東海道線の国電
河 昭一郎様には申し訳ないのですが、旧型国電(と言うのかも知りませんが・・)終末期は京都駅に毎日通っていて見ていました。しかし、興味が無いというのは恐ろしいものでほとんど写真を撮っておりません。藤田さんの作品を見ていて全てに見覚えがあります。というより乗っていました。クロハにも乗りましたし廃止時も覚えております。でも写真が無いのです。
で、今回国電を投稿するに際して、どれが貴重なのか、どこが違うのかさえ分かりません。客車や気動車を「電車」という若い衆と同じです。それ以下かもしれません。後悔至極であります。ですから写真の解説はできませんので前回同様お助けください。
この頃は大阪環状線に101系が入って、ゲタ電が見劣りしていたからか、車体の載せ換えが始まった。見てくれは101系によく似ているが吊り掛け音はごまかせない。
ご解説をお願いします。
貴重な写真の数々の連投、ありがとうございます。車両の詳細については、また、その筋の方がされると思いますが、私としては、車両以外の背景に、その価値を認めてしまいます。なかでも、10の神足駅には、かつて、こんな大きな煙突があったとは初めて知りました。文字を読むと「日本研磨砥石」とあり、その業種にも時代を感じます。私の居住地の近くだけに、とくに歴史を感じました。
私の同級生のお父さんが務めていたのを思い出しました。今は会社は無いのでしょうか?
神足駅の写真に写っていた「日本研磨砥石」の大きな煙突、現地には、もちろん存在していません。私が当地へ転居したのが昭和58年ですから、それ以前になくなったと思われます。会社ももう存在しないと思って検索を掛けたところ、なんと大津市でいまも盛業中と判りました。“砥石”なぞ過去の遺物と思っていましたが、切削工具などの研磨に用いられて、今でも需要があるのでしょう。
砥石といっても魚屋のオッサンが出刃包丁を研ぐものではありません。なんでも円盤状になっていてそれが回って”何か”を研ぐと言っていました。
特派員氏の1年後に神足駅近くに転居しましたが、当時は「デコラ」の住友ベークライト、駅裏にはニチユがまだ残っていました。駅名とともに懐かしい思い出です。
砥石工場は粉塵を出すので、住宅化が進み市制を敷いた長岡京から、転出したのでしょう。砥石の原料の原産地は丹波が有名です。京都らしい工業の工場だったと思われます。
懐かしいですね。電車の殆どが4扉ロングシート車に替わっていますから、ゲタ電末期の頃の写真かと思います。その少し前、まだ3扉セミクロス全盛の時代にはよく梅小路南側の蓮華寺傍の線路脇へ上下する電車・列車を見に行ったものです。中でも茶塗クハ76の通称茶坊主にはそのユニークさに惹かれ、出自など何も知りませんでしたが印象に残っています。
当時は東寺の西に住んでいたので、八尾にあった母の実家への帰省には西大路駅からこの緩行線!電車を利用していました。帰路吹田に停車した際、父が「空いた!空いた!と言うわりにはひとつも空かない。混んだままだ」と冗談を言っていたのを想い出しました。
今は蓮華寺は蒸機列車が走るべく、寺を一周する新線を敷設中です。
①はクハ79036
②はクハ79920~955
③はクハ79016(1944年サハ19043鋼体化)
④はサハ78009~021
⑤はクモハ73233ですね。
所有している本等で調べました。
私はOBではありません。少し北の上賀茂のほうの学舎に居りました。
東灘区在住の48歳です。
いつも楽しく拝見させていただいております。
旧国好きなので、どうしても書き込みしてしまいます。
ほへほへ様、
ありがとうございます。
当会には奇人変人の会員ばかりですが社会一般の常識は備えております。会員以外の同好の士に参加していただけるのは嬉しいことであります。これからも末永くお付き合いください。
ほへほへ様
いつもコメントをいただき、ありがとうございます。実は先ほどまで、OB会の役員会があり、そこで、“最近、ほへほへというコメントがあるけど、いったい誰なんや”という話題になりました。今回のコメントで氷解しました。上賀茂であろうが、衣笠であろうが、全然関係ありません。外部からのコメント、ツッコミ大歓迎です。引き続き、よろしくお願いします。
米手作市 様
いや~、またまた大量に出ました!!
1900生さんの仰る通り、この頃は『我が関西国電』の51系一族が『関東のガラクタ』(言い過ぎ?)73・72系に追い出される憎っくき時代ですね。
そんな訳で『ごった煮ガラクタ』状態の下駄電の事はサッパリ判らん!
72系以降は系統立っていたので結構判っているつもりですが、問題はロクサン形⇒73系改造車にはゴチャゴチャ感が有って『掴み所が無い』状態でした。
従って今回の25枚の内の半数ある73・72系については、取り敢えず別に置いといて・・・。
初っぱなの高槻での①はクハ79の2態で、右に居る300番台車とは似ても似つかぬクハ79ですね。
これは太平洋戦争末期のドサクサに本線の2扉クハ58を4ドア・ロングシート化改造⇒クハ85と改称⇒クハ79の30番台へ改番『させられた』車両でしょう。
次に高槻の④ですが、こちらも①と同様の運命に有ったサハ78で、元32系のサロハ46(改造時はサロハ66)にドアを2枚増設してロングシート化した車両です。
全13両中の関西配置車78009、017、018、020のどれかですが、写真を拡大して見ると017にも見えます。
⑯の写真は編成の中間に入っていて前面が不明なので、番号の特定には不利ですね。
更に難しいのはクモハ51とクモハ54の001、002、006~009が瓜二つで、判別が最も難しいと思います。
⑰も中間に入っていますが、ガラベンですのでクモハ51と識別出来ます。
小生の知るガラベンのクモハ51は確かクモハ51010のみ?だったと思いますが、如何でしょう? そろそろ、ここらで国電研究の御大である藤本哲男さんにお出まし頂きたいのですが・・・。
つづく⑱⑲は、やはりクモハ51の様ですが、50両余の中から番号を特定するのはやっぱり難しいですね。
⑳以降は戦後派の湘南電車系統ですが、ゲテモノのクハ85やクロネコ ヤマト色の阪和線クハ76などは話題に事欠かないですね。
河 昭一郎様、
終戦前後の大量輸送至上主義とはいえ、メチャクチャな改造ですね。たしか、座席ナシとか窓ガラスが全て板張りとかの車両もあったように思います。私の拙い知識でも、3扉でクロスシートのあった関西系の電車は乗り心地や音さえも戦前のゆとりが有った時代を感じられました。
ほへほへ様
貴殿が旧国好きと聞いて嬉しくなりました。
小生も自分では国電オタクのつもりですが、なかなか奥が深いので70年近くの『キャリア?』が有るのに未だに極める事が出来ません。
旧国も大別して戦前と戦後に別れると思いますが、小生はどちらかと言うと戦前の重厚な車両にゾッコンです。
『デジ青』では藤本哲男氏が国電の緻密な記録を持っておられ、惜しげも無く披露していただけるのが勉強になっています。
小生もOBではなく、ただ『京都』に共通点が有るのみで『デジ青』にご縁を得て、仲間に入れていただいております。
ついでながら貴殿の『東灘区』に懐かしさが一杯です。と言うのは小学校、中学、高校と遠い所(立花や摂津富田)から『国電通学』をしていましたので。
河 昭一郎様
メッセージありがとうございます。
私は東海道緩行線の旧国末期と、阪神国道電車末期をかろうじて覚えている最後の世代です。
Nゲージ鉄道模型を趣味として亡父から受け継いだものも含め40年ぐらい経ちますが、いまだに国鉄時代の車両しか購入意欲がわきません。
近年は旧国の模型が完成品として、番号特定で製品化されるようになったので、ちょっとした手すりの位置関係などの個体差には凄いと言わざるを得ません。
住まいのすぐ近くには大きな模型店もあり、灘区のほうには老舗模型店もありますのでどうしても足を運ぶことになってしまいます。
この10年で阪神電車もかなり出ましたので嬉しい限りです。
阪神でも難読駅と言われるところにすんでいますから・・・・。
皆様のご投稿される写真にはいつも凄いなぁと思いながら拝見させていただいております。
海外遠征なさる強者の方のレポートも、興味津々で食い入るように見ています。
初めまして、すごい写真の連続素晴らしいです。⑥はクモハ73902、63型最終増備車73400の改造車ですね。中央線の三鷹区から京浜東北、常磐線を回って関西へ、その後最後は御殿場線へ、結構長生きし車両です。前面の大窓が特徴的。