京都市電編
暖冬で明けた2020年、京都でも雪の降る気配は全くありません。四条大橋から見ると、北山の連山には少し雪が見えましたが、いつもは冠雪している愛宕山や比叡山にも雪はありません。京都市内では、叡電沿いならさすがに積雪も多かったものの、市街地では、積雪するのは年に一、二回でしたが、“寒波が到来、明日は朝から雪”と天気予報を聞くと、もうワクワクして、翌朝に起きると、果たして外は真っ白、勇んでカメラを持って外へ出掛けたものでした。それも今となっては懐かしい気持ちです。今回は、もう思い出になろうとしている(?)京都の市街地での積雪シーンを集めてみました。
▲京都に市電があった時代、まだ雪は多く降った。家庭裁判所前の葵橋を渡って行く、雪の日の河原町線。
▲雪の降った早朝、布団から抜け出して、近くから写し始めた。河原町丸太町交差点を行く5号系統(昭和52年1月、以下同じ)。
市電時代となると、もう40年以上前になるが、“地球温暖化”の言葉もない時代、冬は気温も低く、雪もよく降ったものだ。改めて気象庁のデータを調べて見ると、京都の1月、平均の最低気温は、市電の走っていた昭和52(1977)年は-0.7度で、毎日、氷点下を記録していたことになり、現在よりも相当寒く、雪が降ることも多かった。▲府立病院前、左手の立命館大学も懐かしい。クルマはほとんど走っていない。
▲京都の市街地では、今出川まで来ると、雪が一段と深くなると言われるが、この日も一面真っ白になっていた。葵橋西詰にて。
▲子供が雪合戦に興じている。河原町今出川にて。▲葵橋では賀茂川を吹き抜けた雪で、市電もよく見えない。
▲以下は外周線東山線の雪景色、智積院の前の雪景色は、いっそう京都の情緒を増していた(昭和53年1月、以下同じ)。
▲清水道にて。人と市電のコラボもよく狙ったものだ。▲市電から降りた客が、滑りそうになりながら恐る恐る歩いて行く。祇園にて。▲安井金比羅宮の鳥居前にて。このたび発行の京都市東山区70周年記念誌にも載せてもらった。
今年は暖かい正月ですが、外出する気にはなれず炬燵に潜り込んでおります。
5枚目の子供が雪合戦に興じている写真ですが、これは出町のO商店ではないでしょうか? ちょっと見にくいのですが車の前の人影はここの若奥さんで、仕事で取引がありました。働きものでしたが今はどうされているのか、この写真を見て懐かしく思いました。
紫の1863さま
5枚目の写真ですが、ご指摘のとおりです。若奥さんまで、ご存じなのですか。試しに、該当部分を明るくしてみました。古い写真ですから、問題はないと思いますが、いかがでしょうか。白梅町の太田産業といい、地理、人脈の精通ぶりに驚きました。
写真です。
間違いありません。
総本家青信号特派員様
地理・人脈に精通など、めっそうもございません。「ここどこ?シリーズ」で撮影場所や写っているものが気になっただけのことです。雪合戦に興じていた子供も今では40代後半になり、家業を継いでおられることでしょう。
小生などは、この場に出くわしていたたとしても、子供たちには目もくれず、電車だけを写したと思います。電車の位置といい、車の位置といい、子供たちの位置といい、巧みな構図に見惚れるばかりです。
紫の1863さま
何度もコメントをいただき、恐縮です。この写真は、あるブログを見ていますと、私の京都市電の本についての感想があり、そのなかに、本に載せたこの写真も出ていました。でも、子どもの投球フォームが決まっていますね。当時は、スナップ写真、撮り放題でしたが、最近は、とくに子どもの写真が撮りにくくなりました。先日も、幼稚園児の散歩をスナップしようとしたら、たちまち“撮らないでください!”と厳しい声が飛んできました。
総本家青信号特派員様
私も当時住んでいた横浜で雪の日に撮影に出かけたことがあります。場所は根岸線石川町近くというよりも有名な元町商店街の近くで、車両は539号は単車です。
準特急様
貴重な写真をご披露、ありがとうございます。私は、横浜の市電は、一枚も撮ったことがなく、私にとっては“幻の市電”です。トンネルと言うと、ずいぶん田舎の風情があるものですが、当時の繁華街の元町のすぐ近くにあるようで、それだけ横浜の地形の複雑さを示すものだと思います。地形が平板な京都では、市電にトンネルなど考えも付かないことです。
昭和53年、京都市電最後の冬は、
1回しか積雪はありませんでした。
1月10日です。総本家様も写しておられたのですね。
私は、くまのから北上し、洛北高校前まで撮影しました。
そのあと、最後のゼミに出たのを覚えています。
雪の日の市電撮影はいくら防寒スニーカーを履いてはいても
手足がかじかんで、とても辛いものでした。
今年もよろしくお願いします。
勘秀峰さま
コメント、ありがとうございます。改めてメモを見返しますと、たしかに1月10日でした。それによりますと、朝7時ごろ出て、祇園~東山七条で写していました。勘秀峰さんは、東山通の北部のほうへ行かれたのですね。「京都市電が走った街」でも、東一条あたりの雪を提供してもらいました。その日は、てっきり休日かと思いましたが、火曜日で、午前中は会社をズル休みして、午後から会社へ行っていることが判りました。“雪の市電を撮りたい”一心でした。