本日行われたカミングデー後の懇親会で、突然床に伏された“山科の人間国宝”は、無事お元気で帰宅されました。皆さま、ご安心ください。人間国宝からも、ご心配を掛けた出席の皆さまによろしくお伝えくださいとの連絡をいただきました。搬送に当たっていただきましたS本さん、付き添っていただきましたT田さま、ありとうございました。
なお、本日行われましたカミングデーの様子については、管理人よりのちほど写真特集で配信されますので、お楽しみに。
本日行われたカミングデー後の懇親会で、突然床に伏された“山科の人間国宝”は、無事お元気で帰宅されました。皆さま、ご安心ください。人間国宝からも、ご心配を掛けた出席の皆さまによろしくお伝えくださいとの連絡をいただきました。搬送に当たっていただきましたS本さん、付き添っていただきましたT田さま、ありとうございました。
なお、本日行われましたカミングデーの様子については、管理人よりのちほど写真特集で配信されますので、お楽しみに。
九州山地を横断する久大本線にはD60が使われていた。久留米側では朝夕に鳥栖区のハチロク牽引の列車もあったが、山間部は大分区のD60が客貨を一手に受け持っていた。D50を二軸従台車にしたD60は、少し前まで、九州では筑豊本線、日豊本線、本州では山口線、紀勢本線、磐越東線と各地で使用されていたが、次第に減じて、当時では、大分区と直方区に残るだけだった。
久大本線は高校生のときに全区間乗車して撮影に適した線であるとの認識はあったが、いざ行こうとしても撮影地ガイド的な情報がない。五万分一の地図で探し求め、見つけたのが由布院付近のΩカーブだった。今でこそ由布院付近は名立たる撮影地となり、また観光地としても著名になっているが、当時はまだ山間の秘湯であった。
由布院駅前に立つと、春霞に包また由布岳が聳え立つ。つい数日前の春の雪で頂上付近は白く化粧している。ここから、野矢、南由布に両方向へ90度近いカーブを描いている。野矢へは25‰勾配が続き、サミットとなる水分峠はトンネルで越えて野矢へ至っている。南由布方面とは線路がほぼ平行しており、はるか眼下に南由布を発車するD60が見え、以来、由布院を通って峠へ向かってくるブラストが延々と聞こえてくる。ひたすらトンネル方向へ歩き、やって来た下り列車をとらえた。門デフを備えたD6061の牽引であった。
余談ながら、この写真の一本前の列車を手前付近でとらえ、当時の「鉄道ピクトリアル」の鉄道写真コンクールに応募したところ、推選に入賞した。縦位置にして由布岳を大きく入れ、登ってくるD60を135mmで正面に入れた構図だった。応募したなかで、本命視していた写真が選外になり、なかばアテ馬的に応募した写真が推選となった。選者の高松吉太郎さんから「日本画を見るような柔らかさの中に力強さを感じる」とコメントをされ、なるほどそんな見方もあるのかと思ったものだ。以来、写真の評価など、十人十色だと思うようになった。
THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その1 Welshpool&Llanfair Railway 1
1999年7月20日、我々は早朝リバプールのタウンウオッチングを兼ね、昨夜「素面」の内に確かめた河底トンネルでの町脱出ルートを再度確認。レンタカーを借り出し、先ずは銀行を探したが見付からず。走り回っている内に方角を失うなどし、約1時間遅れて出発。昨夜、今朝と確認を重ねたややこしくやたら狭いインターチェンジで見事間違ってやり直すなどややパニック気味で30分をロス。河底トンネル通行料は1ポンドだった。
これから4日間はウエールズの軽便鉄道を巡るのだが、英国の中の異国と称せられるウエールズは、未だにウエールズ語が健在で、道路標識も先ずウエールズ語、その下に英語での地名が表示されている。文字はアルファベットでも、発音が独特で、まず読めない。例えば最初に訪ねた鉄道はWelshpool&Llanfair Light Railway だが、頭はウェルシュプールで文字通りでも、次がいけない。常識的?にはランフェアと読みたくなるだろうが、これをスランベイルと読まねばならない。
ウエールズに展開し、互いに競いかつ協力し合っている小鉄道は The Great Little Trains of Wales というグループをつくり、パンフレットの置き合いや、共通乗車券の発行をしている。我々が買ったのは有効期間8日、中4日どの鉄道でも使用可能の Great Little Breaks Ticket で、大人32ポンドと一見高いが、個別に買うともっと高いし、その手間も省ける。現在では10鉄道が加盟しているが、1999年時点では8社(バラ・レイク、ブリーコン登山、フェスティーニオグ、スランベリス・レイク、タリスリン、ヴェイル・オブ・ライドル、ウエルシュ・ハイランド、それにウェルシュプール・スランベイルの各鉄道)であった。購入時は年号のみ記入してくれ、あとは自分で日付を書き込む。
最初に入れたパンフでは8番がウエルシュプール&スランベイル鉄道である。英国では珍しい762mm軌間で、古くは馬車鉄道だったものを蒸気鉄道に改めたもの。元来が農産物や羊の運搬を主目的とする鉄道だったが、1960年、保存鉄道として再発足した由。訪ねた時点では本来の車両は散逸あるいは廃棄されていて、各地―といっても世界的規模?で掻き集めている。それもその日走行していた機関車14号は英国ハンスレット1954年製1C1だが、何とシエラ・レオーネ(アフリカ)から購入したのだからいささか驚く。
同様客車もオーストリーのチラッタール鉄道はじめ、アフリカなど各地から買い集めた由。新旧取り混ぜである。
現在では随分車両も揃い、整備が行き届いている様子だが、1999年でも機関車などは結構どっさり集めていて、一応外見は綺麗だが整備が追いついていないようだった。

先頭はハンスレット製DL

No.10 Sir Drefaldwyn号 これはフランス製

No.12 Joan 西インド諸島で砂糖黍を運んでいた機関車でカー・スチュアート1927年製

No.2 The Countess バイヤー・ピーコック1902年製で、Great Western鉄道823号
何度もお断りするように、このときは原因不明のレンズ不具合?で、発色もピントもヌケも著しく悪い。見苦しいがお許し下さい。なお当鉄道のサイトhttp://www.wllr.org.uk/もご覧あれ。
先回の[860]マン島の最後で、4コマ目マンクス電気鉄道のオープン客車を連結している電車を1号と記した。実は老眼鏡をかけるのを怠っていたのだが、その報いは歴然で、クリック拡大したら7号でありました、というお粗末。歳に免じてこれもお許しあれ。
【345】で9月27日に都電荒川車庫で開催されたイベントの模様を紹介した。ご存知の方も多いと思うが、荒川線の前身は「王子電気軌道」という私鉄で、戦時中の昭和17年2月1日付で電力統制、交通統制により、当時の東京市に買収されたものである。昭和42年都電撤去計画が策定された時、荒川線も計画に入っており、モノレール化が検討されたこともあったが、元々乗客が多く専用軌道が多いこと、沿線住民の反対等により存続が決定した。但し、併用軌道の王子駅前~赤羽間は昭和47年11月12日に廃止された。買収路線であるため、「買収都電」が存在した。旧国鉄の「買収国電」は「阪和形」以外は、車齢の若い車両も含めて早々に姿を消したが、「買収都電」は昭和43年まで在籍し、その内の1両は現在も宇都宮市郊外の企業で保存されている。
昭和40年台から現在の車両に変わるまでの間、荒川線で活躍した車両は、下記の通りである。
160形、170形
王子電気軌道200形として昭和2年から4年にかけて201~223の23両が作られた。昭和17年東京市買収時にメーカーの相違により下記の通りの形式に別けられた。
201~207 田中車輛製 → 150形(151~157)
208~215 日本車輛製 → 160形(161~168)
216~223 川崎車輛製 → 170形(171~178)
150形は川崎市電に譲渡した1両を除き、昭和27年3000形の改造種車となり廃車。160形は事故廃車された1両を除き、昭和42年~43年に廃車。170形は川崎市電に譲渡された1両、3000形の種車となった2両を除き、昭和42年~43年に廃車となった。廃車後176が宇都宮市郊外の企業に屋根付で保存されている。
昭和42年3月25日 大塚駅前
昭和41年3月11日 王子駅前
1000形
昭和7年から11年にかけて木製車の台車、部品を使用して作られた車両である。昭和40年頃の状況では、160形、170形は主力として終日使用されていたが、昼間は殆ど見かけなかったので、ラッシュ時以外はあまり使われていなかったのかも知れない。
昭和41年3月11日 須田町
荒川線で撮影したものがないので20系統を掲載した。20系統は江戸川橋から護国寺、駒込千駄木町、上野公園を通り須田町を結んでいた。
2500形
1067mm軌間の杉並線の廃止に伴い、1372mmに改軌の上、転属してきた車両で、バス車体の工法で造られた。昭和33年に2501、2502が交通局芝浦工場で、昭和34年に2503~2510が富士重工伊勢崎工場で作られた。車体幅が狭く、乗客の多い荒川線には不向きのため、早々に早稲田車庫に転属した。
昭和41年3月11日 王子駅前
昭和43年9月6日 早稲田(早稲田車庫に転属後)
昭和41年3月11日 王子駅前
3000形
昭和24年から28年にかけて、主に木製3000形、王子電気軌道からの引継車を種車として作られた車両で、一部純然たる新製車も存在する。290両在籍し、4000形、6000形と共に都電の顔として活躍した。
昭和41年3月11日 王子駅前
昭和44年9月13日 王子駅前
19系統は王子駅から飛鳥山まで荒川線を走り、駒込駅前、東大赤門前、神田明神前、須田町、日本橋を通り、東京駅八重洲口を望む「通り3丁目」を結んでいた。
6000形
昭和22年から27年にかけて290両作られた、戦後の都電を代表する形式の一つである。製造年別、製造所別の差異、初期の車両は更新による差異があり、細かく観察すると興味が尽きない。6000形については、江本廣一氏著、ネコ・パブ社RM LIBRARY19「東京都電6000形」に詳しくかつ判りやすく解説されているので、興味のある方はお読みいただきたい。
【345】で紹介した保存車6086は、昭和24年日本鉄道自動車製で、昭和41年大栄車輌で車体の更新修繕を施工している。
昭和52年1月24日 荒川車庫前(荒川線で現役の頃)
昭和52年1月24日 荒川車庫前(昭和26年 局工場製)
7000形
6000形に代わって昭和28年から31年にかけて93両作られた。正面2枚窓、前中扉と従来の都電スタイルから大きく脱却し、都民からも大きな関心を持って迎えられ、不満が出ないように各車庫にばらまくように配置された。製造年度によりスタイルに差があり、28年製の7021~7030の10両は旧型車の部品流用車である。現在の7000形は旧7000形の昭和31年製第3次グループ(7055~7089)の内の31両で、昭和52年から53年にかけて施工された新造車体に乗せ替え時に、旧番の若い順に7001~7031に改番したものである。
昭和52年1月24日 荒川車庫前
8000形
昭和31年から32年にかけて100両作られた。都電の将来を見越して耐用年数を10~12年程度に抑えたため、シンプルな作りとなっている。上記の7000形同様、各車庫に分散配置された。
昭和44年9月13日 王子駅前
昭和44年9月13日 王子駅前
7500形
昭和37年、都電が荒川線のみとなる前の最後の新車として20両作られた。ヘッドライトが2個となり台車と連動して可動した。当初は青山車庫の所属で都心で使用されていたが、路線廃止により余剰廃車となった7517、7519以外は、最終的に全車荒川車庫に集結した。昭和59年から62年にかけて、7502、7504、7508の3両以外は新造車体に乗せ替え、7502、7508は直ぐ廃車されたが、7504は朝のラッシュ専用車として平成10年頃まで使用され、現在「都電おもいで広場」に保存されている。現存車両も車体乗せ替え後20年以上経過しており老朽化は否めず、新製車と代替される予定となっている。
昭和52年1月24日 荒川車庫前
都電荒川線は我が家から比較的近い所を走っている。5年前までは、早稲田から徒歩15分の所に職場があり、会社の帰り、気が向くと、町屋、大塚、王子まで利用した。王子駅前を境に雰囲気が異なり、三ノ輪橋方面は下町でかつての伏見線の雰囲気とダブってくる。今は休日に町屋駅前から利用することが多いが、一日を通して乗客が多く、昼間は5分間隔で運転されているが満員である。しかも高齢者の利用が多いため座席に座ったことがない。7500形の引退が報じられているが、車齢を考えると引続き7000形も引退するものと思われる。
昭和44年に初めて片上鉄道を訪れたとき、国土地理院1/25000の地図「片上」を入手したのですが、その地図は昭和31年発行版で まだ赤穂線もなく、片上鉄道だけというものでした。よく見ると 片上駅の先の煉瓦工場から西に向かって「特殊軌道」が伸びており、伊部の煉瓦工場に向かっているのがわかります。この特殊軌道がどんなものだったのかという疑問を永年抱いていたのですが、この度ようやく謎が解けました。とは言え、軌間、車両などはまだ判っていません。この軌道は「品川白煉瓦」の専用軌道であることが判ったのです。

先月 備前焼まつりに出かけたとき、東片上の郷土資料館を訪ねて 手がかりを掴み 岡山県総合文化センターから「品川白煉瓦株式会社100年史」を取り寄せて、このトロッコ軌道のことが見えてきました。
伊部にある煉瓦工場は当時 備前陶器株式会社の工場で 明治39年には製品を片上港(浦伊部)まで運ぶために3.2Kmの手押しのトロッコが敷設されていたそうです。 備前陶器は日本窯業株式会社を経て 品川白煉瓦の岡山第一工場と名前を変えてゆきますが、昭和3年に浦伊部 すなわち片上駅の先に第二工場が建設されると、第一工場と第二工場間の専用軌道となり、昭和32年頃まで使用されたようです。従って昭和31年版の地図に載っていてもおかしくないことになります。
明治38年当時は「中村組」が請け負って人力でトロッコ輸送していたが、明治末期には馬12頭を持って 常時5~6頭でトロッコを曳かせていたらしい。大正7年頃「難波組」に引き継がれ、御者1名を乗り込ませ馬にトロッコ2台を曳かせたが、単線のため 中間地点の殿土井橋付近に上下退避線を設け、御者と馬の休憩所とした。昭和4年頃には馬15~16頭を持ち、トロッコ台数も42台と増えている。ところが昭和6年に満州事変、12年の日華事変で次々と軍馬として徴発されてしまったため その代替としてガソリン機関車を購入したとある。社史には馬の曳くトロッコやガソリン機関車の写真は見当たらず、未だ謎のままです。どなたかこのトロッコや機関車についての情報をお持ちの方は教えてください。
なお第二工場には昭和19年10月に片上鉄道の側線0.6Kmが入り、その後製品は片上鉄道で出荷できるようになり、特に後年ワム80000などのパレット対応型貨車の登場で 効率化が図れたとの記事もありました。片上駅に多くのワム80000がたむろしていたのもうなずけます。
それにしても燃料が枯渇する戦時にあって 馬からガソリン機関車に切り替えるというのも、不思議な気がします。なおこの軌道跡は県道となっており、遺構を見つけることはできませんでした。広大だった片上駅跡には かつて柵原鉱山から到着した硫化鉱を船に積み込むためのハンプのような登り勾配の線路が一部残されていました。
京阪電車で、まず頭に浮かぶのは「特急」であろう。我々の世代が現役の頃は1900形の全盛期であった。1900形の特徴は、他社の特急車両に固定編成が多かったのに対し、各車単独車両で、自由に編成が組めた点であろう。それ故、○時の特急は「1新車5ピンク」だったとか「4新車2ピンク」だったとか編成そのものが話題になった。「特急」は京阪の看板電車であり、特急を利用できない乗客にとっては「よそ行き」の電車に見えた。私の場合は通学の6年間、通勤の2年間、自宅、通学通勤先の最寄駅共に特急停車駅でないため、急行以下のいわば「普段着」の電車を利用した。その頃の思い出を断片的ではあるが紹介して、同世代の皆様に「ああ、そんなこともあったなぁ」等と思い出していただければ幸いである。
1000系の珍編成
昭和43年10月10日、昼休みにBOXに行くと、京阪で通学していたA君から「宇治行で1100+1000+1200の3両編成を見た。1100と1000は同じ向きに連結されていた」という話を聞いた。午後から授業があったかどうかは忘れたが、直ぐに自宅に戻り、カメラを持って中書島に行き、暫く待つと、1202+1005+1107の3両編成が来た。こんな編成を見たのは初めてで、この電車で六地蔵まで行き、折返しの三条行きを撮影した。
中書島に進入する 1202+1005+1107の3両編成
1005と1107の連結面
木幡~六地蔵間を走る 1202+1005+1107
1107
市電800形連結車
この日は次のようなオマケが付いた。自宅に戻るため中書島から市電⑱(839)で伏見線を北上し、勧進橋まで来たところで、動かなくなり、乗客は全員降ろされた。暫くすると稲荷から来た⑲(852)を頭に連結、先ほど降ろされた乗客を全員乗せて発車して行った。
当時の伏見線は昼間オール800形、ラッシュ時に500形が応援に入り、たまに600形が入った。最新の700形はまず入ることは無く、900形は正月、節分、初午の超繁忙期のみであった。
故障で立往生している⑱(839)の頭に⑲(852)を連結
⑱(839)を牽引して発車
[880] 早川昭文氏投稿の3コマ目写真を要望書込をしたところ、田野城氏からお尋ねが出た。これは拙老に花を持たせようとの温かいお気遣いに違いないが、当方は待ってましたとすぐさま反応し、お誘いにのることにして以下の講釈を。
清朝の廃帝溥儀を傀儡皇帝として強引に満州国の建国宣言をしたのが1932年3月1日。南満州鉄道(以下「満鉄」とする)は1930年以来ガソリンカーを導入していたが、1935年に到り、一挙6編成1~6のディーゼル電気列車を登場させた。一端に500馬力ディーゼル機関と発電機、暖房ボイラーを搭載、手荷物室も備えた流線型ジテ、次いでロハフ、ハフ、他端にやはり流線型の端面を持つハフセの4両が固定編成で、ジテ、ハフセの端面側台車に計4個の150馬力電動機。ジテを除く客車部分は3車体4台車の連接式である。ハフセの「セ」とは制御室の意味である。

右からジテ+ロハフ+ハフ+ハフセ
6両中4両のジテにスルザー(スイス)製6LDT25、2両が新潟鐵工所製KD6を搭載し、同じ馬力(標準460、最大550)でも前者が4.2t、後者5.88tの中速(現在なら低速)機関である。定員は2等28、3等260、計286人、製造は6編成とも日車で、電気関係は1~4が芝浦、5、6は日立。
勿論これは我国及び満州国の国威発揚を目的とした猛烈な「背伸び」での大デモンストレーションで、鳴り物入りの華々しい登場ではあったが、運転整備132t、電動機が150馬力×4とあっては、そんなに速度が出るはずがない。定員乗車時の重量1t当り機関出力(馬力)で比較すると、登場時点の特急「はつかり」5.78、キハ43000系が3.88、キハ42000が4.69、キハ41000が3.86という数字になり、これに比しこのジテは3.42だった。江若キニ9~13ですら3.45、出足が悪くラッシュに使えなかった東京横浜電鉄キハ1~8が5.00だったのである。キハ42000はご存知東海道線の試験走行で空車だが108kmの記録(1935年7月16日)があり、キハ41000でも100kmに達した記録がある。
多大の期待を背負いながら、現実にジテが投入されたのは特急ではなく、大連-大石橋間の各停仕業=表定速度47.1kmの運行である。その後日本で出現したキハ43000系も機関の未熟と出力不足(上記数値は3.88)が主因でものの役に立たず、国鉄工作局エリート技術者はすべてを燃料事情に帰してウヤムヤに誤魔化してしまった。
なお満鉄と国鉄工作局技術者とは犬猿の仲で、国鉄側はキハ43000に期待をかけたはずだが、結局派手な試験をすると馬脚が表れると知った工作局は、ロクな走行テストもせずに、2両のキハ43000は戦災後浜松工場通勤客車代用に落ちぶれていた。中間のキサハ43500だけは電車の仲間入りし、飯田線で予備、最終キサハ43800→キサハ04301として関西線で生涯を終えている。
なお満鉄では1943年になって、2編成のジテ列車からハフセを外して背中合わせにし、かつ両端のジテの両台車を動台車として試験走行した。すなわち機関出力1000馬力、電動機1200馬力で、ジテは当然スルザー機関搭載車を選んだ筈である。この際は時速100kmを保てたのだが、あくまで試験に止まったのは、到底経済的に成り立つものではなかったからである。
そのジテ列車だが、中華人民共和国になって、ジテを捨て、両端を旧ハフセに、各車3扉と多客化改造し、撫順炭坑の通勤電車に化けていたのであった。ベンチレーターもグローブ式に替えられている。誕生以来実に73年が経過しているから、その長命ぶりというか、保ちの良さ、いや保たせの良さにはホトホト関心嘆息するほかはない。写真で見る限りそう荒れ果ててもおらず、面影は充分に残している。
先日、乙訓老人に引っ張られて、京阪中之島線の終点に聳え立つリーガロイヤルホテルを訪れた。ここで来たる12月6日(日)に「昭和と京阪電車とドイツの路面電車」と題する京阪中之島線開業記念の講座が開かれる。講師の名前を見てほしい。なんと我が乙訓老人である。
この日は、会場の下見をするために訪れ、帰路に「掲示板に載せといてくれ」とチラシを渡されたのである。講座の内容は、老人が三歳のときから京阪に親しみ、「将来は京阪の社長になる」と小学校の卒業文集にまで綴った、京阪への愛惜の思いを吐露し、合わせて電車の母国たるドイツの路面電車も加えた、絢爛豪華なスピーチとなっている。リーガロイヤルホテルと言えば、大阪を代表する格式あるホテルである。乙訓老人の品格と、ホテルの格式が見事に一致した、稀代の講座と言えよう。
大は数百人から小は2、3人まで、老人は多くの講演を経験してきた。ところが、それらはすべてタダであった。今回は、金3300円を徴収する有料のセミナーである。さしもの老人も構えが違う。まだ一ヵ月以上も時間があるのに、老人の顔には心なしか緊張感があふれていた。
3300円が惜しくない会員、あるいはヒマを持て余している会員、12月6日は中之島線に乗ってリーガロイヤルホテルまで足を運んでほしい。

昭和の京阪がよみがえる
マン島鉄道その7 ダグラス馬車軌道とマンクス電気鉄道~リバプール
場所が前後して申し訳ないが、ダグラスの町の蒸気列車が発する高台から急坂を下ると海岸に出、そこから町の北端、ダービー・キャッスルまで、超高級・高級・一般ホテルや貸別荘が切れ目なく連なる海岸線沿いに1.6マイル(約2.6km)、軌間3フィート・複線のダグラス馬車軌道 Douglas Horse Tramway が伸びている。創業は1876(明治19)年というから古い。客車には屋根もない完全オープン車、2階のみオープン車など何種類かが車庫に収まっているようだ。
目隠しをされたたくましい馬が、それも結構な速さ―ギャロップで客車を引く。それも天候や気温で客車を使い分けているようで、オープンカーだったのが、天候急変で何時の間にか密閉式の客車に交換されている。その雨天用車だが、御者の部分は手綱を持つから妻面の風防はなく、向かって右方のみ、3枚窓が1/4円弧を描くようにして客室に雨が入らないようにしてある。


これが雨用車両で御者は雨衣を着ている。バックは高そうな、やたら古そうなホテル
その終点では、同じ3フィート軌間のマンクス電気鉄道と路上で接続する。開業は1893年9月7日で、1、2号電車はその創業以来の車両というから驚きである。勿論木製車体は部分的に木材を交換するから、現実に100年以上経過しているのは台枠、台車、主要電気器具などであろう。直接制御だがエアブレーキは備えている。

これは創業以来100年経過の1号電車。留置してあったオープン付随車を連結し、これから車掌がポールを回す

バックは貸別荘らしい
車体はスネイフェル登山鉄道も同様だが、赤・白に塗られた部分以外ニス仕上げ、乗降は妻面向かって左側から行う。随分長い車体だが、ポールは1本で、終点では車掌が回す。

スネイフェル登山鉄道との接続停留所

古風な石積陸橋

終点ラムゼイ駅
先回のスネイフェル登山鉄道のサードレール方式手用ブレーキの構造・動作が説明不足でさっぱり分からんとお叱りが。写真を撮っていないので、また 「The Railways and Tramways of the Isle of Man 」から借用してお目にかける。運転席で小さな丸いハンドルを回すと、ネジが菱型状の枠の頂点角度を狭め、下方のブレーキシューがサードレールを締め付けるという、到って単純(野蛮)な仕掛けである。

我々は2泊3日のマン島滞在最終日、猛烈な霧で撮影をあきらめ島を1周。こんな狭い島の、しかも通常道路でマン島自動車レースは行われているのである。空港でレンタカーを返却し、4発プロペラ機でリバプールへ。この飛行機では食事は出なかった。
リバプールは小規模でボロッちい田舎空港で、通常の路線バスが30分毎に空港にまで足を伸ばし、住宅地をぐねぐね曲がって45分かかって市内中心部へ着くのは、伊丹市バスと同じである。相棒=先達のツアコンが予約していたのは国鉄リバプール駅隣接のホテルで、窓から列車がバッチリ見える。これが気に入って、数日後再泊の際も同じ部屋番号を指定し予約。
夕食の外出時、河底トンネルを抜け東岸に渡る、狭く複雑でややこしく迷いそうな自動車専用道路を外周から視察し、一生懸命この標識で右に曲がって次を左に、と記憶し明日に備えた後とてつもなくでっかいビヤホールへ。ビールの銘柄が10種以上、夫々値段が違い、各銘柄専用の(当然だが)サーバーを備えたカウンターが何箇所もあり、皆の衆男女共大方は丸テーブルで立って飲んでいるが、こっちはやはり椅子がいい。エビフライナゲットがややこげ気味だったが意外に旨く、ビールを3パイントお代り。
客車は宇佐参宮の団体列車など波動用として多くを保有していた。ボキーあり、二軸あり、片ボギーありで、そのほとんどが木造車である。この時代でも、木造車は地方のローカル私鉄に辛うじて残っている程度で、これほどのズラリ並んだ木造車は、たいへん珍しい光景だった。しかも、訪問するつい4年ぐらい前までは、これら二軸車が現役で走っていたというから驚きで、今も整備状態も良く留置されている。ほとんどの車籍はなかったが、男子更衣室、女子更衣室といった札が各車両に掲げられ、有効に活用されている様子だった。
その後、この耶馬溪線も昭和46年に山間部の野路~守実温泉が部分廃止され、残る中津~野路も昭和50年に廃止、軌道の別大線も昭和47年に廃止され、大分交通から鉄軌道はすべて消えてしまうのである。
10月19日、中之島線が華々しく開業し、関西在住のクローバー会の皆様の中には初日に乗りに行かれた方も多いのではなかろうか。私自身、京阪電車とは昭和35年4月から6年間通学で、昭和54年5月から2年間通勤でお世話になった。毎日乗っている電車は、いつでも撮影できると思い込み、結果的に撮影しないというのが通例と言われているが、私も例外ではではない。とは言うものの、肝心なことは忘れても、些細なことは意外と覚えていることがある。そんなことを時折思い出しながら書いてみた。
天満橋行
中之島線開業の影で、天満橋発着の定期列車がひっそりと姿を消した。天満橋行の行先板が黄色であったことはよく知られているが、それ以前は通常の行先板の他に向かって右側に「天満橋」の円板を付けていた 写真は昭和39年9月19日土曜日、学校帰りに寝屋川車庫を訪問した時に撮影したものである。
当時、本線の昼間のダイヤは20分サイクルで、淀屋橋~三条間の特急、急行、普通各1本、淀屋橋~枚方市間の区間急行が1本、天満橋~萱島間の普通が1本であったと思う。朝のラッシュ時も基本的に20分サイクルで深草(一部八幡町または三条)~淀屋橋間の準急が1本、枚方市から先は、枚方市始発の急行が1~2本加わった。この急行は白地に赤文字の円板で、時刻表には「大急」と表示され、枚方公園と寝屋川市にも停車した。また、淀屋橋開業以前、枚方市始発の区間急行で、枚方公園、光善寺を通過するものが1本あり、枚方市を発車する時は「臨」の円板を表示し、香里園で正規の区間急行の行先板に差し替えた。
1300形と1600形の整った4両編成、
1301は昭和36年3月8日、樟葉駅大阪寄りの渡り線付近で発生した脱線事故復旧時に、雨樋の位置が若干高くなりスタイルが変化した。この事故は23時40分頃現場を通過した三条発天満橋行急行(1306+1657+1658+1301)が脱線、最後尾の1301が築堤から転落したもので、隣の1658との連結器が切れなかったため、宙ぶらりん状態となった。翌日の3月9日、いつも通り中書島7時9分発の急行(1203+1505+1204+512+511)に乗車すると、八幡町で事故による枚方市まで単線運転のため暫く停車、同駅の大阪寄りの渡り線をバックして上り線へ、そのまま枚方市に向けて出発した。樟葉の渡り線は事故のため使用できず、枚方市までの単線運転となったのであるが、列車本数が少なかったのでこのようなことができたのであろう。(車号は当時のメモによるが文字が消えかかっているため誤りがあるかも知れない)帰りは未だ復旧しておらず、枚方市~八幡町間はバス代行であった。ちなみにその3カ月程前にも橋本駅の八幡町寄りで脱線事故があり、この時は八幡町~樟葉間が単線運転であった。
その後、大きな事故に遭遇したのは、昭和55年2月20日の枚方市~御殿山間で発生した置石による脱線事故で、勤務先からの帰宅時であった。萱島から普通に乗り香里園で乗換えた急行がこの列車で、枚方市で座れて一息ついたところで急ブレーキがかかり、大きく2回揺れ、車内灯が消えて停車した。前を見ると電柱が曲がっているではないか。最後部に乗っていたので事なきを得たが、先頭車両に乗っていたらと思うと今でもゾッとする。電車から飛び降りて線路から道路に出て駅に戻ったが、バスターミナルは乗客で溢れており、高槻、茨木方面のバス、運転を始めた代行バスともに超満員でとても乗れそうになく、諦めて樟葉まで歩こうと思い、牧野まで来たところで代行バスが停まり、降りた人がいたので乗ることができた。樟葉からの三条方面の電車はオール各駅停車で、行先札は付けずに「臨」の円板を付けていた。
寝屋川車庫
事故の話題になってしまったが、当日寝屋川車庫で撮影した画像を紹介する。
1807
1852
1307
601
651
632
1659
309
310
601の台車
651の台車
【参考】昭和36年頃、朝の中書島発下り電車の編成
6時48分急行 1000(1100)+1500+500+1500+1000(1100)
7時 9分急行 1200+1500+1200+500+500 (後2両は700+700のこともあり)
7時28分急行 1650+1300+1300+1300+1650
普通は2分、22分、42分発、八幡町で急行退避
3両編成で1000(1100)+1500+1000(1100) が多かった。
準急は16分、36分、56分発、枚方市で急行退避
4両編成で 600+500+1500(1600・16)+600が多かった。
何分にも半世紀前の話で思い違いがあるかも知れない。
翌日は、中々乗車できないシーメンス社製の、CRH3の乗車を目指しました。
オリンピックのおかかげで、天津中心部から天津駅までの交通アクセスは、道路の拡張、橋の新設等があって飛躍的に早くなりました。以前、ラッシュ時は、タクシーに乗車して、30分ではとても行けなかったのですが、約10分で到着です。 続きを読む
マン島鉄道その5 SNAEFELL MOUNTAIN RAILWAY

マン電気鉄道がダグラスの東端(馬車鉄道と接続)を発し、ラムゼイに到るほぼ中間にラグゼイという町が川口から1.5kmほど引っ込んだところに展開しており、道路も電車も川の両岸を深い馬蹄形というか、U字型に迂回している。そのラグゼイからスネイフェル登山鉄道が分岐しているが、マン電気鉄道が軌間3フィートなのに、なぜか3フィート6インチである。どうせなら同じにすればと思うが、別段貨車がある訳でもなく、電車が直通もしないから、強いて同じにする必要もないのは確かではある。尤も建設時はマンクス・ノーザン鉄道の蒸気機関車の軌間を6インチ拡げて借り入れたそうだが。
例えばスイスのインターラーケン・オストからユングラウ・ヨッホへは、まず1000mm1500Vリンゲンバッハ方式ラックのベルナー・オーバーラント鉄道(BOB)、次いで800mm1500Vリンゲンバッハのヴェンゲルン・アルプ鉄道(WAB)、もう一度1000mm1125Vシュトルプ方式のユングラウ鉄道(JB)を乗り継がねばならないのに比べれば、何ということはない。

右はマンクス電気鉄道(軌間914mm)、左がスネイフェル登山鉄道(1067mm)
最初は蒸気動力で計画された由だが、1895年1月建設開始し、4マイル53チェーン(7.5km)の完工が8月というから驚きである。1/9(111.11‰)の急勾配だが、電車は粘着力だけで上れることが判明し、軌間中央に敷設されたサードレールは本来ロッヒェル式(水平両側ピニオン)の粘着版だったのを、下りのブレーキ用のみに使うように変更されたそうな。軌間に3フィート6インチを選んだのは、元来このサードレールの為なのであろう。同年12月鉄道全線は建設費を超える額で Isle of Mann Tramways & Electric Power Co. に、のち更に Manks Electric Railway Co.に売却された。
電車の窓上端は一見イスラミックで、しかも窓は左右引き違いと、木曾森林鉄道等、地元大工が作った客車並。集電器の形態が独特である。これでもビューゲルというんだろうか。外国電車屋さんの解説が欲しい。乗降口は妻面向かって左角で、ステップが2段ある。
外側は綺麗に塗装され、有名なマヨルカ島の電車のようにニス仕上げだが、車内は外ほどでなく、ダブルルーフの下屋根、間柱部分に相当の補強がされている。座席は木製=古い教会の椅子のようで、背摺りは古い米国の客車のような「一応の」転換式である。

上りだすとすぐ濃い霧の中に突っ込んで、速度は遅いがともかく上り続け。地図で分かるように、等高線を斜めに横切り、かなり思い切った路線選定だが、一度主要道路を横切る踏切以外景色は何も見えず。最終地点では621mの頂上をぐるりとほぼ一周して終点である。登山道は等高線と直角で、一気に上る。
頂上は天気さえよければ眺望絶佳の由だが、ご覧のように濃霧の中。折り返す間建物に入ると、嬉や、ビールのポスターが貼ってあるではないか。ところが飲み物はジュースの類だけとは、馬鹿にするにも程がある。責任者出て来い!といいたかったが、語学力の乏しさでそれも叶わず。ただただ辛抱して発車を待つのみ。

このクラシックな電車はエアブレーキが無く、ハンドブレーキのみ。それも急勾配区間は車輪の踏面ではなく、サードレールの左右を運転手の人力で締める。その構造は写真を撮り洩らしたが、到って素朴単純。濃い霧で車輪がスリップし、砂が無くなって運転手が顔色を変え、運転席を離れて客室内の予備砂を取りにいったのにはいささか驚いた。以前ご覧頂いたオーストリーはリンツのペストリングベルクバーン(105‰)電車のように、普通ならカーボンランダムブレーキやマグネットブレーキを備えるところだろうが、ユニークなブレーキ専用サードレール方式が、この電車のウリなのである。

ともかく無事下界に到着。ラグゼイの接続地点はマンクス電気鉄道と隣接だが、レール配置を控えるのを怠り、どうなっているのかよく分からん。サブロクと3フィートがあたかも接続されているように見えるが、当然そんなことはない。おじん2人+1人の1人氏は、万難を排し寸暇を惜しんで線路配置を克明にメモする特技と熱意の持ち主だが、このときはいなかった。


右スネイフェル登山鉄道、左マンクス電気鉄道
10月17日、JR東日本から冬の増発列車の発表があり、その中で、12月13日と14日に高崎~水上間に「さよならEF55みなかみ」、1月17日に上野~横川間に「さよならEF55碓氷」が運転されることが判明し、EF551はこの列車で営業運転を終了する見通しとなった。思えば昭和61年、長期休車から奇跡の復活を遂げ、以降イベント列車を中心に運転されていたが、ここ数年は運転回数が減少していた。また、平成16年3月25日から4月3日までの間、交通博物館の閉館記念イベントの一環として神田川沿いに展示され注目を浴びたことは記憶に新しい。
復活当初の画像から当時を振返ってみたい。
(1) 復活営業の一番列車
復活営業の一番列車は昭和61年7月25日に高崎~水上間で運転された「EF55復活記念列車・GOGOTRAIN」であったと記憶している。この列車を水上駅で撮影したが、EF55もさることながら、もっと感激したのは最後尾の戦災復旧3軸ボギー車「スエ7815」で、この車を見た瞬間思わず絶句した。当日の編成は次の通りであった。
EF551+スハフ422173+オハ472261+オハ472266+オハ472246+オハ472239+スハフ422071+スエ7815
水上駅に進入する復活営業一番列車 昭和61年7月25日
折返しの上り列車 渋川~敷島間の利根川鉄橋
スハフ422173
オハ472261
思わず絶句した スエ7815
絶句したのは私だけ? 他の人はEF55に夢中
この日は最後尾の客車に「GOGOTRAIN」のテールマークが付けられていた。また、高崎機関区の一般公開が行われており、高崎到着後機関区で展示された。EF58172、EF15165、EF621、EF631、ED7539、EF8063等が展示されていた。
上牧~水上間を走る下り列車
上の列車の後部より(上牧は「かんまき」ではなく「かみもく」)
折返しの上り列車 上牧~後閑
高崎機関区にて
ターンテーブルで方向転換
(3) 8月6日沼津機関区
「東海道本線全通100年」の記念行事として行われた、沼津機関区の一般公開で展示された。他には、EF15184、EF538、EF6095、EF653、EF3017、DD161等と10月のダイヤ改正から運転される「するがシャトル」用の119系が展示されていた
沼津に出張 沼津はEF55の所縁の地である。
乙訓老人の[668]「仙台市電あれこれ」で拙老にチョッカイが出た。すぐ反応するのは沽券にかかわるから、しばらく待とうかとは思ったが、そこがこらえ性なのなさ、軽佻浮薄、おっちょこちょい、ヒマなどで、すぐ古いアルバムを探すため押入を引っ掻き回し、後始末もしないまま、いそいそとスキャンに取り掛かったのであった。

秋保電気鉄道(1959年7月1日以降仙南交通自動車と合併し仙南交通は1914年12月23日軌間762mm、秋保石材軌道として、動力馬力で開業。名の通り石材搬出が目的だが、終点湯元(後秋保温泉)は素朴な秋保温泉と川を隔てただけで、湯治入湯客も運んだ。1922年秋保石材電気軌道と改称、1067mm改軌及び600V電化し、1925年8月21日秋保電気軌道と改称して電車に。貨物は可愛い凸型電機EB101が牽引。

1944年7月20日運輸通信省鉄道総局業務局長、内務省国土局長連名の依命通牒「軌道ヲ地方鉄道ニ変更スルコトニ関スル件」=要は当局の事務簡素化のため、多くの軌道が地方鉄道に変更指導(強制)されたが、ここもそれにより1945年1月1日軌道から地方鉄道に変更した。


但し実態は何等変わらず、のんびりした1本ポールの田舎電車で最後まで終始した。言葉を変えれば、主力の電動車が車体をそのまま、2軸からボギーに改良された以外エアブレーキもなく、「近代化投資」は一切なされじ、2軸電動車は410、411以外予備役。すべて専用(新設)軌道で、道路併用区間はない。






拙老幼少のみぎり、親父が転勤族のため2年半仙台で暮らし、東二番町国民学校初等科に入学。この電車にも乗った覚えがあるが、長ずるに及び1955年再見。こんな超ちっちゃな電車だったことを確認した。幼少の記憶ではもっと大きい電車だったから、正直かなりのショックで、裁判での幼少者の記憶証言が本当に信頼できるものかどうか、本気で考えたこともある。


軌間は確かにサブロクだが、車両定規は狭く、軽便と大差ないのは、例えば静岡鉄道秋葉線等と同じで、カーブもきつく、そのためボギー化したのである。終点でのポール回しは、我々が見た時点では他に和歌山電気軌道市内線ぐらいであろう。ただ路面乗降はなく、すべてプラットホームがあった。1956年4月1日改正ダイヤでは15往復、16.0kmに53分程度を要し、昼間でも大体中間で離合する。長町-月ヶ丘間には30~60分毎でローカル列車が運行され、もっぱら半鋼製の410、411が当たっていた。
乙訓老人が黙ったいる筈もなかろうから、余計な写真説明講釈は省く。はるか後年、「おじん2人」の先達=相棒が仙台に単身赴任していた折、彼の車で何十年ぶりかで早朝秋保を訪ね、地元民用の質実剛健な共同浴場で朝風呂に。その折いいものを見せてやると、酒屋の車庫に案内された。これ何と、かつての超素朴な秋保温泉駅の上屋=1407の車掌がポールを回している背後の小屋そのもの=で、よく数十年も残っていたものだ。
写真で分かるように、左側に狭いプラットホーム、電車の線路は1本突っ込み。小屋の間口は4メートル程しかないから、自動車車庫と化しても2台並んでは入れられない。奥の壁にシルエット様の電車の断面を描いてあったから、酒屋の親父も洒落ている。

廃止は1961年4月13日許可、5月8日実施であった。
「本の雑誌」11月号で鉄道本の特集があり、巻頭の出版界鉄人座談会で、須磨の大老『内燃動車発達史』、乙訓の老人『京都市電が走った街今昔』が奇しくも「鉄人の選んだベスト鉄道書」にノミネートされた。
「本の雑誌」は、本にまつわる話題を扱った月刊誌で、最近では「本屋大賞」を制定し、とくに書店員に人気がある雑誌である。斜に構えた編集姿勢が持ち味の雑誌で、今回のコーナーも大した期待もなく読み進めたところ、これがなかなかの的を射た座談会。30年以上前に発行された書籍を例に出すなど、出席者も相当の老練な鉄道ファンと想像される。それだけに両老人の努力の結晶が正当に評価された結果ともいえ、まことに喜ばしい限りである。
両老人とは先般ご一緒する機会があった。老いたりとはいえ、酒量も衰えず、鉄道の話になると口角泡を飛ばしての意気軒昂たる元気さである。この分だとあと10年は生き続けるであろうと、当会の老人パワーを改めて思い知った次第である。
作並から山を下り仙台市電となった。tsurukame君の2年前に1日半うろついている。その話に入る前、作並機関区の区宝となった筈の物をご披露申し上げる。
仙台2日目、11時前に北2番丁車庫を訪問した。2階事務室に案内され、佐藤技師さんから仙台市電30年史を下に講義を受けることが出来た。昼食も御馳走になった。この時のメモ中心にあれこれ話を展開しよう。
1.都電の中古車:モハ70形(70~79)10両
1948年4月、東京都より4輪車10両を譲り受け、改造(整備?)を東京鉄道工業に発注、10月に完成、同年11月1日付で竣工届が出されている。帳簿価格は300,000円。1949年4月6日付で車両設計変更の認可を得て、台枠(ベスチビュール部分か)改造と共に折畳扉設置、窓構造、車内照明を始め外部灯具などの改造も施工している。窓はこの時、70号を除き2段窓になった。1957年5月18日付で73~75が廃車、配置は北2番丁に70.71.77、長町に72.76.78.79.となっている。76は衝突事故で休車、これと70~72の4両は次期廃車予定。可動車は予備車的存在で、市内の本線上で見ることは出来なかった。
2.都電、その他の中古車:61~69、形式称号なし。
(61、62)モハ70形の原型である都電400形の車体を購入、61は鶴見臨港の4輪車11号の、62は当局の撒水車の台車と電装品を転用して1941年7月竣工した。簿価は14,500円
(63、64)江ノ電11、21、22を購入、22の車体に11の台車を組み合わせ63とした。その台車はドイツ・マイネッケ社のものであった。64は都電から譲渡された予備台車を組み合わせた。こららは1942年12月竣工した。以上4両は東京三真工業所が改造した。簿価は16,100円
(65、66)1942年10月、竹鼻鉄道(1943年3月名古屋鉄道と合併)から木造4輪車2両(7、8)を購入した。車体幅が狭いため座席を食い違いにしたタイル張の床を持つ車両であった。これを改造、改修の上、1945年竣工した。このタイル張とはどんなものであったのか、気になる。この頃はアスタイルやPタイルは未だ世になく、あるとすれば高級品のリノリュウムタイルぐらいである。元貴賓車ならわかるとして、庶民の電車にタイル?となったのは当たり前のことである。まさか瀬戸や常滑のタイルを使ったのではなかろうと思うが……。後にこの2両は美濃電岐阜市内線のものであることが、廃車後の解体の時に判明したとか。
(67~69)1942年6月、都電400形3両の譲渡をうけた。日本鉄道自動車で整備され1947年5月竣工となった。65~69の簿価は記載なし。
以上9両は1948年8月:61、63、65、66を秋保電鉄に譲渡、1949年2月:62、64が廃車、1955年1月:67~69も廃車となった。NEKO RM90には62、68の写真が掲載されている。
3.流線形:モハ43形(43~45)3両
これがお目当てであった。1955年、初めて松山に行った時、古町車庫に留置されていた鋼製4輪車、なにか曰く因縁があるに違いないと思っていた。それがTMS78、86号で解決したのだが、仙台に行けばその原型に出会えると期待に胸を膨らませていた。初日に仙台駅前で出会い宿願を果たした。
因縁については、佐藤さんから聞くことが出来た。メモでは1938年、18両(43~60号)増備の認可を得た。この年の8月に3両、梅鉢車両で完成した。簿価は16,800円であった。43号は北2番丁、44、45号は長町所属であった。
次の年は製作割り当てがなく、1940年3両、1941年1両の割当てを得た。当初、製作は木南車両担当であったのが、1941年には日本鉄道自動車に変更となり、1942年9月竣工の筈が実現しなかった。結果として60形が代替車となった。1946年に購入を断念した結果、日鉄自で完成していた鋼体を秋保電鉄が引き取り、2両を電動車として完成させたが、1両は伊予鉄道に譲った。過去に仙台市が財政難に陥り購入を断念したと紹介された記述もあるが、佐藤氏は原の町線建設が急務であり、市は路線延長に資金を投入したのだ、とおっしゃった。東京から中古車400形購入の目途が立っていたからだろうか。戦中、終戦直後、物資不足に振り回された姿が垣間見える。
秋保電鉄の本社は市電長町車庫の南隣で、線路は繋がっていた。北2番丁車庫で撮れなかった70型をキャッチするや表通りに出て302号を待つことにした。300形は前日、仙台駅前で一度キャッチしたのだが他車と重なり、そのことを車庫で言ったら「間もなく帰って来るよ」と教えてもらったからだ。301号は北2番丁所属、302号は長町所属のため動静が掴めたのだ。長町駅前で土佐でも話題となった4輪車の連接車化の姿を、無事にキャッチ出来たが乗ることは出来なかった。それは秋保温泉までの一往復を頭に入れていたからだ。
15時20分過ぎに秋保電鉄長町駅ホームにモハ411号が到着、伊予の兄弟と対面出来た。当車は1946年12月竣工時マハ10と名乗っていた。同型410号は当初マハ8号であったが後にモハ408を経て現番号になった。こうしたことはピク誌369号:和久田氏の記事の受売りである。本社へ行って形式図拝見と、居座れば最低1時間粘ることになるから明るい内に沿線観察とはならない。
411号は高校生を10人ばかり乗せ、折り返し月ヶ丘行きとなり直ぐに出て行った。16時10分発の温泉行きに乗車するため待つうちに、単車をボギー車に改造したモハ1407号が到着。乗り場の奥に引き上げ、代わって乗り場向かいの車庫からモハ1408+サハ406号が出て来て乗り場に横付けになった。乗ったのは4輪車のサハの方である。市電からの乗り換え客のほとんどは高校生で、サハはゆったりした車内で出発した。16㎞を60分ぐらいの行程、田舎電車そのものである。25馬力×2でトレーラー牽いてだから最大速度は25㎞/hがやっとか。田圃の中をがったんごっとんと走る。そのうち山裾に取りつくや車内灯は一段と暗くなってきた。東北の秋の夕暮れは京より早いなぁーと思っている内に終点到着。
温泉駅は川べりで、温泉街は川の対岸のようだ。電車は入換作業をして直ぐ長町へ戻ると言う。今度はモハの方に乗って温泉電車とはお別れにした。
以上で車号が出てきたのが電動車4両、付随車1両だが、和久田氏の記事では4輪車をボギー車にした開業以来の1401、1403、4輪車のままの402の3両に1938年に名古屋市電譲受けの405の電動車があり、付随車はいずれも4輪車のサハ401~404が1959年には在籍していることになっている。車庫で見かけたのはモハ1403とサハ402のみで後は分からない。本稿が誘い水となり、須磨の大人のお出ましを期待している。
かって1994年夏、35年ぶりに栗原電鉄へ行ったことを紹介したが、秋保温泉へは1995年秋に行くことが出来た。泊まったのは「勘助」で、翌朝ベランダから川を見下ろす内、対岸はかっての温泉駅であることに気付いた。フロントの年寄りに尋ねてみるとやはりそうであった。朝食前に行ってみたが36年前は夕闇の中でのこと故、何も記憶に残っているものはなかった。平泉へ移動するバスは左側の座席を確保、温泉街を出て名取川を渡ってから山裾を注視した。電車用地とはっきり認められる個所があり、バスはそれに沿うルートを辿っていた。茂庭バス停を過ぎると東北高速道路に入り、一路北上であった。
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特徴1:インターネットに接続しなくても記事の作成ができます。出先・移動中にノートパソコンで記事を作成、帰宅後に投稿といったことが可能です。
特徴2:画像投稿が簡単になります。面倒なリサイズ作業は不要です。右図のように枠をつけたり、回転、明るさの調節、ソフト・シャープなどのフィルターの適応が手軽に行えます。
特徴3:撮影箇所の地図・航空写真を挿入したり、表の挿入が行えます。
※詳細な使用方法や、インストール方法は後日投稿する予定です。