いの花壇の中にも境界杭がありました。
ここは線路の海側です。約155mm角の石柱の頂部に2つの山形を重ねた山陽鉄道の社紋が彫られています。155mmとしましたが5寸=152mmなのかもしれません。
側面にも何か彫られているようにも見えるので、歩道にしゃがみこんで花壇の中をゴソゴソしていると歩道を行く観光客から怪訝な目で見られましたので 先を急ぐことにしました。次に出てくるのはレンガ積み橋台です。
眼下に尾道の街と尾道水道を見下ろす千光寺山は有名な観光スポットです。多くの観光客がロープウエイで山に登り、戻りは坂と階段を下りながら坂の街尾道を楽しむというのが定番コースです。そのロープウエイ乗場の前にある架道橋の橋台が山陽鉄道の作品です。下り線側がレンガ積み、上り線側はコンクリート製です。山陽鉄道が尾道まで開業したのが明治24年(1891)11月3日ですから125年前に作られたレンガ積み橋台が今もしっかり役目を果たしていることになります。複線化は昭和8年ですから 当然コンクリート製です。
先にご紹介した糸崎の橋台には隅石は全く使われていませんでしたが、このあと続いて出てくる尾道市街地の架道橋すべてが 隅石の使われた格調高いイギリス積みでした。
このロープウエイ乗場前の橋台には写真のように橋桁の保護のためにガードが取り付けられていますが、ガードを隅石に直接取り付けにくかったのでしょう 隅石の片面をコンクリートで塗りつぶして取り付けてあります。せっかくのデザインが台無しです。願わくは独立した門型のガードを手前に建ててほしいのですが、道路管理者とのやりとりが面倒なので こういう造作にしたのでしょう。
次に出てくるのは境界杭です。ここも海側の花壇の中ですが 頭が赤く塗られていないため目立ちません。
次は橋台です。
ここの西側の橋台には保護ガードがレンガ面に取り付けられています。反対側の東側橋台はコンクリート製です。元は狭い架道橋だったものを道路に合せて拡幅したようで、そのときに東側レンガ橋台は壊されたようです。そして橋桁下の広いレンガ面もコンクリートで補強されたらしく、上の写真のように側面だけが古い姿をとどめていました。
次は線路山側の境界杭です。福善寺の参道脇にありました。
ここは周りに障害物がなく、社紋もはっきりしていて非常に良い状態なのですが、なにせ架線よりも高い擁壁の上のため 最近は特に高所が苦手となっている私は 怖わごわ近づいて撮影しました。ところで線路を真下に見下ろす高い場所にあるこの福善寺ですが、なんと境内に行くための人用のエレベーターと軽自動車用のエレベーターが設置されていました。
参詣者が急な石段を昇り降りするのは大変ですから人用のエレベータはわかりますが、軽自動車用まで必要なのか、ここまで投資できるのは立派な檀家さんを数多くお持ちのお寺なのかと感心しました。尾道ならではの光景でした。
次は架道橋と言うより人だけが通る拱渠です。下り線側がレンガ積み、上り線側はコンクリート製です。
ここが最も凝った作りのように感じました。イギリス積みですが上にゆくに従ってせり出した台形をしていて 天井部分の石材を支えています。
よく見ると一番端の角部のレンガは敢えて焼き過ぎレンガにしてアクセントをつけてあるようにも見えます。天井の石材は長さ1960mm×幅300mm×高さ360mmで 14本がすきまなく並んでいました。
ここでレンガの寸法を測ったり写真を撮っていると、通りがかりのおばあさんに声をかけられました。私がJRの職員にでも見えたのでしょうか、ここを修理するのですかと言われるので そうではなくてこのレンガはおばあさんが生まれるずっと前、今から125年も前に明治のレンガ職人さんが1個1個丁寧に積んでくれた大変貴重なものなので調べているのですと説明しました。おばあさんは「毎日ここを通っているが、全然気にしたこともなかったが、そうネ そんなに古いものだったとは知らなんだ・・・」と感慨深そうに眺めておられました。
ここでえらく話し込んでしまったので、先を急ぐことにしました。次も橋台です。
作りは殆ど同じで、前の東長江架道橋も拡幅される前はこんな姿だったのだろうと思いました。次も橋台ですが、築堤が高くなり橋台も見上げる高さの立派なものです。コンクリートによる補強は同様です。
次は浄土寺下の山側の境界杭です。社紋もくっきりと残る良い状態でした。
ここで予定したポイントはすべてチェックしたので、尾道駅に戻ることにしました。そこで目についたのが架線柱にあった「瑞風終点」の表示板でした。
トワイライトエキスプレス瑞風の試運転が始まるのでしょうが、なぜ「終点」なのかはわかりません。
さて帰り道は線路際の歩道ではなく反対側の歩道を歩きながら戻ったのですが、山側の擁壁の上にチェックしていない境界杭がいくつか見えました。遠目には山陽鉄道のものかどうかは判らないので、踏切を渡ったり遠回りして近づいてみました。すると山陽鉄道の社紋ではなく「エ」マークの境界杭でした。
山陽鉄道は明治39年(1906)12月に国有化されて逓信省鉄道作業局の管轄となります。この「エ」マークは鉄道作業局時代から使われ、国鉄時代にも使われていたように思いますので、このやや細身で先端の尖った「エ」マーク境界杭がいつのものかは判断できません。多分国鉄時代のものでしょう。結構高い所まで登ってきたのに山陽鉄道の境界杭ではなかったので、仕方なく戻ります。更に歩いて土堂1丁目あたりでまた山側に赤い頭の境界杭が見えました。
また国鉄のものではないかとも思いながら 懲りずに行ってみることにしました。近づいてみると山陽鉄道のものでした。
長船氏の記事で紹介されている6ヶ所のうち、最初の1ヶ所は別物を誤認したのと、途中の花壇の中にあるとされていたもう1ヶ所も見つけ損なったので4ヶ所しか現認できませんでした。その代わりにここで長船氏が述べておられないものを1つ発見したことになります。今回は浄土寺下でターンしましたが、更に東へ歩けばまだ残っていたかもしれません。
さて5ヶ所の橋台と5ヶ所の境界杭を現認できて まずまずの成果でした。まずレンガ積み橋台の方ですが、各地点で測定したレンガのサイズはバラツキも大きいものの大体220×105×70で山陽型とも山陽新型とも言い難く、糸崎や糸崎以東で見たレンガに類似でした。一方尾道市街地の橋台はすべて隅石が併用されており、明らかに糸崎地区とは異なっていました。隅石は岡山県下ではよく見られるようですが、尾道地区の特徴なのでしょう。以前 東福山から分岐するJFE福山専用線のご紹介をしたことがありますが、東福山駅東の撮影地点で やはりレンガ積み橋台を観察しています。
尾道より先に開通した福山の橋台には隅石が使われていないのです。もちろんその工区を請け負った業者が異なれば、工法や材料の調達先が違ってもおかしくないわけですから 早計な判断は禁物です。ただ尾道に隅石併用の橋台や天井が石材の拱渠があるのは 尾道独特の理由があるように思えます。それは尾道が石と石工の町だからです。尾道市街地と尾道水道を挟んだ向かい側の向島は良質の花崗岩の産地であり、その石材を細工する石工を数多く輩出した町であることと関わりがあるように思えます。今も江戸時代の「石屋小路」や「石屋町」という地名が残り、線路際にある久保八幡神社は別名「石工神社」とも呼ばれて、数多くの優れた石造物を見ることができます。さらには北前船で尾道石工の作品が全国に散らばり 例えば佐渡宿根木白山神社には尾道石工が造った鳥居が建っています。北前船が北国の産物を西国に届けると帰り船の船底に多くの石造物を積み込むことで安定感を増して荒波の日本海を北へ向かったと言われています。また隅石併用の橋台が並ぶ背景には 裕福な商家の多い土地柄ゆえ 凝った造りの構造物へのこだわりがあったのかもしれません。
一方の境界杭ですが、長船氏の著書によれば尾道以外で山陽鉄道の境界杭が現存するのは須磨駅と庭瀬駅だとされています。なぜ尾道だけにこんなに数多く残っているのでしょうか。山陽鉄道が福山から西進して来た際に最も地元と軋轢を生んだのが尾道だと言われています。平地が少なく海辺まで社寺と民家が建て込んだ尾道の市街地を突き切って鉄道を敷こうというのですから猛烈な反対に逢ったわけです。数多い神社仏閣の参道が線路で分断される、立ち退きを迫られる住民の移転先の土地が無い、山麓の水利が失われる等々の理由でした。用地買収は難航し 山陽鉄道は尾道市街地の通過を断念し、現在の国道2号線尾道バイパスのように北側を迂回するルートに決まりかけたところで、地元の有識者からそれでは尾道の発展の妨げとなるという声が出始め、ついに反対派を説得して現ルートが決まったそうです。この用地買収で苦汁を飲んだ山陽鉄道は将来の複線化の際にまた同じ苦労を味わうのを避けようと 最初から複線分の用地を確保しました。しかし複線分の築堤に単線を敷設するわけで見るからにゆったりしていますから、なし崩し的に鉄道用地を侵食されても困るということで 山側にも海側にもこまめに境界杭を設けたようです。通常なら複線化の際に拡幅工事に伴って古い境界杭が撤去されるのに、尾道市街地だけは最初から複線分だったために 明治時代の境界杭がそのまま今日まで生き残ったようです。5本の境界杭の写真を見比べてみると、1世紀を経た摩滅もあるかとは思いますが、彫りが深い社紋のものとそうでないものがあり、1本1本ノミと金槌で彫った手作り感を感じます。以前三井寺下で江若の境界杭を探して以来の楽しい時間を経験しました。
ところでここまで書き進んだところで気付いたのですが、レンガ積み橋台と同時に築堤の石積みも積まれたわけなので、延々と続く築堤の石積みも山陽鉄道の貴重な遺構であることを忘れていました。昭和初期には石屋が40軒、石工が70~80人いたとされていますが、石工さんにもいろいろあって石垣や橋、橋台などを得意とする土木系と狛犬、手水鉢、常夜灯などの彫り物を得意とする芸術系に分かれています。尾道石工はどちらかと言うと芸術系が多かったと言われていますが、毛利輝元が1591年に広島城を築城する際には尾道の石工を広島に移住させたそうですから、土木系の石工もいたはずで、明治の石工さんが築堤の石積みをするのは朝飯前だったかもしれません。
現在尾道がその独特の景観から日本遺産に認定され、多くの観光客が押し寄せる元になったのは 山陽鉄道が市街地を横断したことによって立ち退きを迫られた住民たちがやむを得ず山麓に移り住んだことで、現在の独特な景観を生み出し、郵便屋さんやクロネコさんが苦労する街ができたとも言えます。
この日は天候も良く楽しく街歩きができました。歩道沿いを念入りに観察しながら歩いていると 気になるものがいろいろと目にとまります。例えば 線路際の明らかに細いレールによる手すりとか
こんな記念碑。
側面に大正9年とありますが 「喞筒据付紀念」と彫られています。「喞筒」とは「そくとう」あるいは「しょくとう」と読み、「ポンプ」のことです。山陽鉄道の敷設が猛反対された理由のひとつに「山麓の水利」の話がありましたが、このポンプは山麓に水をポンプアップするためのものではなかろうかと勝手に想像しました。飲料水ではなく防火用水かもしれません。
またしてもローカルでマニアックな内容のレポートになってしまいましたが、これも鉄道趣味の一端とご理解下さい。瑞風で尾道訪問を企んでおられる方がありましたら、尾道に着いてJRのクルーズ船に大金を払うのもいいですが、靴がちびるだけのこんな街歩きも考えてみて下さい。なお引き続きこのような懐古シリーズを凝りもせずに続けたいと思っています。
最後にオマケです。建替えられる尾道駅風景と尾道水道で見かけた別府鉄道です。
西村様、
何時もながらの丁寧な観察には脱帽です。
最後の別府(べふ)鉄道と多木肥料を関連づけて思い出す人は少なくなったのではないでしょうか。
米手作市様
素早いコメント恐れいります。多木肥料のあの独特な社紋のデザインは別府と一緒に刷り込まれていますので終生忘れないでしょう。
JR須磨駅南側東よりにも旧山陽鉄道の用地杭が1本だけ残っています。このあたり現在は複々線というより、山側線2線が列車線(貨物、特急DC、新快速)、海側2線が快速、各停用ですが、かつては複線でした。旧山陽鉄道時代は現在の海側が用地の限界だったことになるのかとは思いますが、他の残存物等は皆無です。
この用地杭は小生が二度のお勤めでのシーパル通勤の際、須磨から歩いていた時見つけたもので、一度青信号特派員氏が手掛けたJTBキャンブックのある筆者と特派員氏をご案内したことがあります。
旧山陽鉄道がらみでもうひとつ書き忘れました。須磨を西に向かうと、国道2号線、須磨浦公園を挿んで山側裾を山陽電鉄が併行します。その東手前にコンクリート3面張りの味気ない一の谷が海に注ぎ、赤旗谷川という細い流れも合流しています。そのすぐ西に接し、南側が急坂の宅地が山腹中腹に開けており、現在の地名は一の谷町2丁目です。この宅地の南側は大阪湾と山陽本線が溶け込んだ文字通りの眺望絶佳で、安徳天皇御在所跡なる祠、モルガンお雪奉納の石燈などもあります。実はこの一帯に旧山陽鉄道の建設に携わったお雇い外人技師たちの宿舎が建ち並んでいたそうで、彼らはこの急坂をどうして通勤していたのか。単騎の乗馬ならともかく、馬車が登れる勾配ではなく、駕籠を使った?のか。鈴木商店の大番頭金子直吉の屋敷もここにあった由です。
yuguchi様
山陽鉄道の須磨にまつわる話をありがとうございます。今は居ながらにしてGoogleマップで現地へ飛んでゆけますので 早速一の谷2丁目あたりにでかけてみました。確かに眺望絶佳の地ですが、逆落としの一の谷ですからお雇い外人は駕籠だったかもしれませんね。長船氏の説のように境界杭は須磨と庭瀬にしか残っていないのなら、尾道にまとまって残っているのは貴重な遺構ですね。
境界杭に関心をお寄せになるのはさすがですね。小生も撮影に行った際にあちこちで見かけますが、撮影の合間で時間が無いこともあり、そこまで関心を持ったことはありません。今回は山陽鉄道の旧い杭という特別のものであるとしても、杭という小さな鉄道遺産にまで目を向けられるのは本当に頭の下がる思いがします。
今回ご紹介頂いた福善寺周辺は、確か115系湘南色を尾道水道を入れて撮りたくて、ポイント探しをしてうろついた記憶があります。
レンガ架道橋も時々見かけますが、ご紹介のような上部が斜めに積んだものや隅石のあるものは殆ど見かけたことがありません。いつもですが貴重なレポートを有難うございます。まさに地の利を得た調査ですね。地元でないと中々詳細な調査は難しいと思われます。これからもいろいろ教えて下さい。
ところでレンガ架道橋と言えば拙宅の近くの片町線にもあったことを想い出しました。片町線ですからもちろん関西鉄道が建設したものだと思います。昭和51年に現住地に引越しましたが、当時は旧国鉄河内磐船駅や京阪交野線河内森駅へ行くにはこの架道橋を潜るしかなく、頻繁に通行していました。架道橋はただレンガを積み上げただけの何の変哲もない(と思っていたが)もので、幅はせいぜい1mあるかないかの狭いものでした。そのため歩行者同士の対面時でも、お互い譲り合ってすれ違っていたくらいでした。架道橋は3年後の昭和54年秋の複線化時に拡幅され、ご多聞にもれずコンクリートで塗り固められてしまって消滅してしまいました。今思うと写真でも撮っておくべきでしたがいつものように後の祭りです。
1900生様
コメントありがとうございます。片町線の架道橋は見たことがありませんが、草津線にいくつか残っていました。関西鉄道のレンガ構造物は凝った造りで 確か「西」の形の社紋を浮き出したものでした。明治時代の構造物は実に堅牢で、その仕事の丁寧さに感心させられます。