2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part9 竹の香り

投稿前に準特急先輩の『電車は4両がええ』を読ませていただいておりましたが、私の小学生時代は、校庭から、阪急と国鉄の両方が見え、阪急京都線は、まだ2両編成が走っていました。一方の東海道線は、SL全盛期で、汽笛と共に、白い煙をはいて走っている列車を、いつも見ていたのを思い出しました。
当時は、我が町も人口1万人強の田舎町で、田畑が殆どでしたので、何処からでも、こんな光景を見る事ができました。

第5日目 2010年1月2日

① 犍為天波大酒店8:40-(チャーター車)→9:10石渓站9:27-(第2次)→10:22菜子埧站
② 菜子埧站-(徒歩)→蜜蜂岩駅
③ 蜜蜂岩站18:03-(観光列車)→18:35石渓站  

道を歩き、未舗装の凸凹道に出ると、殺風景な集落が続いていました。胡小姐は、その中に建つ2階建ての民家に入っていきました。いったい、どうするのでしょうか?
見れば、雑貨店です。胡小姐は、何やら交渉をしています。そして、『丁度、お昼ご飯の準備をしているそうです。家族の人と一緒に食べてもいいですか?』と、聞いてきます。原住民の方の食事をいただけるとは、感激です。勿論、OKを出しました。
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2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part8 『トホホ』の反省

今出川浄福寺さんより、コメントをいただきましたので、ご返信をしたいのですが、JPGファイルを添付できません。申し訳ありませんが、恥かしながら、ここに掲載させていただきます。

上記が、問題のSD-HCです。ケースは、廃棄しましたのでありませんが、現物です。

そして、保存されたファイルは、337カットありましたが、開けるファイルは、84カットのみで、残り253カットは、修復ソフトで、復旧を試みましたが、不可能でした。

デジカメをご使用の皆様、繰り返し使用できるメモリーです。何回も安心して使えるのが、もっとも重要な事です。私のように、『安物買いの銭失い』になって、折角、苦労して撮った写真が、消滅する事がないように、日本で、信頼できる店で高くとも、間違いないメーカー品を購入される事を、お薦めします。私も帰国後、直ぐに本物を買い求めました。 Part9 へ続く

2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part7 『トホホ』のスタート

第5日目 2010年1月2日

① 犍為天波大酒店 8:40(チャーター車)→9:10 石渓站 9:27-第2次)→10:22 菜子埧站
② 菜子埧站-(徒歩)→蜜蜂岩駅
③ 蜜蜂岩站-(観光列車)→石渓站

6:30、今日は、1日中、芭石鉄道を撮影します。張り切って起床し、部屋の窓の外を見ますと、昨日と同様に、霧です。四川盆地特有の気象ですが、とりわけ大渡河沿いのこの辺りは、霧発生が日常的だそうです。何とか、撮影時には、晴れて欲しいと祈りながら、石渓站に向かいました。

途中で、昨日、石炭ガラが目に入って、眼の痛みがひかないのを、心配した胡小姐は、病院に寄ってくれました。同じ症状の患者が多いそうで、目を洗浄してもらいますかと、聞いてくれましたが、芭石鉄道撮影を優先したいので、丁重に断りましたが、しかし、その後も、ゴミは取れず、北京に着くまで、痛みが続きました。

今日は、サングラスとマスクは忘れず、ホカロンも衣服に付けて、準備は万全と思っていましたが、昨夜、今までの撮影をパソコンにバックアップした際に、CFメモリーをカメラに戻すのを、忘れてしまっているのに気づきました。しょっぱなから、また、『ドジ』を踏んでのスタートでした。

しかし、今回の旅のために、デジタル1眼レフを、NIKON-D300からD300Sに買い換え、パワーアップしました。以前のようにCFカードのみの使用から、主流のSDカードも併せての使用が可能です。これで、RWA+JPG画像に分けての使用ができるようになりました。

SDカードは、上海の電器屋街で格安で購入したSD-HC16GBが、入っています。試しに、連写をして、撮影後のモニターを見て確認しましたが、問題ありません。
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2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part6 蜜蜂岩站→黄村井站乗車

今日は、阪神大震災から、15年目を迎えました。私ごとで、申し訳ありませんが、当時、私は勤務していた会社の神戸支店の責任者として赴任して、業務も順調で、意気揚々としていましたが、突然の惨事に啞然とするばかりでした。
鉄道網もズタズタとなり、5日後、三田からの神戸電鉄が開通したので、地下鉄新神戸駅圣由で、市内へと、行く事が出来るようになりました。徒歩で、三ノ宮に近づくにつれて、目の前に拡がる光景は、想像を絶するものでした。

高校生時代にも予兆がなかった突然の心臓発作で倒れ、10分搬送が遅れたら死んでいたと言われた経験を持ちます。人間、何処でどうなるか分らない。人生は、1回のみ、一瞬一瞬を大切に生きようと、あらためて思った日でした。
こんな日に、神戸と同様に、四川大地震で大被害を受けた地の、紀行文を書くのは、自然と力が入ります。

第4日目 2010年1月1日

① 成都クラウンプラザ8:30-(チャーター車)→13:50石渓站14:30-(観光列車)→15:08蜜蜂岩站15:20-(観光列車)→16:20黄村井站
② 黄
村井站17:35-(観光列車)→石渓站18:45-(チャーター車)→19:15犍為天波大酒店

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2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part5 石渓站→蜜蜂岩站

第4日目 2010年1月1日

①石渓14:30-(観光列車)→15:08蜜蜂岩

13:50芭石鉄道の石渓站に到着しました。既に、乗車予定間際の14:00発車の第3次は、どの車両も満員で、立っている人もたくさんいます。すし詰め状態で、押し込まないと、乗れません。


石渓站の壁にに大きく貼ってあった、花咲く春の芭石鉄道です。こんな写真を見ると、この頃には、また来て見たくなります。

ご覧のとおりの押し込み状態です。これでは、ただ乗るだけで、やっとです。

通訳兼ツアーコンダクターの胡小姐は、今日の運行予定確認に行ってきました。そして、『この列車は、満員なので、30分後に、座れる観光列車が出るので、そっちにしません?』か、聞いてきました。今日は、全線乗車で撮影地視察の予定でしたので、座っていける観光列車にすると、返事しました。この判断は、後々正解でした。

第3次の発車前に、躍進駅から来た小型ELの牽引する、石炭列車がやってきました。その後、小さいくせに大きな汽笛を鳴らして、発車しました。
7両の客車を牽引して、石渓站を出発する第3次。上の写真は、M・K氏撮影。

№9号機の牽引する第3次。後で分ったのですが、テンダー車は、№10と書かれていました。これって、なぜなのでしょうか? 今回は、一応、機関車番号を優先して、記載します。

第3次の発車シーンを撮り終え、ゆっくりとホームを見ると、まだまだ、人がいます。中国人団体観光客も多いようです。世界的には、有名な芭石鉄道ですが、観光列車が運行され、専用客車まであるとは、現地に来るまで知りませんでした。ましてや、中国人が、芭石鉄道に乗りに来る観光ツアーまであるとは、驚きです。

胡小姐の話ですと、連休で観光客も多いので、普段は運行しない観光列車を、今日と明日は、運行する。3日目は、様子を見るが、ダメでも定期列車に観光用車両を連結すると言っていましたが、予定は、限りなく未定に近いのが、この国の常識ですので、毎日確認するように言いました。




観光列車の編成は、№10号機(機関車)+№14(テンダー車)+8+4+2+6の4両編成客車。一般列車とは違って、ベンチ式クロスシートの座席と、窓ガラスが完備されていますが、車内灯は、ありません。



№10号機の運転席にあった運行表です。帰国後に、訳してみましたのが、上の表です。1日2本の観光列車があって、それぞれ運行予定が異なっています。現地で、通訳さんに訳してもらっておれば、効率的に動けたのにと、反省しました。

我々の乗車する車両は、最後部です。展望デッキもあって、これは最高です。発車間際に機関区から、入場厳禁と表示された車庫から、№14号機(機関車)+№9(テンダー車)が、側線を走って来ました。どうしたのかなと、前頭部を見ると、№10号機の前に連結しました。思いもしなかった重連です。前方へ撮りに行きたいのですが、直ぐの発車でした。

№14号機+№10号機の重連! インターネットや写真集からも見た事がありません。走行写真を是非とも、撮りたかったです。

14:30、定刻に発車。それならと、ハイビジョンムービーカメラを取り出して、身を乗り出しての動画撮影を始めましたが、用意しておいたサングラスと、マスクを車に忘れてきましたので、石炭ガラの細かい燃えカスが、飛んできて目に入ってしまいました。簡単に取れません。瞬きする度に痛みが出ます。今回も、初めから、アクシデント発生です。いつも、ドジばかりで、情けなくなります。

仕方がないので、身を乗り出すのは止めて、手だけを出し、液晶画面を見ながら撮影しました。
出発してから、上り勾配と、山の斜面を切り抜いたS字カーブの連続です。段々畑には、野菜がこれでもかと植えられています。農家も玄関を線路に向けて、線路近くにあります。

架線区間を走行しますが、電柱間には、ロープが張られていて、洗濯物が干してあります。線路横の犬走りは、通行人が大勢歩いています。その都度に、警笛を鳴らし続けて、走りますので、最高です。さすが、平行する道路がなく、この鐡道のみが、沿線住民の足であり、生活道路でもある事を実感できます。

観光列車ですので、ホームのない『幺炭坥站』は、通過しました。第6トンネルを抜けて、30~40km/hで快走しますが、ガタゴトと左右上下振動は激しく、まるで、100km/hで走行しているかのような体感です。

15分後の14:45、広場は、屋根なしの自由市場となった、高層住宅街が突然見え出し、ホーム屋根のある『躍進站』に、停車しました。離合の出来る島式ホームです。躍進站は、石渓站から、4.4km、近くには、大きな炭鉱と、火力発電所があります。

止まっていても良いので、重連列車を撮りに行こうと、降りましたが、直ぐに切り離されて、前方に移動していきました。後部の№10号機のみがホーム反対側車線を戻ってきて、ここで逆行して、ホッパー内へと向かいました。


ホッパー内で、テンダー車への石炭の積み込みを行い、元きた場所へと戻りました。

また重連で走るのかと思いきや、№14号機のみ連結され、№10号機は、ホーム反対側へとバックしてきました。№10号機が、その後石渓站まで回送されたのか、ホッパー内に石炭を満載されていた貨車を牽引したのか、分りませんが、もし後者なら、SL石炭列車が走っている事になります。

14:54№14号機牽引の観光列車が、発車しました。架線区間は、この站を2キロ程までで終わり、段々畑が続く山間の勾配を登って行きます。S字カーブが続く度に警笛が鳴らされ、またこんな所で警笛が鳴るのかと思うと、人やバイクが行き過ぎますが、これは、最終站まで続きました。

15:08、所要時間14分で、スイッチバックの、『蜜蜂岩站』に到着です。観光客は、降りて、機関車が、切り離され、後部に連結される光景に見入っています。

ここで機関車は、一旦、元来た線路に戻って石炭ガラを捨てます。地元住民は、この石炭ガラで、まだ使用できるものを求めて、待ち構え、拾っていました。

SLが戻ってくると待ち構えた観光客が、記念撮影です。まるで、大井川鉄道にいるようです。こんな光景、中国で、見た事ありません。

静かに発車を待つ、観光列車。C2型蒸気機関車は、現在稼動しているのは、わずか3両です。修理は、自社工場で、全てを行っています。いつまでも、頑張って欲しいと、思いました。

『蜜蜂岩站』からのレポートも、まだまだ続きます。 Part6 へ続く

2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part4 成都→石渓站

昨夜、相棒は、ホテルに戻るとホテルマンを捕まえて、得意の英語で、『メタセコイア』の事を聞いていますが、誰も知っていません。植物園にも行きたいようで、尋ねましたら、郊外にあって、タクシーでも約40分はかかると言われました。滞在日程からして行くのは、無理です。

申し遅れましたが、相棒のM・T君は、某女子高校の先生を続けていて、毎年オーストラリアから来る、交換留学生が滞在する6ケ月間の間、直接の担当者ではないが、観光に連れて行ったりして、生の英語を学んでいるそうです。北京科学植物研究所でも、英語が堪能なエリート研究生との会話をしたのも彼です

第4日目 2010年1月1日
成都のホテル8:30→11:15楽山市12:10→14:00芭石鉄道石渓站 
 6:30

新年の朝を迎えましたが、中国では旧正月(2010年は、2月14日)を新年としているので、何の催しも行われません。ホテル内も、クリスマスの飾りつけが残っています。ただ、ホテルマンは、外国人客に向けては、『happy new year』と、声をかけてくれました。     品数豊富な朝食バイキングを食べてから、荷物をまとめ直して、案内人を待ちました。今回は、初めての芭石鉄道訪問です。海外旅行初めての相棒もいますので、いつものように、一人、バスに乗り継いで、分らぬ土地を行くのは、冒険でもあります。高くつきますが、地元旅行社の、芭石鉄道ツアーを申し込んでおきました。

8:30、約束の時間にロビーに行くと、若干25歳、成都の大学で日本語を学んで、日本語検定1級の資格を持つ、四川美人の胡小姐が待っていました。旅行社が用意した車は、8人乗りの大型ワゴン車、これなら楽です。

直ぐに、約136km先の楽山市(乐山市)に向けて発車です。2010年4月開業に向けての地鉄建設中で、通行規制が多く、迂回しながら混みあう街を出て、成楽高速公路に入りましたが、3日間の連休で、世界遺産となった楽山大仏や峨眉山へと向かう観光客の車も多く、そして濃霧です。50~100m先しか見えず、最徐行を強いられました。楽山インターチェンジ出口も閉鎖されていて、ここも先まで行っての迂回です。

四川盆地は、山々に囲まれているので、この時期は、霧発生が多いとの説明を、胡小姐から聞きました。多難を思わせるスタートです。車内で。胡小姐と4日間の行程の確認と、芭石鉄道の時刻表を受け取りました。

11:15、予定を大幅に遅れての楽山市に到着でした。普段ですと、約2時間で着くそうです。楽山市は、人口133万人、青衣江、岷江、大渡河の合流点にあるところから、成都市、重慶市などの主要都市につながる水陸交通の要衝として栄えています。合流した川は、ここからは、大渡河となり、長江に注いでいます。
▲ ご飯は、桶に入れて、約40分間蒸します。しかし、ほっくらとした銀シャリではなく、パサパサでした。

楽山市での運転手を入れての、4人分の昼食の総菜です。左上から、川魚と豆腐の煮込み、トマト、野菜と溶き卵のスープ、左下から野菜炒め、ソーセージ、きゅうりとおぼろ豆腐のスープです。これで、291元=4.074円。旅行社の案内する餐馆(レストラン)です。高めは、仕方ありません。

芭石鉄道の始発駅石渓までは、途中で適当な食事場所がないので、ここで昼食タイムです。名物は、ナマズ料理との事で、生簀で品定めをしましたが、60cm級で、測ってもらうと、約4.500円と言われ、パスして、庶民的な川魚にしました。


12:10、霧で川面も見えない岷江大橋を渡り、石渓への約55kmの1本道を大渡河に沿って、向かいます。片側1車線の舗装道路ですが、整備が悪く、所々陥没までしていますので、快走は出来ません。対岸の石渓に渡るフェリーは、1~3日の間、休航でまたまた迂回しました。

13:50芭石鉄道の石渓站に到着しました。成都から、約188km、途中、迂回を余儀なくされましたので、実際は、約200km、昼食等の休憩を入れて、約5時間半の行程でした。日本から3日間と半日、本当に、ようやくたどり着いたとの感が、ありました。

石渓站前の坂道を駆け上がっていくと、そこには、発展リニューアルを続ける中国鐡路站とは、違っての芭石鉄道沿線の生活感溢れる光景が、広がっていました。
Part5 へ続く

2009年 冬の芭石鉄道へ Part1 旅立ち

第1日目 2009年12月29日

長岡京 7:00-(快速)→7:27 大阪/
梅田 7:34(地下鉄)→7:43 なんば 8:00(ラピート)→8:39 関西空港  10:25(JL785)→12:50 北京空港 14:00-(机場快軌)→三元橋北京地鉄10号線)→国貿→15:00 ホテル

ホテル→永安里(1号線)-西単(4号線)→北京南站 17:40(京津城際鐡路C2067次)→18:10天津21:00-(C 2090次)→21:30北京南站→西単→永安里→22:30 京倫飯店

北京空港からは、広州地鉄(川崎重工社の技術供与)に続き、中国地鉄2番目となった鉄輪式リニアモーターカー(ボンバルディア社の技術供与)の机場快軌(総延長28.1km)に乗車して、三元橋站で、10号線に乗換え、ホテル近くの国貿站まで行きました。

私が、頻繁に訪中を重ねた10年前は、2路線総延長42.6kmだった北京地鉄ですが、2009年末では、総延長227.2kmまでになりました。5年後には、561kmになる予定です。経済成長も、年10%を越える勢いで発展を遂げている中国ですが、地鉄も脅威の延伸を成し遂げています。

開業当時の天津站 CRH2-300のオンパレードでした。

現在の天津站 CRH3のみの、運用となりました。

北京南站からは、2008年8月開業した、中国鐡路初めての新幹線、京津城際鐡路乗車を案内して、天津に向かいました。開業当初は、殆どの列車は、JR東日本等から技術供与された『はやて』CRH2-300が、最高速度350km/hで、走行していましたが、契約上のトラブルにより、日本側からクレームが入り、もう、1編成も走っていません。

天津到着後は、夕闇の中でしたが、ライトアップされて綺麗になった、かつての租界街を案内し、天津名物の肉饅頭を食して、深夜、北京に戻りました。
  Part2
 へ続く

2009年 厳寒の大地へ Part4 調兵山 3日目

北京からも、成都の宿泊するホテルに依頼しても、購入出来なかった復路、成都→北京西の特快T8夜行寝台列車の軟座寝台の切符ですが、最後の手段として、芭石鉄道を案内してくれる現地旅行社に打診しました。

すると、『後、数枚しか残っていない。しかし、手数料が、200元必要です。航空券なら充分に席はあるが、どちらにしますか。』と、返事が返ってきました。中国鉄路では、切符の約85%が旅行社を通じて購入されています。
日本と違って、上乗せで手数料が必要ですが、北京からの往路は、手数料30元でした。今までも、切符売場に並んで購入する時間がなかったりすると、旅行社に依頼していましたが、せいぜい30~60元が相場です。1枚200元とは、ぼったくり以外ありません。

多分、1本しかない列車なので、どこかの旅行社が裏から手を回して、買い占めているのは、容易に想像できます。分っていて買うのは、しゃくですが、行程が決まっている以上、仕方ありません。OKを出しました。
日本の約45年前あたりと同様に、旅客輸送力が需要に付いていっていないので、こういった事が当たり前に横行しているのが、現状です。気分はよくありませんが、取り合えず、帰路は確定しました。

第11日目 12月2日 
足は、完全回復しましたが、願いは通じず、今日も白い世界です。白銀の世界だったら最高ですが、こればっかりはどうしようもありません。出発は、8時30分にずらして、その間に調兵山駅2階の旅行社に行って、今日のSL運行を問い合わせてもらいました。調兵山~大明間は、DL運行です。天候回復の願いをこめて、SL列車を追いました。
▲ 9:01 三家子~調兵山の無名駅から、出発する、大青からの308次
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C59乱写の頃

 機関車の好みは人それぞれである。小生は東海道線の蒸機時代に毎年名古屋の従兄弟を訪問していた関係からかC59が最も好みであった。特に戦後製のC59は大きな船底型テンダーと相俟って21.575mの国鉄蒸機最長のスレンダーなスタイルは当時、非常にかっこいいと思った。多分、C59を推す人が多いと思い、同好会OBで数々の名作を発表されている先輩にうかがったところ、意外にも好きなのはD52の戦時設計スタイルでその次はD50と言われた。また、内燃車両で右に出る者はいない先輩はコッペルと言われ、唖然とする。このような中で電車には目が無い先輩はC59、特に戦後製の長いのがええと言われた時は内心ほっとした。世間ではC57の貴婦人が定着しているが、経歴から言ってもC59と思う。軸重の重さ故に他線転用がきかず、早期に引退した美人薄命のC59はC57が貴婦人などと騒がれる頃にはこの世から消えていた。さて、そのC59を意識して撮った最初は電化が進んだ岡山で、1961年7月の瀬戸内海臨海学校の帰りであった。小郡行き牽引のC59164で現在も梅小路に保存されている呉線C59最後の残党3両のうちの1両である。よく趣味誌上でも見られるのでここでは割愛して、今回は、その後、必死に乱写したものを披露したい。乱写と言っても今のデジタルのようなものではなく、フィルムが勿体なく感じる時代で、それでもできるだけ多くの番号を稼ごうと機関区巡りや幹線の線路際で来る列車来る列車全部を何でも撮影したと言う意味である。

①1963年3月、始めての宿泊を伴う撮影で九州を選んだ。途中、朝の下関で降りて連続して到着する九州行きの優等列車牽引のC62、C59を撮影。元祖青信号特派員氏がデジ青に掲載された下関駅の思い出にコメントさせていただいたが、下関の午前中の優等客車列車の最後は同駅南側の架線の無い所に到着した寝台専用急行301レ「音戸」であった。

”]

②関門トンネルを抜けて、折尾でC59109[鳥栖]を撮影後、筑豊本線C51281[若松]牽引の列車で原田に向かう。乗り継いだキハ55の準急「くまがわ」は上熊本で特急「みずほ」8レと交換。C59唯一の門鉄デフC59124は旧型客車を従えて夕陽を背に大きな汽笛を残して東京に向かって行った。

”]

③翌日、熊本機関区を訪問。扇形庫も無く、狭苦しく窮屈で大型機の撮影には不向きであった。

”]

④1964年4月には山陰線C51、木次線C56、山口線D60を求めて機関区巡りを行う。その後、再度九州入り。鳥栖は鹿児島本線、長崎本線が分岐するのでここで両線の大型蒸機を狙う。この日、下り「みずほ」は事故でもあったのか、相当遅れてC59129がバック運転で通過。上りは夕刻C59のトップナンバーが旧型客車4両牽引して到着。目の前で停まってしまった。煙が真上にゆっくりと上がっていることで停車していることがわかる。それでもヘッドマーク付きの1番である。この機関車は後年、小倉工場で撮影したことがある。

”]

⑤鳥栖から夜行列車で当時の撮影名所大畠で下車。連続する九州行き優等列車を撮る。道路は舗装されておらず、左には大島が見える。列車は332レ小郡発広島行きでC59190が牽引。架線が邪魔で非常に残念に思っていた。この年の夏に己斐(現西広島)付近で撮影のため、夜を明かした時は電蒸運転が始まり、特急は一部EF60500+C62であった。80系電車も試運転していた。

”]

⑥東北本線でもC59は昭和30年代に福島や白河あたりにいたが、最終的には90、176の2両が仙台に残っていた。写真は塩釜の築堤を行く176号機牽引の128レ一ノ関発宇都宮行き。東北独特のシールドビームの補助灯とデフレクター下部の点検用切り取り等により原型スタイルは崩れているが、戦後製の長いテンダーや全体のスマートさは充分感じられると思う。最近このあたりを通ったが、開発されて家が立ち並びこのような風景は過去のものとなってしまった。

”]

⑦C59は173両製造され、ラストナンバーは196である。途中、133~155の23両は製造されず、欠番である。さて、そのラストナンバー196は下関で撮影したが、その後直ぐに糸崎に転属。これはあまりにも有名になった急行「安芸」を牽引して広島を出発する姿。

1965.4.4 山陽本線広島を出発する呉線経由東京行き寝台専用24レ急行「安芸」 C59196[糸崎]

2009年 厳寒の大地へ Part3 調兵山 2日目

年始・年末の芭石鉄道への旅ですが、北京西→成都への切符は購入できていますが、今日発売の成都→北京西の切符が売り切れと、現地から連絡がありました。やはり、出発駅でないと、買えないようです。また、困りました。でも、よくある事なので、何とかしようと、対応におおわらわです。しかし、どうなるのでしょうか。

第10日目 
12月1日
昨夜、夕食を食べに街に出かけた際に、凍結した路面に滑ってしまいました。そのまま、転べばまだ良かったのですが、右足で踏ん張った拍子に、ぎくっと音がしました。ちょっと、まずいなと思いましたが、普通に歩けたので、ホテルに帰ってから、ゆったりと風呂に浸かってから、寝ました。
しかし、朝起きると、右足が曲がりません。何とか立ち上がって、歩こうとすると、痛みが出ます。特に階段は、手摺りにしがみつかないと降りられず、激痛です。かなり、マズそうです。

昔、野球をやっていた頃に、膝のじん帯を伸ばし+た時の症状と似ています。それでも、王千駅着7:52の列車を撮りたいと、運転手の王さんと約束していたので、患部にホカロンを何枚も貼って、出かけました。
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2009年 厳寒の大地へ Part2 調兵山 1日目

第9日目  11月30日

5:30、モーニングコール前に起床して、調兵山行きのバス停に向かいました。道路は、完全に凍っています。バス停周辺には、早朝から早飯屋が開店していますので、ここで小籠包を購入して、発車待ちのバスに乗り込みます。乗客は、私一人です。

定刻より早く、6時過ぎには、発車しました。乗車席は、1番後の特等席です。なんといっても、前の席が撤去してあるので、ゆったりと座れます。定刻より遅く、6:50に沈阳駅前を発車しました。暖かい車内で、満腹感もあって、乗車後は、直ぐに熟睡してしまいました。そして、着いた所は、9月に乗車した沈阳駅前でした。運転手は、前に停車している同じ調兵山行きのバスに乗換えるように言っています。昨日は、6:30に北駅を発車すると言っていたのに、良く分りませんが、乗換えました。こういう事があるので、中国では、時間に余裕を持って駅に行く事が必要不可欠です。

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2009年 厳寒の大地へ Part1 旅立ち


今夜は、クリスマスイブです。皆様方は、どのようにお過ごしのことでしょうか。私は、年末・年始の芭石鉄道への乗車・撮影旅行の手配に大わらわです。ここへ行くのは、初めてです。一人だと、何とかなるのですが、今回は、海外旅行は初めてという友人と一緒です。まだ、在職中ですので、出発・帰国日が決まっています。

問題は、北京から芭石鉄道への玄関口、四川省への成都までの特快夜行寝台列車が、1本しかないことです。北京に着いてからでは、切符は、多分売り切れているでしょう。そのため、現地旅行社に購入を依頼すると、現金前払いが原則と、言われてしまいました。
困り果てて、北京の常宿の日本人スタッフに、泣きついたところ、快く立替払いをして下さいました。往復で、約40,000円です。感謝、感謝です。今回も、出発前から、人の温かさを受けました。 続きを読む

2009年 北の大地へ Part17 函館市電

第12日目 11月2日

有珠山SA7:30→8:40昭和新山8:50→10:10長万部駅10:25→11:30森駅11:40→12:30大沼公園駅12:50→13:30函館駅→18:00湯の川温泉

かつて、青森駅から青函連絡船に乗船して、初めて北海道に入る玄関口の函館駅でしたが、昭和63年に青函トンネル開通に伴い、連絡船も廃止されました。現在の駅は、平成15年に第5代目の駅として、建替えられた綺麗で立派な駅です

大沼公園での撮影後は、函館を目指しました。恥ずかしい話ですが、函館は、いつも乗継駅で、市電を見た事がありません。全線の撮影に挑む前に、函館駅の案内所に向かいました。

と、言うのも、着いてみて分かったのですが、今の温度は、零下で、風も10m以上です。ぶんしゅう7号が、いくら頑丈とはいえ、過酷です。駐車場があって、インターネットができて、とにかく安いホテルと、希望を言ったところ、湯の川温泉で、1泊2食付き6800円の激安ホテルを紹介してくれました。
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2009年 北の大地へ Part16 昭和新山、長万部、森、大沼公園

第12日目 11月2日

有珠山SA7:30→8:40昭和新山8:50→10:10長万部駅10:25→11:30森駅11:40→12:30大沼公園駅12:50→13:30函館駅→18:00湯の川温泉

昨夜は、夕食もまだだったので、食事、宿泊できるSAを探しましたが、行けども、行けどもありません。そのうち、『冬用タイヤ装着必要』の道路サインが出だし、あせりました。氷雨は、雪まじりに変わっていました。ようやく、伊達紋別の高台にある有珠山SAを見つけ、入りました。沼ノ端も40年前によく行った所です。苫小牧、室蘭も立ち寄りたかったのですが、ずいぶんと先まで行ってしまいました。
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2009年 北の大地へ Part15 北海道開拓の村

第11日目 11月1日 その2

笠道の駅8:30→10:00美唄市郷土資料館10:05→10:55三笠鉄道村クロード公園11:05→11:10三笠鉄道村鉄道記念館12:15→13:20万字線鉄道資料館
13:25→15:15開拓の村16:30→19:20有珠山SA 

『万字線鉄道資料館』からは、国道12号線をひた走りました。途中で、大好きなそば屋を見つけ、遅い昼食です。旨かったです。40年前は、道内で蕎麦を食した経験はありません。貧乏旅行でしたので、一日2食が、せいぜいでした。唯一、たまに宿泊するYHで食べる夕食が、ご馳走でした。今でも、贅沢は敵と、安いコンビニ弁当で済ませていますが、お酒だけは、忘れません。


15:15、『北海道開拓の村』に到着しました。ここで見たいのは、開拓時代に走った馬車鉄道です。入口の建物は、かつての札幌駅です。入場券を購入すると、馬車鉄道の乗車券がプレゼントされていました。平日ですので、入場者はわずかで、駐車場はガラガラでした。


入場すると正面に馬車鉄道の駅があります。N電そっくりのダブルルーフの客車が止まっていました。発車時刻は、15:40が、最終です。時間がありましたので、近くの手宮駅長官舎を視察しました。

馬は、発車直前にならないと、連結?されません。なぜか、連結すると直ぐに走るので、そうしているそうですが、無理を言って1カット撮るのを許可してもらいました。

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2009年 北の大地へ Part14 三笠鉄道村、万字線鉄道記念館

第11日目 11月1日 その1

三笠道の駅8:30→10:00美唄市郷土資料館10:05→10:55三笠鉄道村クロード公園11:05→11:10三笠鉄道村鉄道記念館12:15→13:20万字線鉄道資料館
13:25→15:15開拓の村16:30→19:00有珠山SA  


道内に入って、最も寒い朝を迎えましたが、昨日追加購入した湯タンポのおかげで、寒さで寝られない夜は回避できました。旭川方面から来る車の屋根は、雪がたっぷりのっています。朝風呂があるかなと隣の温泉に行きましたが、ダメでした。いつものようにコーヒーを沸かせて、ポットにも入れて、温まりました。本格的な北海道の冬が始まっています。スキーには、家族と毎週のように行きましたので、雪道の経験が多いとはいえ、シーズン初めては、緊張します。道路に雪が消えるのを待っての出発でした。

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三井芦別鉄道

ぶんしゅうさんの「北の大地へPart12 富良野線 根室本線 日高本線」で芦別駅の画像が出てきた。場違いの五重塔の後の芦別駅を見て昭和42年夏休みに三井芦別鉄道を訪れた時のかすかな記憶が蘇ってきたので、当時の状況を書いてみた。(撮影日は42年9月9日である)

歴史

歴史は比較的新しく、昭和15年12月8日三井鉱山専用鉄道として芦別~西芦別(後の三井芦別)間4.1Kmを運転開始。昭和17年5月5日旅客営業を開始。昭和20年12月15日西芦別~頼城間5.5Kmを開業。昭和24年1月20日地方鉄道に変更し、三井鉱山㈱芦別鉄道となった。昭和33年11月にはDCを3両投入して客貨分離。昭和35年10月1日炭鉱合理化に伴い鉄道部門を分離することになり、三井芦別鉄道を設立して営業を開始した。訪れた時は、まだ炭鉱の最盛期で芦別~頼城間を20往復位運行され、羽幌炭鉱鉄道と共に女性の車掌が乗務し、元国電を挟んだDTD3両編成の列車は活気に溢れていた。

その後、旅客部門は炭鉱合理化による人口の減少と並行バス路線の充実により昭和47年5月31日をもって廃止。石炭輸送も炭鉱の合理化により平成元年3月25日をもって全線の営業を廃止、炭鉱自体も平成4年9月に閉山となった。

車両

昭和42年8月時点での在籍車両は、蒸気機関車2両(C58-1・C58-2)ディーゼル機関車2両(DD501・DD502)気動車3両(キハ101~キハ103)客車3両(ホハ10・ナハニ1・ナハニ2)であった。(貨車は省略)以下、写真と共に解説する。

(1)   蒸気機関車

かつては江若鉄道から購入したナスミス・ウィルソン社製の1B1タンク機やC11が在籍したが、訪問時にはDLの予備機としてC58が2両(C58-1・C58-2)在籍した。昭和24年汽車会社製で国鉄の見込み生産品を購入したと言われている。国鉄のC58とは同一であるが給水加熱器が付いていない。昭和46年3月廃車となり、C58-2は定山渓グランドホテルに売却されたが、現車は桑園駅の引込線に留置されたままであった。それを旭川市郊外の「ニュー温泉」のSLファンのオーナーが買い取り、旅館の建物の中で保存されている。桑園から富良野線の西神楽まで回送して、トレーラーで旅館まで運搬した。この時の状況が昭和46年9月18日付の新聞に掲載されているので、運んだのは前日と思われる。

「ニュー温泉」はHPで確認すると1泊2食付で5500円~、入浴のみでは400円とリーズナブルで、リタイヤ後一泊してゆっくり見学したいと思っている。

 

2)ディーゼル機関車

DD501~DD503

昭和40年から新製された旧国鉄DD13タイプの機関車であった。DD501が三井芦別~中ノ丘間の炭山川鉄橋上にセキを連結した状態で保存されており、リタイヤ後見学に行く予定にしている。DD502は解体、DD503は京葉臨海鉄道に売却された。

 

3)気動車

キハ101~103

昭和33年、客貨分離のために3両新製された。車内は中央3区劃がクロスシートのセミクロスであった。旅客営業廃止後は関東鉄道に売却され、鉾田線(後の鹿島鉄道)で再起しキハ711~713となった。扉配置からワンマン化ができないのと、その後の新車投入のため、キハ713は平成3年、キハ711・712は平成4年に廃車された。

 

キハ103+ナハニ1+キハ102 

 

キハ101

 

鹿島鉄道 キハ711 石岡    昭和60年9月23日撮影

4)客車

ホハ10

昭和16年9月、専用鉄道の旅客列車用として購入したホハフ1(大正10年日本車輌製の元飯山鉄道のフホハ10)を昭和32年自社工場で下回りを生かして半鋼製の車体を新製した。キハ101の入線後、中間車として使用するため総括制御用回路を引通し、実質キサハとなった。

 

ナハニ1~3

スタイルからも判るように元国電モハ31系(後のクモハ11200番台)である。昭和23年10月地方鉄道に変更に際して、戦災で焼失した国電を日本鉄道自動車で復旧したものを購入した。旧番は公式にはモハ31036、31070、31104とされているが、アテにはならない。当初は形式モハ300形車号サハ1~3となっていた。元電車であるので「サハ」は理解できるが、形式が何故「モハ」になっていたのかは不明である。昭和32年12月にキハの中間車として使用するため、総括制御用回路を引通した。その際に一端に荷物室を設けて車号をナハニ1~3に変更したが、現実には「キサハニ」とでも言うべきものであった。中間車は前述のホハ10と併せて2両使用で、予備車を入れても3両で済むため、昭和39年1月、ナハニ3を廃車した。

 

ナハニ1

 

ナハニ2

(5)その他

モーターカー

昭和39年富士重工宇都宮製作所製で、冬にはプラウを付けてラッセル車として使用されていた。

 

芦別駅のC57200

滝川発(14:15)発 釧路行(23:22)435レで機関車の後にオハフ60が見える。

 

雄別炭鉱茂尻鉱業所102号機

三井芦別鉄道の後、茂尻の雄別炭鉱茂尻鉱業所の機関庫に行く予定であったが、三井芦別で機関区の人と話込んでしまい、予定の根室本線の列車に乗れなくなり、茂尻鉱業所は次回ということにした。茂尻で交換待ちの時、102号機が出てきたので撮影することができた。

2009年 北の大地へ Part12 富良野線 根室本線 日高本線

第9日目 10月30日

道の駅『うたしないチロルの湯』美瑛11:00→11:25美馬牛11:30上富良野16:20→17:15芦別18:30→19:00道の駅『うたしないチロルの湯』

昨夜は、早く寝付きましたので、夜明け前には、起きました。今日も天気がすぐれない予報でしたので、夕張辺りを目指すつもりではありましたが、空を見上げると、雲の流れが速くなっています。北海道に入ってより、天気予報には、敏感になっていますが、ことごとく外れています。
こういう時は、地元の人に聞く方が、間違いありません。丁度、犬を連れて散歩に来られた方に聞いてみますと、『もう少し様子を見ないと、はっきりと、分らないが、雨は降りそうにないだろう。好天になる可能性は高い。』と言われました。中学校の先生をしておられる方でしたので、石炭最盛期だった頃の話を聞いてみると、
『その頃は、大勢の炭鉱夫が住んでいて、周辺の町は、大盛況だった。蒸気機関車が、走り回り、汽笛の聞こえない時間は、なかった。後ろのサイクリングロードは、歌志内線の廃線跡です。炭鉱夫の住居には、風呂がなかった。共同浴場が向かいにあったが、老朽化したので、新たにできたのが、この温泉だった。

年中無休のはずだが、休館日だったとは、きっと何か問題があったのだろう。ここでは、7年おきに耐寒設備を点検補修しないと、雨漏りしたり屋根が抜けたりもする。箱物がたくさん出来たが、造るだけ造って、後の補修を考慮していない。これからも続く維持管理に相当な費用が必要だが、歳入が減る一方の町には、その予算を捻出できない。とても心配だ』と、嘆かれました。
『鹿の件だが、年々、被害が多くなっている。先日も友人が、鹿と交通事故を起こし、車の修理に、70万もかかったと嘆いていた。轢いた鹿は、持って帰って、生きている内に解体して食べる。』等々、書きつくせない、いろいろなお話を、聞かせていただきました。

ここの湯は、炭鉱の町だったためか、朝湯をやっていましたので、天候の様子を見る時間を兼ねて、入ってみました。通路の天井は、ビニールが張り巡らされていて、昨日は、雨漏りがひどく、臨時休館になったと聞きました。お風呂内の設備も、古くて綺麗ではありません。壊れていたりで、補修が追いついていないのか、よく分りました。
露天風呂から見る空は、どんどんと雲が流れ、青空になってきています。これは、富良野線に再挑戦しなければと思い、道の駅『うたしないチロルの湯』を後にしました。

芦別駅 これは、いったい何だと思わずにはいられない、場違いの五重の塔。日本経済発展を支えた炭鉱の町として、相応しいモニュメントがあって、しかるべきと思うのは、私だけでは、ないと思います

▲ 728D 美馬牛→美瑛 キハ54-502

▲ 727D 美瑛→美馬牛 キハ150単行

峠を越えて、昨夜走った富良野線沿いに出ました。晴れてはいますが、期待した冠雪の山々には、まだ厚い雲がかかった状態です。期待は、吹っ飛びました。仕方なく、前日の撮影地での撮影となりましたが、昨日よりは、幾分ましでした。

富良野線での撮影を諦めて、根室本線の金山~東鹿越間を目指しました。

2432D 東鹿越→金山 キハ40 12:28、山深いこの辺りを走る列車は、極めて少なく、この時間に撮れる列車も、わずか1本です。
▲ 根室本線 富良野駅から狩勝峠へ向かう中間点に『金山駅』がある。このまま、釧路、根室方面に向かうも良しです。ホームには、伊予西条駅で見たと同じ煉瓦造りのカーバイト保管庫?が、残っていました。

慎重に撮り終えて、東の空を見ますと、雲が切れて青空が広がっています。ラジオの天気予報も、内陸部では降雪と、路面の凍結に注意するように、告げていますが、日高方面は、逆の予報です。ナビをセットすると、所要時間3:30と言います。今から行けば、夕日を見れる。その時間に、列車も走っている。太平洋側は、風も強いだろう。旅の疲れも溜まってきている。節約旅行に努めてきましたが、今夜は、初めて、宿を取ろうと、『新冠温泉 レ・コードの湯ホテルヒルズ』に予約を入れました。公共の宿ですが、私としては、大奮発の9950円(一泊2食)です。

途中、道路案内板に鉄道記念公園の看板が見えました。すっかりと、振内鉄道記念館の存在を忘れていました。先を急ぎます
が、見た以上、行かないわけにはいけません。

▲ D5123 昭和18年に汽車会社製造、サハリンで活躍しましたが、1990年に帰国。ここに保存されていますが、状態は極めて悪く、修復が望まれます

客車は、スハ4537と、スハフ42-519です。こちらも。かなりボロボロ状態です。


野ざらしで、ボロボロになっていましたがD5123号機と、2両の客車が静態保存されていました。客車は、夏季には、ライダーハウスとして開放されていました。

富内線は、1964年に全線が開通し、1986戦に廃線となり、極めて短命に終わっている。残念ながら、この路線は、乗車していない。先ほど立ち寄った根室本線金山駅までの延伸計画は、あったそうです。
▲ 当時の路線図、たくさんのローカル線が、ありました。
▲ 15:20、ようやく太平洋が見えました。清畠駅で、時刻表を確認しますと15:30に様似行きの列車が出ます。ホームに上がると、かなたから、DCが走ってくるのが見えます。

▲ 撮影時刻15:39 様似行きの2233D

急いで、撮影予定地の厚賀~大狩部間厚別川橋梁を目指しました。丁度、夕日が太平洋と、川面を染めての絶景です。ただ、車が止められる余地は、道路橋梁にはありません。渡りきった空き地に駐車してから、無我夢中で、走りました。そして、撮影場所に着いた瞬間に、DCが来ました。10秒でも遅ければ、撮影は不可能だったでしょう。ただ、アングルまで決められる余裕は、ありませんでした。また、通常、私は、マニアルモードで撮影していますので、前もっての試し撮影で、最適露光を決める余裕もありませんでしたので、もっと良い写真を撮れたかもしれませんが、美しい自然がカバーしてくれました。
▲ 大狩部駅を発車する苫小牧行きの2236D
ホテルには、17:00には着くだろうと、言っておりましたが、遅れるとの連絡を入れて、夕日が沈んだ後も、暗くなるまで、列車を追いかけました。

宿は、新冠の町並みを見下ろす高台にありました。露天風呂にゆったりと浸かって、久しぶりに、まともな食事を食べました。お風呂では、襟裳岬辺りで、明日、秋アジを釣りに行くという釣好きがおられ、釣る楽しみと、食べる楽しみを聞かせていただきました。 Part13 へ続く

2009年 北の大地へ Part11 かつての常紋信号場

また次の旅立ち準備をしております。香港に、また行こうとのお誘いがありました。トラムや地鉄も撮ったし、乗ったし、他の場所が良いのですが、どうしても行きたいらしく嘆願されれば、断れないぶんしゅうです。この後、広州東→ハルピンの列車も乗りたいし、芭石鉄道、平頂山、調兵山も行って見たいと思って、OKを出しました。と、言う訳で、『北の大地へ』の、残り投稿を急ぎます。
と、思っていたら、インタネットで購入した簡単なフイルムスキャナーが、届きました。もっと早くに頼めば、昔撮った写真と比較しながら、投稿できたのにと思いました。
DRFCメンバーと行った頃の、懐かしい常紋信号場写真をご紹介させていただきます。
昭和44年9月(1969年)、当時の常紋信号場の光景です。9600やD51牽引された、しかも重連もあり、補機もあり、おまけに混合列車もありで、スキャンしながら、ノスタルジアの世界にうっとりしました。


今は、雑草が茂り、見る影もありませんが、当時は、頻繁に列車が、交換をした常紋信号場でした。



▲ こんな混合列車も走っていました。
▲ 今はなき、急行DCです。キハ56とキハ22の混合列車で、長編成でした。
    こういった約40年前の写真を見ますと、もっと一生懸命に撮っていれば思いますが、今のようにデジカメ時代になると、何カット撮っても、問題ありませんが、当時は、フイルム自体、高価でした。100フィート巻きのトライXを購入して、夜、部屋の電気を消し、押入れに入って、カメラ屋でもらった中古パトローネに、巻いた時代を思い出します。  Part12 へ続く

2009年 北の大地 Part10 富良野線 美瑛~美馬牛

第8日目 10月29日

道の駅『おんねゆ温泉』美瑛11:00→11:25美馬牛11:30上富良野16:20→17:15芦別18:30→19:00道の駅『うたしないチロルの湯』
期待した朝を迎えましたが、冠雪のあった山並みは、全く見えずの曇天です。美瑛駅に発着する列車音を聞いても、カメラに手が向きません。ガラガラの駐車場でしたが、北九州ナンバーの乗用車が止まっていました。まだ、道内に入ったばかりだと言う同年輩の方と、しばらく話をした後、ようやく美瑛駅探索に向かいました。
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