前記のように昭和47年8月には、東京・横浜で写したあと、新宿16時45分発の「アルプス7号」のキハ65にみんなで乗り込みます。同乗したのは、たしか準特急さん、F本さん、逗子のTさんで、ボックス席を確保して、積もる話に花が咲きました。向かう先は小淵沢、その当時の気動車でも3時間走れば、信州の高原の駅に着くことができました。昭和40年代も後半になると、蒸機は急激に活路が狭められ、小淵沢から分岐する小海線は、首都圏から最も身近な蒸機の運転区間となっていました。シーズンには、C56の牽く客車列車も運転され、多くの人が押し寄せていました。▲小淵沢から分岐する小海線の沿線には、この時期、撮影者だけでなく、ハイキング客も多く乗降した。標高1138m、野辺山、清里、甲斐大泉に次ぐ高さの信濃川上も同様である。C56の牽く貨物列車が待機して、まもなく次の上り列車が到着しようとする。ホーム上の客は、思い思いの格好で次の列車を待っている。帽子、服装、リュックからも、当時の様相が見える。
この日は、小淵沢駅前の旅館に宿泊した。小海線のいちばんの目玉は、新宿を深夜1時に発車する野辺山行き「八ヶ岳高原」で、岡谷行き「霧ヶ峰高原」と併結され、小淵沢に到着後、分割されて、「八ヶ岳高原」はC56の牽引に代わって、33‰勾配で客車3両を牽いた。前年の昭和46年4月からの夏山シーズンに運転されていたが、小淵沢は夜明けの頃の発車で、みんなぐっすり寝込んでいた。起床後は、貨物狙いに、例の大カーブへ歩いて行った。7時40分ごろに通過する貨物列車にも、客車1両が増結されて、客扱いの列車として運転された。突然の混合列車の出現で、「八ヶ岳高原」以上の人気だった。▲小淵沢のカーブ終端付近は、すごい人出だ。首都圏でも、朝一番の列車に乗れば間に合うから、人出も理解できる。すぐに通過したDCも4両と増結されている。半年前の厳冬期に撮った時は、自分一人で、南アルプスもよく見えたが、今日は雲が立ちこめている。人が増え、C56の通過が近づくと、次第に殺気立って来る。首都圏からの撮影者が多いから、最初は「どきなよ~」と言う言葉だが、次第に険悪になってきて、「こら~どかんかい!」と、完全アウェーの小海線で、関西弁が突如すぐそばから聞こえてきた。さすがにこういう時の関西弁は威力がある。みんな整然と撮影を続けたのだった。
▲大カーブの始まり付近からは、中央線の線路が真下に見えるのも魅力だった。普通列車は115系化されていて、従来の70系は臨時で見られる程度だった。上り方の先頭にクモニ83を連結した編成は魅力的だった。
▲野辺山に着いた「八ヶ岳高原」は、C56は単機で中込まで回送されるが、客車は14時35分の新宿行き「八ヶ岳高原」の発車まで野辺山に留置されている。中途半端な発車時刻だが、とにかく小海線内は時間が掛かり、新宿には頃合いの時刻に着く。私たちも、野辺山駅から歩き出して、「八ヶ岳高原」の発車に備えた。この年、昭和47年10月には、C56がDD16に置き換えられ、小海線も無煙化される。“SLブーム”の頂点のような小海線の最後の夏を経験したのも、思い出だった。
総本家青信号特派員さま
おねだりした小海線C56の写真を有難うございました。小生もその頃に早朝の高原号を清里の手前山側の牧場から、また冬季に同じ時刻帯で運転された「八ヶ岳スケート号」を8㎜に収めていたことを思い出します。早朝の高原号は朝霧と朝露のせいか空転の連続で、今にも止りそうな速度で喘ぎ喘ぎ登って来ました。スケート号新宿行ではガラ空きなのをいいことに、窓を開けてカーブ区間を撮りましたが、映写してみると遊園地の汽車よろしく同じ方向へグルグル回るだけのつまらないシーンの連続でガッカリしました。小海線のC56は廃止になるまで、沿線ロケーションの秀逸さもあって、度々訪れていました。晩夏の高原野菜(レタス)列車をはじめ、小海線とC56を愛する会の諸先輩が残された青信号誌の記事を参考に、あちこちうろついたものでした。
総本家青信号特派員様
新宿から何に乗ったのか、車中でどういう会話があったのか全く覚えていませんが、駅前旅館に泊まりC56の夜間撮影をしたことを覚えています。翌日は例の大カーブで罵声が飛び交う中で「朝早くから来ているのだ」「こっちは昨日から来とんやぞ」とこわい声はよく覚えています。一応暗黙の了解でC56の発車の汽笛が鳴ると段々畑の前に陣取ったファンも頭を低くして後ろのファンの邪魔にならない様にしているのだが機関車が見え始める頃に遅れてノコノコ入ってくるやからも居てこうなると一斉に怒鳴り声が集中する。こうなると録音しているファンはアウトである。もっとも面白い記録になったかもしれませんが。
準特急さま
小生はムービー派なので罵声などその種の音はイヤというほど経験しています。当初はカメラのシャッター音も気になりましたが、自分も大勢の中で撮る以上、それは仕方のないことと考えるとそのうち気にならなくなりました。グループの方には直前に沈黙をお願いして協力して貰っています。仰る通り直前に現れる輩には困りますね。
一番腹が立ったのが山線C623の最終運転の時でした。羊蹄山をバックに峠下踏切で倶知安発車後を待っていると、C62ドラフトよりも上空を旋回するヘリの騒!音が聞こえだし、撮影が台無しになったことがありました。あとで聞くとNHKの取材ヘリだったとか。迷惑な話でした。
1900生様
昔のBOX内のことですがその日は青信号に使った謄写版のインクとローラーが雑然と放置されていたようです。そこへ授業をさぼって1900生さんが入ってこられた。しばらくして「誰やここに置いたんは!」烈火のごとく怒られた。どうも一張羅のシャツにインクがついてしまったようだ。陰で失礼ながらその様子を見ておりよく覚えております。ムービーでも怒りの様子は想像がつきます。1900生さんは私と同じで酒は駄目ですが、責任感が強く、DRFC-OB会宴会でも司会をしてくれたり、会社の宴会で大酒を飲まさせられても各駅停車で停まる駅ごとにホームのベンチで酔いを覚まされたりした苦労話をよくお聞かせいただきました。そういう1900生さんが好きです。失礼しました。
準特急さま
若い頃の恥ずかしい話を暴露しないでくださいよ。印刷インクが付いたのは冬のコートですが、今思うとそんな場所に置いた私も迂闊でした。ところでBOXへは授業が終わってから行ったのですが、普段からよくサボっていたので、皆さんにそのような先入観を定着させてしまったのでしょうね。
BOXでの京阪・阪急論争ではよく泣かされましたよね。あの頃は相手を言い負かすことは言うに及ばず、有ることない事を捲し立てて白を黒と言い含める特技を持った会員が多かったですね。泣いていてもしようがないので、あれこれ屁理屈を考えて受けて立つことで、少しは強くなろうと修行したものでした。
よかったですね。
成果は十分出ています。
総本家青信号特派員様
小淵沢駅前の日の出旅館?に4人で泊まったのは記憶にあります。駅構内やその周辺で撮影したものは、懐かしい国鉄の情景が味わえてイイですね。このような写真を見ていると、現在はどうなっているのか訪れてみたくなります。多分かつての賑わいなどなく、もの悲しさが漂っていることでしょうが。
逗子のT様
猛暑も峠に差し掛かったようですがお元気で何よりです。Tさんとは宮津線や一円電車、尾小屋鉄道、上松、贄川等最近のデジ青投稿に関する旅行やその後のヨーロッパ旅行など数々の貧乏旅行を思い出します。小淵沢への撮影旅行は全く覚えていませんが、夜のC56等留置車両撮影と翌日の大カーブは覚えています。
準特急様
小淵沢の駅前旅館の部屋で4人が戯れている写真がありました。かなり記憶が曖昧になっていますが、宿泊は間違いないです。大勢が押しかけたこの時期の小海線の賑わいについて、確か鉄ピクに発表されていましたね。
宿泊といえば、準特急さんとの延べ20泊以上(ツイン)の欧州貧困旅行、ホテルは大半予約なし飛び込み、ランチより写真撮影優先、ディナーといえるものはほとんどなし。50歳をすぎてからこんなことができたのも、準特急さんのブロークンでない正統派の英語力のおかげです。
総本家さん、準特急さんとは、他に喜多方の駅前旅館、東北本線の喜連川の旅館も思い出です。
逗子のTさま
準特急さま
住む場所も、仕事も違っていたのに、いまも顔を合わせては、昔話に花を咲かすことができるのは、鉄道と言う趣味を長く続けてきたからだと思います。きっと、この世から消えてしまうまで、昔話を続けると思います。
喜多方、喜連川、行きましたねぇ。ほかにもDRFCメンバーと一緒でした。ところで、この小淵沢ですが、旅館に泊まったことはメモにも残していますが、四人で戯れたこと、夜間撮影に行ったことも、私はまるで記憶に残っていません。写真に残している事柄の以外のことは、ほとんど記憶がありません。逆に言えば、写真の力を感じます。