4.漣駅
大正11年5月15日に三井寺までの延伸を果たした大津電車軌道はさらに北への延伸を画策し、昭和2年に太湖汽船、湖南鉄道と合併した琵琶湖汽船鉄道として昭和2年に三井寺-坂本間を高規格で開通させた。
この区間は開通後、駅の名前の変更、移転、休止など目まぐるしく変わったが、漣駅は旧大津電車軌道部分を合併した京阪電鉄が昭和4年10月10日開業し、昭和19年8月15日廃止された。
設置されたのは当時の錦織駅(現在の近江神宮前から南に約200mのところで、屁ノ尻川沿いに県道から駅に行く道が作られ、対面式のホームが作られた。県道から駅に行く道は現在もそのまま残っており、線路を横断する踏切は漣踏切となっていて駅があったことが偲ばれる。資料7:漣駅付近図、県道から駅への取付け道路が屁ノ尻川に沿って作られている。(県政史料室歴史史料、大と50より作図)
写真6:現在の県道への道、左が屁ノ尻川
駅の作られた部分は平面で、そこから北には20‰の上り勾配となっていて、踏切の横には勾配表が設置されている。また、踏切の浜大津寄りは線路の両側が広くなっていて、まさにこの場所が)ホームのあったところで、駅の平面図とも合致する。
資料8:漣停留場設計図(県政史料室歴史史料、大と50より作図)
資料をさかのぼると漣駅の設置願いは既に昭和2年11月15日に出されていた。この時期は三井寺―坂本間が完成したわずか2か月後で、先に書いたように設置されたのは錦織駅から約200m、山上駅から600mのところで、当時の地図を見ても、付近に目立った施設はなく、田んぼが広がっているだけであるが、届け出によると、漣駅の西にあった漣集落から再三設置要望が出ておりこれによって設置が決定された。届け出は琵琶湖鉄道汽船から滋賀県知事あてに出され、検討の後、知事から内務大臣、鉄道大臣へ提出された。これに対し昭和3年1月30日に出された知事への回答は、駅の設置は国の許可はいらない、届け出だけでよいとのことで、それがそのまま琵琶湖汽船鉄道に伝えられた。設置の許可はこの時点で下りたはずだったが、実際に設置されたのはそれから1年半以上たった翌4年の10月10日であった。