青信号特派員氏の疑問を解く

拙稿の上り「白鳥」に関しての疑問が投稿されていました。
とりまとめると、
①下りの後追い写真ではないか?(つまり南側二線は下り用)
②その時だけの臨時運行ではないか?
撮影後六十年も経って写真の検証をするとは思いも寄りませんでした。いくら頭を絞っても確実なことは思い出せません。そこで当時の写真を撮影コマ順に並べて時系列で検証しました。その写真をご覧に入れますが、全く補正などはしていませんので見にくいのはお許し下さい。
まず、疑問の「白鳥」の次のコマです。

ご覧の通り桂川を渡っています。しかもテールランプが点灯していますので上りです。

同じく急行「六甲」

京都側から見た上り各停京都行き

大宮陸橋を過ぎて京都駅に進入する上り「はと」(現在は下り線)右はタキイ本社屋

これで井原さんの言うように南側二線は電車線、北側二線は列車線(区分名称はいいかげん)でしょう。
ところが当時撮った写真に不思議なものがありました。撮影場所は向日町運転所の西側です。

上り各停電車

下り貨物列車

ここではどちらも現在と同じ上下複々線になっているようです。上の写真では信号機が二線とも同方向を向いています。
どうやら向日町-西大路間で線路配置が替わっていたのではないかと思います。
諸賢のご意見は如何でしょうか?

 

青信号特派員氏の疑問を解く」への10件のフィードバック

  1. 米手作市さま
    線路が替わっていたの意味が判然としませんが、小生の推測は恐らく向日町駅以南は内側電車線、外側列車線(つまり東側から①下り列・②下り電・③上り電・④上り列)であって、以東京都駅まで同②・③・①・④になっていたのではないかと思います。理由は梅小路貨物駅です。
    現在も梅小路から向日町駅手前まで「はるか」も通る下り貨物線がありますが、同線はキリンビール工場付近で本線を跨いで一番東側に出ます。この立体交差が当時から存在していたかどうか詳らかにしませんし、もう一つの疑問は梅小路へ入る下り貨物が本線横断をしていたか否かです(現在は京都駅西方のタカバシの辺りで立体交差で梅小路に至ります)。しかし微かな記憶とご投稿の写真からして上記の線路状況はまず間違いないと思います。
    ここで話をややこしくしているのは列車線・電車線という呼び方だと思います。前述のように向日町以南はこの表現でも問題はないと思いますが、話題の区間では旅客線・貨物線と呼ぶ方が実情に即しているような気がします。梅小路に用のない旅客列車は、向日町以東で電車線を共用していたと考えるのが妥当ではないでしょうか。しかしこれも過密ダイヤの観点からいささか疑問なしとしませんが。

  2. 1900生様、
    ありがとうございます。しかし、この頃の記憶が判然としないので長老の皆様にご教示いただきたいと思います。

  3. 1900生様

    ご教示ありがとうございます。
    私も同意見です。
    現在の様に旅客列車が閑散時毎時4~5本、電車が10~12本と比べると電車の本数が当時は半分くらいしか無かったのではないでしょうか。代わりに貨物列車の本数も多く、当時から向日町のオーバークロス、梅小路のアンダークロスがあれば、理想的な配線だったと思います。
    この辺りの配線について記された書物に出会った事が無かったので、久しぶりに新鮮な発見ができました。
    今後も皆様の貴重な写真の掲載を楽しみにしております。
    宜しくお願い致します。

    • 参考文献をお知らせします。
      『大阪工事局40年史』昭和43年大阪工事局62~64頁1024~1031頁
      『大阪工事局50年史』昭和52年大阪工事局48~49頁
      に線路図とともに記述があります。『大阪鐵道局史』は参考になりません。
      『日本国有鉄道百年史』は未調査です。
      取りあえず。

  4. 参考文献が検索出来ました。
    懐かしい駅の風景 向日町に配線図が掲載されていました。

  5. 京都~向日町の配線の変遷については、昨日、直接、井原さんから文献のコピーを見せてもらい、私も判明しました。たしかに、当時、京都駅では、下り貨物が、1番ホーム(現・0番)と2番ホームの間の中線を通過していたことを思い出しました。梅小路貨物駅に出入りするための線路別運転になっていたのですね。ご教示、ありがとうございました。

  6. 総本家青信号特派員様

    井原様の文献はまだ見ておりませんので教えてください。
    下り線大宮近辺の梅小路へのアンダークロスは当時無かったのでしょうか?
    もし存在していれば1番と2番の間の中線を逆走する必要は無いと思います。
    山陰線への東海道線からの直通運転であれば、中線走行も考えられます。
    その場合電気機関車での牽引は無いと思いますが・・・・
    色々疑問が沸きますが、近場でなぞの部分が解明されていく事は楽しいですね。
    今後また疑問が出たときはご教示ください。
    宜しくお願い致します。

    • デハボ1201さま
      コメント、ありがとうございます。ご指摘の下り線は、京都~向日町が線路別運転時代には無かったと思います。京都駅1番線と2番線の間の中線を、上下貨物が通っていましたが、1番線に到着する上り優等列車だけは、旅客線から貨物線を平面クロスで横断することになり、大きなクロッシング音を残してホームに到着したことを覚えています。現在のように、下り貨物が6・7番線や通過線(現在は奈良線ホームに転用)を通る方向別運転に変更された際、大宮近辺のアンダークロスが設けられました。その時期は、井原さんの資料からは読み込めませんでしたが、私の撮った写真では、昭和41年の写真では、下り貨物がまだ1・2番線の間を通過していましたから、そのあとになると考えます。

      • 『大阪工事局40年史』1031頁によりますと、京都・向日町間について
        「41年4月下り貨物線の使用開始、京都駅下り貨物3番線を12番線迂回に配線変更し、待望の下り線支障を改称した。」
        「41年5月梅小路向日町間下り貨物線開業(支社監査)京都駅構内西部配線変更、梅小路南線並びに下り貨物線(梅小路・向日町)の1線々増完成す。」
        「41年12月方向別4線運転開業(本社監査)41年度は数回に亘る大配線変更を逐次施工し今回で改良工事の目的を完了する。この間支社開設以来の20時間信号現示停止並びに大巾な列車運転中止、ダイヤ変更等を行って完成した。」
        と記されています。
        上記のように、昭和41年4月に京都-西大路のアンダークロス、5月に梅小路-向日町の1線々増が完成し、桂川の北側に鉄橋が1本増えました。そして12月方向別4線運転開業とありますが、当時の雑誌では1966年11月20日から京都-兵庫間方向別4線運転開始となっています(下記2誌)。
        鉄道ピクトリアル192号(1967年1月)90頁
        鉄道ファン67号(1967年1月)78頁

  7. 総本家青信号特派員様

    ご教示ありがとうございます。

    今では考えられない配線ですね。
    そうすると、2番ホームから出発する上り旅客列車も出発後下り貨物線と平面交差する事になり、信号所の職員さんも大変でしたでしょうね。

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