志布志機関区(2) C11
「志」のC11、走行中の写真を中心に見ていただきます。昭和40年代の末期になると、蒸機の撮影スタイルも変わって来ました。初期のように機関区撮影に専念して一両でも多く撮ることから、自分好みの撮影地を見つけて走行中の撮影へと移行していきました。今回の日南線も、3日掛けて、各所で撮影。当時、宮崎から日南線沿線は、第一級の観光地として有名で、夏休みとあって、旅客列車も賑わっていて、沿線にユースホステルも多く所在し、並行する国道にも路線バスが多く走り、駅間移動も便利でした。以下、北から順に撮影地を巡って行きます(すべて昭和49年8月)。
▲いかにも日南線らしい、岩礁の見える海岸線を行く。油津~大堂津 391レ
南方~木花
▲木花から歩いてすぐに清武川の鉄橋があり、南国の青空をバックにして撮れた。C11は正向が多かったが、区間貨物などは逆機となった。8392レ▲393レを同鉄橋から撮る。タキを連ねた日南線のスタンダードな編成だった。
青島
▲青島で交換のため停車する393レ C1141 ホーム上から写していた時は何事も無かった。その後、線路へ飛び降りて機を写していると、それを見ていた駅長が血相を変えて飛んできて、大声でドナられた。九州では撮影者がはねられて死亡事故が起こったりして、撮影がたいへん厳しくなっていた。機関区では、ちゃんと許可をもらって写していたが、駅ではつい気が緩んでしまった。鉄道の現場との関係が、険悪になって来るのを感じたのもこの頃だった。▲そのドナられる直前のC1141 米子時代に付けたのか、デフに鶴(?)の模様が入っている。
小内海~伊比井
▲なぜこんな場所で撮ったのか理由が分からないが、たぶん、交換する貨物の時間帯から、何気に降りたのだろう。393レ
油津
▲油津は沿線でも乗降数の多い駅で、貨物の扱いもあって、乗客と絡めて、C11の入換風景をスナップしてみた。▲油津駅は島式ホーム、夏休みで、さまざまな乗客が列車の到着を待つ。いまは、広島カープのキャンプ地の最寄り駅で、駅舎は真っ赤なカープ色になっているそうだ。
油津~大堂津
▲この付近から、ようやく海岸沿いを走ることになり、日南線らしい車窓となる。国道が平行して走っていて、うまく見下ろすことができた。392レ▲海岸線を行く392レ、上に前掲の国道が見える。この時のメモを見ると、下車したのは油津で、大堂津から乗車している。と言うことは、この駅間、4km以上を徒歩で移動したことになる。時は8月4日のカンカン照り、リュック、カメラバッグ、三脚一式を抱えて、おそらく水の一滴も飲まずに移動したのだろう。考えただけでもクラクラしそうな、若さなればの行動だった。▲隅谷川の河口を日南線は鉄橋で渡って行く。沖合の岩礁も入って、いちばんの定番撮影地。392レ
▲反対方向の391レも撮って、大堂津へ引き揚げた。朝は真逆光になるが、当時は、ツブレ承知の超コントラスト大好き人間だったから、このシチュエーションは気にならなかった。
大堂津~南郷
▲大堂津から南郷方面に歩いても、同じように川の河口があって、日南線が鉄橋で渡っている。こちらのほうが、河口が広く、スケールの大きな写真が撮れる。鏡のような河口に、列車の影が浮かぶ。392レ▲この区間では、朝、夕方ともに上下の貨物が接近して走り、効率がいい。393レ▲夕焼け空バックは、運次第だが、何とか撮れた。394レ
榎原~日向大束
▲飫肥杉と言われる、この地方独特の美しい杉の美林をバックに行く。391レ
志布志
▲終点の志布志駅ではC11が撮れなかったので、DCの到着で代用。かつては、志布志からは、大隅半島を縦断する大隅線、志布志線が分岐して、駅、機関区とも賑わっていた。いまは日南線のみが残る、終点になってしまい、駅構内もずいぶん縮小されたようだ。
一人コメント、失礼します。この日南線は、昭和40年代に8回行った九州で、いちばん最後の昭和49年に行っています。記憶の順からすれば、いちばんよく覚えているはずなのですが、これが全く覚えていません。やはり感動の度合いが徐々に薄れていって、記憶にも残っていないのかと思いました。ただ、暑かったことだけはよく覚えています。肌感覚だけは、いつまでも残っているのですね。