河 昭一郎様、西村雅幸様、大津の86様、
28698のことですが、私が梅小路で次のような写真を撮っていました。
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投稿者「米手作市」のアーカイブ
こんなモンもありまっせ!
こんなモンもありまっせ!
国鉄クモハ123型
こんなモンもありまっせ!
小学校時代からの写真を整理していると「これはなんや?」と撮した本人が首をかしげるモンに出くわします。ちょっとそんなモンを数枚ご覧に入れます。
向日町運転区が出来たのはちょうど中学を卒業する頃です。まだ新幹線もない田んぼの真ん中にダンプが砂煙をあげて整地されていきました。やがて線路が敷かれ、建屋が出来てきましたが、架線が引かれるのはずっと後になってからでした。
その頃の運転区は多分に漏れず出入り自由(とは国鉄は言っていませんが)で、カメラを持って日参していました。この写真はそんな頃に撮りました。
「阪急・能勢P5」上梓
《阪急P-5こと10形は新京阪鉄道が製造した11m級小型木造車。P-4 ・P-5A・P-5B形の各形を総称してP-5(デロ10形)と呼ばれ-中略-すでに「のせでん」での引退から50年が経過したが、本書は阪急及び能勢電で活躍したP- 4・P-5 木造車の活躍の記録である。》巻頭より
本日、関三平先生から「阪急・能勢P5」という素晴らしい本が出るとのお知らせを頂きました。
同時に本を一冊、クローバー会に贈呈頂きました。
中には当時としては貴重なカラー写真や、P5の全ての系譜が掲載されています。もちろん、関先生の写真やイラスト、原稿「愛しのデロ」もご覧下さい。
この本は事務局長にお渡ししますのでどなたでもご覧頂けますが、是非とも書店でお求め下さい。
こんなモンもありまっせ!
札幌市電のディーゼルカーの話題に悪のりします。
というのは、この写真を撮った記憶が無いのです。いろいろと忘れてしまう歳になりましたが、この写真に関することだけを忘れるというのもヘンです。従って説明はできません。
と、言うことをご理解の上ご覧下さい。
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こんなモンもありまっせ!
久しぶりに投稿します。
この当時は自転車で行ける範囲で撮影していましたが、向日町付近が南限でした。この頃に向日町運転所が出来つつあり、旧型客車や新型電車など撮り放題でした。ついでながら阪急の写真も撮っていたようです。
国鉄ひょうきん族!419系
日光型の次は月光型 581系
青信号特派員氏の疑問を解く
拙稿の上り「白鳥」に関しての疑問が投稿されていました。
とりまとめると、
①下りの後追い写真ではないか?(つまり南側二線は下り用)
②その時だけの臨時運行ではないか?
撮影後六十年も経って写真の検証をするとは思いも寄りませんでした。いくら頭を絞っても確実なことは思い出せません。そこで当時の写真を撮影コマ順に並べて時系列で検証しました。その写真をご覧に入れますが、全く補正などはしていませんので見にくいのはお許し下さい。
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デハボ1201様に答える
私の無責任投稿をご覧になった”デハボ1201”様から「白鳥上りが下り線を走っているのでは?」とのご質問を頂きました。現在は緩行線と列車線が平行して上下に分かれています。当時の写真を見ると上下別に二組走っていたようです。私は設備に詳しくありませんので誰か線路配置に詳しい方が代わって説明して下さい。
こんなモンもありまっせ!
しばらく写真展の話題で持ちきりでしたがどうやら一段落、またぞろツナギの写真で間を持たせます。
国鉄クハ157系
こんなモンも有りまっせ! 特注編2
マイドの題目で申し訳ありませんがお許し下さい。
先ほど終わりました打ち上げ会(京都では伝統的に”足洗い”という)で、あの写真展担当大幹部のF田さんの作品(京都駅東方の本町跨線橋から京都駅方向を撮した夕方の写真)と同じところから撮ったものを持っている、と言うやいなや、遙か前方の議長席から「同じやないやろ?見たるから掲載してみ」とF田さんの罵声が飛んできたのでやむを得ず続けての投稿となることをお許し下さい。苦情がある方は大幹部の福Dさんへ直接お願いします。
こんなモンもありまっせ!特注編
本日、大幹部のF田さんからの命令で泣き叫ぶ孫を放り投げて写真展の警備員に馳せ参じてきました。素晴らしい会場と、素晴らしい作品の数々は置いといて、入り口の絵に見入りました。著作権の関係で画はご覧に入れられませんが、鉄道画の重鎮・黒岩保美氏の作品が二点掛けてあります。一点はC54が京都駅山陰線ホームを出発するところ、もう一点は京都駅の東方にあった梅小路機関区の東駐泊所の絵です。昭和30年頃の京都駅ということで、夕日を背景に転車台に乗るC51が黒煙を上げているものです。後には当時あった貯炭庫が描かれ、さらに遠くには市電の八条変電所がうっすら見えています。
この場面の写真を持っているで!とつぶやいたのを後で聞き耳を立てていた大幹部の福Dさんが聞きつけて「今日帰ったらすぐにアップしろ!」と厳命されたので特注編としてお目を汚します。
東駐泊所に関しては少し説明しておきます。東海道線がまだ蒸機であった頃、梅小路機関区との往復が手間なため、高倉陸橋の南詰めに転車台と留置線を置いて蒸気機関車を駐泊させていました。東海道線が電化しても山陰線用や奈良線用に利用していたと思います。新幹線が開通する頃、転車台は撤去されスレート造りの電機用車庫が出来ましたが今はありません。
新幹線の出来るずっと前、昭和36年(1961年)2月の写真です。貯炭庫はすでにないようです。
こんなモンもありまっせ!
実は昨年のHCDで北陸特派員氏から「車両の写真もいいが当時の雰囲気が分かる風景が写っている写真も見たい」と言われたので、鉄道写真としてはロクなものではないが当時の雰囲気が分かる風景を出します、と約束して半年になりました。そんな時に準特急氏や西村氏、893氏が”修学旅行電車”にかこつけていい写真を出して下さったのでこれをきっかけに準備していたゴミくず写真をご覧に入れる決心が付きました。
いい加減な知識しかない投稿写真に、鉄道界の重鎮・河様からのおだてのお言葉にも嬉しくて舞い上がりました。
皆様も作品のような写真ばかりでなく、キズがあっても、カビが生えていても、ピントが合ってなくても、変わった車両や今ではとれない場所からの写真などもドシドシ投稿して下さい。
こんなモンもありまっせ!
皆さんの修学旅行電車の写真を見ていると、私も乗り遅れないように投稿したくなりました。
特に西村さんの梅小路構内横切り事件!を見て血が騒ぎました。梅小路は私の縄張り、東山隧道から桂川鉄橋までは小学生~高校生までの遊び場ですから写真だけは山ほどあります。その中からご覧に入れます。
なお、記録のなさはひどいもの、ご推察願います。