東海道線電車急行
今年は東海道新幹線開業から50年、と言っても、開業当時は、めったなことでは乗れなかった。料金だけでなく、世紀の新幹線に乗るような“ハレ”の場もなかった。しかも、東海道線には、特急こそ走らなくなったものの、電車急行が、新幹線開業後も残っていた。現在のように、新幹線が開業すると、在来線の全優等列車を廃止するようなことはしなかった。当時の旅行の主流である、均一周遊券なら、自由席にそのまま乗れる。じっさい、私が初めて東海道新幹線に乗ったのは、昭和45年のことで、開業後6年が経っていた。それまでは、全くの在来線ユーザーだった。
▲ 急行「六甲」 浜松 昭和40年8月 東京~大阪の昼行急行電車は、新幹線開業後も「なにわ」「六甲」「いこま」「よど」が残り、とくに「なにわ」2往復は、昭和43年10月改正まで残った。上り「なにわ1号」を例にとると、大阪8時30分、京都9時10分、東京16時30分着と、最適な時間帯を走っていた。ただ、考えるのは誰でも同じで、結構混んでいた。とくに京都からの乗車では座席の保障がない。そこで奥の手を使うことになる。
確かに東京~大阪の昼行急行は限定されていたが、まだ東京~中京圏を結ぶ「東海」が昼行で4往復も残っていた。そのうち2本は大垣発だから、京都~大垣は普通列車で移動し、始発の「東海」にゆっくり座っていくと言う算段だった。直行の急行より多少時間は掛かるものの、この時代は準急だから料金も安く抑えられる。
前置きが長くなったが、その「東海2号」に乗って、浜松に着いたとき、ちょうど大阪へ向かう「六甲」と交換した。「六甲」は、撮影後すぐの昭和40年10月改正で廃止されている。どう言うこともない写真だが、積み上げられた手小荷物、台車、跨線橋、地上駅と、当時の幹線の主要駅の雰囲気が感じられる情景だと思っている。