産経新聞3月13日朝刊より
人間国宝写真展の新聞記事
返信
余命幾許もない老人の希望を、ぶんしゅう氏がたちどころに叶えてくださったので、老人は機嫌すこぶる麗しく、いそいそと次なるスキャンに着手した。これで化けて出たり、怨念で祟り尽す必要もなくなった。いや、実のところこの老人に祟れる能力などありゃせんが、万が一にもぶんしゅう氏に無視でもされたら、それこそ安倍清明の法力にすがってでも、とは考えていた。因みに京都市立上京中学校のすぐ西に清明神社があり、子女の参詣が盛んだが、老人はこの中学を60年以上前に通ったから、清明とて同じ学区の縁?で、頼めばイヤとはいわんはずである。
ミシュラン車といえども、当然ながら多数のバリエーションがあり、けして単純ではないのだが、なるべく近そうな図や写真をお目にかけ、ミシュラン車の片鱗をご理解賜れば、老人にはこの上ない幸せである。
これがミシュランゴムタイヤ車輪の「最もポピュラー」な断面図である。タイヤ内部で逆向きのレール断面の如き代物は、タイヤがパンクした際急激にしぼんで二次事故に至らぬ為の鋼製プロテクターで、当然いくつかのバリエーションがある。鉄道に不可欠なフランジも勿論鋼製で、やはり数種があって、上図と次の写真とは種類が違うかもしれない。
ぶんしゅう氏最初の写真1枚だけからでは3軸ボギーかと思ったが、4軸だったので、この写真が同じかどうかは保証の限りでないが、外側のリーフスプリングがよく似ているものを探した。よっく目を見開いてご覧いただきたいが、ファイナルドライブがウォームギヤである。ウォームが逆回しできないというのは、模型のようにウォームの條溝が1本か2本の場合で、4本以上あれば効率はともかく逆回しが可能である。古い貨物自動車にはウォーム駆動が多かった。通常歯車にはニッケルクローム等の硬い金属を用いるが、戦前のウォームはマンガンブロンズ(砲金)等の柔らかい金属が常識で、粉末状での磨耗が不可避のため、やや耐久性のある消耗品として、簡単に交換ができる設計がなされている。現在では工作機械の進歩で、ウォームギヤは高性能歯車に分類されている。
先回挿入した写真に見合う図面が見つからず、一統中なるべく似たものを最後に入れておく。図は車体中間に扉があるタイプだが、貫通できず、前部が3等、中間が2等、後尾1等室は後向け展望室様になっている。便所も3等/1、2等と分かれ、これは白人が現地人との同室を嫌った植民地に多いタイプである。
なお今回も図と写真は『Autorail de France Tome1』から引用した。
投稿日の今日は、重慶モノレールに乗って撮って頑張ってきましたが、明日は8時の列車で成都、そして芭石鉄道へと移動しますので、今夜も早めに寝ようとホテルに帰ってきましたら、須磨の長老様よりのご催促が投稿されておりますので、答なければえらいことになるかもと思い、投稿させていただきます。
第15日目 3月4日 午後
昆明に参りました目的は、昆河線に乗りたいこともありましたが、本命はミシェランの内燃動車でした。初めから直行したかったのですが、まだ開館前です。メータゲージの乗車できる時間も1本しかありませんので、午後にゆっくりと観察しようと思った次第です。
13:00、昆明北駅にTaxiで到着しました。駅前食堂で麺を注文してからゆっくりと北駅に併設されている雲南鉄路博物館に参りましたが、2011年6月6日から一時閉館されたままです。これは情報を持っていましたので、また北京の鉄道博物館と同じような要因なのかと、理解しました。
問題は、実物の車両陳列館がどこにあるかです。丁寧でない地図が貼ってありましたので、地元人民に聞きながら行きました。近そうなのですが、見えていればすぐに分りますが、初めての者には、200mが2キロに感じます。迷走しながらでしたが何とかたどり着きました。
エネルギー満ち溢れたぶんしゅう氏のリポートにはほとほと驚かされる。本日アップされた「ぶんしゅう旅日記Part11」初っ端に、メーターゲージの雲南鉄道ミシェラン車があるではないか。ピカピカに整備された保存車両だが、一体これはどこに保存されているのか。フランス植民地はメーターゲージが周知で、シンガポールからマレーシアを経てタイに到る鉄道や、ミャンマーもメーターゲージである。
ところでぶんしゅう氏の写真でのミシュラン車の足回りは通常の鉄輪のようだが、本来ミシュランはタイヤメーカーだから、ゴムタイヤ装着ガソリンカーを製造し、米国にまで輸出している。手持ちの本から、よく似ている車両を選んでみたが、何れも単端式である。
ぶんしゅう氏よ、もっと現車を詳しく観察したレポートを掲載せられよ。そして写真データーを余命幾許もない須磨老人に「気持ちよく」上納せられよ。さもなくば老人は絶望して寿命を縮め、間違いなく貴殿のもとに「うらめしやー」と化けて出て、とことん祟りまくること確実である。命が惜しいか、データーを出し惜しみするか。挿入写真は標準ゲージのゴムタイヤだが、窓配置などそっくり=『Autorail de France Tome1』より
第15日目 3月4日
昆明は2度目の訪問です。前回は10年以上前だったと思いますが、昆明北駅からベトナムまでの国際列車が走っていて、1部区間を乗車して撮影もしました。現在この路線は、貨物輸送に使用され、昆明北駅の前後の石咀から王家營のわずかの距離に客運列車が走行しています。
【メータゲージの湏越鉄道(雲南鉄道)】

中国に唯一残る線路幅1,000㎜、メータゲージの鉄道です。かつてフランスは、ベトナムを中心に植民地化によるインドシナ連邦を成立しました。そして、中国雲南の豊かな資源を輸送するために、1910年3月31日に昆明とハノイ間に鉄道を建設開業をしました。標高差1,937m、最高勾配は31‰、最少半径80m、トンネル数は188を数え、苦難の468キロ(本線)の建設だったそうです。
その後、この鉄路は歴史の波に翻弄されます。1930年代の日中戦争時代は連合国から中国への軍事物品の輸送に利用されました。1940年代には、日本軍のベトナム侵攻から守るために中国は、この鉄路を使っての侵略を防止目的のために中国側のレールを撤去しました。戦後は復旧されましたが、今度はべトナム戦争勃発です。この戦争が終結したと思ったら、支援したベトナムとの戦争が起き、また破壊されました。度重なる戦争による破壊と復旧を繰り返しながら、ようやく1991年に現在に姿に復元されています。ごく最近のことでもあります。
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今日は14日開業の京都水族館の完成祝賀会でした。
町内に住んでいるからか招待を頂いたので見に行きました。じつは先日から年間パスポートの販売ですごい行列ができていたので開業からしばらくはひどい人気だろうと敬遠していましたが、ご招待なら楽々見られると喜んで行きました。というのはイルカのショーを見るスタンドから東海道線が見えるとの情報があったからです。
ご覧の通りスタンドから見るプールは彼方に東寺の塔、山陰線の221系、新幹線の700系、ここには写っていませんが梅小路のD51200の引く展示列車が一望です。来賓の前原誠司さんが「ここは最高ですね、新幹線のN700と在来線の国鉄塗色がイルカと一緒に見られます。全国のテッチャン300万人の入場も見込めます」とのリップサービスで会場を沸かせていました。そのほか、京都市長の門川大作さん(演歌歌手ではない)は「27年度にはここに日本最大の鉄道博物館ができる」と言っていました。これを楽しみにしています。予断ですが写真に写っている頭は、左から門川市長、右隣が山田府知事です。
▲さっそく熱心な見学者が訪れ、一点一点を仔細に鑑賞していた、本日開場の「鉄道展-東北を旅して-その2」。
一部のクローバー会会員にはすでに案内していますが、佐竹保雄さん・津田雅司さんによる「鉄道展-東北を旅して-その2」が、本日から開催されています。
あの震災から1年、自分にできることに思いを馳せ、東北へのエールを送り続けることを念頭に、この期間に開催されることになりました。
・3月10日(土)~18日(日) 11:00~17:00 (無休、18日は15:00まで)
・ひと・まち交流館 京都 展示ホール
(京都市下京区河原町五条下ル東側 市バス「河原町正面」下車)
今回の展示のメインは「東北の鉄道」写真展、C51や木造客車などの佐竹さんの貴重な写真のほか、先般開催されたクローバー会写真展「東北の鉄路を巡る」からも抜粋して展示しています。さらに津田さんは、昨年のラインナップに加えて、震災後に運転されたDD51の牽くタンク列車が新たに再現され、見どころ一杯の展示となっています。
▲佐竹さんも来場者一人ひとりにていねいに説明をされていた
また、会ではつぎのようなイベントも用意。
3月11日(日)14:30~15:00 祈念の集い(展示ホール)
3月14日(水)13:30~16:30 一緒に作ろう祈りのお地蔵様、三線で歌おう
3月15日(木)18:30~20:00 講演会「3・11以後の暮らし」槌田劭先生
設営日の昨日は、クローバー会会員が訪れ、設備の搬入、写真の展示などに汗を流し、夕方には準備完了、本日11時から滞りなく開場、早くも多くの人たちが会場を訪れています。ぜひ期間中にご来場いただき、写真・模型を通じて、美しかった東北を偲び、東北の一日も早い復興に思いを馳せていただくよう、お願いいたします。
▲DD51の牽くタンク列車が快走する、模型運転会。津田さんはクローバー会写真展に展示されたDD51重連のタンク列車に刺激を受けたという。
第11日目~第14日目 2月29日~3月4日
① 鶏西21:03(K7076次)→5:58ハルピン 549キロ 8時間55分
② ハルピン8:50(D28次)→17:53北京 1249キロ 9時間03分
③ 北京西19:31(K471次 )→16:21昆明 3212キロ 44時間50分
今晩から鶏西を出発して、3本の列車に乗り継ぎ、冬の東北から南国昆明に向かいます。乗車距離5.010キロ、乗車時間は62時間48分(3泊4日)にも及びます。今までの中国鉄路乗車では、乗車距離と乗車時間とも最長になります。勿論、もっと長い乗車もできますが、今回は、乗り鉄だけでなく撮り鉄も目的の一つです。昆明ではメータゲージ、重慶では600㎜ゲージが待っています。

▲ 青線が昨日までに乗車した路線、赤線が今回乗車する路線です。

▲ 切符がオンライン化(?)されて、今迄できなかった乗継乗車も簡単にできるようになりました。ただ、日本のように遅れても次の列車は待ってはくれませんので、リスク覚悟が必要です。
【 K7076次乗車 】 鶏西→北京 549キロ 8時間55分
▲ ホテルは駅前正面ですので、発車近くまで部屋をキープしてゆっくりしました。田舎と言っては失礼ですが、軟座待合室は、大都市ハルピンより広くて綺麗です。発車45分前の光景ですが、30分前になるとどっと乗車客が入って満席に立ち席状態となりました。
▲ 乗車後に切符と交換された寝台券。受け取ってびっくり、だいたいは広告なしですが、悩ましげな広告が付いています。お堅いはずの中国鉄路局です。よく許可したものだと、在職中は鉄道広告に携わった者として意外感がありました。日本では、絶対に無理です。デザイン審査許可が通りません。
コンパートメントの同室者から日本語で声をかけられ、こんな所でとびっくりしました。聞きますと、自分は48歳、郷里は鶏西ですが、今は家族一緒で、広島の福山に住んでいます。昨年夏に脳溢血で倒れました。今回、郷里の親戚から中医治療を受けなさいと言われ出てきました。ハルピンに到着後、飛行機で上海へ行き、広島までまた搭乗して当日に帰ります。近くなりましたと言われました。障害も残っているそうです。48歳の働き盛りに大変だなと思いました。
【D28次動車に乗車】 1249キロ 9時間03分
定刻にハルピンに到着しました。乗換まで3時間近くありますが、日本のようにちょっとその辺を散歩など広い中国では考えられません。おとなしく駅前食堂で朝食をとってから、動車(和諧号)待合室で待ちました。軟座待合室より広くてゆったりしていましたが、発車30分前はいつもと一緒の状態でした。

▲ 少し残雪が残る満州の荒野を150~190キロで快走します。以前はもう少し速かったのですが、温州での事故以来、スピードダウン化がなされました。車窓には、ウルムチ同様に風力発電の風車が乱立しています。火力発電に頼る中国ですが、自然利用も結構多く見られました。
【 K471次乗車 】 3212キロ 44時間50分
北京駅には定刻着でしたが、乗り継ぐ列車は北京西駅発です。地下鉄はまだ開通していません。Taxiに乗れば楽なのですが、雨で丁度ラッシュとなりますと、車は動いていません。乗っても昼間の20分程度では到着しないのは明らかです。1時間半以内で確実に着く方法は、近くの地下鉄駅まで行って、後は徒歩しかありません。

▲ 左は北京駅、右は北京西駅。西駅の地铁開通は、今年中だそうです。
北京駅から2号環状線で復興門駅まで行き、1号線に乗り換え軍事博物館館駅で降りれば、1キロ先に西駅が見えます。自転車Taxiがあれば便利なのですが、Taxi同様に空車はありません。時計を見ながら、とぼとぼと雨降る夕闇の街を歩きました。北京西駅が開業して16年以上、首都でもあるのに、どうしてまだ地下鉄が開通しないのか、高速鉄路の目覚ましい開業ぶりと比べると、あまりの差に分らない国の実態が見えてきます。

▲ 北京駅到着後、地下出口通路で新しい2012年3月号時刻表を見つけました。 訪中以来、新しい時刻表を探していましたが、どの駅でも置いてありません。1月号が出ていると思っていましたが、この時刻表は、今迄発行されたことのない3月号です。鄭州鉄道日記さんから電話がかかってきたので知らせますと、自分も1月号を求めたがなかった。それに3月号が1日に出るとは意外です。通常は末日近くに発刊されることが多いと言っておられました。早速、今から乗るK471次の時刻を見ますと、19:23と間違っています。しかし、10月号では合っています。運用の関係で、2~3日は改定前の時刻で運転するのでしょうか? この時間帯は、各地方鉄路局受け持ちの夜行列車の発車がラッシュになりますので、調整が大変でしょうね。
【長距離夜行列車の楽しみは、車窓と食事】
K7076次は夜行でも深夜発早朝着ですので、食堂車の連結はありません。D28次は、動車のためレンジでチンの高くてまずい弁当しかありません。一方K471次は2泊3日も走りますので、勿論あります。受け持ちは、初めての昆明鉄路局です。隣の成都鉄路局は中国一ですので期待したいところです。

▲ 左上から1日の夕食;食堂車に行こうとしましたら、出来立てアツアツの弁当の車内販売がきました。これで20元(約260円)、安くて美味しそうでしたので買いました。ご飯がぱさぱさでなく中々の味でした。右上は、2日の朝食10元です。左下は2日の昼食(20元) 昨日と同じようですが、おかずが変わっていました。右下は食堂車での注文した夕食(64元=約800円)です。選べるおかずは約30種類と豊富です。味もしっかりしていましたが、ご飯がパサパサに変わってしまって上手くありませんでした。

▲ 3日朝の米で作った米麺(10元)。昆明局名物です。昼間は、この列車に乗るのがギリギリでしたので、食堂車が空いていなかったらと駅で買い求めていたインスタントラーメンです。
また食事のオンパレードになりました。車窓を紹介したいのですが、北京を出て以来雨でかすんでいます。窓ガラスは、例によって汚れてスリガラスに近い状態です。
この列車の寝台券です。これが普通ですが、昆明らしく少数民族のお姉さんの写真でもあったら素敵と思います。
3日目に入ると車窓も変わってきました。山水とはいいがたくとも、山の形が違ってきています。

▲ この列車、北京から昆明まで乗りとおす乗客はわずかです。殆どは、途中乗車下車客で、大きな駅では、乗客がすべてすり替わってしまうほどです。終点近くなった紅果駅では約30分の停車時間があって、食堂車のコックさんたちもホームに降りてゆっくりとしていました。雨も上がり、日差しが入っていました。
私のコンパートメントですが、2回ほど乗客が変わりました。そして途中からは個室状態で昆明に到着しました。
ホテルは、ネットで予約済みです。駅前で近いので歩いて行こうと思っていましたら、突然の雷雨です。500mぐらいだったのですが、たまらずバイクTaxi(10元)に乗りました。
Part11 へ続く
第11日目 2月29日
今晩は、夜行列車で遠く昆明まで移動しますので、鶏西での撮影は最終日です。1カットぐらいは、納得できるのを撮りたいと、早朝にヤードに行きましたが、霧です。今まで、快晴ばかりが続いていましたので、霧が出るとは想定外でした。
ズリ山や付近の小高い丘からの俯瞰撮影を考えていましたが、 どうしようもありません。霧が晴れるのを待ちました。
▲ ヤードには、凸型ELが2台、DLが2台と蒸気機関車が4台、昼夜交代のために待機中でした。蒸気機関車は、1340・1369・1437・1544号機です。
運転手と話してみますと、富陽炭鉱と正陽炭鉱に向けて出発すると言われますので、ボケボケ写真になるだろうが、見てみることを主眼に置いて向かいました。

▲ 上左が正陽炭鉱行き、上右が富陽炭鉱行きです。煙は出ているのですが、霧にかき消されました。下左は、杏花炭鉱からプッシュでズリ捨てに上がってくる列車です。霧の中から雪が落ちてきました。零下の中、粉雪ですのですぐに積もりましたが、積雪量はわずかでした。下右は、昨日同様のズリ捨てです。
これは、大きくカーブして富陽炭鉱へと向かう列車です。
かなりの急勾配を爆炎で上って行きますが、雪でかき消されました。
残念ながら、今回はいい写真は撮れませんでしたが、電化・DL化で消えてしまったと言われていた鶏西には、まだ蒸気機関車が活躍しているのが確認できました。電化については、架線を張ればすぐにでもできそうですが、何か進ませない理由があるように聞きます。
と言って、まだまだこの状態が続くとも考えられません。行かれる方は、お早めにとお勧めします
初めての場所でした。列車時刻が分らないので、これが1番障害となりました。それでも踏切番のおじさんにしつこく付いて、過去の通過記録を見せてもらって、何とか撮れました。
いいポイントはいくつかありますが、1日1~2本ですので、覚悟して凍え死なないような準備をして待つしかないと思います。 Part 10 へ続く
第10日目 2月28日
昨日、部屋に戻ってからネット接続に再挑戦しましたが、やはり駄目です。早め寝ておこうとベットに入ってから、ふと書いてあるIPアドレスは本当なのだろうかとの疑問に気づきました。起きて、部屋に置いてあるデスクトップを立ち上げて、ネット接続のアドレスを調べてみると、全く違っています。これでは、いくら頑張ってもできるわけありません。
もう1度、LANケーブルを入れなおして、持込みPCにデスクトップと同じアドレスを入れると、 すんなりと接続OKになりました。多分、接続機器類を取り換えた時に、部屋のPCはアドレス変更したが、表示してあるアドレスは前のままで放置していたのでしょうね。中国では、疑ってみることから始めないと真実は見えてきません。改めて勉強しました。接続できましたので、深夜までPCにかじりついて日本のニュースやらを見ていました。
と、言うわけで今日は5時には起きて、ヤードで終結する姿を撮ろうと思っていましたが、昨夜の疲れか、ぼんやりとして9時過ぎの出発になってしまいました。目的地は昨日のロケハンで電化されていないことが確認できたズリ捨て線です。
まずは本線から分岐して富陽炭鉱へと向かう所までTaxiを走らせました。ラッキーなことに着いてすぐに汽笛が聞こえ正陽炭鉱行きの列車がやってきました。

▲ 10:21、逆向きの1340号機がやってきました。複線に見えますが、左は正陽炭鉱、右が富陽炭鉱への単線です。ここで右側線はカーブして直角に山に向かいます。
たった今、現役の鉄道同好会から嬉しいニュースが入りました。
大学学生支援課より連絡があって、鉄道同好会が同志社大学2011年度地域貢献賞の表彰を受けることが決まったとのことです。この賞は、サークル活動などで顕著な功績のあったサークルを部門別に表彰する制度で、寒梅館夏まつりでの地域の子どもとの交流、同志社EVEでの展示活動などが評価されたとのことです。何かと内に内に籠る時代、積極的に地域・社会との交流を図ってきた、現役の皆さんの活動に敬意を表するとともに、今後の更なる活動の深耕を期待するものです。
なお、表彰式は下記のように行われます。
2012年3月16日(金)14:00~
同志社大学寒梅館ハーディーホールにて
第9日日目 2月27日
ロシアとの国境に近い 黒竜江省鶏西市、近辺には大小たくさんの炭鉱があり、専用線を蒸気機関車が走行していましたが、近年は電化・DL化が進み、残っている可能性があるのは、城子河地区のみだろうとの推測のもとに空振り覚悟でやってきました。
鶏西站のホームに降り立って分りましたが、思っていたよりも暖かい。マイナスには違いありませんが、零下20度はあるだろう、煙も期待できると期待していた冷たさはありません。昨年2月、12月と行ったウルムチの三道嶺の方がまだ冷たさを感じました。
站を出て、まずはホテル探しです。目の前に鉄ちゃんがよく利用する鶏西賓館があります。入って空室はあるか、いくらなのか、部屋を見たいと告げると案内してくれました。通されたのは、3階でPCも置いてあり、そこそこの部屋の広さもあって、朝食付きで128元(約1,600円)とくれば、大歓迎です。
即決で部屋で持込みのPCにLANケーブルをさし込んでみましたら、うまくネット接続ができません。どうしてかと聞くと、壁に貼ってあるIPアドレスを見てセッティングしてもらわないと、接続できないと申されます。
一昔前にはこんなケースが殆どでしたので、手慣れていましたが、OSがどんどん変わってしまったので、さてどこにあったのかと探すのに一苦労です。
ようやく探し当てて、指定された接続コードを全て入力しましたが、撥ねられます。何度やっても状態は解決できずで、担当者を呼びましたが同じでした。
仕方ないと諦めて出かける準備をしていたら、昼夜の交代でヤードに機関車が終結する8時をとうに過ぎていました。 はまり込みやすい性格は損をします。急いでTaxiを捕まえて城子河站の踏切に向かいました。
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第8日目 2月26日
① 黒河20:40(K7036次)→ 7:08ハルピン
② ハルピン22:09(K7075次)→6:51鸡西
早朝定刻にハルピンに到着しました。駅に荷物を預けて街を散策したいのだが、還暦を過ぎた老体はまずは体を休みたいと申します。こんな時に中国のホテルでは、早朝からでも部屋での休憩ができます。夜行列車で到着した者にとって大変ありがたいものです。駅前の龍運賓館(200元=約2,500円)にチェックインをしました。風呂に入って、ゆっくりしてPCでネットを見ながら、考え付くのは、美味しいものです。
ハルピンは3回目の訪問です。中国では一番美味しい水餃子を食べられるのはハルピンと思っておりますので、昼夕食と、散歩も兼ねて石畳の道がある中央大街に行ってみました。この日の気温はマイナス2℃で暖かく感じられました。
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デハ1600形は、関 三平様が解説されておられる通り、昭和17年に10両新製されているが、相棒のクハ1650形の経歴は少々複雑であるのでごく簡単に説明する。
最初に作られたクハ1651~1653は、昭和16年から19年にかけて鉄道省払下げの木製客車の台枠を使用して車体を新製した。スタイルはデハ1600形とは扉位置が異なり、HB車(皆さん言われているブサイクな車両)の制御車として使用され、後に制御器をABF車用に変更された。
昭和27年に戦災国電の復旧名義でクハ1654と1655が作られたが、台車のみ流用してデハ1600形と同形の車体を新製した。
昭和28年にクハ1656~1660の5両を新車として新製したが、台車は中古のTR11を使用した。この時点でMc、Tcともに10両ずつとなり、下2桁同一番号車で固定編成を組み、連結する側の運転台が撤去された。昭和33年から車体更新が実施され、正面窓のHゴム化、客室窓のアルミサッシ化、車内のアコモ改善等が行われたが、最初に作られたクハ1651~1653は、旧車体を廃棄してデハ1600形と同一車体を新製した。
廃棄された旧車体のうち2両分は上田丸子電鉄に売却され、元信濃鉄道買収車のモハ5362、モハ5363の鋼体化に使用された。
戦後の一時期、新宿~小田原間の特急にも使用されたが、晩年はローカル用で、昭和43年から45年にかけて廃車となり、主電動機等の一部電装品は4扉の大型車デハ4000形に流用された。車体は更新されており状態が良かったため振子式の試験車となったクハ1658と幼稚園の図書室に利用されたデハ1601以外は、関東鉄道、岳南鉄道等で再起した。
(1)関東鉄道
クハ1650形が7両入線し、キクハ1~4、キサハ65~67となった。
キクハ1~4
昭和44年に自社工場でキクハに改造した。旧車号は順に1655、1651、1652、1653である。2個エンジンの元小田急御殿場線直通準急用のキハ751~754と編成を組むことが多かった。片運で運転台はキクハ1と3は取手向きに、2と4は下館向きに設置されている。
キクハ1/クハ1655の改造車。1655は、昭和27年に木製省電サハ19023の戦災復旧車名義で台車を流用して車体を新製した。デハとの連結面は広幅貫通路であったため改造時に両側の窓はそのままで通常サイズの貫通扉を設置した。(上45-3-15、下45-9-14 水海道)

キクハ2/クハ1651からの改造車。昭和17年、鉄道省の雑形木製客車の台枠を利用して小田急クハ602として誕生。東急と合併時の改番でクハ1652となった。昭和33年にデハ1600形と同一スタイルの車体を新製して乗せ換えた。同時期にデハが新宿向きを奇数編成に、小田原向きを偶数編成に揃えるため、1601+1651と1602+1652の車号を振り替えたため、クハ1652はクハ1651に改番された。(上50-1-3、下58-5-7 水海道)


キクハ3/クハ1652の改造車。経歴は(鉄道省木製雑形客車)→小田急クハ601→東急クハ1651→小田急クハ1651→車号振替による改番クハ1602→関東鉄道キクハ3。元小田急のキハ752と753の中間車として使用中。(50-1-3 水海道)

キクハ4/クハ1653からの改造車。経歴は(鉄道省木製雑形客車)→小田急クハ603→東急クハ1653→小田急クハ1653→関東鉄道キクハ4。(54-9-14 水海道)

キサハ65~67
旧車号は順に1654、1656、1660である。キサハ65と67は、書類上は昭和48年西武所沢工場製となっている。
キサハ65/クハ1654の改造車。昭和27年に戦災国電の復旧名義で台車を流用して車体を新製した。乗務員室扉は埋め込まれて小窓化された。 (50-1-3 水海道)

キサハ66/クハ1656の改造車で昭和28年の新製車。台車は中古のTR11であった。乗務員室扉が残されている。(58-5-7 水海道)

キサハ67/クハ1660の改造車で、昭和28年の新製車である。写真は無いが形態はキサハ65と同じである。 (50-1-3 水海道)
岳南鉄道
昭和44年から47年にかけてデハ1600形4両(1604、1606~1608)、クハ1650形1両(1659)の5両が譲渡された。
モハ1108・クハ2106
昭和44年、西武所沢工場で更新の上入線した。モハ1108の旧車号はデハ1607、クハ2106はクハ1659である。2両固定編成でモハのパンタは連結面に移設された。




近江鉄道
昭和45年に元東急のモハ201、202、サハ101の車体更新のため、デハ1609、1603、1610の車体を購入、更にモハ201と202をMT編成にするため、西武所沢工場の新製車名義のクハ1201(旧クハ1657)、クハ1201(旧デハ1601)を購入した。サハ101は両運の電動車化してモハ203となった。
その後、三岐鉄道から元小田急デハ1605改造のモハ140を譲受け、モハ205となった。

クハ1201+モハ201(47-5-28 貴生川)
デハ1600形と相棒のクハ1650形は、車体は比較的新しく更新修繕により車内のアコモも改善されていたが、沿線人口の急増により車体の大型化に迫られ、やむなく電動機を流用して大型のセミ新車を製作した。旧車体は状態が良く、ローカル私鉄には手頃なサイズであったため、関東鉄道、岳南鉄道、三岐鉄道、近江鉄道で再起した。
キクハについては、米手作市様のリクエストにより、写真と共にやや細かく書いたつもりである。その割には地元の近江が1枚しかないやんけと言われそうであるが、ネガが見つからず見切り発車したためである。
引続きHB車(皆さんが言われているブサイクな車両)についても小田急廃車後の行方について書いてみたい。
先日の藤本様の投稿「昭和40年ころの浜大津界隈(3)」の最後のほうに、浜大津貨物線の86の写真があり、懐かしくなって、古いネガを探してみました。浜大津貨物線はご存知の通り、江若鉄道廃止と同時に廃止されましたが、最後まで8620が貨車を引っ張って膳所と浜大津の間を走っていました。湖岸側が3線区間となっており、もともと国鉄の線路に当時の大津電車軌道が第三レールを引いて営業したものですから、貨物が通るときはこの区間が閉塞区間となって浜大津から石山寺方面の電車はしばらく間隔があきました。この写真はいずれも1968年11月、丁度廃止の1年前に撮った物で、湖岸道路側から撮った写真にはこの年開催したびわこ博の看板が出ており、現在西武百貨店やマンションが立ち並ぶにおの浜一帯はこの時に埋め立てられたものです。また、このあたりの湖岸道路は確かまだ片側1車線で、湖岸通りより北側には1966年に開業した京阪レークセンターがありました。
私の自宅は大津駅の裏、山手のほうですが、夜になるといつも梅小路へ帰って行く汽笛の音が聞こえてきました。当時、ラジオのベストヒット番組が始まった頃で「9500万人のポピュラーリクエスト」(この当時人口が9500万人だったのでしょうか)を聞いていたときに汽笛が鳴ったような記憶があったので調べてみると、番組は20:00~21:00の放送でした。私のハンドルネーム「大津の86」というのは恥ずかしながら、ラジオ番組にリクエスト出していたときの名前で、40数年ぶりまたこの名前を使うこととなりました。


浜大津貨物線の写真は2,3度は撮りに行った記憶がありますし、一度は父の8mmを借りて島の関付近を撮ったように思うのですが、残念ながらここに載せたもの以外はどうも見当たりません。ネガの状態も悪くお見せできるような代物ではないのですが、つい懐かしくなって出させていただきました。

いっぽうの「日本海」、その源流は戦前まで遡る。日本海縦貫線が全通したのが大正13年のこと、2年後には早くも神戸~青森間に寝台車、和食堂車を連結した急行列車が運転される。戦局の悪化に伴い、昭和18年に廃止されるが、戦後の昭和22年に、大阪~青森間の急行として復活を果たした。
その後、特急だけでなく、急行列車にも愛称を付けることになり、昭和25年10月ダイヤ改正から、この列車には「日本海」の愛称が与えられた。このダイヤ改正では、東海道・山陽本線を中心とした急行12本に「明星」「彗星」などの愛称が付けられた。当初の「日本海」は座席車のみだったが、のちに特2、2等寝台、食堂車が連結され、長距離急行らしい編成とはなるが、日本海縦貫線はまだ電化には程遠い状況で、青森までは23時間近くを要していた。
転機となったのが昭和36年10月改正で、日本海縦貫線では初の特急となる「白鳥」が誕生、有効時間帯の調整のため、「日本海」は時刻が大幅に変更され、さらに新津・新発田経由を改め、新潟にも立ち寄るようになり、大阪~新潟間のアクセスが向上した。その後も、電化の進展により、到達時間も次第に短縮されるようになるが、なにせ長距離を走り抜く客車列車、”遅くて汚い列車”のイメージが付きまとった。
▲新幹線開業直前の山科でとらえた、急行時代の「日本海」(昭和39年)
そして、昭和43年10月改正、日本海縦貫線に待望の寝台特急が新設される。列車名は「日本海」がスライドして使用され、従来の急行「日本海」は「きたぐに」に変更された。
車両は20系オール寝台の9両編成、翌年からは13両に増強される。牽引機は、大阪~米原EF65、米原~田村DE10、田村~金沢EF70、金沢~新津EF81、新津~秋田DD51、秋田~青森DD51だった。
▲特急となった初日の「日本海」を、福井国体のお召し撮影の途上、米原で写すことができた。交直接続はDE10が牽引、DE10としては初の特急牽引となった(昭和43年)▲▲田村以降の牽引はEF70だった
▲DD51に牽かれて奥羽本線を行く特急「日本海」。新設から1年間は20系の9両編成だった(白沢付近、昭和44年)
▲雪煙を上げて羽越本線を疾走する(象潟付近、昭和46年)
昭和47年10月改正で、羽越本線の電化が完成、これで米原~田村間を除いてEL牽引になるとともに、大阪~米原間はEF58牽引に変更される。
昭和50年3月改正で米原経由から湖西線経由となり、客車も14系寝台車となった。季節臨の特急「日本海」1往復が14系座席車で増発され、昭和53年10月改正からは定期列車に格上げされた。この結果、「日本海1・4号」「日本海3・2号」の2往復体制となり、客車はそれぞれ24系25形、24系寝台車となっていた。
その後も改正のたびに、客車編成の移管、共通運用の変更、両数の増減などが行われる。JR化後の昭和63年3月、青函トンネルを含む津軽海峡線開業により、「日本海1・4号」は函館まで延長された。
▲米原~大阪間の直流区間は、当初EF65牽引だったが、途中で他のブルトレとともにEF58に変更された。(山崎付近、昭和50年)
▲「日本海」のEF58牽引は2年半続いた。大阪へ到着後、向日町運転所へ回送されるため、山崎では往復が撮影できた(山崎付近、昭和50年)
▲京都駅を発車した「日本海」の後部ナハネフ20、20系の活躍は7年間続いた(昭和50年)
幼い頃、親父からドイツには“空飛ぶ電車が走っている”と聞かされた。電車は上に電線があってポールかパンタグラフで電気を摂り、下に線路があって車輪が回っているのに、どうして飛ぶのかと思っていた。小学校入学の頃、ドイツの飛行機に被れていた兄に“空飛ぶ電車”について聞いたら、「親父の言っているあれか、ヴッパータルの懸垂電車のことだろう。」と笑いながら言ったが、何処だとはとは教えてくれなかった。雰囲気からどうも「ど」田舎ではないかと思い、親父に「地図に載ってないが、どうやって行くのや。」と聞いてみた。「そうか、化学工業都市で有名な町やが、戦争で壊滅したかな?デュッセルドルフから汽車で1時間ぐらい、どっちの方向やったかな……。」20年前の事となると仕事に関係ある事は覚えていても、それ以外は忘却の彼方となるようだ。それでも印象深いものがあったようで、「川の上を走っていた。」と言ってくれた。
1980年、始めてドイツに行くことが出来た。フランクフルトの本屋で「ドイツの地図が欲しい」と言ったら道路地図が出てきた。西ドイツ圏だけだが、ヴッパータルはデュッセルドルフの東に記されていた。こうなると行って見たい。どんな電車が走っているのか、上野動物園の懸垂電車を一回り大きくしたものだと言うことは文献で知ったが、どんな地形でどんな川の上に線路があるのか、電車の内部はどうなっているのか、知りたいことで一杯であった。
2003年、鹿島さんに連れられ、吉川さんを誘ってのドイツ一周路面電車巡りで、やっと「空飛ぶ電車」を訪ねることが実現した。ところがトーマスクックの時刻表では、細い線がデュッセルドルフから東方向にあることはあるが、駅名も発車時刻の記載もないのである。やはり「ど」田舎らしいと心配になり、鹿島さんに「列車本数の少ない不便なところですか?」と尋ねてみた。「ヴッパータルはドルトムントからケルンへの本線筋にあり、ICではハーゲンの次の停車駅になる、ヴッパー川沿いに細長い町です。ちなみにタル(tal)とは谷又は谷底のことですな。沖中さんの見つけたコース、デュッセルドルフから行くようにしましょう。」と、老人の願いに応えてくださった。
その日は2003年6月20日、朝8時15分頃デュッセルドルフを客車編成で出発。農村風景の中を走ること約45分、鹿島さんは「1駅手前で降りて西端の終点から乗ってヴッパータル市内に入りましょう……。」とおっしゃった。1駅手前(駅名不明)で降りて駅前広場の正面を左折、十字路に出ると「空飛ぶ電車」のレールが空中左右に横たわっていた。暫くすると右(西)から左に2車体1組の懸垂電車が軽い音と共に横切った。次いでカメラを構えていると左から右へ、有難いことに地上の交差点ではバスが渡ってくれた。西端フォルヴィンケル駅へは街路からエレベーターで上がる。終端の奥は車庫を兼ね、本線は手前でループになっていた。以下、写真をご覧下さい。
空飛ぶ電車Hbfで下車、DB・Hbfへは徒歩で約3分。IC3のビュッフェで、生中を乾杯!ケルン経由でボンに向かったのでありました。