明けましておめでとうございます
何がめでたい?と内心は思っていますが、世間に合わすのも年寄りの務めと心得ている年の初めです。
年賀の挨拶も今更白々しいので、福笑いならぬクイズを投稿します。
ネットで検索すれば答えは簡単に出ると思いますが、そこは誇り高きDRFC会員、そんな手は使わずに、ここだと思うその根拠を述べた上でお答えください。
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明けましておめでとうございます
何がめでたい?と内心は思っていますが、世間に合わすのも年寄りの務めと心得ている年の初めです。
年賀の挨拶も今更白々しいので、福笑いならぬクイズを投稿します。
ネットで検索すれば答えは簡単に出ると思いますが、そこは誇り高きDRFC会員、そんな手は使わずに、ここだと思うその根拠を述べた上でお答えください。
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今年もあとわずかとなりました。
振り返ると当会にとっては変化と発展の年だったように思えます。
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今日の夕刊に表題のような記事が出ていました。
阪神大震災の折に、鷹取工場(当時)で修理中だったC571が転げ落ちて大破、再起不能か?との報道があったことを思い出しました。思えばこのC571は、記事にもあるように北陸地方で崖崩れに巻き込まれ、転落大破したことがありました。それでも「1号車」のおかげで廃車されずに今日まで生き残ったのです。記事によると保存されていた僚機・C575から部品を取って修理をしたと言うことです。考えて見れば部品と言っても最近の電車と違って規格など有ってないような時代で、C57同士でも合うかどうかなどやってみないとわからないだろうと思います。幸い川崎重工同士だったらしくうまくいったようです。
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湯口先輩に遅れること5年でこれほど変わってしまったのです。
昭和39年2月と4月の撮影です。電化されて変わったことは、美観が天と地ほど悪くなったことは当然ですが、旅客列車が電化されて列車長の長い貨物列車だけが蒸機で残ったため大カーブで補機まで入れることが難しくなったことでした。2月は大雪に見舞われ、4月は架線工事にジャマされました。
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今日の朝、クローバー会から封書が届いた。開けると懐かしいガリ版刷りの「青信号第1号」とクリアホルダーが出てきた。会費の振込用紙も入っている。
「青信号」は第一号の復刻版らしい。正確にはガリ版刷りではなかったが、開けてビックリ!読めない!!なにやらハングルでもなし、梵字でもなし。でも懐かしい諸先輩の名前があるので後で解読することにした。クリアホルダーはいくらあってもありがたいモノ。大切に使わせていただくとして、早速会費を送金しに郵便局へ行った。5000円を渡すと振込票を機械に入れていたが受け取りを出してくれた。今は手書きで処理はしないのでまたビックリ!「ありがとうございます」と言って澄ましているので「あのー手数料は?」と聞くと「受取人が支払うのでタダです」これにまたビックリ!年額2000円に上げた(これでも安いと思う)が、三年前払いだと6000円を5000円に値引きして、さらに送金手数料まで負担していただけるとは会員冥利に尽きるワイ、と感謝しながら帰途についた。
つくづく考えるに、世間的に70才を超えると活発な交友関係を持っているかどうかでその後の人生・健康が違ってくるそうだ。つまり、煩わしい利害や憎悪の交錯する付き合いではなく、趣味を中心にした気心の知れた交友関係は心身ともにいいそうである。であれば5000円の会費はなお安く思えてくる。
こう書けば20代、30代、40代の諸君は「なにを年寄り臭い!」と笑うだろうが、あと20年、30年、40年すれば諸君全員が年寄りになるのだ。そのとき会費を払い続けたことのありがたさに涙を流すこと間違いなしだ。この5000円は、会費ではなく健康(介護)保険の掛け金だと思って間違いがない!
「青信号第1号」に名前を連ねておられる大先輩が、そのとき以上の熱心さで今もデジ青に投稿されている有様は、デジ青健康(介護)保険説を証明するモノではないか?
どうか、若い会員諸氏も会費を払い続けるとともに投稿もしていただきたいと思う。
新しい役員諸氏におかれましては誠にご苦労なことと拝察しますが、介護費用の削減と、孤独な老人を一人でも減らすためにご助力をお願いして感謝の言葉とさせていただく。
会員諸氏にお尋ねするが、よもや大畑ループ、姨捨スイッチバックと木次三段スイッチバックに行ったことがない、などという者はいないだろう。
ところがいたのである。だれあろう我がDRFC会長のマルーン氏である。
ことの始まりは今年四月の木次線旅行でのこと。突然の崖崩れで予定の備後落合から木次へ行く列車が運休になり、JRが代行バスをだしたことで肝心の三井野原-出雲坂根のスイッチバックに乗れなくなった。マルーン会長様は当該区間は齢七十にして初めてのスイッチバックであったそうで、密かな期待で胸をときめかしていたそうな。ところが代行で乗れなくなったため泣きたくなるのを堪えながら「代行バスに乗ったからスイッチバックを通ったことと同じやな」と風呂につかりながら独りごちたのを居合わせた会員に聞かれてしまったのだ。
「夜行列車で通っても、寝ていたら乗車距離には入れてもらえない鉄の掟も知らぬ会長よ、三段スイッチバックも乗ったことのない会長よ」と後ろ指を指されるこれからの余生思うとき、マルーン会長様の屈辱はいかばかりか。
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11月8日から15日まで死のロードに出ていました。そのため、DRFCの重要イベントであるホームカミングデーを欠席する不始末を犯してしまいました。誠に申し訳なく、諸先輩はじめ会員諸氏に心よりお詫びを申し上げます。
さらに初めてご参加くださった関三平先生にもお迎えすらできず無礼を働いた上、9日の「昭和の電車・愛知電鉄デハ3080」も今日まで遅れてしまいました。関先生、お許しください。
さて、表題の愛知電鉄デハ3080とは名鉄の前身だとか。当会には名鉄に関しての専門家はおられないのでしょうか?ぜひともコメントをお願いしたいものです。
まずご報告です。
壊れたパソコンが先ほど復旧しました!慣れないノートパソコンでのやりとりではミスばかりで困りましたがホッとしてます。
さて、先日来の写真に関しましてお問い合わせや出所を怪しむ怪文書などを頂きましたので、正直にお話しします。
前回も書きました(此方のミスで消えてしまいました)が、父は戦前に千日前で写真館を開いていましたが、戦災で全てをなくし京都で写真館を再建しました。場所は七条大宮角です。ツテのなかった父は西本願寺の撮影を受けて生活を安定させましたが、目的は千日前での再興でした。でもそれは京都での事業が成功したためやがてあきらめたようです。生活が安定した原因の一つが国鉄との取引です。近くにあった梅小路機関区の諸行事での記念撮影や、西大路駅の近くにあった国鉄バスの工場での展示会などは、通販やショッピングセンターがなかったので大繁盛でした。
そんな中でこれらの写真が撮られたのだと考えております。当時は父を含めて数人のカメラマンがいましたが、だれも鉄道ファンではありません。小さかった私のためにと残してくれたのでもありません。多分、機関区から資料写真の複製を頼まれて予備を作ったものが残っていたのだろうと考えられます。従って持ち込まれたものは写真か資料写真だと思います。昭和三十年代初め頃まで写真館では乾板を使っていました。引伸機を改造した複写機に乾板を入れたり、表で太陽光線を当てて撮影していたのを覚えています。版権は撮影者にありますので七条写真館が乾板を持っていたはずです。割れたり棄てたりで残ったのは写真だけです。これが棄てられなかったのは奇跡的です。鉄道好きになった息子を知って父が残してくれたのかもしれません。
梅小路機関区とのお付き合いはデジカメが出て、職員が撮るようになるまで続きました。記憶ではB20が復元された時の記録写真が最後だったとおもいます。
ところで高橋弘氏が撮られたC59108のお召し列車ですが、生前父に高橋さんを知ってるか?と聞いたことがあります。その時、同業者として名前は知っているが会ったことは無い、と言っていたのであの写真を直接高橋さんから頂いたと言うことは無いと思います。推察ですが、機関区から複写依頼があり一枚余分に焼いたのではと思います。余談ながら昭和31年11月3日に梅小路機関区でこの運転に携わった職員の記念写真を撮っています。
出し惜しみをしたら、祟りでろくな死に方をしないとのご指摘を頂きましたので、あわてて投稿をしたら、間違えて消してしまいました。せっかくのご意見も消去してしまい、ご迷惑をかけてしまいました。もしよろしければ今一度書いて下さい。
※先ほど、前里様から情報を頂きましたので写真説明を一部変更いたします。(10/16)
さて、前回は梅小路機関区のC53をご覧頂きましたが、今回はいろいろなものが出てきます。
間違って消してしまいました!
が、どですかでん様の“神の声”で復活しました。
私の父は戦前に大阪・千日前で写真館を開いていました。
大阪大空襲で八尾へ一時疎開して、戦後京都の七条大宮にあった古ビルへ引っ越して写真館を再開したのです。でも、あくまで仮の姿、落ち着いたら大阪へ帰るつもりだった、というのが口癖でしたがかないませんでした。
で、七条大宮というと西本願寺と梅小路機関区が“最大の産業”でした。そのせいか、機関区からの写真撮影を良く頼まれていたようです。その頃の写真の複写らしきものが出てきましたのでご覧に入れます。
型式、撮影日時、撮影場所、撮影者など不明です。なにか分かった方は教えて下さい。
今朝PCのスイッチを入れたら立ち上がりません!えらいこっちゃ!
画面が真っ暗でポインターマークの矢印だけが光っています。データは外付けハードディスク2台に分散配置していますので助かりますが、設定などはすべてパーです。何度立ち上げてみても一緒なので困っていたら、ヨドバシにDELLのコーナーがあったのを思いだして出かけました。でも頼りない!質問にWikipediaを見て答えているではないか!帰ってきました。とりあえず外出用に買ってあるノートパソコンでこれを書いています。それにスキャナーをインストールしていたらこんな時間になりました。遅くなったのはそのためでした。
さて今週の電車は気動車の形をした電車です。
こんなんもあるで、とばかり言っていると現役生や後輩諸氏から「古いヤツや!」と言われるのではないか、との強迫観念にさいなまれます。
そこで奮起一発!最新の話題を
9月30日9時頃から10月1日払暁に掛けて梅小路新駅になる七条通をまたぐ山陰線の高架橋の架け替え工事がありました。人生前代未聞空前絶後の大イベントを見逃すわけにはいきません。その現地レポートを!
長老方は工事が始まる時間にはイビキをかいておられますが架け替え工事は8時半ごろから始まりました。
30日の山陰線は9:30頃には運休となり、翌日の始発用なのか下り回送の211系4連×2の8連が3本続いて行って、上りの特急と211系が過ぎると線路が切断されました。
かつて同志社大学のラグビーが大学日本一になった時代がありました。それも三年連続で。
その時、指揮を執っていた監督が伊藤 武君です。中学からの付き合いは亡くなるその日まで続いていましたが、突然の悲報で断ち切られました。同志社高校の学年同窓会長を永年続けてくれて、10月7日に18回目の総会を開く直前での退場となったのです。19日の午後、打ち合わせのため二度電話しましたが出ないので翌20日昼にもう一度掛けても出ないため不安になり(永年糖尿病を患っていた)夜、主治医の同級生に電話したところ「いま奥さんから電話で、帰宅したら死んでいた、との電話があり今から行くところ」とのことでした。検視の結果死亡時刻は私が電話した20日の昼頃だったようです。
毎週のように高島屋に車を置いて私の近くの喫茶店まで歩いてきてコーヒーを飲むのが彼の糖尿病療法でしたがそれもできなくなりました。「ブル」の愛称で同級生みんなに愛された60年でした。
DRFCに関係のない話で誠に申し訳ありませんが、聞いて頂きたくて投稿いたしました。お許し下さい。
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