ユースで巡った鉄道旅 -14-

気がつくと、すっかり涼しくなりました。当方、暑い期間は想定外の業務が飛び込み、掲示板では全く役立たずの状態が続いていました。ようやく落ち着きましたので、復帰することにします。
まずは、ユースシリーズから参りましょう。
前回からの東北の続きとして、今回は、向山駅近くのグリーンユースを紹介します。向山と言っても、ピンと来ない駅ですが、東北本線は、三沢のひとつ下り方にある小駅で、今では青い森鉄道の駅になっています。このユースは、当会のI原さんから”ぜひ泊まれ”と勧められたことが発端だったように思います。その勧めた真意はついぞ聞き漏らしましたが、駅からすぐ近くの牧場の横に建つユースは、冬期とあって宿泊客も少なく、居心地のいいユースだった印象が残っています。寝ている最中に強い地震があり、飛び起きたことも覚えています。付近に観光地もなく、その後は廃止されたと思っていたら、名前を改めて今でも営業中と分かりました。
このユースに泊まった目的は、八戸線の撮影と、南部縦貫鉄道の撮影でしたが…。

青森駅でステーションホテルをして、早朝の八戸に着いた。東北本線から八戸線を分岐するこの駅は、訪問の前年、昭和46年4月に尻内から八戸に改称されたばかりで、それまでは、現在の本八戸が八戸と称していた。尻内と言えば、東北本線蒸機時代、勾配区間の補助機関車の基地として名を馳せていた。〔尻〕の区名板が、その役割にうまくはまっていた。八戸改め本八戸まで行き、跨線橋を渡ると、ちょうどC58の牽く八戸線の貨物列車が発車したところだった。踏切が開くと、寒そうに白い息を吐いた人々が通り過ぎて行った。

八戸線では、C58の牽く客車列車が朝に1往復設定されていた。一戸発1627列車と野辺地発534列車が八戸で併結されて鮫まで行く列車で、鮫ですぐ折り返し、C58のバック運転で、八戸へ戻る運用だった。東北本線から乗り換えなしで本八戸、鮫への通勤・通学輸送を目的とした設定のようだが、東北本線が第三セクター化された後も、なぜか一戸発鮫行き列車がそのまま残っていた。IGR、青い森、JRと、3社にまたがる珍しい列車だった。本八戸で降りて、近くの馬淵川鉄橋で、この客レを迎える。晴れてはいるが、とにかく風邪がきつかったことだけは覚えている。

本八戸で撮影したのち、終点の久慈まで向かうと、途中から雪模様になった。乗った631Dは、キハ17270+キハ17253+キハ17250の3連、あの蛙の腹のようなビニールシートは冬にはこたえた。この頃のローカル線気動車は、多形式の混結が常であったが、八戸線は、一部にキハ22が使われていたものの、あとは見事なくらいにキハ17に統一されていた。これはこれで編成美があった。

種市での到着風景、乗り込む老婦人の見事なまでの同一ファッションには驚く。他の地域ではまず見られない、東北ならではの光景だ。この時代、旅行していると、生活、文化、経済すべてに渡って、東北は後進地域だと実感できるシーンがよく見られた。他ではもう見られなかった、板垣退助の百円札が堂々と通用していたのも東北だった(もっとも、東京でも上野駅だけは百円札が使われていたのには、さすがと思ったものだ)。

いっぽう貨物列車は、八戸区のC58でかなりの本数が設定されていた。陸奥湊で降りて、近くの新井田川鉄橋で待ち構える。河口に近い、この付近にも東日本大震災の際には、津波が押し寄せたが、橋梁流失までには至らなかった。ただ、種市以南は鉄橋流失などにより現在も不通で、再開は来年度以降とアナウンスされている。