やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉔

「大」と言っても、なかなか実名が出てこないでしょう。大分機関区、正確には大分運転所の蒸機でした。「大」を名乗る区名は、ほかにも大館、大宮、大垣が思い浮かびます。「キト」「オサ」など二文字であらわす駅の電略は、重複しないよう、命名に苦心の跡が見られますが、区名板は、遠隔地であれば、重複していても支障はないとしていたのでしょう。さて、同じ日豊本線の蒸機でも、宮崎と比べると、大分は印象の薄いものでした。しかし、昭和42年に大分区を訪問した時は、C57が21両もいて、ほかにもC58が5両、D60が12両、8620が3両と計41両在籍していて、その数は、鳥栖や直方などに匹敵するほど、九州有数の機関区でした。実際、その時には、九州へ入った途端、門司で大分区のC57を写せるほど、広範囲な活躍をしていました。日豊本線の電化が南下して、とくにC57の活路が急に狭められ、“SLブーム”の頃には、すっかり目立たない区になっていました(以下、特記以外昭和42年3月)。

大分運転所(1) C57

日豊本線は、昭和42年10月に幸崎までの電化が完成しているが、それまでの大分区のC57は、門司港~柳ヶ浦~大分~南宮崎~宮崎と、広い範囲で活躍していた。昭和42年の配置は21両で、4号の若番から199号のラスト近くまで、多様な番号が揃っていた。幸崎電化後は、多くが宮崎へ転属して、同区のC55を置き替えた。この年の幸崎電化を控えて、架線が張られた大分駅を発車した、大分発鹿児島行き2523レを牽くC57 196 右手には貨物駅があり8620が入換中、左手に機関区があった。大分駅周辺は、その後の再開発で、駅は4面8線の高架駅となり、車両区は移転してしまい、この頃の面影は全く残っていない。

C57 4 宮崎区の時でも紹介した、九州では珍しい長野工場製の切取り式デフ、シールドビームを付けていた。写真は、柳ヶ浦区にいた同機で、隅に置かれて、「一休」の札が掛かっていたような記憶があるが、その後に復帰した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

区のターンテーブル上のC57 17 昭和40年に金沢から転属、昭和46年に宮崎へ転属している(以下、フィルム劣化で見苦しいものは、小さく表示しています)。尻を向けて扇形庫に収った蒸機たち、左端はC57 53 昭和38年早岐から大分へ来た。のちに若松区へ転属している。なお、大分運転所は、合理化のため、蒸機の機関区はじめ、客貨車区を統合して一元化した新組織の名称で、九州では、当時、大分だけだった。 C57 60 K-7の切取り式デフを付け、九州ではスタンダードなC57と言える。この昭和42年に鹿児島へ転属して、鹿児島でもよく撮影した蒸機だった。

切取り式デフながら、K-5形と言う、少し形の違うデフを付けているC57 65 この蒸機は、門司港区の時代、煙突に金モールを巻き「かもめ」を颯爽と牽いた。小倉の奈良崎博保さんの写真で有名だ。仕事で、ご本人から原版を預かった時は、“これが、あの写真”と感激した。

 

 

 

 

 

 

 

C57 169 昭和36年に大分へ、この昭和42年には人吉区へ転属、そののち、昭和49年には、日豊本線のさよなら蒸機列車を牽いている。

南宮崎発門司港行き1534レを牽き、架線が張られた大分駅に進入するC57 176門司で見掛けた大分区のC57 178 門司港発柳ヶ浦行き1523レを牽く。当時は、新田原までの電化が完成していたが、肝心の電機が不足して、蒸機の牽く列車が、門司、小倉でもまだ見られた。四次型のC57 192 この昭和42年に宮崎へ転属して、昭和48年の植樹祭お召運転の予備機となった。後ろ姿は舟底テンダーの四次型の特徴を見せる。柳ヶ浦にて

 

柳ヶ浦に到着する門司港発南延岡行き1525レを牽くC57 195 当時はこんな長距離鈍行が走っていたとは驚き、いまはどんどん分断されて、大分以南、とくに大分・宮崎の県境を越える普通列車は、上下で一日3本だけになってしまった。 C57 196 昭和36年に大分へ、この年、昭和42年に宮崎へ転属と、他機と同じような移動をする。四次型では唯一の切取り式デフ。

 

こちらは、高架になった別府駅に停車する、幸崎発別府行き2522レを牽くC57 199、九州にいたC57の最終番号に当たる。

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