1か月半ご無沙汰をしてしまい、常連諸氏もその間うつ状態?と見え、ぶんしゅう氏がほぼ一人で頑張って支えて下さった。乙訓ご老人も、総本家青信号特派員氏も何やらおとなしく、要は一定期間(かなりの個人差はあるが)以上休むと、従前いわば義務感(単なる惰性?)に近かった投稿意欲が急速に萎えてしまい、ついつい楽な読む側に廻ってしまうもののようである。
ところでこちらは相も変らぬ半世紀以上古い写真と、記憶の残滓を、あたかも老残の醜さのようにしつこく披露するのみ。古いことしか語れない老人の歎きは、何分にもご寛容の程を。
「いずも」ヘッドマークのC57128 重油タンクがドームの後ろにあって石炭と併燃
1955年3月小生は18歳で、高校を「辛うじて」卒業した。正確には「卒業できた」。単位と出席日数はまさしくギリギリで、これを6年後大学卒業の際にも性懲りなく繰り返す。高校最後の試験寸前に痔の手術で入院し、いくつかの科目が受験できなかったが、重大な発見をした。試験を受けると、その成績は通知書に5段階評価で2か1であっても、入院という「大義名分」があると、教師はその生徒の「真実?」が分からないから、中庸は徳の至れるものなりとしてか、単に無難あるいは面倒だからか、3を呉れるのである。半世紀前の老人は、この手術のおかげで、皆目歯すら立たなかった自然科学系―解析Ⅰ、生物、化学に3を頂戴し、卒業できた。受けていたらほぼ間違いなく単位不足で留年=卒業延期していたはずである。
その前から浪人は覚悟していたから、万全の対策?として、膨大な「発行日付の入っていない」国鉄学割証を貯めこみ、かつ学生証紛失を申し立てて再交付を受け、その日付も「修正」して備えていた。
で、前途=進路全く暗黒の中、ともかくはアルバイトで稼いだ僅かな金で、九州から東北まで、軽便と非電化私鉄探訪の旅に出たのであった。親は止めもしなかったが、小遣いも呉れなかった。
最初訪れたのは別府鉄道で、加古川線を北上し福知山へ。以下非電化私鉄のボロ車両は諸兄辟易気味と見て(それぐらいの自覚はある)、未発表の国鉄車両や私鉄電車だけをご笑覧に供する次第である。今回の撮影はいずれも1955年3月15日、福知山。こんな誰でも撮る国鉄車両なんぞにかまけておらず、まっしぐらに北丹鉄道福知山西に行くべきだったと、今更後悔しても始まらないが。
やはり「いずも」だがC57152 重油タンクがある
休車中のC5415 制式機ではE10を除き最も短命に終わった不運な機関車
同じくC5411
C5118 矍鑠として活躍中
ナユニ16420 鋼帯での補強が痛々しい
オハニ25764 大型木製車だがトラス棒がないのに注意 これは魚腹台枠だから