「きたぐに」「日本海」を送る (5)

「日本海」 -1-

いっぽうの「日本海」、その源流は戦前まで遡る。日本海縦貫線が全通したのが大正13年のこと、2年後には早くも神戸~青森間に寝台車、和食堂車を連結した急行列車が運転される。戦局の悪化に伴い、昭和18年に廃止されるが、戦後の昭和22年に、大阪~青森間の急行として復活を果たした。
その後、特急だけでなく、急行列車にも愛称を付けることになり、昭和25年10月ダイヤ改正から、この列車には「日本海」の愛称が与えられた。このダイヤ改正では、東海道・山陽本線を中心とした急行12本に「明星」「彗星」などの愛称が付けられた。当初の「日本海」は座席車のみだったが、のちに特2、2等寝台、食堂車が連結され、長距離急行らしい編成とはなるが、日本海縦貫線はまだ電化には程遠い状況で、青森までは23時間近くを要していた。
転機となったのが昭和36年10月改正で、日本海縦貫線では初の特急となる「白鳥」が誕生、有効時間帯の調整のため、「日本海」は時刻が大幅に変更され、さらに新津・新発田経由を改め、新潟にも立ち寄るようになり、大阪~新潟間のアクセスが向上した。その後も、電化の進展により、到達時間も次第に短縮されるようになるが、なにせ長距離を走り抜く客車列車、”遅くて汚い列車”のイメージが付きまとった。
  ▲新幹線開業直前の山科でとらえた、急行時代の「日本海」(昭和39年)
そして、昭和43年10月改正、日本海縦貫線に待望の寝台特急が新設される。列車名は「日本海」がスライドして使用され、従来の急行「日本海」は「きたぐに」に変更された。
車両は20系オール寝台の9両編成、翌年からは13両に増強される。牽引機は、大阪~米原EF65、米原~田村DE10、田村~金沢EF70、金沢~新津EF81、新津~秋田DD51、秋田~青森DD51だった。
  ▲特急となった初日の「日本海」を、福井国体のお召し撮影の途上、米原で写すことができた。交直接続はDE10が牽引、DE10としては初の特急牽引となった(昭和43年)▲▲田村以降の牽引はEF70だった
  ▲DD51に牽かれて奥羽本線を行く特急「日本海」。新設から1年間は20系の9両編成だった(白沢付近、昭和44年)  ▲雪煙を上げて羽越本線を疾走する(象潟付近、昭和46年)
昭和47年10月改正で、羽越本線の電化が完成、これで米原~田村間を除いてEL牽引になるとともに、大阪~米原間はEF58牽引に変更される。
昭和50年3月改正で米原経由から湖西線経由となり、客車も14系寝台車となった。季節臨の特急「日本海」1往復が14系座席車で増発され、昭和53年10月改正からは定期列車に格上げされた。この結果、「日本海1・4号」「日本海3・2号」の2往復体制となり、客車はそれぞれ24系25形、24系寝台車となっていた。
その後も改正のたびに、客車編成の移管、共通運用の変更、両数の増減などが行われる。JR化後の昭和63年3月、青函トンネルを含む津軽海峡線開業により、「日本海1・4号」は函館まで延長された。
  ▲米原~大阪間の直流区間は、当初EF65牽引だったが、途中で他のブルトレとともにEF58に変更された。(山崎付近、昭和50年)
  ▲「日本海」のEF58牽引は2年半続いた。大阪へ到着後、向日町運転所へ回送されるため、山崎では往復が撮影できた(山崎付近、昭和50年)  ▲京都駅を発車した「日本海」の後部ナハネフ20、20系の活躍は7年間続いた(昭和50年)