朝日新聞デジタルにこんな記事が出ていました。
「昭和初期の12年間だけ高松市の仏生山―塩江間(16キロ)を結んだ「塩江温泉鉄道」。当時走っていた「ガソリンカー」の写真や資料を紹介する企画展が、市香南歴史民俗郷土館で開かれている。23日まで。」
仏生山といえば乙訓の長老様の縄張り、ガソリンカーと言えば須磨の先輩の縄張り、なのに今まで聞いたことがありません。記事には写真も出ていますが“駅馬車”のような物です。
両先輩様、ご記憶が残っていればご説明下さいませんか?
朝日新聞デジタルにこんな記事が出ていました。
「昭和初期の12年間だけ高松市の仏生山―塩江間(16キロ)を結んだ「塩江温泉鉄道」。当時走っていた「ガソリンカー」の写真や資料を紹介する企画展が、市香南歴史民俗郷土館で開かれている。23日まで。」
仏生山といえば乙訓の長老様の縄張り、ガソリンカーと言えば須磨の先輩の縄張り、なのに今まで聞いたことがありません。記事には写真も出ていますが“駅馬車”のような物です。
両先輩様、ご記憶が残っていればご説明下さいませんか?
①
会合があって松江へ行ってきました。ルートは、新幹線で岡山へ、「やくも」381系で松江。帰りは「スーパーおき」187系で鳥取へ、「スーパーはくと」HOT7000系で京都まで。
この途中のことです。
「スーパーはくと」は人気があるのか増結をしていました。2号車と3号車の間に「増2号車」を入れています。
車内の案内放送で聞き慣れない言葉が流れました。「本日は2号車と3号車の間に”増2号車”を繋いでおりますのでお乗り間違いの無いようにご注意下さい」という主旨です。問題は”増2号車”のいい方が「まし2号車」と言っていました。私は「ぞう2号車」だとばかり思っていましたがこう言うのですか?教えて下さい。
②
昨日の小田急線での車両火災事故ですが、テレビでは踏切で緊急停車ボタンが押されたので自動的にエマがかかってその場に停車した。エアが復旧するまで動けないので火が移ってしまった、との説明でした。
踏切の緊急停止ボタンと列車のエマは自動連動しているのでしょうか?
電車は約5分後に動いたらしいですがエアタンクが回復するのに5分もかかるのでしょうか?
北陸トンネル火災事故での教訓で、火災時は迅速にトンネルを出る事になりましたが今回も同じ事象では無かったのでしょうか?エマが連動していたらムリですが。
以上、教えて下さい! ―新しいことは全く知らない年寄り―
たーちゃんの電車めぐりシリーズは思わぬビッグヒットになりそうですが、阪和線の項で河昭一郎様より「電車はないのか?」「ED38は?」とのご質問がありました。また、大阪駅の西の端にEF52が捨て子されていた、などの書き込みがありましたが私にも少々写真があります。でも毎度のことでひどい物です。どなたかいい写真を出展されるまでのツナギ、時間稼ぎとして見て頂けたら幸いです。
JR西日本が京都市内に造る新駅、「梅小路公園駅」(仮称)新設工事がいよいよ佳境に入ります。平成31年春開業を目指して進む新駅工事ですが、駅本体が姿を現しそうです。
夏の初めから梅小路公園の入り口をほぼ封鎖してなにやら鉄骨を組んでいましたが、こんな物ができあがりました。
中学の修学旅行は映画「三丁目の夕日」の時代でした。昭和33年に出来た東京タワーが首都東京を誇らしげに宣言しているように思えました。
問題は皆様から色々と解読いただいていますが、確認の為のご質問に答えられません。覚えていないのです。実は私には秘密兵器があります。私が会長をしている時の会計・K君です。彼は子供の時代から日記を付けているので彼に聞けば大抵の事は分かります。今回も静岡鉄道デワ1を撮ったのはどこか?で西村氏とSN氏の見立てが微妙に違うのです。下車したのが草薙かどうかが分かれ道らしいのですがK君の記憶では草薙となっています。いまK君を追求中です。SNさん、お問い合わせ頂いた事への追加回答です。小田急の車両は「2232号」で急行の円盤を付けています。
さて、東京への旅も今回で終わりです。
自らの無知を顧みず、皆様の知識に頼ることをお許し下さい。
先頃投稿した「中学修学旅行そのⅢ」の写真に関してどなたからもご教示がありません。EF10以外の車両に関しまして、何鉄道なのか、車両の形式、そして可能ならば撮影場所をご指摘願えませんか?写真の終活をするためにもお教えいただきたいのです。
老い先短い老人が哀れと思し召されたなら(だんだん須磨の大老みたいになってきた!)お知恵をお貸し下さい。七重の腰を八重に折り、伏してお願い申し上げます。
中学の修学旅行は朝に京都を発って夕方に草薙?だったかで下車しました。その間の車窓がこのシリーズです。ゆっくりと “東下り”を楽しもうとしていましたが、会員諸氏が「隠し球」写真を次々と出し始めたので先を越されまいと急ぎます。
走る列車からのぶっつけ本番ですから写っている方が奇跡です。大抵がブレていたり電柱が入っていたりですが恐れずに公開します!
“湖畔のヒマ人”さんからお呼び出しがあり、久しぶりに浜大津にお伺いしました。
大花火大会があったばかりの湖岸に建つ13階の高層マンションから見る琵琶湖は素晴らしく、「ミシガン」が出港するのに見とれました。
さて、ご用の向きは?と尋ねると、「ワシにも“こんなモンもありまっせ!”があるが、投稿方法が分からない」とのこと。ついでに娘さんからのプレゼント、2TBのハードディスクも取り付けろ、との仰せでした。早速設定しましたが、肝心の投稿許可をもらっていないので管理者のぶんしゅうさんに電話して許可申請して帰りました。
今朝ほどメールで許可されたとのことですから、間もなく湖畔から“こんなモンもありまっせ!”が投稿されるかもしれません。
てなわけで、私だけの専売特許ではなくなりそうですから整理が済んだものを急ぎ発表します。
これは中学の修学旅行で東京へ行った時に撮った鉄道写真です。といっても客車の中やバスの中から撮ったものですから架線柱が入ったり、ぶれたり、逆光だったりでロクなものがありませんがお許し下さい。
《お願い》
撮影時は昭和35(1960)年10月です。但し、撮影場所・車両名・鉄道会社名など全く解りませんので、わかった方はこの欄へ投稿して教えて下さい。
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本日は酷暑の上に台風接近にも拘わりませず、私をダシにした暑気払いの会にご参加いただきまして厚く御礼を申し上げます。
思えば久我会長様と雑談していた時に「お前な-、暑気払いに一杯飲みやろか思てんねん。口実考えろャ!」とご下問がありましたので、「ちょうどフジの50000人写真展があるので見物方々梅田で集まっては如何でしょうか?」と言いましたところ、「それええな!」と賛成いただきました。その後、何の因果か、天の采配か、私が応募した半世紀前の写真が20点の一枚に選ばれたという連絡を富士フイルムから頂いたのです。事務局長様のお計らいで、本日先輩後輩の諸兄に集まっていただき少しの賞賛と多くの罵詈雑言を頂きましたのは、私、一生の誉れであります。この上は来年も当会から20点に選ばれてラグビー同様に三年連続全国制覇をして、天下に名声を轟かせていただく事を祈念いたしまして、不肖、米手作市のお礼の言葉とさせていただきます。
この度賞を頂きましたのは下記の作品です。ご笑覧下さい。
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投稿面が賑わっていたので静かにしていたところ、特派員さんが竜華の写真を掲載されました。この地は私の出生地で、子供の頃から何度か訪れていたので懐かしく拝見しました。当然写真を撮っていますが家族写真が多く、鉄道写真は数えるほどしかありません。それでも昭和37年(1962年)12月の八尾はこんなところだったと特派員さんが撮られた現況と比較してみて下さい。
少し旧聞になりましたがお許し下さい。
青信号特派員氏から、巡行時は信号機を90度廻して道路と並行にした旨のお話がありました。
私事ですが当時は四条寺町と三条河原町に店を開いておりましたので、毎年宵山と巡行日には店頭に出ていましたが見物は出来ず手伝いに没頭しておりました。そのため話題の信号作業は見ていたような、見ていないような有様です。ただ気になったのは架線をつるしたブームのことです。昭和30年代中頃までは架線柱を上下線の真ん中に天秤型のものを設置して鉾の巡行を助けていましたが、阪急の地下延長で南側の歩道上にあった電柱に片持ち式のブームを付けて“それを90度廻して鉾は四条通中央を巡行した”と思っておりました。
しかし、どうも自信がないので交通局のある方に伺いましたところ、ご丁寧な検証報告を頂きましたので皆様にご報告いたします。
なお、転載などのご了解も頂いております。画像処理は私の責任で行っております。
まずは当時の写真ですが印刷物のコピーですので見にくい点はお許し下さい。
(右)四条河原町の写真ですが、左側に高島屋があり電柱からブームが延びています。四条通の東行車線を鉾が巡行しています。鉾の影になっていますが信号機は回転しています。
余談ですが、撮影者の伊藤とのひろさん(故人)は同志社の先輩で、お客様でもありました。北海道の方でしたが終生京都を愛して京都のスナップを多く残して居られます。
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しばらくぶりに投稿いたします。と、言いましてもまとまったものではありません。京都駅周辺や向日町での写真ばかりで、車両ファンには申し訳ありませんが「昔はこうだったのか」「こんな車両が走っていたのか」程度のものです。ご笑覧下さい。例によって記録はありません。
今回は「電化前の青大将」ではありませんが、初期のブルトレ用機関車などをカラーで撮っていました。東映映画の名作「大いなる驀進」の『特急さくら』はこの色でした。
向日町運転所も電化が完成して、電車や電気機関車が留置され、客車はそろそろ時代が去ろうとしている時期です。しかし、電気機関車はまだEF58が幅をきかし、EF61や65が顔を見せ始めていました。EF58も特急塗装の青色がありましたが、茶色がまだまだ主流です。
同じく向日町で、新製時から前面を警戒塗色にしているEF65も撮りました。
青大将のEF58の写真もあるのですが白黒です。昭和40年頃からカラーフィルムを使い始めたようで、チラホラとアルバムに混じっています。しかし褪色が激しいものも有り、今回も一切の補正はしておりません。この当時の客車もおもしろいものを撮っていますが、機会があればお目に掛けます。