天然色写真で振り返る40年前の九州(7)

鹿児島市電

西鹿児島駅前に進入する400形(2点とも昭和44年3月21日)

蒸機を巡る九州の旅は続く。相変わらず夜行列車を活用した南北トンボ返りパターンだった。満員の夜行臨時急行「しろやま51号」で西鹿児島駅に降り立った。多くの蒸機が集結する鹿児島機関区でたっぷり時間を掛けて撮影し、久しぶりのユースホステルへ向かう途中の西鹿児島駅前で鹿児島市電をとらえる。
この時代の鹿児島市電、のちに廃止となる上町線、伊敷線も健在で、市電のピークを迎えていた。増加する需要に対処するため、廃止の続いていた大阪市電から大量の車両を購入していた。懐も豊かだったのだろうか、徹底的に改造され、鹿児島市電型ともいうべきスタイルに生まれ変わった。中には鹿児島では初登場となる連接車も含まれていた。
そのような中で現れたのは、412号(400形)と607号(600形)であった。
400形は、元は東京都電の木造ボギーの4000形で、鹿児島で半鋼製の正面二枚窓に改造された。東京と大阪の路面電車が在籍したのも鹿児島だけではないだろうか。しかし、この車両も大阪からの転属車両の増加に伴い、撮影したこの年には廃車されてしまう。

南国らしい駅前に停車中の600形

もう一方の600形は昭和34年の鹿児島生まれ。正面が小大小の3枚窓、方向幕上のヘッドライト、パンタ集電と、典型的な鹿児島市電スタイルである。それ以上に鹿児島を印象づけるのは、この黄と緑の塗装だろう。一見、ド派手な趣味の悪そうな塗装に見えるが、いかにも南国らしい鹿児島を印象付ける色である。事実、のちにクリームに赤帯が標準塗装となるが、リバイバル塗装として、この色が復活している。
この西鹿児島駅前、現在までに2回の路線移設を経て、九州新幹線の終点の駅前としての形を整え、電停名も鹿児島中央駅前となった。少し前、40年ぶりに駅前に立った。低床車1000・7000形が走る市電にも、観覧車がある駅前風景にも、当時の面影はなかった。

江若鉄道高島町駅のこと

しばらく掲示板から遠ざかっていましたが、年末になって思い残してきたことを書き連ねていきます。
まず、西村雅幸さんが以前に江若鉄道のDD13+オハ27を完成され、オハ27が留置してあった高島町駅構内をレイアウトに再現するための資料を求めておられる記事を読みました。
まずは模型の完成をお祝いするとともに、私の撮っていた高島町駅の写真を遅ればせながら載せたいと思います。
高島町は、終点の近江今津に近い主要駅で、一時は終点であっただけに、2面4線のホームのほか、側線も持つ広い構内でした。どうしても車両ばかりに目が行き、なかなか駅の施設にまでは目が行かないもので、私はこんな程度しか撮っていません。なにかの参考になれば幸いです。
われわれの鉄道趣味活動の原点ともいえる江若鉄道が模型で再現されることを願っています。

改札口からホームを見る。

オハ27は下り方ホームに横付けされて留置されていた。

山側から見るオハ27。もう一本側線があった。

高島町の駅名標。楷書の書体も懐かしい。

駅舎正面 (大津歴史博物館図録より転載)

おじん2人ヨーロパ軽便 その23-12

THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その5

小生にしては珍しく約1か月の間隔があいてしまった。やれ嬉しや、この「どこまで続くぬかるみぞ」シリーズもやっと消え失せたか、とはかない喜びを感じた手合いがもし居れば、そ奴に呪いあれッ!

次に訪ねた VALE OF RHEIDOL RAILWAY は旧スレート運搬の産業鉄道ではなく、純粋の観光鉄道で、1902年12月22日開業。軌間1フィート11 1/2インチ(597mm)で、ウエールズ西岸 Cardigan Bay に面するリゾートタウン Aberystwyth の英国鉄道駅から Devils Bridge (滝があるそうな)まで、11 3/4マイル(約19km)の間に600フィート(約180m)程を、Afon Rheidol なる川に沿って上る。180mなんて丘もいいとこだが、そこはそれ、ほとんど山らしい山がない英国・ウエールズのことだから、山といってもいいのか。かつての「ウェールズの山」なる、心温まる映画をご記憶だろうか。

この鉄道はその後 Great Western 鉄道に属したが、その後国鉄に統合され、ご多分に洩れず1988年11月5日一旦停止した運行を、新組織で続けている。いきなり見た機関車はPRINS of WALES なる銘板を付けた3号機で、当線オリジナルの2号、GWR時代は1213号、国鉄時代に9に改番。1902年 Daves & Metcalfe 製1C1タンク。ため色というのか、海老茶色というべきか、実に美しく、かつ軌間からは信じられないほどでっかいアウトサイドフレーム機関車で、サイドタンクが大きく煙室の前まで伸び、さらにその前にエアコンプレッサーがどかんと立っている。連結器はドロップフック。キャブの少し前から幅が広がっているのは何でか。

機関車はこのように素晴らしいのだが、客車はいささか、機関車にマッチしているとは云いかねる。運行は1999年の場合4月2日から10月28日まで、月、金曜日には運休する日があり、大方は Aberystwyth 11時、14時30分発、Devils Bridge 発13時、16時30分の2往復だが、6~9月には4往復する日が計32日ある。運賃は往復で大人10.5ポンドと高いが、小人は大人1人につき2人まで各1ポンド、これを超えると1人5.25ポンド、犬1匹1ポンドとある。一等車は片道1ポンドプラス。他に交通機関はないと見え、運賃は往復のみの設定であった。

上ってくる列車を撮るべく場所を探したが、何分線路両側とも森が深く、おまけに著しく狭く、カーブもきつく、見通しは全くきかない。パンフレットにもあまり展望の開けた写真は無いようで、土地不案内者にはどうしょうもない。走行中の機関車は8号で、これはGWR時代の1923年増備、やはり1C1でGRW Swindon 工場製。名前は「LLYWELYN」 だが、例によってウエールズ語だから何と発音するのか。スリヴェリン?

我々は滝には興味がなく、途中山をやや外れたあたりでの「走り」を撮ろうと、不案内の猛烈に狭い道を山勘で走っていたらタイヤがパンクした。万一に備え軍手まで持ってきてはいたが、弱ったのは道が狭く、もし対向車なり追い越し車がきたらどうにもならない。仕方なく農家の矢張り狭い駐車場を無断で一時占有させて貰い、タイヤを替えた。レンタカーでかなり各地を走ったが、パンクは唯一の経験だった。このお陰で「走り」は諦めざるを得なかった。

Aberystwyth まで下りて来て、British Rail の駅でディーゼルカーを撮ったが、駅近辺に何と何と、単気筒の内燃機関車が半分朽ち、赤錆姿で鎮座しているではないか。ラストン1915年製で、製番50823、煙突まわりは新しい同社DLも同じ雰囲気である。通りかかった鉄道従業員と思しきオッサンは、親切に「こいつはペトロル(ガソリン)で始動、温まったらパラフィン(灯油=米語ならケロシン)い切り替えた」と教えてくれた。そんならフォードソンと同じである。

しかし1915(大正4)年で単気筒とは。我国では実に1904(明治37)年、大阪難波で福岡駒吉が焼玉ではあるが5馬力の単気筒石油発動機関車を生み出し、翌年以降北九州の軌道に約80台を馬車軌道の馬に替わる「日本版アイアンホース」として供給しているから、これは世界的にも誇ってよい。

その隣には1930年製のディーゼル機関車がいた。また現役の10なる短く小さい入換用DLがいた。

CRH2 新幹線初の寝台車となる!!

驚きです。信じられません。あろうことか、何と新幹線が寝台に登場しました!!!

写真: / 写真販売

21日付中国新聞社電によると、北京-上海間で21日、高速車両のCRH2を寝台車仕様に改造した列車の運行が始まった。CRH2は日本で「はやて」、「あさま」などとして運行されているE2系新幹線電車がベースになっている。

中国では、「航空機は豪華、鉄道は最低限のサービス」とのイメージが強い。新たに導入された寝台車は、「航空機以上の鉄道サービス」を実現する計画の一環という。また「夜に乗車、翌朝着」の運行ダイヤで、目的地での時間を有効利用できることも競争力のひとつ。従来の航空機利用客の取り込みを狙う。

写真は、北京駅に入線した上海行きの寝台列車。列車番号はD301。発車時間は午後9時31分。D301は、現在、北京-上海間で建設が進められている京滬高速鉄道を走るのではなく、在来線を走る高速寝台列車として運行する。

これは、是非とも乗車してみなければなりません。会社を辞めてでも行く事にしました。
ただ、持病が悪化して直ぐに動けません。担当医の許可が取れ次第に駆けつけます。

JR東海のニュースリリースより

12月15日付のJR東海ニュースリリース「在来線車両の新製について」の項目の中で「国鉄時代に製作し老朽化した電車127両を廃車して、電車120両を新製すると共に、気動車10両を新製することとし、輸送サービスの向上、および、より一層の安全性の向上を図ります。なお、今回の車両取替により、電車についてはほぼ全てがJR発足以降に新製した車両に統一されます」と記されている。

新製される電車は、同社の主力として活躍中の313系で、投入線区は「東海道線(名古屋地区)、中央線、関西線など」となっている。廃車の127両については具体的な形式は記されていないが、117系72両、119系が55両在籍し、合計すると127両になるので、ほぼこれに間違いないであろう。117系は単純に新車と置き換えが可能であるが、119系がどのようになるのか気になるところである。新車の投入線区に「飯田線」が記されていないが、「など」に含まれているのか、新車を中央線、関西線に投入し、そこから捻出される車両と置き換えのいずれかであろう。あくまで私個人の予想であるが、現在関西線等で使用中の213系5000番台が2扉転換クロスのため、ラッシュ時の客扱いに難があり(但し、使用されるのはラッシュ時のみで昼間は殆ど遊んでいるが)これが飯田線に回るのではないだろか。尚、213系5000番台は、Mc-Tcの2両×14編成=28両が在籍している。

 現在、119系はMc+Tcの2両×23編成=46両(このうち2両×7編成=14両はワンマン運転対応)、両運転台付のMcが9両の合計55両が在籍している。

119系について簡単に解説すると、昭和57年12月から58年6月にかけて飯田線の旧形国電の置換え用として作られた車両で、1M方式の新性能車105系をベースに、飯田線の状況に合わせて、座席をセミクロス、主電動機、制御装置は103系と同じMT55系とし、耐寒装備、抑速ブレーキを付加した。クハの台車は101系の廃車発生品、MG、扇風機は、103系等の冷房改造に伴う不用品の再利用等で新製コストを抑え、クモハ119が33両、クハ118が24両の57両作られた。クモハ119が9両多いのはMc+Mc+Tcの3両編成を9本作るためであった。

 昭和61年11月のダイヤ改正で、主に興津~静岡~島田間で運転されていた「するがシャトル」の113系を他地域に転出し、代わりに119系を転用することになり、7月頃から改造が始まった。内容は冷房装置の取付けと塗装の変更、パンタの変更位のもので、クモハ119の内、7、10、11、23、24、26~28、クハ118の内、4、5、7、14、15、18~20の各8両が改造され、一部は冷房工事が間に合わず塗装変更のみで就役した。

 昭和63年、クモハ119で3両編成の中間車となっていた9両を単行運転用に両運改造をすることになり、2、4、5、7、9、13、15、17、19、33が対象となった。旧形時代は両運改造されると形式が変わったが、形式はそのままで100番台に番号区分されることになり、順に101~109となった。

 「するがシャトル」用に転出した8編成は、駅間距離が長く、運転速度の高い東海道線には不向きで、2年余りで飯田線に戻された。また、全車両に対し、冷房改造が行われることになり、省エネ、低コストのインバータ・クーラーが設置され、車番は従来の車番+5000番となった。

 平成11年11月よりワンマン改造が始まり、次の14両、7編成が対象となった。車番は+300番となり、全車インバータ・クーラー車であるため、5300番台となった。

クモハ119-5318、5320、5321、5324、5325、5329、5330

クハ118-5311、5312、5313、5316、5317、5321、5322

実際のワンマン化は平成13年3月3日のダイヤ改正からで、閑散時間帯の天竜峡~辰野間で実施されている。その後、平成16年10月20日、羽場~伊那新町間で台風による大雨のため路盤が流出したところにクハ118-5316+クモハ119-5324が通過、脱線転覆して大破し、復旧されることなく廃車となった。代わりに118-5005+119-5005がワンマン改造の上、改番された。

さて、我が愛すべき旧形国電の代替として飯田線に配置された119系の活躍が見られるのもあと1年少しとなってしまった。今は訪れる人も少ないかつての有名撮影地が再び賑わうことになるのであろうか。私個人的には中央アルプスをバックに走る119系を記録に残しておきたいと思っている。

(1) 登場間もない頃

 クモハ119-32+119-33+クハ118-24の3連 59.3.23 北殿

 クモハ119-11 59.3.23  辰野

クハ118-7+クモハ119-11 59.3.23  辰野

(2)   するがシャトル

 クモハ119-7   61.8.6 沼津

クハ118-5   61.8.6 沼津

クハ118-15+クモハ119-23   61.12.30 島田 (この時点では冷房装置は搭載されていない。)

(3)   最近の画像

 クハ118-19+クモハ119-27  19.11.3  中部天竜

クモハ119-27  19.11.3  中部天竜

クモハ119-5032+クハ118-5024  19.11.3  中部天竜

(4)   313系

313系は平成19年3月18日より115系3連と交替で入線している。飯田線用として発電ブレーキを装備し、扉は押ボタン式半自動、霜取り用としてパンタグラフ2基搭載し、McとMの車号は1700番台で区分されている。現在3編成在籍している。

クモハ313-1703他3連    19.11.3  中部天竜

北京―上海・北京―杭州鉄道、12月から時速250キロ寝台車両投入

 北京―上海・北京―杭州鉄道は来月、最高時速250キロメートルの寝台車両を投入する可能性が高まった。乗車料金は普通席よりも高く、当初は隔日運行の見込みとなっており、国内初の高速寝台車両の投入となる。「北京晩報」が伝えた。

 鉄道部門関係者によると、新型高速寝台列車は16両編成で、うち先頭の1号車および最後尾の16号車が二等普通席車両、8号車が食堂車、残りの13車両がすべて寝台車となる.

まもなく運行が始まる北京―上海、北京―杭州鉄道で使用される新型高速寝台列車が16日、上海で発表された。中国初の高速寝台車両となるこれらの列車は、21日に北京駅から出発する。時速は250キロ。上海から北京までの所要時間は9時間59分となり、これまでの最短時間よりも1時間29分短縮された。北京―杭州間は11時間となり、「Z」系列直行特急列車よりも2時間近く短縮された。このほか、車内の設備やサービスも改善されたという。

こんな記事が掲載されていました。自国製なのか、客車なのか、初めての電車寝台となるのかは、不明ですが、是非とも初乗車したいとの衝動にかられました。初乗車の際は、また感想記を投稿させていただきます。

三岐の貨物

三岐鉄道で遊んできました。以前から興味はあるものの、少し行きにくい場所であったことから今回初めての訪問です。’66小林隊長と私(’67澤村)は朝8時京阪樟葉駅を出発、新名神経由で10時前に現地に到着。さっそく隊長から単回2002レと貨503レをキャッチせよとの命令が。ロケハンするほどの時間もなく暁学園前付近で列車の通過を楽しみました。

これも単回? 回2002レ 暁��園前-平津(へいづ)

これも単回? 回2002レ 暁学園前-平津(へいづ)貨503レ

貨503レ 平津-暁��園前

貨503レ 平津-暁学園前

その後近鉄富田駅で’67涌田隊員が合流、3名となった小林隊は沿線各地に貨物列車を追いかけたのであります。

貨3716レ 丹生川-三里

セメント満載の?貨3716レ 丹生川-三里

東藤原で入れ換え��、工場引き込み線の勾配をハンプに利用した入れ換えも見もの

東藤原で入れ換え中、工場引き込み線の勾配をハンプに利用した入れ換えも見もの(涌田隊員撮影)

貨3718レ 伊勢治田-丹生川(涌田隊員撮影)

貨3718レ 伊勢治田-丹生川(涌田隊員撮影)

今回は偵察のつもりで出かけたのですが、9時帯から16時にかけて上下12本の貨物列車が設定されており、また沿線各所に展示館、保存車両や模型鉄道まであって一日飽きることのない楽しい場所でした。次回は春先に残雪の藤原岳を眺めながら撮影を楽しみたいと思っています。タキを連ねた列車は模型化も楽しそう・・・

現役時代に見たかった 東藤原

現役時代に見たかった 東藤原

久しぶりに見た102号機といぶき502(最後方)、右下の模型の線路はウィステリア鉄道のレール 西藤原 

久しぶりに見た102号機といぶき502(最後方)、右下の模型の線路はウィステリア鉄道    西藤原 

列車のキー

悪評高い「2ちゃんねる」の愛読者でもある小生は、興味あるスレッドをみつけました。

函館本線での運転事故に関する新聞記事を取り上げていました。記事は次のようなものです。

>13日午前6時15分ごろ、北海道蘭越町のJR函館線蘭越駅で、蘭越発札幌行きの快速列車の男性運転士(25)が、ホームと列車のすき間に運転キーを落とすトラブルがあった。この快速など3本に遅れが出て、約70人に影響した。JR北海道によると、運転士は折り返し運転のため、先頭の運転室に向かう途中にキーを落とした。ホーム上を探したが見つからず、代わりのキーを手配して約1時間遅れで出発。
後続列車の運転士がキーが線路に落ちているのを見つけた。キーは前後の運転室の制御切り替えに必要だった。<

これに対する読者からの書き込みがこれだ。(品がないのはご容赦を!)

>電車にキーなんかあるわけねえだろw エンジンついてるのかよw

>>後続列車の運転士がキーが線路に落ちているのを見つけた
 よほどでかいキーだったんかね?

>電車ではなく気動車

>1時間遅れで70人だもんなw

と、まあこんな具合です。鉄道に趣味がないと言うことは知識もないと言うことですから一般的にはこのやりとりは普通でしょうね。でも、改めて「キー」と言われるとどんなものだったか、昔の気動車ならマスコンにモンキースパナ型のを差し込んで前進位置へ動かせればOKでしたが最近のは分かりません。誰か教えて!電車はキーになってるのかな?

33年前のニアミス

【1123】で8932さんが「EF52さよなら運転」の時に和歌山駅で撮影された画像を公開されたが、実は私も同じ場所で撮影していた。893-2さんが書込みされている通り昭和50年8月24日のことである。

 当日のことはあまり記憶に残っていないが、「きのくに53号」を紀伊駅の近くで撮影しているので、京都の自宅は朝早く出発したと思われる。唯、列車通過まで時間がなかったためか、良い場所では撮影していない。その後、和歌山駅で撮影し、帰りの「きのくに54号」までの間、有田鉄道と野上電鉄に行った。有田鉄道は富士急行から購入したキハ58はまだ使用されておらず、キハ07が使用されていた。また、野上電鉄は富山地鉄からデハ5031、5034、5035、5037の4両を購入した直後で、5034が車庫内で野上仕様に改造中、他の3両は富山地鉄時代のままの姿で留置されていた。

 和歌山に戻り、再度EF527を撮影後、紀伊駅へ、六十谷寄りで「きのくに54号」を撮影した。あの日から33年も経過しているが、感覚的には20年位前のことのように思える。

 和歌山駅構内で展示中のEF527(50年8月24日)

 

 EF527お別れ列車「きのくに54号」(50年8月24日) 紀伊~六十谷

 EF527「きのくに53号」(47年8月6日) 山中渓~紀伊

 

ED608「きのくに55号」(47年8月6日) 山中渓~紀伊

 ED604 貨物列車(47年8月6日) 山中渓~紀伊

 ED607 貨物列車(47年8月6日) 山中渓~紀伊

 EF526 貨物列車(47年8月6日) 山中渓~紀伊

 EF52 単機回送 (47年8月6日) 山中渓駅

 

ED6117+EF58 貨物列車 (50年8月24日) 紀伊駅

EF58の次はマニ60で関西線の荷物専用列車から竜華操車場で切り離され、貨物列車に併結され和歌山まで行っていた。

 EF525+ED60 貨物列車 (46年10月31日) 和歌山

 EF525 新宮発天王寺行115レ (42年5月28日) 長居駅

 

 EF525他重連回送 (49年1月4日) 杉本町駅

名鉄パノラマカー・EVE見学記

名鉄パノラマカーが12月26日をもって定期運用を離脱することが確定した。京阪1900形は10月18日をもって定期運用を離脱、新幹線0系は11月30日で定期運用を離脱し、昭和30年代の名優が揃って引退することになった。最終日に新大阪6時12分発こだま629号に乗った友人の話では、ホームの警備の物々しさに比べ、早朝のためか乗客は少なく、自由席で40%、指定席も空席が目立っていたそうである。

 11月27日、午後から大阪で仕事があり、午前中時間が空いていたので、パノラマカーの撮影を計画した。同社のHPにダイヤが公開されており、撮影には大いに参考になった。東京を朝出発して、午前中撮影可能な列車は、神宮前駅を基準にすると、上りは8時54分発急行内海・常滑行(後4両常滑行がパノラマカー)と11時16分発普通東岡崎行、下りは9時24分発、普通金山行と9時35分発普通岩倉行の4本で、11時16分発の東岡崎行は、9時35分発の岩倉行の折返しのため、撮影できるのは実質3本である。

 当日、東京駅6時発の「のぞみ1号」に乗車、名古屋着7時36分で、パノラマカーは早すぎるため、8時30分頃まで中央線の電車を中心に撮影、211系と313系の併結10連が次々と発着する光景は中々のものであった。また、2扉転換クロスの213系5000番台はラッシュ以外殆ど姿を見せないのでこの時間帯がチャンスである。

 名鉄名古屋駅から豊川稲荷行急行に乗り神宮前へ、ここで撮影するのは30年振りである。まず、内海・常滑行を撮影するが上り電車と被ってしまい、辛うじて後追いで撮影した。続いて上りの金山行を撮影するが、どこからともなく同業者が2人現れた。白帯車であったが、下り電車と被ってしまい、発車直前に辛うじて撮影することができた。この電車は恐らく金山で折返し、回送で戻ってくるが、岩倉行を撮影するため、快速急行吉良吉田行で次の堀田へ、ところが岩倉行はパノラマカーではなく、6000系の4連でガックリ。折返しの東岡崎行も期待できないため、地下鉄で大曾根に行き、瀬戸線の吊掛車を撮影しようと思い駅を出たが、もしかすると岩倉で車両交換するかも知れないと思い、再びホームへ。昭和40年代前半は、7000系の他、5000系高性能車、流線形の3400、830、戦前形のAL車、3700系HL車等バラエティーに富んでいたが、今は6000系と3500系が主力で変化に乏しい。撮影中に携帯の着信音が度々鳴るが勤務時間中のため、これは仕方がない。1編成のみの1380系が撮れたのはラッキーであった。やがてパノラマカーの到着予定時刻になり、ホームの端で待っていると、4コのヘッドライトが見え、7041の編成が来た。やはり岩倉で車両交換したのであった。

 新名古屋の戻り、在来線ホームを覘くと多治見行のラスト2両に213系が連結されていたので大急ぎで撮影後、発車間際の「のぞみ19号」に乗車、午後1時前には楽々新大阪に到着した。

 1. 神宮前を発車した急行新鵜沼発内海・常滑行の8連、後4両のパノラマカーが、太田川で分割し普通常滑行となる。(後追い) (7043-7754-7753-7044)

 2. 神宮前駅に到着した普通知多半田発金山行  (7011-7162-7061-7012)

 3. 本来はパノラマカー運用の普通東岡崎発岩倉行であるが、本日は6000系。(後追い)

4. 先頭のモ6912

 5. 岩倉で車両交換して本来の運用に戻った普通東岡崎行。午前中の運用はこれで終わり。

(7041-7082-7081-7042)

 6.1000系6連の快速特急豊橋行

 7.ク3303他6連の快速急行豊橋行

 

8.モ1384他4連、普通東岡崎行

一部特別車の特急編成 (113411841384133415841534)が平成4年9月、踏切事故で特別車両の1134と1184が大破して廃車となったが、一般車の4両は被害の少なかったため、1384に運転台を取付け一般車とした。車内は特急時代の転換クロスのままであるが、専ら普通列車に使用されている。

 9.ク3521他4連、準急東岡崎行

平成5年から7年にかけて作られた通勤形車で、GTO素子を用いたVVVFインバータ制御車である。

 

10.ク6247+モ6047 普通豊明行

昭和51年から59年にかけて作られた通勤形車で、写真の車は昭和58年製の9次車である。正面のデザインから「鉄仮面」と呼ばれている。

 

11.蒲郡線と広見線の末端区間ワンマン化に伴うポスター

地元では「廃止を前提とした合理化」と相当反発を招いているようである。

 仕事は順調に進み、17時30分に終わった。朝が早かったので(4時起床)、このまま真っ直ぐ帰ろうと思ったが、今日は「EVE」。ここまで来て展示を見て帰らない訳には行かないと思い、新快速で京都へ。会場には18時30分頃到着した。今年の展示のメインは「加悦鉄道」で、DB201の引く客車列車、修復工事中のハ10、キハユニ51の写真等、貴重なものが多く見応えがあった。また、伊賀鉄道のイベントに使用したヘッドマークの実物の展示もあり中々充実していた。個人の好みにもよるが、ここ5年位毎年展示を拝見しているが、今年が最高ではないかと思った。会長の田中君としばし懇談し、青信号66号を購入し会場を後にした。「のぞみ96号」に乗車し、本日3食目の駅弁を食べた後「青信号」を読んだが、読み終えたのは掛川駅通過後で、総本家青信号特派員さんや中国特派員さんの記事もあり、こちらも充実した内容であった。

 おなじみの9mmの大レイアウト

 

伊賀鉄道の行先板(本物)

 加悦鉄道の現役時代を知るものにとっては非常に懐かしく、今尚大切にメンテナンスを行いつつ保存されている状況を知り、安心すると共に、活動が何時までも続けられることを切に願うばかりである。

0系雑感

昨日(2008年11月30日)昭和39年10月1日以来走り続けた新幹線0系が営業運転から引退した。思えば同志社へ入学した年で、8月の夏休み中に試乗会があり米原まで往復した想い出がある。

さて、この引退を巡ってマスコミは一大キャンペーンを繰り広げている。テレビではトップに報道され、新聞でも数面を使って詳細に解説されていた。

たしかに一時代を画した車両ではあったがこのマスコミの報道ぶりにはいささか違和感をおぼえる。涙を流して0系への思いを話す男性、感謝のコメントを書いたパネルを掲げる十に満たない子供をテレビが映し出す。思い入れは人それぞれだから彼ら達には異存はない。しかし、そもそも0系の引退が今日のニュースのトップに座るほどの価値があるのだろうか?マスコミは何を基準にニュースの価値を判断し、軽重を決めるのか。その能力と権限がマスコミにあるのだろうか?かつて某新聞社は自らの政治的プロパガンダのために珊瑚に傷をつけたし某政党を選挙で勝たせるために団結して反対党のネガティブキャンペーンもした。

0系新幹線に話を戻すと今回かなりの国民が“0系”なる新幹線の存在を知ったと思われる。これはマスコミがその様に意図したからに他ならない。自分も鉄道が好きだから引退すると聞けば惜別の情は湧く。でも泣いたりプラカードを立てて見送る気にはならない。車両はいつか更新されるものであり、それであるからこそ趣味の対象となりうる。泣き叫ぶほど擬人化したり、過度の思い入れは趣味の対象への行動としては鼻白む思いがするのだ。

マスコミは株式会社○○新聞社であり××テレビである。利益を出すために今度はこれを煽ってやろうと思えばその様に番組を作る。われわれはそれを見抜く眼力が必要になってくるのでは無かろうか。

それにしても我が愛するスハ43や80系の引退時にもこんなイベントが欲しかった!

貴志川線

乙訓の長老より9月30日【360】「竹藪の傍」の中で1958年和歌山電気軌道時代に撮影された、モハ205、モハ206、クハ801の画像を公開されたが、この時代の画像は極めて少なく非常に貴重な記録である。

私が訪問したのは南海合併後の昭和40年1月17日と翌41年2月27日で、長老が撮影された当時の車両が、パンタ化されて活躍していた。

.歴史

貴志川線の歴史について簡単に述べると、大正3年6月3日に創立された山東軽便鉄道が前身で、大正5年2月大橋~山東(現伊太祁曽)間蒸気列車で営業開始。大正6年大橋~中之島間延長するも、大正11年7月国鉄紀勢西線開通に伴い、中之島~田中口間を廃止し、田中口~東和歌山間を新設。昭和4年11月、社名を山東軽便鉄道から山東鉄道に改称しガソリン車を導入。昭和6年4月、社名を山東鉄道から和歌山鉄道に改称。昭和8年8月、山東を伊太祁曽に改称し、伊太祁曽~貴志間を開業した。

戦時中、燃料入手難から電化を計画し、昭和16年12月東和歌山~伊太祁曽間、昭和17年12月伊太祁曽~大池間、昭和18年2月に全線の電化が完成した。当時、ガソリン動力の鉄道は、燃料入手難から蒸気動力に逆戻りしたケースが多かった中で、電化を選択したのは先見の明があったと言えよう。

 戦後は経営難のため昭和32年11月、和歌山電気軌道に吸収合併。昭和36年11月和歌山電気軌道が南海電鉄と合併したため、南海電鉄貴志川線となった。昭和39年5月、集電装置をポールからパンタに変更。昭和43年3月1日、国鉄が東和歌山駅を「和歌山」に改称したため当線も同時に改称。昭和43年6月、高野線の平坦区間で使用されていたモハ1051形8両とクハ1801形4両が転入し在来車を置換え。昭和46年8月、モハ1201形10両転入により、モハ1051形とクハ1801形を置換え。平成7年2月、高野線22000系を貴志川線用に改造した2270系6編成が転入し、モハ1201形を置換え。同年4月1日ワンマン化。平成16年9月30日、南海電鉄が貴志川線の廃止を申請。平成17年2月28日、後継事業者を両備グループの岡山電気軌道に決定。平成18年4月1日、和歌山電鐡として再発足した。

.車両

昭和40年1月の時点での在籍車両は電動車8両(モハ201、203、205、206、601~603、605)、制御車3両(クハ802~804)の計11両で、翌昭和41年2月の時点では、輸送力増強のため本線から付随車が2両(サハ1821、1827)転入して13両となった。湯口先輩もふれておられたが、気動車からの改造車が電動車4両、制御車2両の計6両が在籍し約半数を占めていた。以下、画像と共に簡単に紹介したい。

 モハ201

元和歌山鉄道キハニ201、昭和6年小島工業製のガソリンカー。昭和17年8月電動車に改造した。和歌山寄りに荷物室と荷物扉が設置されていたが客室化されていた。

 

(昭和41年2月27日)

モハ202

元和歌山鉄道キハニ202、昭和8年日車製のガソリンカー。昭和17年5月モハ201と同時期に電動車に改造した。正面は変則3枚窓で、以前は和歌山側に荷物台が付いていた。

 

(昭和41年2月27日)

モハ205、206

元江若鉄道のキニ1、2を終戦後の昭和22年10月に譲受け、翌年電動車に改造した。江若鉄道では燃料不足もさることながら、小型のため持て余していたものと思われる。製造は昭和6年川崎車輛である。

 (昭和41年2月27日)

モハ601、602

昭和30年、元阪急の車体に南海より譲り受けた台車、終戦直後63形投入の見返りとして入線した元東急(京浜急行)の木製車モハ501、502用の電動機の予備品を組み合わせて誕生した。モハ601は阪急63形の70(大正10年梅鉢鉄工所製)モハ602は51形の60(大正9年梅鉢鉄工所製)である。製造時は木製車であったが、昭和25年に台枠、屋根、主要機器を流用して鋼体化が実施された。

(昭和41年2月27日)

(昭和40年1月17日) 

モハ603

東急から譲り受けた木製車モハ501の車体の老朽化が激しいため、昭和31年、元阪急81形84(大正12年川崎造船所製)の車体と振り替えた。

 

(昭和40年1月17日)

モハ605

長老が紹介された片ボギーのクハ801の代替として昭和34年に登場した車両で、車体は元阪神の701形702に南海から購入した台車、電動機の組み合わせである。(台車はその後603と振替)車体は昭和7年大阪鉄工所製。尚、阪神701形は野上電鉄にも704、707、710の3両が入線し、廃止まで使われた。

 

(昭和40年1月17日)

クハ802

元片上鉄道のガソリンカー、旧車号はキハニ102、昭和6年日車製である。昭和30年ナニワ工機で制御車に改造の上入線した。片上鉄道では戦時中燃料不足により客車化(フハ102)されており、戦後は岡山臨港鉄道に貸与されていた。

(昭和40年1月17日)

 クハ803

クハ802と同じく、元片上鉄道のガソリンカーで、旧車号はキハニ120、昭和10年加藤車輛製。昭和30年ナニワ工機で制御車に改造の上入線した。この車も戦時中燃料不足により客車化(フハ120)されていた。

 (昭和40年1月17日)

クハ804

東急から譲り受けた木製車モハ502の車体の老朽化が激しいため、昭和30年、元阪急1形8(明治43年川崎造船所製)の車体と振替の上クハ化した。元阪急1形は、戦後京阪石坂線で長く活躍していたので、高齢者予備軍以上の方には馴染み深いと思われるが、8と7は1形中最後までMとして甲陽線で働いていた。昭和30年、夙川駅で7がホームに乗り上げ破損した時、8も一緒に廃車となった。但し、書類上は610形に改造されたことになっている。

 

(昭和40年1月17日)

サハ1827

昭和40年、輸送力増強のため、1821と共に本線から転属した。昭和14年、木製車の台枠他、使用可能な部品を使って鋼体化した「簡易半鋼車」と呼ばれたグループ。本線では17m車のため中形車の部類に属していたが、貴志川線では超大形車に見えた。

 

(昭和41年2月27日)

貴志行の混合列車

貴志川線は昭和43年まで貨物営業を行っており、混合列車が運行されていた。

 

(昭和40年1月17日)

クハ801(廃車

長老が【360】で紹介された、クハ801の廃車後の姿であるが、ご覧のように集電装置はボウが付いている。集電装置は、当初大阪軌道線のパンタ化で不要になったボウを使用する予定であったが、この車でテストをしたところ結果が芳しくなかったため、結局パンタに変更となったと思われる。

(昭和40年1月17日)

 モハ300(廃車体)

昭和18年12月、大池~貴志間の電化により全線電化が完成したが、その時に南海電鉄より軌道線の電2形57(大正10年川崎造船製)を譲受け鉄道線用に改造した。昭和30年7月に廃車となったが、昭和40年まで廃車体が残っていた。

(昭和40年1月17日) 

モハ1058

昭和43年、在来車の置換えのために転入した車で、高野線の平坦区間で使用されていた。モハ1058は、昭和24年川崎重工泉州工場製のクハ1844を貴志川線転属の際、電装したものである。

 

(昭和46年10月31日)

 モハ1214

昭和11年日車製、この車は昭和47年水間鉄道に売却され、同社のモハ508となっている。

 

(昭和46年10月31日)

 モハ1220

昭和12年汽車製造で、前述のモハ1214より窓の上下幅が広くなったため、保護棒が設置されている。この車は昭和47年京福電鉄福井支社に売却され、同社のホデハ2008となった。尚、モハ1201形は車両交換が行われていたことを、本稿を入力して初めて知った。

 (昭和46年10月31日)

モハ1214+モハ1213 (昭和46年10月31日)

モハ1220+モハ1221(昭和46年10月31日)

 以上、過去貴志川線で活躍した車両を簡単に解説したが、モハ2270系と交替するまで働いたモハ1201形、元高野線の急行車クハ21201、モハ2270系及び和歌山電鐡転換後の状況、「いちご電車」「おもちゃ電車」「たま駅長」の話題等について報告いただけると有難く思う。

 

おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-11

THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その4 TALYLLYN RAILWAY その2


タリスリン鉄道始発駅 いかにもこじんまりとし、実に綺麗である ポストはやっぱり赤い

17号客車 日本にも明治時代あったメトロポリタン製で、コリス鉄道から到来


3コンパートの2軸車

終点駅で

先述のように、この鉄道は本来終点→基点(港)間のスレート搬出を目的とする産業鉄道だったから、途中駅は大した側線もない単なる停留場ないし離合施設だが、沿線には羊の放牧場が展開している。道路や隣接放牧場とは背高の生垣で仕切られ、戦車なら別だろうが、突き抜けたり、上を越すなど物理的に不可能で、考えすらも及ばない程厳重で深くびっしり詰まった茂みである。


僅かだが羊が点在している

マン島でも記したが、これはまさしく高校の西洋史で習った「囲い込み運動」Enclosuer Moovement の表徴なのである。すなわち土地所有者は、それ以外の者の自己土地立入を極めて厳しく拒絶していることに外ならず、我々農耕―中でも水耕―民族には理解の及ばない、それはそれは厳重な拒否表現である。土地立入や通り抜けが銃撃を伴う争いになる西部劇のテーマが多いが、牧畜民族の(広大な)土地に対する執念は、土地本位制とまでいわれる日本人の土地に対する価値観念とは、別次元のものがある。

それでいて面白いのは、恐らくは英国特有の事象であろうが、非土地所有者は「通行権」なるものを裁判で土地所有者から勝取っている。厳重に囲い込まれた放牧場の中に小道が、縦横とまではいわないが走っていて、これが「通行権」によって設定された道= Foot Path なのである。シャーロック・ホームズシリーズに4つある長編のひとつ「バスカーヴィル家の犬」に、村の裁判マニヤの爺さんが、誰それの土地に「通行権を設定してやった」と威張る一幕がある。

そこで問題です。上記のように放牧地は厳重極まる生垣に囲まれているのに、フット・パスはどうしてそれ越えるのか。この鉄道のとある途中駅に近づき、車をおいて小路を歩いたが、駅目前に到り厳重な扉があって近づけない。鍵はないから開けて入るのは容易だが、これが私有地だったら侵入すなわち犯罪になる。標識の類は何もなく、結局我々は入るのをあきらめた。帰路行き違った人に聞くと、あの柵を開け、そのあと閉めておけばよいとのことであった。これが「通行権」かと、身をもって体験した事であった。


鉄道に募金を呼びかける看板

なおマン島 Grodle Glen Railway (555=10月9日)、ウエールズの Welshpool & Llanfair Railway (1035=11月10日)で、BANK HOLIDAY とは?との疑問を呈した。澤村達也氏から、これは英国の休日のことだとご教示があり、辞書をひくとちゃんと出ているではないか。すなわち拙老の「もの知らず」以外の何者でもなく、その上分からん事は辞書を引くという、最低限の努力さえ怠っていた事がはからずも露呈した。お詫びして以下の通り加筆しておく。

BANK HOLIDAYS とは、英国の(法定)公休日で、▽New Year’s Day (1月1日)▽Good Friday(聖金曜日=復活祭の前の金曜日) ▽Easter Monday (復活祭明けの日曜日) ▽May Day (5月第一月曜日) ▽Spring Bank Holiday (5月最終月曜日) ▽August Bank Holiday (8月最終月曜日) ▽Christmas Day (12月25日)▽Boxing Day (クリスマスの翌日) 、の8日を示す。

因みに米国では Leagal Holidays と称し、リンカン誕生日、ワシントン誕生日、独立記念日、コロンブス祭などを含む13日の由。


終点駅で 

都電荒川線と阪和貨物線

[967]で都電荒川線が[1105]で阪和貨物線の話題がでましたので、
いつものごとく便乗して投稿します。
私が都電荒川線を初めて見たのは中学1~2年の頃、母方の親戚が東京都
北区の滝野川団地の近くに住んでおり、そこを訪ねるのに京浜東北線の
王子駅から歩いていくときに走っているのを見かけたのが初めてです。
それまでは写真などでしか見たことが無かったので非常に興味を持ち
親戚の家から近いこともあり、数枚撮影しました。
そのときは7020、7505、7512の写真が残っています。

都電荒川線滝野川1丁目付近を行く7505。(昭和50年前後?)


ただ、このときは7000形はすでに車体が更新されており、少しがっかりした
ことを覚えています。そのためか写欲が湧かず(下手な写真の割りに偉そう
ですが)あまり撮影することもなく、またそう東京に来る機会もなく次に
訪れたのは昭和54年の7月にひょんなことで知り合いになった秋田の
年上の鉄道ファンの方を訪ねるときに、当時は秋田新幹線どころか
東北新幹線もなく、特急「つばさ」か寝台特急「あけぼの」が一番早く秋田に
たどり着ける手段だったため大阪からの行き帰りに泊めてもらった時でした。
このときは7030、7031、7502、7505の4輌を撮影しています。
個人的には飛鳥山から滝野川あたりの下町っぽい雰囲気が好きでしたので
(というか怖くて全線乗ってみることができませんでした。今でも東京の地下鉄は
苦手です。)
藤本先輩の撮影されていた写真は子供の頃本やテレビで見た都電そのもので、
直に見られたことを羨ましく思います。

都電荒川線滝野川1丁目付近を行く7031。バックは桜丘高校か?
(昭和54年7月28日前後)

また、先日JR西日本のHPを見たときに「阪和貨物線の廃止について」の
ニュースリリースを見つけとうとう来たかという思いでした。
すでに休止状態でしたが、休止に入る前にすでに廃止が決定的との噂が
流れていたのがいよいよ来たかという気持ちでした。この線は以前阪和線の
話題のときにも書きましたが、自宅が大阪市住吉区長居にあったため
チャリンコで15分くらいで行くことができた場所でした。
子供の頃は営業列車の走らない(「あすか」はすでに走っていませんでした)
不思議な路線でしたが、頻繁に貨物列車が行き来していたので貨物の専用線
だろうなという認識しかなく、関西本線の電化後は藤本先輩の投稿にも
ありましたが時折回送列車が通るようになり、少し車種が増えましたが
それでもなお地道に貨物が走っていました。そのうえ高校が丁度この線の
横にあり授業中によく列車を眺めていました。また、冬場は風向きの関係で
夜更けになるとこの線の貨物列車の汽笛と近鉄南大阪線の大和川橋梁を渡る
列車の音がよく響いてました。結構、夜中でも汽笛が響いていたのを布団の中で
聞いていました。それだけに、感傷的になってしまうのです。
この貨物線を走る電気機関車はバリエーションがありEF52、EF15、ED61、
ED60などやEF58などが走っていました。
特に大型のEF52には重厚さをED60・61には新しさを感じておりましたが
藤本先輩のように綺麗な写真は残っていません。
特に「あすか」などは私から見れば涙物です。
貨物線の写真は殆どありませんが2枚見つけましたのでそのうちの1枚を。

阪和貨物線依羅付近を行くEF52-2牽引貨物列車。(昭和49年頃)

また、藤本先輩の掲載していたEF52-7はさよならEF52の運転となった
臨時きのくに53・54号を牽引した機関車です。そのときは撮影に行きましたので
写真が残っていますが走行写真はとても見れたものではないので、
和歌山駅の側線でファン向けに展示されたときの写真を。
国産大型機として無骨ながら均整の取れたスタイルが好きでした。

EF52サヨナラ運転和歌山駅で展示されたEF52-7。(昭和50年8月24日)

竜華区のカマは貨物にも旅客にも活躍していたためいろんな場面で見ることが
できました。ED61はよく多客期の12系臨時急行きのくにをよく牽引していました。
当時は和歌山以南は非電化のため和歌山駅でDF50からED61などへの
付け替えが頻繁に行われていました。この写真もそんなひとコマです。
よく考えるとこのころの和歌山駅はずっといても飽きない駅でしたね。
国鉄では阪和線の旧型国電・113系やEF60・61、EF52、EF15、紀勢本線の
キハ81、キハ82、キハ58、キハ35、キハ40、キハユニ16、南海電鉄のキハ55、
貴志川線の旧型電車、和歌山線のキハ52やDF50の客レや貨物など非常に
バラエティに富んで(車輌の掃き溜めとも言えましたが)ました。
和歌山駅で機関車を付け替え出発を待つ12系臨時きのくに牽引はED61-17。
(昭和50年頃)

時代の流れで廃線や休止路線がでるのは止むを得ないですが、やはり子供の
頃から馴染みのある路線が廃止されるのは残念です。
相変わらず先輩方とは異なりいい加減な記憶と下手な写真で申し訳ありません。

阪和貨物線廃止

JR西日本は11月17日付けで近畿運輸局に関西本線八尾と阪和線杉本町を結ぶ通称阪和貨物線(正式には関西本線の一部)の廃止届を提出した。「問題なし」と認められれば、1年後の平成21年11月18日付けで廃止となる。理由は「平成16年7月以降使用を停止しており、今後も使用する予定がないため」としている。

阪和貨物線は関西本線と阪和線の短絡を目的として昭和27年9月1日に開通した。当線を走った定期旅客列車は、名古屋発着の「くろしお」の車両基地への回送を兼ねて、昭和40年3月1日から昭和42年9月30日まで東和歌山~名古屋間を運転された特急「あすか」のみであったが、臨時列車、団体専用列車は時折運転されていた。記憶に新しいところでは、昭和62年に京都から奈良線、関西線、阪和貨物線、阪和線経由で紀勢本線白浜まで381系で運転された「ふれ愛紀州路号」がある。また、昭和48年9月20日、関西本線湊町~奈良間が電化された際、当初線内に電車区がなく、昭和60年3月奈良電車区が開設されるまで同区間に使用される電車は日根野の所属で、当線を経由して送り込みが行われた。(これが原因で奈良電車区の103系は向きが逆になっている)

 杉本町駅から阪和貨物線に入る東和歌山発名古屋行特急「あすか」   (昭和41年5月27日撮影)

途中の停車駅は、堺市、王寺、奈良、伊賀上野、亀山、四日市であった。和歌山、奈良から名古屋へのビジネス客を意識した時間設定であったが、乗り換えが伴っても新幹線や近鉄特急を利用した方が速かったため乗車率は低迷した。また、「あすか」の停車に合わせて「金岡」は「堺市」改称した。

 クハ111-32を先頭とする回送電車で吹田工場からの出場車           (昭和48年11月11日)

 ED608の引く和歌山方面行貨物列車 (昭和48年11月3日)

ED60のラストナンバーで、昭和35年川崎重工兵庫工場製。新製以降昭和61年廃車になるまで、一生を阪和線で過した。

 

 EF527の引く竜華操車場行貨物列車 (昭和48年11月3日)

昭和2年川崎重工兵庫工場製。最初の配置は国府津区で東海道本線東京口で活躍。その後中央東線用として甲府区に転属、昭和32年鳳区に転属した。昭和51年廃車となったが、生れ故郷の川崎重工業兵庫工場で保存されている。 

 EF15120の引く竜華操車場行貨物列車 (昭和48年11月18日)

昭和29年三菱重工三原工場製。最初の配置は新鶴見でその後宇都宮に転属、再度新鶴見に戻り、昭和45年に竜華に転属してきた。昭和58年に廃車となったが、摂津市の新幹線公園に保存されている。

 

 ED604の引く竜華操車場行貨物列車 (昭和48年11月3日)

昭和33年汽車製造大阪工場製。当初作並機関区に配置され、仙山線の直流区間で使用、2年後の昭和35年鳳区に転属、以降昭和60年廃車になるまで阪和線で活躍した。

 

 ED6117 (昭和49年1月4日)

昭和34年東芝府中工場製。当初甲府区に配置され中央東線で使用、昭和47年に竜華区に転属、昭和53年、浜松工場で飯田線用のED6216に改造された。阪和線のED61は、17、18の僅か2両の在籍で、しかもED62に改造のため昭和53年に姿を消したため、あまり目立たなかった。

行橋区のC5058のこと

以前にK.H.生さんからのコメントで行橋のことが話題になり、行橋機関区の名物だったC5058の写真を載せますと約束してから随分時間が経ってしまいました。やっとネガを探し当てましたので、ここに掲載いたします。
撮影した昭和42年当時、行橋機関区には、C50が5両配置され、田川線、日豊本線で旅客列車を牽くほか、入換用としても使われていました。当時、日豊本線は新田原まで電化が完成していましたが、一部はまだ蒸機牽引で残っていたのです。
写真のC5058には、門鉄デフに波と千鳥の装飾が入っています。門鉄デフ機に装飾のあるカマは九州で何両かあり、いちばん有名だったのは「かもめ」牽引用のC5711です。我らが山科の人間国宝が撮られた最盛期の貴重な写真が雑誌にも発表されています。ほかにも数両がありましたが、すべて旅客列車の先頭に立つC55、C57ばかりで、C50のような入換用が主務のカマに装飾が施されたのは唯一この58号だけと思います。
C50の牽く旅客列車は小山区の両毛線・水戸線が有名でしたが、ほかには行橋だけでした。それだけに客車列車の先頭を行くC50に少しでも華やかさを演出してやりたいという区の思いがあったのでしょうか。
蒸機の中ではいちばん地味で目立たなかったC50ですが、他区のようにトラ模様に塗られた入換のC50とは、別形式のような整備の行き届いた好ましいスタイルです。行橋に限らず、若松、直方、後藤寺と、筑豊の機関車はたいへん美しかったのです。
最近、「ばんえつ物語」用のC57180が門デフになり、しかも波と鴎の装飾入りと取って付けたような姿になったのには驚かされました。

デフに波に千鳥の飾りをつけたC5058

門司港発柳ヶ浦行1529レを牽いて夕方の行橋を出発(昭和42年3月)

 

おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-10

THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その3 TALYLLYN RAILWAY その1

TALYLLYN はウエールズ語だから、L が二つ重なった場合に限り先のL はスと発音するので、タリスリンと読む。軌間は2フィート3インチ(685.8mm)という半端な、実に可愛い軽便鉄道で、ウエールズ編最初に入れた The Great Little Trains of Wales パンフからの地図では⑤である。

後日紹介する幾つかの鉄道と同じく、これはウエールズ特産のスレートを港まで搬出するための産業鉄道であった。1866年12月に開業し、1950年10月廃止されたが、翌年保存鉄道として再開し、かような分野では最古参になる。延長は約12.5km、起点の Tywyn (どう発音するか分からない)Wharf をゼロとすると、ほぼ上り勾配が続くが、終点の Nant Gwernol は269フィート(82m) だから大したことはない。

日本の建築用材料でスレートというとセメントやガラスウールで作った人造素材だろう(乙訓老人よ、解説を)が、本来は天然素材で、結晶板を薄く削ぎ、石造や木造建築物の屋根、壁面などに貼り付ける。南部の石炭(ジョン・フォードが都合4回アカデミー監督賞を得たそのひとつ「我が谷は緑なりき」を思い出す人もいるだろう)と共に、ウエールズ北部はこのスレートが特産物で、採石場がいっぱいあった。当初の橇や馬車から、軽便鉄道を敷設して港まで本格的に搬出されだしたのだが、本来大規模な綿織物業者だったこの鉄道の創始者は、南北戦争のため米国から原綿の輸入が止まって商売が出来ず、スレートに転進した由である。

ヨーロッパの軽便鉄道といってもいろいろある。日本でなら例えば伊予鉄道がドイツ系、小坂鉄道が米国系の車両・流儀で建設され、英国系は青梅鉄道が代表であった。諸兄頸城鉄道自動車に廃止まで健在(実はその後何十年も六甲山中で生き残っていたのに、先年他車両搬出時壊れてしまった)だったニフ1という2軸客車をご記憶か。これは本来青梅鉄道の客車が魚沼鉄道を経たもので、これがいわば英国軽便鉄道系というべき小型客車である。

機関車も写真で見ると可愛いが、軌間に比し9~12トンと、そうは小さくなく、メーカーはフレチャー・ジェニングス、カー・スユアート、アンドリュー・バークレイなど。番号だけでなく、各タリスリン、サー・ハイドゥン、エドワード・トーマス、ペーター・サムなどの固有名詞を持つ。中にはお子様向けに煙室扉に「機関車トーマス」のお面?を付けたものもいた。


客車は4輪車とボギー車だが、その4輪車の可愛い事。特に1等車は2コンパートメントで、我々は共通乗車券に加え1ポンドの「お直り券」を奮発し、道後温泉に行く「坊ちゃん」気分を味わった。車内は当然狭いが、隣のコンパートメントとは高い背もたれと鏡で完全に仕切られ、窓は皮ベルトの穴に車体側のポッチをはめ、適当な位置に止められる。これは完全に馬車の名残で後自動車にも用いられたが、ずっと以前ドイツはキームゼー・バーンの客車で説明した時は写真がなかった。今回写りこんでいる不要な人物は無視して、「窓を途中好きなところに止められるシステム」のみご覧を。なお拙老の記憶に誤りなければ、関西国電に初登場した湘南=クハ86の運転席小窓がこれだった。パンタグラフ式バランサーが普及して姿を消した。



お直り券表裏 1ポンドとるにしてはお粗末

我が家の江若鉄道に仲間が増えました

8月3日にDD1352とオハ4連、8月15日にワフ450の写真をご笑覧頂きましたが、その後YAHOOオークションで天賞堂のDD13を手に入れて、江若DD1351に改造しました。改造前のDD13DD1352、オハ4連、ワフ450の塗装も終えたのですが、特にワフには江若の社紋がないと ただのワフにしか見えず、思い切ってオリジナルの江若インレタを特注し お化粧してやりました。今後の江若車両の増加を見越して いろんな大きさの社紋を作り、全車に貼って ぐっと江若らしくなりました。更にYAHOOオークションで珊瑚のキハ05キットを入手しましたので、これをキハ14に仕立てようとたくらんでいるところです。作りかけのオハ27 3両の完成がいつになるか・・・ 今年のスキーシーズンには間に合いそうにありません。車両ばかりでなく レイアウトセクションも作りたいと考えていて オハの留置されていた高島町駅を再現したいのですが、駅舎や駅構内の写真が少なく、行き詰まっています。諸先輩方で高島町駅の写真をお持ちであれば、是非お知らせ下さい。

おじん2人ヨーロパ軽便 その23-9

ウエルシュプールで

THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その2  Welshpool & Llanfair Railway 2

この鉄道は1903年開業、1923年にはGWR(Great Western Railway)のグループになり、1931年旅客取扱を停止、1948年には British Railways の傘下になったものの1956年1956年11月2日最終に廃止。その後有志の手で1963年再開されたものである。運行は8月がフル、6月に7日、7月に5日の非運行日があり、4月は14日、5月12日、10月9日、11月5日のみ運行=1999年現在。現時点の運行日はインターネットのサイトで確認頂きたいが、大体同じようなもの。

現在ではボランティアによるレストアの結果可動車両も増加し、さらに客車を含め仲間入りした車両も増えている。我々が覗いた時点列車は3往復だが、ここでも Special Timetable will operate on BANK HOLIDAYS として、年間6回6往復の日がある。この Bank Holiday はマン島の Groudle Glen Railway でもお目にかかった表現だが、銀行休日というのがいまいち理解できない。ボランティア・スタッフに銀行員がいるから、というのでもなさそうで、どなたかご存知の方、解説してくだされ。

さて列車撮影にかかる。ここも沿線に羊の放牧地が多く、例により厳重な生垣で線路両側が閉ざされて撮影場所選定は厄介である。それでも車を走らせているうちに好適地を何か所か発見。列車速度が遅いので、ある程度追っかけも可能であった。また踏切は無人停留場に隣接するよう設定されており、駅に接近した列車から機関助手が降りて線路を塞いでいた柵を90度回転させ道路を閉鎖。


なお車両基地には8号(Dougal)なる、キャブ屋根・前後妻板のないチッポケな機関車がいる。1946年バークレイ製、グラスゴーの瓦斯会社で1958年まで働いていたが、滅多やたらと背が低いのは、元来極めて狭苦しい環境で就役するための特注車両だったからだが、時には動くこともある。


第133回同志社EVEのご案内

本日(?)のホームカミングデー、懇親会では、とても有意義な時間を過ごさせていただきました。現会長の田中と申します。

さて、寧静館ではあがってしまって、えらくしどろもどろな回答になってしまいましたが、ここで改めまして同志社EVEのご案内をさせて頂きます。

なお、今後下表の内容に変更が生じた場合、こちらで改めて告知いたしますので、定期的にご覧頂けると幸いです。

問合せ先:田中健文(bth1109@mail4.doshisha.ac.jp)

<場所>

同志社大学今出川キャンパス、寧静館402号室(N402)

<出展期間>

11月25日(火) (16時半~20時半)

26日(水)、27日(木) (10時半~20時半)

28日(金) (10時半~18時半)

※ただし、括弧内に記載した出展時間帯は昨年実績のものであり、今年度スケジュールは11月15日に同志社EVE実行委員会よりアナウンス予定。ですので、時間帯について正式なご案内ができるのはそれ以降となります。・・・が、多分昨年度と似たような時間帯になるかとは思います。

<出展内容(予定)>

・現役生による写真展示

・鉄道模型(Nゲージ)公開

・前面展望ビデオなどの上映