昭和の電車 改訂版(37)ー国鉄モロハ50型ー

この記事を読んでモロハ50なる車輌が実在なのか、それとも関先生の想像の産物なのかがはっきりしません。終戦直後の国鉄は、復興事業と人員輸送と進駐軍の横車に四苦八苦していた時期です。いろんな車輌がうたかたのように出ては消えていたのかもしれません。モロハ50が実在か幻かを判定願います。

昭和の電車 改訂版(37)ー国鉄モロハ50型ー」への8件のフィードバック

  1. モロハさんあれ間違えた米手さん。実在していたことがわかりました。「鉄道ファン図書館」(有料ですが)で検索すると「国鉄電車のあゆみ-30系から80系まで-」(蔵書されている方がおられると思います。)という本に「50系」という項目で「連合軍専用車と代用2・3等車」として書かれています。写真もあって、それは青梅駅で撮られたもので「連合軍専用車から仮モロハとなった50006 53-4」と書かれていました。昭和53年の撮影でしょう。

  2. どですかでんさん、さっそくありがとうございました。
    でも『仮モロハ』となっていたのなら正式には『モロハ50』ではないのでは?この辺が戦後の混乱期感がでていますね。客車でもこの時期は使用実態と型式があわない車輌がありました。
    それと53-4は1953(昭和28年)4月ではないでしょうか?

  3. 53-4は米手さんのご指摘の通り昭和28年4月が正しく、私の間違いです。お詫びして訂正いたします。さて「仮モロハ」ですが、「国鉄電車のあゆみ-30系から80系まで-」の解説文に「・・・昭和27年に解除後も青帯(白帯の間違い?)つけてモロハ代用を務めたが29年度ノクロハ増備で姿を消してしまった。」とあります。私の想像では米手さんの言われるように正式なものではないのではないかと思います。確かに戦後のドサクサまぎれのなんでもありの電車だったのではと、そんな感じがします。もっと詳しい方はおられないでしょうか。

    • 残念ながら私は“100%”戦後生まれです。こんな時期は知るよしもありません!
      この時期をリアルタイムに知っていると言えば、あまり通信をしない「大阪通信員」氏か「乙訓の長老」様でしょう。そうそう、国電と言えば・・・

      • 総武線ですが、私は1949年に足が結核性(???、医者の見立て)骨膜炎になり、患部にレントゲン線を当てる治療(これも今考えると無茶苦茶な、と思います)を受けるため、お茶の水まで電車で隔週通院しました。朝のラッシュに子供が、それも骨の治療に3等車では無茶なので、最後尾の白帯65に乗って。表記はクロハではなくクハでした。
        余談ですが、帰途の切符は勿論3等ですが、真っ直ぐには帰らず、鶴見まで足を伸ばし関東地方で唯一現役の木造車(サハ25)を見に行ったりしていました。

        • 村樫四郎様
          お久しぶりです。
          また、興味がわくお話をありがとうございます。
          そこで質問ですが、乗られた車両は「クハ」ならばキップは普通乗車券でしょうか、それとも二等乗車券でしょうか?

          • 済みません。最初は親が付き添いで乗りましたが、後は一人ですから切符を買ったのだと思います。が、券面の記憶が全くありません。只、このクハ65だけドアは一斉に開かず、外から合図すると中に居る乗務員がドアコックを操作して開けてくれました。

  4. 村樫四郎様
    ありがとうございます。
    特別車だから専用の乗務員がついていて、その車両に乗り降りする人のために開閉していたのでしょうね。
    やっぱり特別料金が要ったのかも知れません。

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