河 昭一郎様、西村雅幸様、大津の86様へ

河 昭一郎様、西村雅幸様、大津の86様、
28698のことですが、私が梅小路で次のような写真を撮っていました。

残念ながら撮影日を控えておりませんでしたが、札に「梅小路」「37 7 16」の文字が見えます。吹田第一機関区から出稼ぎに来ているようですが昭和37(1962)年の撮影でまちがいないでしょう。他にも18623、68687、88638、28645などを撮っていました。
この当時は梅小路へ吹1からD52などが来ていました。

次は阪神武庫川線です。河様が撮られた線はこれでしょうか?

当時、叔父が阪神鳴尾に住んでいましたのでよく遊びに行っていました。どこで撮ったのかは覚えていませんが武庫川の土手から見下ろしたように思います。当時はなぜ三線なのか分かりませんでした。

京都駅南口付近

二階建てでは無いか、二階があっても倉庫のようなものではなかったでしょうか。左の斜めの階段を上がれば奈良電のホームだったように思います。

バスが止まっている右側が現アバンティーで、車庫や鉄柱の一帯は新幹線のガード下です。八条通を東方向に見ています。

西村雅幸様
キハ04です。

写りが悪いのはお許し下さい。

次に大キトで撮した木造車です。

ナエ17307という救援車です。この車両に関しては井原さんにお尋ね下さい。調べておられます。

 

河 昭一郎様、西村雅幸様、大津の86様へ」への31件のフィードバック

  1. 京都駅南口の風景、父親の出生地(田舎)へ行くには奈良電に乗るために世話になったコースです。三角屋根の建物は奈良電の変電所を兼ねたものではなかったかな?電車乗り場まで一番線から南に延びる弧線橋の長い距離を歩いて階段を降りたところが奈良電乗り場でした。乗り場は突っ込み形の3線ホームでした。進駐軍専用車は国鉄の留置線べりのホームを専用としていました。東端ではMPが頑張っていましたが、子供には優しく、ホームに入れてくれ、車内見学もOKでした。専用車は1024号車でした。

  2. 米手作市様
    泉のごとく貴重な写真が湧き出てきますネ。キハ04の写真ありがとうございます。拡大して見てみますと キハ0428のようです。昭和40年3月31日に姫路で廃車となり、その後北丹鉄道のキハ101となったキハ04のようです。北丹キハ101はDRFCの北丹鉄道見学会でも写しています。いろいろなつながりが発見できてまたしてもデジ青の奥深さを実感できました。ありがとうございました。

  3. 米手作市様
    今とは想像もできない八条口の様子、当時京都駅に行くと言っても市電への乗り換えと丸物に行くくらいでしたから、南側に行く機会は全くありませんでした。そもそも南側へ通り抜けができたのでしょうか。画面の右の京阪バスとバタコも時代を感じさせますね。このあたりの写真となると博物館も欲しがるのでは…お宝映像のシリーズ楽しみにしています。ところで私の撮った28698の写真には吹1のプレートの入っているところには何もなく、その横には入51,52,53の文字が書かれたプレートが入っていました。当日の運用が書かれていたのでしょうか。

  4. 米手作市様

    タイトルのトップに『河 昭一郎』の文字が有って一瞬ギクリ(笑)でした。

    28698については貴殿の写真に『37.7.16.』と有り、その上の『梅小路・・・』がカギでしょうね。
    後半の3文字『・・・』が読めませんが、ひょっとしてその日付けが『吹一』⇒『梅』への『貸出日』だったのでは?と勝手に想像しております。
    従って、そのまま『梅』より浜大津や草津に出張していたのではないか。その後それが結局正式に『梅』に転属したのではないかとも考えられますね。
    『貸出』が盲点だったのかも知れません。

    阪神武庫川線の写真は3線軌条が一目瞭然で、上手いアングルですね。
    小生が撮った頃は、国道線用だった筈の金魚鉢が変形(阪神流)ビューゲルのままで単行運用でした。

    京都駅南口の写真、小生が撮ったのは新幹線工事たけなわの頃、橋脚の基礎工事が直ぐ側まで迫った『風前の灯』状態のショットでした。

  5. 乙訓の長老様、
    貴重な”ご記憶”ありがとうございます。
    質問を一つ
    1024号とあるのはデハボ1024のことでしょうか?もしそうなら奈良電にも「進駐軍専用車」があったのですか?戦後生まれには分からない出来事です。

  6. 28698は、
    鉄道図書刊行会の『国鉄車両配置表』では
    昭和40年3月31日現在 吹田第一
    昭和41年3月31日現在 梅小路
    となっています。移動日は河様のコメントのとおり『鉄道ピクトリアル』の「車両の動き」に見あたりません。
    昭和30年8月1日現在は吹田で、その後の配置表を見ても移動はしていないようです。吹一の配置でありながら梅小路に出稼ぎに来ていたのは28698だけでしょうか。検査時は代機でしょうけれども。
    昭和30年8月1日現在の配置表には他区へ貸し出している機関車は機号・区名と「貸渡中」と注記がありますが、28698にはそのような注記はありません。

    『梅小路90年史』、『梅小路100年史』の配置表は日付の間隔が粗く、詳しいことがわかりません。

    なお、昭和37年4月1日現在の配置表では、18623、68687、88638は梅小路ですが、
    28645は存在しない番号で、【85541】の28649ではありませんか?

  7. 以前に1回書いたが、八条口の写真にそえおさらいを。ここは長らく闇米の搬出口であった。1949年頃までは取締=それもお巡りでは歯が立たず、米軍MPも出てコメを公定価格での強制買上が「時折」発生。職業化したヤミ米担ぎ屋集団は対抗上?速度を落とす駅東側で、デッキから麻袋入りのコメをヤッと気合もろとも蹴落とす。線路上では無数の地上要員?が即時その麻袋を大型自転車や大八車、リヤカーで運び去る。当然ポイント等の損傷も発生し、黙認=危険な「荷下ろし」を止め、八条口からの搬出に改善?されたのである。恐らくは列車も指定で、麻袋運送区間は検札もなく、ある種?の学生はそれを「活用」したとも漏れ聞く。

  8. ナエ17307について
    私はじかに見たことがありませんが、元は大正5年度に新製されたホイロ7461(ホイロ5335形式)です。その後何度も改称・改番・改造を経て 昭和36年度に廃車されたことになっているのですが、米手様はいつ撮影されたのですか?

  9. 井原様、
    相変わらずいい加減な記録しかありません。しかも京都駅や梅小路は普段の遊び場なのでいちいち撮影日を記録していません。かろうじて昭和37年の撮影とだけは書いてありました。同時に写っている服装からして早春だろうと思います。ゴメンなさい。

  10. 河 昭一郎様、井原 実様、
    ご愛読いただいている方から貴重なご意見を頂きました。
    ご本人のご了解を得て転載させていただきます。

    《大変ご無沙汰しております.デジ青の掲示板,毎日楽しみにしているところです.
    とりわけ,このところ盛り上がっている京都駅界隈のことについては,私の子供のころの記憶に少しだけ重なるところがあり,懐かしく,またその頃に写真を撮影されたことに羨望も覚えながら拝見しております.
    さて,28698のことですが,昨日お示しくださった荷票は,私が後年になって実見した他の例から類推するに,回送のための札と思います.昭和37/1962年7月16日に吹田から梅小路へ貸し出しのために回送されたのでしょうか.移動でしたら[吹一]の札は抜いてから送り出すはずですので,河さんのご推察のとおりかと思います.
    井原さんがお調べになった鉄道ピクトリアルの[車両の動き]ですが,これは本社扱いとなる鉄道管理局間の転属のみ掲載で,同じ鉄道管理局内での移動については非掲載でした.
     ですから,今回の28698のように,移動の掲載がないのにいつのまにやら移っていたり,例えば廃車の時点では梅小路の配置なのに,その直前の配置表では吹田第一…,というようなことが,しばしば・しょっちゅう発生していました.》

  11. 米手作市様

    やっぱり『貸出』がカギだったようですね。
    実は『貸出』が頭に浮かんだのは電車での経験からでした。
    昔、大鉄管内で快速電車の車両不足が発生した時、遠く高タカ二から80系を借り入れた事があって、その際所属表記はあくまでも原籍のままでした。
    そのため『大タツ』編成の中に1輛『高タカ二』表記の車輛が混結されているのを見て、『遠い所から・・・』と感慨深く思ったものです。

    今回の28698でそれを思い出し、更に所属札の隣に有る『37.7.16.』と『梅小路・・・』がヒントとなりました。
    なお、ピく誌の『車両の動き』には同じ鉄道管理局管内での移動は非掲載との事は知りませんでしたので、『不思議』がどんどん膨らんだ次第です。

  12. 河 昭一郎様、
    おかげさまでこの掲示板も多くの方にご覧いただいています。この読者の方もそのような方でしょう。私のような古いだけで無知なものが投稿したおかげで永年の疑問が一瞬で解決出来ることのありがたさを感じております。
    河様、これからもご投稿お願いいたします。

  13. はじめまして。
    武庫川線の撮影場所は東鳴尾(洲先より、現在の臨港線という道路の跨線橋付近から)です。画面奥、堤防下に木製のホームが見えます。始点の武庫川と終点の洲先駅にはホームに上屋がありましたが、東鳴尾はホームだけの簡単な駅でした。写真の1121号はほぼ武庫川線専属のような使われ方をしていました。撮影時期は本線に大型車が入った1954年から国道線の71形が入線する(1957年)前か同じく71形が使われた尼崎海岸線が廃止になり71形が国道線に帰った(1962年)後で1121号が1963年9月に土佐電鉄に譲渡される前です。

    • Fernweh様

      武庫川線は遠きイニシエの我が身には「興味津々」の路線でした。
      何よりも我が興味を引いたのは3線軌条で、「何で~?」でした。
      阪神電鉄の「縄張り」は国道の武庫川以南でしたが、ご存知レールは武庫川の西岸を更に北上して国鉄東海道線の手前で西に急カーブして進み、以降東海道線の南に張り付いてC12 246が常駐する西ノ宮まで続いていました。
      このタンク機関車が東海道線の貨物車(主として米軍用)を牽いて洲先の米軍?まで搬送していたのを追っかけ回して撮影した記憶が蘇りました。丁度小生が中学生だった60年以上前の事です。
      さてさて、話を武庫川~洲先の阪神電車に戻して、この区間は又それなりに興味の沸く路線でした。
      小生が「追っかけ」をやっていた頃は、添付写真(出来が良くありませんが)のように国道線の金魚鉢が行ったり来たりしていましたが、後には阪神本線の1121?に代替わりしたようですネ。
      いづれにしても、此の頃は本当に「悠長な」時代でした。
      その後の転居で、全く縁遠くなったまま、現状を確認する機会も無く、ただただ懐かしんでおります。

    • Fernweh様
      ご覧頂き、ありがとうございます。
      気がつかなかったのですが、河 昭一郎さんから「コメントが来てるぞ、返信したら?」とのメールで気がつきました。撮影場所と撮影時期を推察頂き感謝しております。自らの年齢と合わせてみたら1957年頃ではないかと思われます。叔父の家でいとこと『月光仮面』を見た思い出があります。

  14. 米手作市様及び関係の皆さま
    米手さんが1957頃に叔父さん宅訪問時に撮られた武庫川線の阪神電車には驚きました。70年くらい前にもう撮影を始められたとのことでその写歴には恐れ入っております。梅小路や京都駅界隈の貴重な写真にも河 昭一郎さん、乙訓の老人さん、湯口 徹さんなど錚々たる方が登場しており、最近のコメントにもFernwehさんという方が当時の武庫川線のことを書かれていました。ここで場違いでぶっ飛ばされそうですが、最近(2022.8.12)の武庫川線5512+5912の武庫川団地前行きを貼り付けさせていただきます。

    • 準特急さん
      いまはこんなにもカラフルな電車が走っているのですか!
      ありがとうございます。

  15. 河 昭一郎さんありがとうございました。米手作市さん、準特急さん、こんばんは。

    河 昭一郎さんのお写真は71形が尼崎海岸線にも走り出した頃と思います。集電器と連結器の有無は写真からはわかりませんが国道線や武庫川線に来た当初おでこに一灯の尾灯が「腰」に二灯に改造されています。

    武庫川線はどうもそれほど需要がなかったようで連結は行なわれなかったようですが、通勤需要を担っていた尼崎海岸線では通勤時、2両連結が行なわれています。

    河 昭一郎さんの写真の後景は武庫川駅ですね。武庫川線をまたぐ跨線橋が板張りで本線からすると目隠しになったため、何度となくここを本線の急行で通りすぎ、どんな電車がいるのか確かめてみたかったのですが71形も旧小型車もいるのを確認できませんでした。

  16. 武庫川線にお詳しいFernweh様、河 昭一郎様そして米手作市様
    1965年3月29日武庫川駅での撮影です。米手さんの叔父さん宅訪問時の撮影の8年くらい後のことです。3線式レールは見た記憶がありますがこの時はすでに外されていたようです。阪神の誇る851形の単行運用の姿で上を走る本線はまだ同形の急行列車は走っていました。この撮影の10日後からDRFCに入会し米手さんとの60年に近いお付き合いが始まり毒舌に悩まされるも暖かいご指導をいただきました。

    • 準特急さん
      この撮影の10日後に、あの運命の出会いがあったのですね。あれから60年、準特急さんの投稿を拝見する度に悪夢にうなされることになろうとは・・

      • 米手作市様
        何をおっしゃいますやら。さすが、写歴70年ですね。今までも幌付きの阪急京都線のP-6とかクロスシート時代の710の特急とか重要文化財級の作品を見させていただいております。

  17. 準特急さん、おはようございます。

    852号の写真、きれいですね。みなさんさすがです。わたしは当時ハーフカメラですら持っていない小学生でした。

    三線軌条ですが、2017年の鉄道ピクトリアル特集号を見ると1969年2月18日とされる写真(もう3301形が入線しています)でもまだ武庫川線武庫川駅は三線軌条になっています(84ページ)。隣の85ページには「1970(昭和45)年春に軌条・道床が整備改良され、営業車走行部分の3線軌条はなくなった」ともあります。

    準特急さんの写真では川側の線路が右半分隠れていますが、ここが写っていれば狭軌用の線路も見えると思いますよ。

    ちなみにわたしが調べた限りでは狭軌用の線路も備える三線軌条は川側の線路のみで、武庫川大橋や武庫川、戦中は「陸側」にも待避線があった東鳴尾(「阪神電車形式集.3」86ページ)も「陸側」は広軌のみです。

    写真では洲先側もちゃんとバンドン式連結器がついていますが、「阪神電車形式集.2」を見ると洲先の武庫川車両からの電車をけん引するために852号の連結器が外されています(56~57ページ)。けん引時は丸太で連結していたそうです。

    今回見せていただいた写真の後ろに写っている木造の連絡通路、あれが目隠しになって本線を走る電車からは武庫川線の列車が見えませんでした…

  18. Fernweh様
    早速のご指摘有難うございます。あの852号の翌1966年2月18日に3302号を同じ場所で撮った写真に3線式レールが写っていました。丁度上を本線列車が通過中で今はこのような写真は無理かもしれません。阪急西宮北口の平面交差といい当時は貧乏で不便な時代でしたがそれなりに楽しかったです。ハーフサイズはフィルム代が節約できて効率的なカメラでしたが、あの頃にはブロー二版のカメラも出て来て今思うとハーサイズを早くあきらめて35ミリカメラに徹した方がよかったと反省しています。結構貴重な記録がハーフサイズに残っているのです。今は本が売れない時代で出版社や書店は苦労されているようですが、鉄道ピクトリアルだけは60年分あるのですが昔の様にかじりついて読むことがなくほとんど新品の状態で保管に困っています。速達コメントに驚いておりますが、今後もデジタル元祖青信号通称デジ青を宜しくお願い致します。

    • 準特急さん、連投失礼します。

      武庫川線武庫川駅のホーム長いですね。朽ちかけている川側共々大型車とはいえ1両にはもったいない長さ。実はご存知と思いますが敗戦までは小型車とは言え3両(1121形など普通系車両)または4両(801形など急行系)編成で走っていたそうで、そうすると今の車両で最長で約3両になります。ホームの長さも納得がいきます。

      それと写真で電車が停まっている部分のホームが見えるとわかるのですが、71形が走っている期間はその部分だけがホームが低くされていて、71形が国道線に帰ってからその部分が埋め戻されたので、その跡が残っていました。この写真売り物みたいなので添付はできませんが、URLだけ貼っておきます
      https://ehagaki.official.ec/items/12087244

      腰に尾灯が2灯、連結器なしで集電器もワイゲル1本ですから71形が武庫川線に入った直後1957年と思います。

  19. Fernweh様
    武庫川の風景はそれなりに当時の感じが出ているとは思いますが、3302号はピントが甘くよくわかりません。森田さんは雑な知識の私とは異なり車輛のこともお詳しいようですので3302号のアップ写真を追加貼り付け致します。

    • 準特急さん、
      お手数おかけしました。それとここの流儀ならわたしも「様」に合わせますが、わたし自身は「Fernwehさん」で良いですよ。もともとそういうのあまり気にしないたち(=無礼者?)ですし、お話をうかがうかぎりほぼ確実にみなさんより年下でしょうから。

      さて本題ですが…と言いながらどの話をしましょうか? 準特急さんの1966年のお写真を拝見するに武庫川駅は川側も狭軌の線路も含めて割ときれいに三線軌条が残っていますね。これはおそらくこの当時まだ洲先の武庫川車両からの回送が残っていたか、中止された直後だったのでしょう。

      この直前に終わった小型車運用時は限界の関係で「陸側」はホームが支障して「大型車」(読みにくい書き方で済みません、()、「」の多用はわたしのクセなんです…)は入ったり通過することができませんでした。川側にホームがあった東鳴尾、洲先は大型車が通過できる構造でしたが、逆に車両とホームの隙間が大きくなるので1121号や801形、851形、881形は川側のみ本線で見られるようにステップをつけていました。
      3301形入線にあたって武庫川駅の写真のホームも削ったのでしょう。東鳴尾駅は「阪神電車形式集.2」83ページの写真にあるように武庫川団地前延伸まであった本格的なホームが1963年3月には既に陸側に造られています(写真の881号も陸側にもステップをつけています)。
      東鳴尾駅のホームと配線の変遷については後日また。

      • Fernweh様
        私も「様」よりも「さん」のほうが好きです。
        ただし、お顔を知っている方、頻繁に書き込んで下さる方には勝手に「さん」を使っています。なお、我が会には不文律がありまして、先輩後輩の区別はありません。入学した時に当時の会長でした“湖畔のヒマ人”先輩から先ずいわれました。
        ですから気を遣うことなく「さん」でも「君」でも呼び捨てでもお使い下さい。

        • お心づかいありがとうございます。基本「さん」で行かせていただきたい(←もうしとうやん!)と思います。今後ともよろしくよろしくお願いします。

    • Fernweh様
      阪神3302の写真はFernwehさんのご指摘に対する返事の意味もあり失礼しました。不愉快な気分をお持ちだと思いますがお許しください。

      • 準特急さん、こんばんは。

        何のことで何で謝っていただいてるかわからずキョトンとしているFernwehです。ご心配なく。

        お写真の頃でしたら、その3302号の向こうに本線系車両に合わせてホームを埋め戻した跡が見て取れるかもしれません。

        それと今日になってやっと気がついたのですが川側には既に架線がありませんね。武庫川車両回送はもう終わっていたのでしょうか? それとも限界拡張がなったので陸側を通していたのでしょうか?

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