【4227】久留里線の旅

8月12日(水曜日)夏休みを取り、「青春18」を利用して久留里線に乗車した。東京都内の千葉県に最も近いところに住みながら久留里線は初乗車であった。他にも小湊鉄道の上総牛久~上総中野間、いすみ鉄道全線が未乗区間として残っているので近々乗車したいと思っている。

今回の目的は、久留里線の乗車のみであるため、いつもより1時間以上遅く、8時に出発。仕事で千葉市や市原市に行く時は、金町から千葉まで京成で行くが、今回は新松戸から武蔵野線、西船橋経由千葉へ。千葉駅で降りると9時32分発木更津行(155M)が湘南色に塗り替えられた113系4連+スカ色の4連で停車しており乗車予定の電車を1本遅らせて撮影。撮影後この電車に乗ったが、間に合うと思っていた木更津駅10時6分発の上総亀山行(929D)にタッチの差で接続しないことが判明し、一旦蘇我で降りて駅撮りをすることにした。京葉線の201系、205系の初期車、電留線のE257系を撮影後、横須賀線から直通のE217系15連で木更津に到着。車両基地(正式名称は幕張車両センター木更津派出所)に、旧国鉄色に塗り替えられたキハ3098が停まっており、駐輪場から撮影した。エンジンが駆動しており、次の運用に入ることは間違いなく、時刻表を確認の上、帰りに久留里駅で撮影することにした。

11時52分発上総亀山行(931D)は、キハ381002+キハ384の2連で座席ほぼ満席であった。次の駅は「祇園」。住宅街の無人駅であるが、由来は京都の「祇園」から来ており、平 影清が京を偲んで住居のあった付近を「祇園村」と呼んだと伝えられている。京都出身者としては、ストレートに「祇園」ではなく「上総祇園」にしてもらいたいところ。上総清川、東清川と棒線の無人駅に停車して、次の横田は交換駅であるが、対向列車はなくタブレットを交換して直ぐ発車。東横田、馬来田、下郡、小櫃、俵田と棒線の駅(馬来田が簡易委託の他は無人)が続き、ほどなく久留里に到着して上りの木更津行(キハ371002+キハ383)と交換。駅の手前に県立高校があり、ここの通学客が久留里線最大のお得意様である。この先の乗客は数える程で、山間部に入り、平山、上総松丘と棒線の無人駅を過ぎ、トンネルを抜けて終点の上総亀山に到着した。降りたのは約10名で、同業者が1人、親子鉄が2人、亀山温泉に行くと思われる観光客が2人、残りが地元客で、おばさん1人が駅前から黄和田車庫行のバスに乗り継いだ。一昨年まではここから安房鴨川行の路線バスがあり、房総半島の横断が可能であったが、千葉駅~安房鴨川間の高速バス「カピーナ号」が途中からローカルバスに変身して役割を引き継いでいる。(バス停は駅前にはなく徒歩5分位のところにある)折り返しの938Dまで1時間以上あり周辺を散策して時間を潰した。

帰りは旧国鉄色のキハ3098を撮るため久留里で一旦降りたが、ここでも待ち時間が約1時間あり、久留里城を見学しようと思ったが、片道30分もかかるので周辺の散策に切り替えた。久留里止まりの937Dは、予想通りキハ3098+キハ381001であった。駅舎側の上総亀山方面行のホームに停まったので、駅長氏に上りホームから撮影してもよいか尋ねたところ「向こうのホームには行かないで」とのこと。同業者が5名程おり、一般客も携帯電話で盛んに撮影していた。そのキハ30であるが今時珍しい非冷房車であった。横田での交換はこちらが先着で、3分停車のため急ぎ下りホームから撮影したがモロ逆光であった。交換した下り列車はキハ372+キハ381であった。

木更津到着後、折り返しの941Dを駅の千葉寄りの踏切で撮影するべく時刻表を確認すると、内房線の198Mと同時発車である。加速は電車の方が良いので先に通過するだろうと思ったが、電車は8両編成のため、タッチの差でキハ30は撮影できなかった。今回の主目的は久留里線の乗り潰しであったが、千葉駅で湘南色の113系を撮影したため乗車が1本遅れてしまい、走行写真は撮影できなかった。次の「18」の時には走行を中心に撮影したいと思っている。横田~東清川間の小櫃川鉄橋あたりが狙い目と思われ、馬来田までは日東交通の路線バスが並行して走っているため利用可能である。久留里以遠の山間区間は、景色は良いが列車本数が少なく時間のロスが大きいのが難点である。

 

湘南色のマリ117編成(Tc111-2152M113-2072M112-2072Tc111-2056)千葉

 

クハ201-110他10連  蘇我/関西ではリニューアルされて新車のような顔をして走っている201系であるが、JR東日本では京葉線に10連×4本、中央線に10連×2本の60両が残るのみ。

 

クハ205-3他10連  蘇我/205系の1次車で窓が上段下降、下段上昇の2段窓が特徴

上総亀山駅で折り返し発車待ちのキハ384+キハ381002

 

上総亀山駅

 

黄和田車庫行の君津市コミニュテイーバス。道路交通法80条適用のため白ナンバー。

久留里駅

 

横田駅で交換したキハ372+キハ381

 

木更津駅を発車したキハ3098+キハ381001であるが、同時発車の電車のためキハ3098は撮れなかった。

歴 史

明治43年6月千葉県の臨時県議会決議で千葉県営久留里軽便鉄道として建設が決まり、大正元年12月28日、木更津~久留里間を762㎜で開業。大正12年9月1日、関東大震災による被害の復旧費の増大と大正11年に制定された改正鉄道敷設法の「木更津より久留里、大多喜を経て大原に至る鉄道」のルート上にあるため無償で国に譲渡され、鉄道省久留里線となった。昭和5年8月20日762㎜から1067㎜に改軌。昭和11年3月25日久留里~上総亀山間が延伸開業したが、昭和19年12月16日不要不急路線として休止され、昭和22年4月1日営業を再開した。

現 状

木更津~上総亀山間13往復、木更津~久留里間4往復、計17往復運転されている。終日ほぼ1時間間隔であるが時間帯により2時間近く空くことがあり、本数が減る久留里~上総亀山間はその傾向が強い。

首都圏では珍しくタブレット閉塞方式を採用しており、交換可能駅は横田と久留里の2ヶ所のため最高3列車しか運行ができない。以前は馬来田、小櫃、上総松丘も交換可能で、駅構内やホームにその痕跡が残っている。乗客は通勤、通学での利用が多く、特に久留里の県立高校の生徒は他に公共交通機関の通学手段がない。列車の編成は平日ラッシュ時3~4連、昼間2連で、学休期は終日2連である。但し、行楽シーズンの休日は昼間でも4連になることがある。昼間は乗客が少ないためワンマン化されても不思議でないが、全便ツーマンで運行されているのは、人員削減に反対している千葉動労との関係であろう。久留里線に限らず千葉支社管轄の各線では、3月中旬に毎年のようにストライキが行われ、間引き運転や運休が行われるが、久留里線は運休となる。

地元の人は久留里線のことを「パー線」と呼んでおり、語源は「久留里線」→「クルクルパー線」→「パー線」から来ている。速度が遅い上、本数が少なく不便であることから、このような表現になったのであろう。

車 両

幕張車両センター木更津派出所にキハ30形3両、キハ37形3両、キハ38形7両、計13両が配置されている。いずれも久留里線のみで見られる形式である。

キハ30形(62、98、100)

昭和36年~41年に非電化通勤路線向けに製作されたキハ35、36の両運転台バージョンである。キハ35(片運トイレ付)が258両、キハ36(片運トイレ無)が49両、キハ30(両運トイレ無)が106両、合計413両作られたが、JRで生き残っているのは上記3両のみである。98は旧国鉄色に塗り替えられ7月4日から運転され、残り2両も塗装変更される予定である。今時珍しい非冷房車である。

 

キハ3896/上 木更津、下 横田

キハ37形(2、1002、1003)

キハ37形は、昭和58年地方交通線用の量産先行車として新製された気動車で、1、1001が新潟鉄工、2、1002、1003が富士重工で新製され、前車が加古川線、後車が久留里線に配置された。1、2はトイレ付で1000番台はトイレ無しである。その後の増備はなく5両の新製で終わってしまった。加古川線の2両は山陰の後藤総合運転所に転属し、山陰本線、境港線で使用されたが今年1月に廃車となった。久留里線の3両は平成10年に冷房改造され引続き使用されているがトイレは閉鎖されている。

 

キハ371002/久留里

キハ38形(1~4、1001~1003)

昭和61年から62年にかけてキハ35の改造名義で台車、主要部品を流用して、トイレ付4両、トイレ無し3両の計7両が国鉄工場で作られた。

当初は高崎区に配置され八高線で使用されていたが、平成8年3月、高麗川~八王子間電化時に、非電化区間の高麗川~高崎間の車両も新系列のキハ110系に置き換えられたため、久留里線に転属してきた。冷房は改造当初から付いている。トイレは閉鎖されている。

 

キハ383/久留里

 

キハ381002/上総亀山

小櫃駅の直ぐ近くの公民館にC12287が保存されているのが見える。ちなみにC12287は昭和22年9月日本車輛製で当初後藤寺区に配置され、その後鹿児島区に転属し、昭和59年6月南延岡区で廃車となった機関車で、今回は時間の関係で見に行けなかったが、次回は是非訪れたいと思っている。久留里線の気動車化以前や貨物列車にC12が使用されていたということで保存されている。


【4180】1954年高校修学旅行 その4


雲仙一帯は鉄道と無関係だから、小生もおとなしく一緒に行動し、もっぱら帰京後お買い上げ頂く級友の撮影にいそしんだ。行程は島原港から三角に船で渡るが、バスは島原港で乗り捨てる。当時の島原-三角間九州商船は80分、1日4往復、花園丸138トンとあり、これではバスを乗せられるはずもなく、しかも我々修学旅行生だけでも500人以上が乗船したのだから、ボートピ-プル並のすさまじさ。今では島原外港から直接熊本港に60分、2社17往復のフェリーが運行している。

島原では出港まで30分ぐらいあったか。売店のおばさんに聞くと、島原鉄道の本社車庫がある島原湊(現在島原)まで10分ぐらいという。それなら往復20分として、5分だけでも撮影が出来ると無謀にも聞いた方角に走り出しかけたら、おばさんが呼び止め、当時まだ貴重品に近かった自転車を、どこの馬の骨とも知れぬ、しかも団体の一員に貸してくれた。恐らくは小生の人品骨柄卑しからぬを察知したのであろう。


台枠以下を生かし、車体を近所の造船所で新製した私鉄版木製オハ61?のホハ31 元来は温泉鉄道ホロハ2だった

一見中型車だが、その実雑型車(鉄道作業局)の窓配置を改造したホハニ3751 国鉄ホハユニ3751が原型

必死にペダルをこぐ。この自転車はまだ新しいのに、何とブレーキがないではないか。減速には足で地面をこすり、ともかく島原湊駅待合室に自転車を乗り入れて放り出し、居合わせた駅長に一声掛けて改札口を駆け抜け、目に付く限り撮った撮った。二眼レフはすぐフイルムが尽き、交換している暇はなく、35mmは幸い余裕があった。


16号機 鉄道省1406←九州鉄道38

22号機 ←海軍呉工廠 立山重工業1943年製

キハ202 中国鉄道キハユニ110の買収車 原型をよく残している

キハ102 元来キハニだったが、敗戦後急行用に整備 最終ユニ102に

日車製キハ4501 私鉄車ではトルコン装着のはしり

ハフ52 屋根がやたら深いのは雨漏防止改造 元来口之津鉄道カ1 雨宮製量産60人乗り2軸車

この島原湊はすぐ傍に海が迫り(そんなことは後年再訪、再々訪で知った)、余り広くないところにぎっしりレールが敷かれ、しかも1線ごとに整備清掃用の足場があって、かような切迫した撮影ではイライラするばかり。何がなんだか分からぬまま、ともかく目に付く車輌を乱写し、さらに欲を出して駅長に廃札を所望。駅長は1日4便の出港時分=その切迫を承知だから、他の仕事をしている駅員も動員督励し、確か3人掛りで廃札印を押して一式呉れた。


ホハニ3751

ホハニ3751の台車

ホハ12187 国鉄同番車の払下だが、何と窓が1個多いのに気付いたのは1年半後

ナユニ5660 国鉄同番車の払下 旧関西鉄道477「関西大ボギー」の生き残り

屋根と窓数から旧九州鉄道ヘ(1等)かト(2等)車の成れの果てと分かったのははるか後年

ユ2 単車とはいえ全室の郵便車は私鉄では珍しい

ニ11 

救援車

また必死にペダルを漕ぎ、かつ足で地面をこすって船着場へ。その間近になって、やっとこの自転車は輸出用で、ペダルを少し戻すとブレーキになることが判明した。花園丸にはすでに仲間全員(小生以外)が乗船済で、売店のおばさんに礼を述べて自転車を返却。教師は無断離脱とあってカンカンに怒っていた(らしい)が、面と向かっては何も云わなかった(当然仏頂面だったが)。


【4173】福田靜二写真展 『京都市電⑥物語』 開催! ご案内

ようやく、蒸し暑さも過ぎて、過ごしやすくなってきましたが、新型インフルエンザが、蔓延の兆しをみせ始めております。ご老体の多いクローバー会の皆様、出かける時は、マスクを忘れずに、着けてください。

さて、9月末で、定年退職が決まった福田静二君が、退職記念として、写真展を開催されますので、ご案内させていただきます。

場所は、いつもの京阪七条駅近くの、『集酉楽サカタニ』、開催期間は、9月1日~30日です。
題名は、『京都市電⑥物語』です。京都市電で、最後に残った[6番系統]に、焦点をあてた写真を展示するそうです。多分、数1000点も撮った、京都市電6番の写真の中でも、福田君が厳選した写真です。福田流の、味のある写真を見るのは、楽しみです。

猛暑で、こもっておられた皆様、もう熱中症で倒れる心配は、不要です。散歩がてらに見に行きましょう。
福田君は、土日曜日、会場に詰めているそうです。

9月26日(土)18:00からは、打ち上げ会を開催するそうですので、この日も是非に、ご参加下さい。


【4162】韓国1971年その5(総括)

 韓国1971年その5は総括と言うよりはこれまでの積み残し分です。まず、コダックのネガカラーで撮った慶州の入れ替え中のディーゼル機関車とミカ3蒸機、そして客車です。保存状態が悪い上に次に続く白黒も含め、パソコンの操作技量も低く、見辛くて申し訳ありません。

1971.4.23 慶州

1971.4.23慶州

1971.4.23慶州 1971.4.23慶州

 

1971.4.26 ソウル近郊 客車

ソウル近郊で見た客車。窓の形が何となく京阪の貴賓車16に似ている。

1971.4.26旧ソウル駅舎

 ソウル駅舎と当時の市民。1925年完成で東京駅に似た赤レンガ建物は新ソウル駅完成の2003年まで使われていたとか。

1971.4.25南山

 南山に保存されたソウル市電。

1971.4.26 水原

 鉄道近代化PRボード。日本の鶴見川付近を行く20系ブルートレイン。

1971.4.24 東大邱

 1971年4月には韓国大統領選挙が行われた。画面が小さくて恐縮ですが、一番右が再選を果たした朴正熙氏。その隣りが、先日死去し、23日に国葬が行われた金大中氏。初挑戦で惜敗とのこと。その後の拉致事件、死刑判決、南北首脳会談、ノーベル平和賞受賞は最近の新聞等でご存知のとおり。当時、選挙ポスターは白黒であった。


【4146】豊橋鉄道田口線

湯口先輩の【3776】「1953年高校生東京へ その9(最終回)」で、豊橋駅で撮影された「田口鉄道モハ36」の画像について、【3825】でK.H生さんよりコメントあった。田口鉄道→豊橋鉄道田口線は、昭和41年3月23日、京阪沿線の高校在学中に一度だけ訪れたことがあり、その時の模様等を書いてみたい。

豊橋鉄道田口線の沿革を簡単に記すと、大正14年5月 豊川鉄道専務倉田藤四郎氏、田口町長関谷守男氏、旧内務省官吏平松雅夫氏ら発起人により田口鉄道敷設免許申請書を鉄道大臣に提出。大正15年11月 豊川鉄道長篠(現大海)~田口間の蒸気鉄道施設が認可。分岐駅を長篠から鳳来寺口(現本長篠)に変更し、経路も変更したところ急勾配となったため、動力を蒸気から電気に変更して再申請して受理された。設立時の資本金300万円の内訳は宮内省125万円(25000株)、豊川鉄道75万円、鳳来寺鉄道20万円、鳳来寺12.5万円とこれだけで約80%を占め、地元やその有力者の出資は僅かであった。宮内省の出資比率が高いのは、段戸御料林の森林鉄道と田口鉄道を接続させて御料林の経営を抜本的に発展させる目論見があったためである。尚、宮内省は戦後解体により同省の所有株式は地元が引き受けた。本社は豊川鉄道、鳳来寺鉄道と同一場所の豊橋市花田町に置かれたが、戦争末期の7月27日、戦災のため鳳来寺駅に移転した。

昭和3年5月、工事に着手し、昭和7年12月全線が開通した。昭和18年8月1日、豊川、鳳来寺鉄道は鉄道省に買収され、田口鉄道は対象外となったが、列車の運行は引き続き鉄道省に委託された。昭和26年4月1日より本長篠で飯田線の電車と併結により、豊橋まで直通運転の開始。昭和27年5月運行委託が終了。昭和31年10月豊橋鉄道と合併し同社の田口線となった。車両管理を委託していた国鉄豊川分工場が閉鎖されたため、昭和38年3月24日をもって豊橋直通運転が廃止された。

昭和39年12月田口線のバス化計画が発表、それに伴い、地元住民、製材業者を中心に廃止反対運動が展開された。昭和40年9月17日、清崎~三河田口間水害のため不通になりバス代行となった。昭和43年7月19日、全線の運輸営業廃止が認可、廃止直前の8月29日に台風10号の大雨による田峯~清崎間の路盤流失のため三河海老~清崎間が不通となり、清崎駅にモ36が取り残された。最終日の8月31日は本長篠~三河海老間で、モ15による「さよなら運転」が実施された。

昭和41年3月23日に訪れた時の状況

前日まで、日立電鉄、茨城交通、関東鉄道の各線の乗り歩きをして東京駅23時30分発大阪行に乗車して4時56分豊橋に到着。飯田線下りの一番電車は5時36分発の新城行であったが、本長篠まで行かないのでパスして、次の5時55分発辰野行の最後部クハユニ56011に乗車した。本長篠到着は6時50分で、駅舎寄りの1番線には6時54分発清崎行(モハ37)が停車しており、早朝のためか乗客は僅かであった。清崎~三河田口間は昨年の9月の水害以降不通となりバス代行になっていた。鳳来寺駅を過ぎ、ほぼ中間の三河海老でモハ15+モハ14の上り列車と交換、駅の本長篠寄りに小さな車庫がありモハ38が顔を出していた。程なく清崎に到着したが何もない山の中の駅であった。写真撮影後再びモハ37に乗り鳳来寺で下車。先程三河海老で交換したモハ15+モハ14が本長篠~鳳来寺間の折り返し運用に入り、隣のホームに停車していた。せっかくここまで来たのだからお寺でも見学しようと思っていたが、ここから更にバスで20分位かかると聞いてあっさりパス。電車撮影後モハ15に乗り本長篠に戻った。この後、クモハ51800+クハ47071+クモハ61003+クハ18003の621M平岡行(後2両三河川合で切離し)で中部天竜に行き、ED17、ED18を撮影後豊橋に戻り、急行「いこま」で京都に戻った。また、クモハ51800の車内の標記は改造前のクモハ51042のままであった。

車両

昭和7年開業時の車両は電気機関車1両(デキ53)、電車2両(モハ101、102→モハ36、37)の僅か3両であったが、豊川、鳳来寺鉄道と共通で使用され、同社の車両は豊橋~三河川合間の豊川、鳳来寺鉄道で使用され、豊川鉄道のモハ10形が使用されていた。昭和27年5月自主運行開始にあたり、国鉄から元豊川鉄道のモハ10形(14、15)を譲受け、更に豊橋鉄道合併後の昭和31年10月、福塩線で使用されていたモハ1610(元豊川鉄道モハ31)を購入、その他、昭和30年に団体輸送用に作られた木製単車(サハ201)が1両在籍したが、昭和37年に廃車された。

デキ53

昭和4年4月、田口鉄道開業時に日本車輛、東洋電機で新製された。デキ53の「53」は、鳳来寺鉄道デキ50、豊川鉄道デキ51、52、54と一連の車号が付番されたためである。前述の4両が鉄道省に買収後も田口鉄道所有機として引き続き飯田線で活躍し、昭和27年5月以降は田口鉄道線内のみの使用となった。豊橋鉄道合併後田口線の貨物減少により昭和40年7月渥美線に転属、昭和43年11月1日の改番でデキ451となり、昭和59年、渥美線貨物営業廃止により廃車された。

 

昭和43年4月4日  高師

 

昭和45年3月9日  高師

モ10形(14、15)

前述の通り、昭和27年5月自主運行開始にあたり、国鉄から元豊川鉄道のモハ10形(14、15)を譲り受けたもの。モハ10形は大正15年豊川鉄道、鳳来寺鉄道電化時に豊川鉄道向けとして5両、鳳来寺鉄道向け1両の6両新製された。当初はモハ1形と称していたが昭和13年の改番でモハ10形に改番され、鳳来寺鉄道所属車はモハ10、豊川鉄道所属車はモハ11~15となった。戦後モハ11、12は部品が調達できず昭和24年に廃車、残り4両も昭和26年4月に廃車となったが、モハ10、13が大井川鉄道に譲渡されモハ201、202として再起した。「モハ」→「モ」への改称は昭和39年7月に実施されている。モ14は当初田峰駅跡に保存されていたが、昭和53年田口町の奥三河資料館に移動し、田口線で使用されていた備品等共に大切に保存されている。私はまだ訪れたことはないがリタイヤ後廃線跡の探訪を兼ねて是非訪れてみたい。

 

昭和41年3月23日   三河海老

 

昭和41年3月23日   鳳来寺

モ30形(36、37、38)

モ36とモ37は昭和4年田口鉄道の開業時にモハ101形101、102として日本車輌で新製された車両で、昭和13年豊川鉄道の同形車と同一形式に改番され、モハ36、モハ37となった。豊川鉄道のモハ30形は31~33の3両で34、35としてもよかったのであるが、あえて36以降に付番したのは会社の違いを意識したものと思われる。昭和27年5月自主運行になるまでは飯田線で使用されていた。田口線と飯田線の直通運転は昭和26年4月1日に開始されているので、それに合わせて国鉄形との機器の統一と密連化が実施されたものと思われる。田口鉄道に返還後も引き続き国鉄形と併結で豊橋直通運用に使用されていたが、乗務員室が狭く国鉄の運転士から嫌われたため常に後部に連結されていた、乗入廃止後、連結器は自連に戻された。田口線廃止後は渥美線に転属し、600Vに降圧、車体更新が実施され、窓がアルミサッシとなった。昭和43年11月の改番でモ1711、1712となり、モ1711は平成3年、モ1712は昭和62年に廃車された。

 

昭和41年3月23日   本長篠

 

昭和41年3月23日   清崎

 

モ36→モ1711に改番後  昭和60年3月24日 高師

 

モ37→モ1712に改番後  昭和60年3月24日 三河田原

モ38は豊橋鉄道と合併後の昭和31年10月、豊橋直通車の増強のため、福塩線で使用されていた、モハ1610を購入したものある。元を正せば元豊川鉄道モハ31で、モ36、37とは生まれも育ちも同じで、国鉄に買収後、昭和28年6月の改番でモハ1610となった。湯口先輩がお書きになった【4015】「1954年高校修学旅行その2」に福山駅で撮影された旧豊川鉄道買収車モハ1600形の画像があるのでご覧いただきたい。購入時に豊川分工場で車体更新を実施し、窓のアルミサッシ化、蛍光灯化等が実施された。昭和41年4月に一足早く渥美線に転属し、昭和43年11月の改番でモ1713となった。

 

昭和41年9月1日   高師

 

昭和43年4月4日   高師

 

昭和45年3月9日   高師


【4133】1954年3月高校修学旅行 その3

先回急行「筑紫」で博多まで乗車したように記したが、長崎には翌朝到着している。すなわち門司で「筑紫」を下り、門司港発22時20分(門司22時33分始発)の長崎行各停夜行列車411レ(大村線経由)に乗車したとしか考えられない。我々の高校は普通科、商業科併せて1学年11クラス、当然500人を超えていたから、客車も6両は必要で、全員が同じ行動をしたのか、日をずらしたのかは全く記憶がない。


C51253 門デフが珍しかった

長崎終着は7時10分で、全員下車と思いきや、かなりの乗客が残ったまま、列車はそのまま走り去った、と記憶する。はるか後年島原鉄道で諫早経由、長崎大に通学された山城正一氏に伺うと、三菱造船所への通勤者輸送だった由で、長崎以遠は勿論時刻表に記載のない列車だった。

長崎では島鉄バスでグラバー邸やらの名所を廻るのだが、小生は教師に申し出て観光を辞退し、バスを下り一人長崎交通の電車を撮った。所定の時間・場所に必ず居るから、と誓約したのは当然だが、今から思えばよく教師がOKしたものである。当時大学受験万能の指導に反発し、突っ張って(別段暴力を振るっていたわけではない。ただ全く勉強をせず、映画館に入り浸ってはいた)おり、担任教師からは間違いなく問題児扱いだったから、いくら止めてもこいつはやりたい事をするだろうと諦めたか、しばらくでも問題児の顔を見ずにすむと思ったか。両方かもしれない。

で、先ずは長崎駅構内でC51253を撮る。その後有名になった「門デフ」装着機関車を見たのはこれが初めてで、門デフに尋常ならざる執念を燃やした関 崇博氏がその後鉄道ファンに連載した折にはこの時の写真も使って頂いた。最近ネコ社から刊行された同氏の「門鉄デフ物語」にも56頁に1枚、C51253がある。


長崎電軌61 長崎駅前
同 51

同 54

長崎電軌は別段撮りたくて撮ったわけではなく、他にターゲットがなかったから。時間も余りなく、撮影も、バスにピックアップしてもらったのも、記憶は定かでないが長崎駅近辺ではあった。それから雲仙へ。このとき丁度「君の名は」のロケと重なり、確か雲仙のどこかで岸 恵子様の麗姿も寸見した。行く所ことごとく「君の名は」で埋め尽くされ、イヤというほど「君の名は饅頭」や「真知子漬け」が氾濫し「真知子岩」やら「真知子橋」やらが雨後の筍さながらに満ち溢れていた。マフラーかストールかを「真知子巻き」するのも大流行していた。


同 124

同 131

同 213
同 307


【4122】続・熊電探訪

 室園車庫から北熊本駅へ旧街道筋を炎天干しとなり歩く。やって来た藤崎宮前行きは待望のモハ51号であった。運転台にはGE4個モーター用のでっかい制御器が鎮座していた。かぶりつきで前方注視していたから車内の印象はない。駅前食堂で丼とうどんを食って水道町交差点に向け再び炎天下を歩いた。交差点から電車通りの正面を見ると、熊本城がみえた。お城見物で熊本に来たわけではないが、木陰を求め休息の場とした。その後、大江車庫まで歩き市電撮影となった。車庫では在籍車についていろいろ教えて貰い、駅前で再び市電撮影。陽が傾いたころ、大牟田に向け普通列車に乗ったのは良いとして、うたた寝となり気づいたら久留米を発車したところであった。ステホは博多に変更としたのは良いとして、台風来襲を知り逃げ帰る始末となり1年後、再挑戦となったのだが……。

富山、大阪勤務時代の業務出張では熊本市電の変化を追うことが出来たガ、「熊電」にお目にかかることはなかった。観光で熊本に立ち寄ることがあっても城か公園で、藤崎宮参りはなかった。

1967年向日町に転居してからは冬眠、やっと1986年に目が覚め鉄道趣味界に再び足を踏み入れた。新しい仲間から情報を貰い電車行脚のスタートは四国、そして九州となり198952日夕は門司港駅に着いたのであった。この時、鹿児島に向け乗った夜行列車は“かいもん”で、“玄海”は記憶違いである。3日は鹿児島市内をうろつき夕方には熊本着となり、大江車庫至近のビジネスホテルを予約しておいた。

4日は朝8時、大江車庫を訪問した。こちらも昨夜予約済みであった。現況についてお話を伺い、入庫車両を中心に車両移動もして頂き、在籍全形式撮影が出来た。その時、2人の若者が参入した。「お早うさん、何処から来たの?」「京都からです。30日の“かいもん”で鹿児島、長崎へ、昨日は熊本電鉄に行って来ました。」「なに、熊電へ!どうだった。」「71号が残っていたし、古い車もありました。」「ほんまかいな、そら行くべしや。」2人は立命鉄研現役であった。

予定を変更、午後は久留米移動の筈が昼食後は上熊本へ。出迎えてくれたのは“青蛙”であった。車庫移転先の北熊本へ。32年前は室園車庫から遠望しただけに終わった71号が迎えてくれた。

これだけで満足だが、目に付いた元静電と若者が旧型車と言っていた元小田急の廃車体も撮影した。静電がモハ100形を熊本、福井に売却したと聞いた時「もったいないことをするなぁ」と思ったが、背後に東急が居る会社だけに「さすが」と感心したものだ。片運電動車6両が入線し後にMcTc3本になったと聞いていた。ところが601号なる両運車がやって来たので、キョトンとなった。なんでも事故車復旧の際にワンマン改造に合わせ1両のみ片運にしたとか。

元小田急モハ1100110511084両を1959年に購入しているが、これらは1958年春に経堂車庫を訪問した時、110111044連と共に現役古参車として、朝ラッシュ時のみ新宿・成城学園間の各停専用で使われていた。この小田急中古車導入がモハ51形の追放に繋がり、静岡からの導入車が小田急中古車引退を促進させた。青蛙は何を蹴りだしたのかは知らない。新車を自社発注が出来ない地方私鉄は、最近大手私鉄の中古冷房車の吐け口となっている。その中で遠州鉄道は全て自社発注車で、全車冷房化をいち早く達成した優等生である。福井の熊電501形と同系車モハ300、クハ350形は冷房化されていたが、LRT構想のため2005年廃車となった。もったいない話だと思った。廃車直前の姿を紹介しておく。熊電についてはネコ・パブリッシング、RM25に詳しく紹介されており、今回参考にさせて頂いた。


【4110】35年前の烏来軌道


ぶんしゅう氏の台湾レポートに、烏来の軌道があり、拙老も35年前に乗車したのを思い出した。1977年3月で、生まれて初めて外国なるものに足を踏み入れた最初が台湾だった。マレーシアのクアラルンプールで開催される見本市のアテンドで、これも生まれて初めてパスポートを取得。1USドルはニクソンショックのおかげで、長らく続いた360円から308円だったが、今から思えば隔世の感がある。

何しろフライトチケットも今のような安売りがなく、すべて定価。旅費を50万円貰って目をむいたが、そのうち35万円ぐらいが飛行機往復チケット代(勿論ツーリスト)に消えたと記憶する。あとの15万円で丸々1か月暮らして来いという訳だ。勿論ホテル代込みである。

機内の酒サービスは今のビジネス以上で、コニャックやスコッチのボトルを目の前で開け、いくらでもお代わりしてくれる。機内は保税扱いだから、着陸体制に入ると、パーサーやスチュワーデス(客室アテンダントなる言葉はなかった)が、バケツに中身を捨てていた。

目的地がマレーシアなのに、なぜ台湾経由かというと、日本が中国との国交を中華民国(台湾)から中華人民共和国に切り替えたため、もしかすると台湾には永久に?入国出来なくなるんじゃないか、と当時の上司が本気で心配し、今のうちに例え2日でも寄って来いと勧められたからである。

上司の紹介で、台湾の貿易商(本省人)の世話になった。C57が健在だった台湾鉄路を撮りたかったのに、先方はあちこち、観光地を案内してくれ、そのひとつが烏来だった。この時は横に2人が座れる「単端式」座席車を3両つなぎ、後ろから単気筒の動力車が押し上げる。動力はホンダのバイクの廃品利用だそうだ。


終点では客車(といえるかどうか)を1両づつ小さな転車台で向きを変え、下り勾配だから先頭の2両を切り離し、ブレーキマンが乗って速度を調節しながら、惰力で起点に戻る。その昔、上りは人力で押し上げていたそうな。後ろの動力車は1両だけで下っていた。




同じような転車台が三井金属鉱山(神岡鉄道)にもあった

2両編成で下ってきた列車 その後ろは動力車

これも惰力で下ってくる1両編成 真中の顔は後ろでブレーキを操作する兄ちゃん


【4085】台湾鉄道全線乗車の旅 Part15 烏来トロッコ列車

台風8号直撃で、史上最悪の被害の出た台湾ですが、屏東・南廻線において、橋梁・道床が流されたりで、復旧には、3~6ケ月が必要とのコメントが出ています。暑さが過ぎる11月頃に、再訪台したいと、思っておりますが、行程は考慮しなければならないようです。8月中の土日は、集集線にCK124が、運行していますので、また、即決で出ようかなと、思ったりしています。

内灣線の乗車も終わり、平日朝夕のみ、無料の2本のDCが、走行している林口線を除いては、一応、台湾鉄道全線乗車の旅は、完了しました。今日の昼からは、おまけの烏來温泉で走っている、台車鐡道の乗車です。

5月31日(第11日目
⑥ 新竹13:09-(自強號)→14:20台北   180元
⑦ 台北駅-(MTR)→新店
⑧ 新店駅前 -(バス)→烏來
⑨ 烏來-(連絡バス)→新店駅前
⑩新店駅前 -(MTR)→台北駅



台北~新竹間が開通した1893年に、開業した新竹駅です。当時の運行列車本数は、6本で、利用客は、1日約400人だったそうです。国家二級古蹟に指定されいる、バロック建築の美しい駅舎で、中央に時計台がそびえています。戦災を受けましたが、修復されました。現存する古い駅舎としては、台中駅と並び、是非とも、ご覧いただきたい駅舎です。



連絡バスが、新竹駅到着後、自強號の切符を買うため有人窓口に行きましたが、満席との返事です。仕方ありません。約1時間の乗車時間ですので、立っても我慢できると、購入しました。今回の旅で、初めての、無座(立席)切符と、なりました。
乗車する車両は、最後部にしました。多分、切符は、先頭車から売っているので、空席があるかもとの予測です。

案の定、最後部2座席は、空席でした。無座切符でも、空いていれば座って良いのが、ルールですので、座っていると、また若い女性が、横に座ってきました。それからは、またどこから来た?とかの、質問攻めです。彼女は、台北市内で、働いているが、4連休だったので、田舎に帰っていたと、郷里の話等をしてくれます。いろいろと、聞いていると、直ぐに台北に着きました。

今回の旅で、最後の台鐡乗車でしたが、毎回隣人から、気さくに話しかけられました。本当に楽しい旅を、味あえました。ありがとうございました。

台北駅からは、MTRに乗換えて、終点の新店駅で下車し、バスターミナルで、烏來温泉行きのバスを待ちました。約40分程で、烏來温泉バスターミナル着、ここからは、自動車乗入禁止になっています。

ウーライは台湾の原住民、泰雅(タイヤル)族が住む町で、烏來という地名も、タイヤル語で「温泉」という意味からきています。昔から、温泉で有名な所だったのです。ちなみに、台湾の原住民は、9民族あるそうです。


温泉旅館街は、両側屋台がずらりと並びます。内灣とよく似た屋台もありますが、ここでしかない屋台もあります。日本の祭り屋台の定番メニューとは違って、朝昼夕と、外食の多い台湾人の食生活です。舌がこえているので、豪華です。トウモロコシでも3種類が並びます。焼き鳥も、一羽分です。特に、肉汁したたるソーセージは、各店が味を争っています。竹筒で蒸したもち米は、花蓮屋台より太めです。


豚マン屋さんも、一品勝負で、目当ての客が並んでいます。近くの川で取った、川海老と、小魚は、烏來温泉屋台の特産品でした。ビールと一緒に食べると、最高でした。他にもいろいろと、紹介できないくらい多くのメニューがあります。




屋台街を抜けると、端があり、その正面が、烏來トロッコ鐡道の乗車駅です。階段を上がると、可愛いガソリン車を先頭に3両編成の観光台車が、走っていました。路盤は、バラスも敷かれた、立派なもので、1963年に昔の台車鐡路跡を再整備して、あらためて敷設されています。


駅では、乗車客が並んで待っています。運賃は、観光路線だけあって、ちょっと高い片道50元(145円)です。


待合所の柱には、台車鐡道歴史の説明看板がありました。かつては、新店市までの路線が、最初開通したと、表示されています。下界への主な交通手段だとも記載されていますので、行きは、よいよい、帰りは、登り坂を押して、大変つらかったでしょうね。


先頭車に乗車してみました。糖廠の田野列車(トロッコ)と違って、結構なスピードで走ります。カーブもスピードを落とすことなく、ジェットコースターのようでもあります。終点の瀑布站前では、トンネルに入って、ぐるりと一周して、方向転換して、乗客を降ろします。ここから、観光客は、烏來の目玉、高さ80mの台湾最大級の滝、「烏來瀑布」の見学です。

帰りは、また先頭車に乗車して、写真を撮りまくりました。




2.5kmを、約10分の高速ミニ列車の乗車でした。もう1回乗りたかったのですが、17:00で終列車です。後は、川べりの無料の公共野天風呂に行く事にしました。台湾も温泉ブームですが、若い人はいなく、常連老人の溜まり場です。たくさんの浴槽もあり、サウナもありで、川で泳いでいる人もいて、皆さん結構楽しんでいました。

泰雅族の民族料理、温泉、そして台車鐡路と、盛りたくさんに楽しめる烏來です。皆様も、台湾に行かれたら、是非、訪れてください。

烏來からの帰りは、夕闇が迫っていました。バス車中では、ぐっすりと寝入り、台北市内到着後は、訪台最後の夜を、深夜まで楽しみました。


【4060】銚子電鉄を訪ねて(Ⅰ)

7月30日(木曜日)夏休みを取って「青春18」利用で銚子電鉄の見学に行ったので近況等を報告する。自宅をいつもより約1時間遅く7時30分部活に行く息子と一緒に出発。我孫子と成田で乗換えて、銚子には10時59分に到着した。11時18分発の電車は元伊予鉄道のデハ801で、近々伊予鉄道から転入車が入線すると廃車にされる予定である。車内はおばさんグループが2組乗車しており満席である。ワンマン運転であるが、係員が乗車して切符を販売しており1日乗車券が飛ぶように売れていた。外川まで乗車して写真を撮りながら歩いて銚子まで戻る予定で、片道運賃を寄付するつもりで1日乗車券を購入した。係員は交換駅の笠上黒生で降りて、上り電車に乗ったので、銚子~笠上黒生間は実質ツーマン運行である。それにしても夏休み期間中とはいえ平日の昼間にこれだけ乗客があれば上々である。笠上黒生で桃太郎電鉄ラッピングのデハ1001と交換、犬吠で多くの乗客が降りて外川に到着した。引上げ線にワム80000改造のオープン客車ユ101が、隣の線には元鶴見臨港鉄道買収国電デハ301が停まっていたが、いずれも休車状態であった。デハ301は屋根に櫓を取付けて架線点検車として使用されていた。

ここからは撮影しながら銚子まで歩いて戻るが、現役の頃のように線路内や犬走りを歩くと警察沙汰になりかねないので平行する道路を歩く。曇りの天気予報が外れてガンガン照りで、とにかく蒸し暑い。犬吠駅の近くの踏切で撮影後、構内の元相模鉄道モ二2022の車体を利用したレストランで食事をしようと思ったが営業日は土日祝日のみである。建物の中の普通のレストランで食事をして家族の土産に濡れ煎餅を購入した。次の君ガ浜と海鹿島の間で灯台を入れて撮影できる場所を探したが、線路と道路が結構離れているため見つからなかった。そのうちに暑さでバテ気味になってきたので、笠上黒生まで戻ったところで、灯台を入れての撮影と後半の笠上黒生~銚子間は次回ということにした。ここには廃車になったデハ101が留置されており、特徴ある台車を撮影しようと思ったが、雑草が生い茂っているため近づくことすらままならない。再度デハ801に乗車して車庫のある仲ノ町で下車。ここは車庫見学用の入場券を購入すれば見学が可能である。およそファンとは思えない中年のご夫婦や親子3世代家族が見学しており、見学者用の休憩所、トイレが設置されていた。AGE製のデキ3は綺麗に整備されていたが、ビューゲルが修理中のため付いてなかった。当日運用に就いていなかったデハ1002、701、702が停車していたが、702の停車位置が悪く次回に期待したい。デハ701、702は元近江鉄道のモハ51、52で、伊予鉄道から転入車と代替で廃車される予定である。またモハ702はワンマン改造されていないため大口団体輸送時の増結用になっている。その後、すぐ近くのヤマサ醤油の工場で保存されているオットー機関車を見学後、113系4連の成田線経由千葉行きで帰途に就いた。

歴 史

銚子電鉄の歴史を簡単に述べると、大正2年12月銚子遊覧鉄道として銚子~犬吠間開業。業績不振と鉄材高騰により僅か4年後の大正6年11年に廃業してレールを売却。廃線跡は地元の旅館の送迎バス専用道路として使用。大正11年9月銚子鉄道創立。大正12年7月銚子~犬吠~外川間を開業。大正14年7月電化(DC600V)。昭和23年8月銚子電気鉄道に社名変更。以降の昭和時代の細かい動きは省略する。

昭和35年11月、京成電鉄系の千葉交通の資本下に入る。昭和38年9月重役会で営業廃止を決定したが、ほぼ同時に廃止反対規成同盟が結成され廃止決定は撤回される。昭和41年12月集電装置をトロリーポールからビューゲルに変更。昭和51年2月観音駅に直営売店を開設し食品製造販売業を開始。たい焼きの販売を行い、マスコミでも大きく取り上げられる。昭和56年12月6日、礼宮様が銚子~外川間をご乗車になる。(下りモハ701、上りモハ702)

平成2年1月、経営権が京成電鉄系の千葉交通から東金市の総合建設業内野屋工務店に移り、同社社長内山健冶郎氏が社長に就任する。銚子電鉄を観光鉄道として再生すべく駅舎をメルヘンチックなものに建替えを推進。銚子駅のJRとの乗換口、観音、君ヶ浜、犬吠が完成、併せて車両の塗装変更を実施。平成10年6月内野屋工務店が自己破産を申請して事実上破産する。その後も内山氏が社長に留まったが、平成15年会社の金を横領したとして解任。平成18年8月、会社の金を約1億1千万円横領容疑で警察に逮捕された。このことにより、県と銚子市が補助金の支給を停止、加えて金融機関が融資を凍結したため、資金不足に陥り電車の法定検査が実施できず、同社のHP上で「濡れ煎餅を買って下さい。電車の修理代を稼がなくちゃいけないんです」の文章で、濡れ煎餅の購入による支援を呼びかけた。マスコミによる報道も手伝って、支援をしようという人々から濡れ煎餅の注文が殺到して一時は製造が追いつかずパニック状態になったが、車両の法定検査費用の目処がついた。しかしながら設備の老朽化は如何ともし難く、平成18年10月に実施された国土交通省の保安監査において、踏切の不具合、枕木約1500本の腐食が指摘され、11月に同省より安全確保に関する改善命令が出された。翌年1月この問題解決を支援するため地元有志を中心に「銚子電鉄サポーターズ」が結成され、枕木交換、踏切設備の改善に限定したサポート基金の募集を行った。こちらも相当な成果があり、枕木交換、踏切設備の改善が実施され、同年4月、国交省に対し改善措置完了報告を提出した。

世の中何が幸いするか判らない。経営危機によるHPでの支援の呼びかけ、濡れ煎餅、サポーターズクラブ等で全国的にすっかり有名になり、観光客の乗車の増加、バスツアーのコースに銚子電鉄の乗車が組み込まれる等、今や銚子市の経済効果増大にも大きく寄与しており、個人的には上下分離方式等の検討がされてもよいのではないかと思っている。

運転・運賃

上下各36本が約30分間隔(等間隔ではない)で運転されており、ほぼ中間の笠上黒生で交換する。(必ず下り優先で到着する)営業キロは6.4㎞、全線の所要時間は約20分である。中間駅が8カ所あり、駅間距離が1キロを超えるのは君ヶ浜~海鹿島間の1.1キロ間のみである。全線、全駅が銚子市に属しており銚子市の市内電車の役割を果たしている。運賃は最低運賃1㎞まで150円、全線310円と地方私鉄の標準的な運賃であるが、途中駅が多く、距離の割に時間がかかるため高いという感じはしない。全線乗降自由、濡れ煎餅1枚、沿線の観光施設割引券付のフリー切符は620円、銚子~犬吠・外川間の往復割引乗車券は540円である。

車 両

電車6両(内1両は事業用として使用)客車1両、電気機関車1両が在籍する。

デハ301

昭和5年新潟鉄工所で鶴見臨港鉄道モハ100形モハ105として新製。昭和15年の改番でモハ110形115となった。昭和18年7月1日戦時買収で鉄道省の所有となったが車号の変更はなかった。引き続き鶴見線で使用されていたが昭和23年5月1日DC600Vから1500Vに昇圧により失職し、昭和24年3月28日付で廃車。昭和26年日本鉄道自動車で銚子電鉄向けに直接制御に改造の上入線した。主力として活躍していたが、元営団地下鉄2000形改造のデハ1000形が入線すると予備車となり、屋根上に作業台を設置して架線点検修理車として使用された。現在は休車状態で外川駅に留置されておりこのまま廃車されると思われるが、昭和一桁作られた電車の生き残りとして貴重な存在である。

 

昭和40年3月26日   仲ノ町

 

昭和58年6月14日   仲ノ町

 

平成21年7月30日   外川

デハ701・702

昭和3年川崎造船所で近江鉄道デユワ101、102として新製。デユワは国鉄流に言えばモユニであるが、形態的には貨車に近く、郵便室付電動貨車と言うほうが適切で、車体は木製であった。近江鉄道発行の記念乗車券の中にデユワが多賀大社から伊勢神宮に向かう団体客を乗せた12両編成の木製客車の両端に付き犬上川の鉄橋を渡る写真があった。

昭和16年5月日本鉄道自動車で鋼体化と旅客車化が行われ、デハ51、52となった。昭和36年3月片運化と正面の2枚窓化が行われた。銚子電鉄には昭和53年1月西武所沢工場で再度両運転台付に改造の上入線した。701は平成6年11月にワンマン改造されたが、702は未改造で団体輸送時の増結用となっている。702の塗装は平成19年11月の全検時に昭和30年代前半頃のスカイブルーと薄いグレーとなった。701と702を連結した場合は総括制御が可能であるが、他形式車と連結した場合は各車両に運転士が乗務して協調運転を行う。今年度伊予鉄道から転入車が入ると廃車になる予定である。

 

昭和58年6月14日   外川

 

平成21年7月30日   仲ノ町

デハ801

昭和25年帝国車両で伊予鉄道クハ406として新製、昭和37年電動車化してモハ106となり昭和60年3月廃車となった。昭和61年2月に入線し同年12月ワンマン化された。この車も今年度伊予鉄道から転入車が入ると廃車になる予定である。

 

平成21年7月30日   犬吠

デハ1001、1002

元営団地下鉄の銀座線、丸の内線の方南町支線で使用されていた2000形で、1435㎜ゲージ、第3軌条集電のため、平成6年京王重機で改造の上入線した。元々片運車のため1001の車体は昭和35年帝国車両製の2046と2033の前面、1002の車体は昭和34年日立製作所製の2040と2039の前面を取り付けて両運化、電装品は営団3000形、台車は富士急行5700形(←元小田急2200形)から流用した。塗装は、1001は「桃太郎電鉄」のラッピング、1002は「鉄子」塗装となっている。

 

平成21年7月30日   犬吠  

 

平成21年7月30日   仲ノ町

ユ101

NHKの朝の連ドラ「澪つくし」で銚子の町が舞台となり注目を浴びたことから、昭和60年に導入された。種車は昭和44年日本車輛と輸送機工業で新製されたワム80000形183983で、昭和60年に大宮工場で改造された。形式の「ユ」は遊覧車を表し、この種の車両としては、四国の予土線の「清流しまんと号」に次いで2番目、民鉄では初めてであった。残念ながら現在は外川駅で休車状態になっているが、是非復活させて有効に活用していただきたい。

 

平成21年7月30日   外川

デキ3

大正12年ドイツのアルゲマイネ社製の小型電機で、重量10t、全長4.47mで、昭和16年に宇部の沖之山炭鉱から入線した。銚子駅から仲ノ町駅に隣接するヤマサ醤油に入る貨車の牽引がメインであったが、電車が不足時にハフを引いて営業運転に使用されたこともあった。貨物列車は昭和59年の国鉄車扱貨物廃止時に廃止されたが、廃車されることなく継続してメンテナンスが行われており、同社のマスコット的存在になっている。

昭和40年3月26日   仲ノ町

 

昭和58年6月14日   仲ノ町

 

平成21年7月30日   仲ノ町

 

仲ノ町車庫見学記念入場券

 

犬吠駅の電車レストラン(営業は土・日・祝日のみのようである)


【4039】銚子電鉄を訪ねて(Ⅱ)

引き続き過去の車両とヤマサ醤油の入換機を紹介する。

デハ101

昭和14年日本鉄道自動車で作られた木製ボギー車で、東武鬼怒川線の前身、下野電気鉄道のデハ103が履いていた軌間762㎜の雨宮製作所製の台車を1067㎜に改軌したものを履いている。昭和27年に日本鉄道自動車で鋼体化改造が行われ、半鋼製の新製車体に乗せ換えた。小形のため晩年は多客時の3両編成の中間でトレーラーとして使用されていた。平成11年に廃車となった。解体はされずに笠上黒生駅の側線に留置され倉庫として使用されているが荒廃が激しく、夏場は雑草が生い茂り、特徴ある雨宮製作所製の台車の観察すらままならない。

 

昭和40年3月26日   仲ノ町

 

昭和58年6月14日   仲ノ町

デハ201

昭和24年に入線した車両で、前身は京成電鉄モ二7(大正14年雨宮製作所製)ということになっている。モ二7の経歴がやや複雑で、大正14年雨宮製作所製のモハ43がモハ300形として鋼体化された時に、不要となった木製車体を無蓋電動貨車モ二7に載せて有蓋電動貨車に改造の上行商電車に使用されていた。昭和22年高砂車庫の火災でモハ46と共に焼失して廃車。モ二7の台枠にモハ46の台車を1067㎜に改軌し、これに木製の新製車体を載せてできたのがデハ201である。長らく主力として活躍し、晩年は車体の老朽化によりベニヤ板を、後には鋼板を貼りつけていたが昭和54年に廃車された。

 

昭和40年3月26日   仲ノ町

デハ501

昭和47年に西武鉄道所沢工場で整備の上入線した車両で、前身は上田丸子電鉄丸子線で使用されていたモハ2321が前身であるが、更に前身があり元を正せば近江鉄道のクハ23である。これがまた複雑で大正14年彦根~多賀間電化時に新製された電1形1~5の後身クハ21形(初代)21~25の鋼体化名目で昭和18年日本鉄道自動車に発注した。戦時中のため完成したのは戦後の昭和22年となり、しかも電装品がなく実質付随車であった。全長12mの小型車のため2年後の昭和24年に早くも23と25が上田丸子電鉄に売却され、運転台取付と電装が行われてモハ23、25となった。昭和25年の改番でモハ2321、2322となり、丸子線で元飯山鉄道のガソリンカーをトレーラー化したサハ41を挟みMTMの3連で使用され、2321のパンタ側、2322の非パンタ側が貫通化された。昭和44年4月19日丸子線廃止後は別所線に移り、サハ41は同線で使用されたが、2321と2322は使用されることなく、2321は銚子電鉄に売却、2322は廃車となった。銚子電鉄では初のパンタグラフ、蛍光灯、4個モーター(75Kw×4)車で、多客時にデハ301の間にサハ代用のデハ101を挟んだ3両編成でも活躍したが、4個モーターのため消費電力が大きいことと車体が小さいことが致命傷となり、平成11年に廃車となった。車体は犬吠駅の電車レストランに転用されたが痛みが激しくなっている。

 

昭和58年6月14日   仲ノ町

 

上田丸子電鉄丸子線時代 モハ2311  昭和45年3月25日 上田東駅

ハフ1、2

大正12年、銚子鉄道開業時に新製されたハ二1、2が老朽化したため、車体を新製して乗せ換えたものである。多客時の増結用として使用された他、電車不足時にデキ3に引かれて営業運転に就いたこともあった。デハ701、702の入線後余剰となり、昭和53年に廃車となった。窓構造は、ハフ2が2段上昇式、ハフ1が下降窓となっていたが、ハフ2は後日の改造と思われる。

 

昭和40年3月25日   仲ノ町

ヤマサ醤油の入換機/1号機

仲ノ町駅を出て左手銚子駅方面に向かい、一つ目の踏切を渡ると「ヤマサ醤油」の工場がある。ここには以前使用されていたドイツ製の機関車が大切に保存されているので、銚子電鉄を見学された時は是非こちらも見学していただきたい。

「ヤマサ醤油」は一般人の見学を受付けており「機関車を見学させて欲しい」と伝えると「どうぞ」と言われて中に入る。門を入って直ぐ左手、売店との間のショーケースの中に展示されており、外から見ていたところ「中に入っていいですよ」と言われ、時間の経つのを忘れて見学した。1920年(大正9年)オットー・ドイッツ社(De:Deutz  AG)製で通称「オットー機関車」と呼ばれていた。昭和31年12月に入線し、39年まで銚子駅~工場間の専用線で使用されていた。それ以前は千葉市の「参松工業」という水飴等の製造会社で使用されており、更に前歴が有りそうである。画像でもお判りいただけると思うが、車輪幅より車体幅が狭く、元は762㎜で使用されていたとも思われる。静岡県の堀之内軌道(762㎜で堀之内駅~池新田間を営業、堀之内は現在の菊川)の機関車が同形である。

 

2号機

銚子電鉄を初めて訪れたのは、昭和40年3月京阪沿線の高校の時で、仲ノ町車庫を見学して外川を往復しただけであったが、2号機を撮影している。こちらも「オットー機関車」に負けず劣らず小さい機関車で「日本牽引車」で作られ建設省に納入内の1両という以外は不明である。ちなみに銚子電鉄のデキ3の「3」はヤマサ醤油の機関車の追番を意味している。

今後の予定

デハ701、702、801の3両は、国交省関東運輸局より是正勧告対象車両に指定されたため、早急に代替車両を導入する必要性に迫られた。当初は京王電鉄井の頭線の3000系が検討されていたようであるが諸般の事情で流れてしまい、京王電鉄井の頭線3000系導入により余剰となる伊予鉄道のモハ820形+クハ850形を2編成導入することになった。費用が占めて約1億円かかるとかで、費用捻出のため車両支援オーナー制度を設けた。内容は1人1口10万円(最大10口100万円)を支払うと1口に付き1年間有効の全線優待乗車券を発行するというものである。(銚子~外川間の6か月通勤定期は60270円)

伊予鉄道モハ820形の前身は京王帝都電鉄デハ2060形、クハ850形はサハ2500形・2550形で、生まれ故郷の近くに戻ってくることになり、京王ファンの方にとっては楽しみが1つ増えたのではないだろうか。銚子電鉄での形式はデハ2000形+クハ2500形が予定されている。

「濡れ煎餅」と「たい焼き」

銚子電鉄の濡れ煎餅は経営危機のおかげですっかり有名になり、犬吠駅の売店では電車の乗客の他、観光バスやマイカーで来た観光客も購入するため売切れになることがある。仲ノ町、観音、笠上黒生、外川の各駅でも販売されているので、こちらでの購入をお勧めする。確かにおいしく家族にも好評で「濡れ煎餅」の購入を口実に出かけることができそうである。尚、「濡れ煎餅」には特注品の「ヤマサ醤油」が使用されているそうである。観音駅の「たい焼」は「濡れ煎餅」の影に隠れてしまったが、こちらも中々のもので、1枚90円は関東地区では最安値だそうである。有人駅から乗車する場合、駅員氏に伝えておけば観音駅で受け取ることができる。「ヤマサ醤油」の売店に「醤油ソフトクリーム」が販売されていたので「物は試し」と食べてみたが「醤油味のソフトクリーム」という感じの微妙な味であった。

 

ステンレス製のキハ35905と並んだデハ301

 

準急「犬吠号」新宿行